(10)-b 三豊の森さんの部屋



牡丹餅
合田 芳弘 著作
(観音寺市豊浜町)
第54回香川菊池寛賞候補作


1.大きいばあちゃん

大日峠。

ここは西讃と中讃の地を隔てる境。

この響きは、私にとってなんと切ないのか。

なんの変哲もない峠だけど、私にとっては一生忘れることのできない峠道。

まさかこの道を、再びこうして通ることになろうとは・・・

「ばあちゃん、もうすぐ大日やけん。あそこの峠を越えるとお大師さんや」 車を運転している孫が、嬉しそうに私に話しかけてきた。

「もう大日かい。早いの・・・」

(まだ家を出て三十分しかたっとらんのに・・・)

(昔や、ここまで二時間以上はかかっとったわい)

(あの時はお大師さんまで四時間以上はかかった・・・もう少し、早く着くことができていれば・・・)

あの時のことを思い出すと、悔しさのあまり涙があふれ出してきた。

桜のつぼみが膨らみ始めていたお彼岸の中日(春分の日)、私は孫にお願いして、孫の車で四国霊場第七十五番札所、総本山善通寺へお彼岸参りに連れて行ってもらった。

沈丁花の香木のような香りが、車内にかすかに流れ込んでいる。その時、私はふと思い出した。

(確か、あの時も春のお彼岸の中日だった・・) 我が家では総本山善通寺のことを「お大師さん」と呼んでいる。「お大師さん」と言えば弘法大師を指すほど、空海は広く人々からの信仰を集めている。

もちろん私も空海に対して、尊敬と親しみの念を込めて「お大師さん」と呼ばせていただいている。

ここ善通寺は空海生誕の地。実は私の実家も、そして、嫁いだ先も宗派は真言宗。お大師さんはいつも私や家族のまわりにいて、私たちを救い、守ってくださっている。

私の息子にも弘法大師の「弘」の一字をいただいた。まあ、息子には悪いけれど、これが本当の「名前負け」なのかもしれない。

私は車窓より上高瀬(現在の三豊市高瀬町)の風景を眺め続けた。平見地区の家並みこそ、あの頃の藁葺き屋根から瓦葺きの家に、そして今風の近代的な住宅に変わっていた。でも山の形状はあの頃と同じであった。

五岳山の一つである我拝師山が今日も、そして、あの時と同じように、俵状のおにぎりのように見える。あの頃は、おなかを空かした子どもたちが、我拝師山を指差して「おにぎり山」と呼んでいた。

食べる物がない時代。飢えをしのぐために、ただ、見える物を食べ物に形容して飢えをしのいでいた。あの時に出会った男の子は私より一つ年下。今では孫やひ孫に囲まれて、幸せな生活を送っていることと祈りたい。

太平洋戦争はすでに遠い過去のものになってしまった。けれども忘れようとしても忘れられないことが、私の脳裏にいつまでも焼き付いて離れようとしない。

そして、あの時のことはいつか誰かに話したい・・・という気持ちで我拝師山を見上げ手を合わした。

(でも、どうして孫はこの道を選んだろうか。孫にあのことは話していないのに・・・)

観音寺から善通寺へ行くには主に三つのルートが考えられる。

一つは国道十一号線を高松方面にまっすぐ北東に進み、鳥坂峠を越えて右折して善通寺・詫間線(県道四十八号線)を通り善通寺へ。

もう一つは、善通寺・大野原線(県道二十四号線)を通り、麻坂峠を越えて善通寺へ。そして今日はこの大日峠の道を走っている。

私はてっきりいつものように、鳥坂峠を越えてお大師さんへ行くものと思っていた。

しかし、国道十一号線の三豊市高瀬町の「六ツ松」を過ぎると孫は急に右折し、観音寺・善通寺線(県道四十九号線)を走った。

特に大日峠越えをお願いしてもいないのに、孫はその道を選んだ。

「ぼくよ、どうして右に曲がったん?」 私は孫に聞いてみた。

もう一児の父になっているのに、私はいつまでたっても孫のことを「ぼく」と呼んでいる。

(だって、いつまでも孫は小さい時のかわいい孫でいて欲しいから・・・)

「なんでやろう? ただ、なんとなく、いつもとは違う道を通ってみたかったんや」孫は応えた。

(これもきっと父が思い出の道に、私たちを誘ってくれているんだわ)私は勝手に解釈した。

大日峠は私にとって久しぶりに通る道。だけど大きく変わったのは整備された道路。あの頃とは見違えるほど変化した。当時は笹や木々に覆われ、細く曲がりくねった道。昼間でも薄暗く、追いはぎ(山賊)が出て来そうな道であった。

しかし、今は道幅も広くなり、対向車が来ても、難なくすれ違うことができる。曲がりくねった道も、道路の付け替え工事により、一直線に延びる快適な明るい道となった。 隣席に設置されているチャイルドシートに、ひ孫の美(み)月(つき)がおとなしく座っている。

私が孫に「お大師さんへ連れて行ってくれんの?」とお願いしたところ、孫は「いいよ。ばあちゃん、行こう。行こう」と快く承諾してくれた。美月にも声をかけると「美月も行きたい!」と可愛くおねだりしてきた。

孫とひい孫の三人で、時々スーパーマーケットや大型量販店へ出かけることもあるけど、お大師さんへ三人で行くのは今回が初めて。

孫の車は、最近購入した新型のプラグインハイブリッドカー。エンジンがかっているのか、かかっていないのか、わからないような、超静かな高性能エンジン。

走行中、揺れもほとんど感じず、軽快な走行ぶりから、日本の科学技術の進歩がうかがえる。

あの頃の車は、とんでもないオンボロ車。しかも戦時中なので「ガソリンの一滴は血の一滴」と言われた時代。石油は軍用機や戦車、軍艦などに使われていた。

そこで一般の車はガソリンで走っていた車を改造した木炭車。

クッションはほとんどなく、乗るというより、何かにしがみついていないと振り落とされるような車だった。

孫は、新しい車の性能を試したいのか、少し飛ばし気味であった。

「ぼくよ、そなに飛ばさんでもええんで。お大師さんは逃げやせんけん」

私は心配になり孫に声をかけた。

「ばあちゃん。大丈夫やけん。ぼくの運転を信用してつか」

「いやいや、お前の運転が上手なんはよう知っとるけんど、ここの道だけはゆっくり走ってくれの」

(ここの道だけはゆっくりと走って欲しい)ということを、私は何とかして、孫に訴えたかった。

実はこの道は、私にとってとても苦い思い出の道。今は運転中で危ないから、これ以上は話しかけるのを止めておこう。私の胸の内だけで留めておこうと思った。

でも、なんとしてでも、この道で孫に交通事故だけは起こさせていけない。

そこで私は思い切って孫に話しかけた。「ここは道がえーようになったじゃろう。みんなよーけ飛ばすけんの。ほんでのう、ここでは昔からようけ事故が起こっとんじゃ」私は道路のせいにしてやんわりと忠告したつもりだった。

「ばあちゃん、わかっとる、わかっとる」と孫が言いかけた時、一個のサッカーボールが左の細い路地から転がってきた。

「あっ、危ない!」私は咄嗟に叫んだ。

その瞬間、孫はハンドルを右に切った。

案の定、左から幼児がボールを追いかけて飛び出そうとしていた。

対向車が来ていなかったから、大事に至らなかったけれど、もし対向車がいれば・・・と思うと背筋が凍り付いた。

(これもお大師さんが助けてくれたんや・・)私は再び手を合わした。

「ばあちゃん、ほんまじゃ。ここの道は怖いわ。何が飛び出して来るか分からんわ」

「そうじゃろ、そうじゃろ。走りやすい道ほど気をつけんといかんよ」「パパ、気をつけてよ」

美月もかなり驚いたようで、思っていることを素直に発した。私には、父親に忠告している娘の姿が頼もしく感じられた。

ついこの前、産まれたと思っていたひ孫も大きく成長したものだ。

論より証拠というのか、危険な目に遭って、そして、娘にまで言われて初めて、孫は若干スピードを緩めたようだ。

「大きいばあちゃん。何か食べたい」 美月が私に食べ物をおねだりしてきた。

「美月、もうおなかが空いたん?」

「うん」

我が家には「大きいじいちゃん」と「小さいじいちゃん」。そして「、大きいばあちゃん」と「小さいばあちゃん」と「大小」に分けられた二種類の爺婆が存在する。

つまり、大きい方は曾祖父、曾祖母のこと。我が家は四世代の家族が同居する四世代世帯。高齢化社会となった今、特に不思議な家族構成ではない。

ただ、孫夫婦は結婚後、同じ敷地内に家を建て、そこで新婚生活を送った。そして、美月が誕生。

保育所に入るまでは母親、つまり孫の嫁が面倒を見ていた。

しかし、保育所に入ってから母親は仕事に復帰。私の息子とその嫁、つまり、美月の祖父と祖母が保育所の送り迎えをしていた。

でも二人ともまだ働いているので帰るのは夕方になる。美月の世話は私の仕事となった。だからお大師さんへ行こうと誘ったその日も、祖父と祖母はいないというわけ。

幼稚園に入った美月は、毎日、私の部屋へやって来ては、おやつをねだっている。孫たちもかわいかったけど、ひ孫も目に入れても痛くないほどのかわいさ。

いつも私の所へ遊びにやってきては、幼稚園で起きた出来事をごじゃごじゃと話してくれる。

保育所は夕方遅くまで美月を預かってくれていたけど、幼稚園から帰るのは、保育所と比べてとても早い。

そこで、幼稚園に入った初めの頃、私は、「コーヒーゼリー」「チーズケーキ」「イチゴショート」「モンブラン」「ショコラバニラ」などのケーキを買いそろえ、美月が私の部屋に遊びに来るのを心待ちにしていた。

おやつの時間が来れば、今日はどんなケーキが出るのか、冷蔵庫から持ってくるケーキ皿をじっと見つめていた。

でも毎日、毎日、このような高級ケーキを出すのは不経済だし、子どもの健康のことを考えるとあまり良くないと思い、美月に尋ねた。

「美月、ケーキ好き?」

「私、だーいチュき!」

「でもね、ケーキは美味しいけど、カロリー高いでしょう。ブーチャンになりたくないでしょう?」

「うん」

「だからね、これからケーキは時々にするからね」

「嫌だ!」

「その代わり、大きいばあちゃんが手作りのお菓子を作ってあげるけん」

「手作りのお菓子って?」「それはお楽しみに・・・」

美月はそれはそれで納得したみたいだけど、手作りのお菓子って、私にはドーナツぐらいしかレパートリーがなかった。

でも、美月と一緒にドーナツを作ることで、作る楽しさと、後で食べるという両方の楽しさを美月は知ったようで、相も変わらず、私の部屋に毎日遊びに来ている。

車の中で、美月が私にねだってきた。

「大きいばあちゃん、今日はどんなお菓子を作ってきたん?」

「うふふ・・それは後のお楽しみに。お大師さんに着いて、美月がちゃんとお参りできたら、一緒に食べような」

「うん」

本当に聞き分けの良い娘だ。でも子どもは正直者。美月は自分が思っていることを私に話してくれた。

「美月ね、本当はこの前、小さいばあちゃんが買ってきてくれたハンバーガーが一番チュき!」

「そうね、ハンバーガーもええけど、今日は大きいばあちゃんが作ってきた、とっても美味しいお菓子があるんだよ」

「何なの? 大きいばあちゃん、早く教えて!」

美月はチャイルドシートの中で足をバタバタさせた。

実は、私にはもう一つ作るのを得意としている和菓子がある。それは牡丹餅。今日は手間暇をかけて大きい牡丹餅を五個作ってきた。孫と美月と私の三個。

それともう二人の方に一個ずつあげて、五人一緒で食べたいため。もう二人の方とは、今はここにはいないけど、もう少ししたら、孫と美月にも話してあげようと思う。

日本には季節に応じたすばらしい風習が残っている。春のお彼岸の時、ご先祖様へのお供え物が「牡丹餅」。そして、秋のお彼岸の時のお供え物が「おはぎ」。

どちらもよく似ているけど、相違点の一つは、牡丹餅がこしあんで、おはぎが粒あん。

我が家では、米粉に水を少し入れて混ぜて団子状にしたものをゆでる。それにこしあんをまぶしたものを牡丹餅と呼んでいる。

それに対して、おはぎは餅米とうるち米を混ぜたものを蒸して作った、どちらかというと米粒が残っているようなおにぎりに粒あんをまぶした食べ物。

ではなぜ春のお彼岸が牡丹餅と呼ばれるのかというと、牡丹餅は春に咲く「牡丹」の花が小豆に似ているから。

おはぎは秋に咲く小さな花「萩」に由来しているから。どちらもお米が「あんこ」に包まれた甘くて上品な和菓子。

牡丹餅もおはぎも、作り方は私の母から学んだ。きっと母も私の祖母から学んだのに違いない。私の息子夫婦にも、作り方は私が教えた。そうなると孫は作り方を知っているだろうか、と自分に問いかけた。

今、息子と嫁は仕事に忙しい。でも、退職したらぼちぼちと作り方を孫たちに伝えるのだろう。

牡丹餅もおはぎも、作るのに大変な手間暇がかかる。正直言って、できあがった物を買った方が簡単だと思う。

あんこだけでも売っている。それに、今では材料さえあれば何とかなる。

でもあの頃は、まず材料が手に入らなかった。お店では絶対に売っていなかった。

裏の手を使い、なんとか材料を手に入ったとしても、そんなぜいたくなお菓子を食べているだけでも他人からは白い目で見られた。

いやその程度ならまだまし。「ぜいたくは敵だ」と言われていた時代。警察に密告され、警察署に連れて行かれるかもしれない。

「今とは時代が違う」と言わればそれまで。

あれから七十五年が過ぎた。

私にはあの時の牡丹餅のことが一日たりとも頭から離れることはなかった。

悔しさのあまり、毎夜、布団の中で泣いたこともあった。

お大師さんへはこれまで数え切れないくらい足を運んだ。

小学生から中学生の頃は、いつも私と母、そして二人の弟の四人で。

私が結婚すると私と主人の二人で。

そして、男の子が二人生まれると親子四人で。その子どもたちが結婚して子どもが生まれると、孫たちも一緒に。そして、今日は孫とひ孫の三人でのお大師さん参り。

時代が移り変わるにつれて、お参りに行く家族構成は変わっていったけれど、今も昔も変わらないのがお大師さんでの参詣コース。いつも決まっている。

まずは「五岳山」と大きく書かれた南大門の前で一礼。門をくぐり東院に入る。五重塔を右手に見ながらそのまままっすぐ金堂まで進み、そこでお参り。そして、中門を出て、露店を尻目に、仁王門から西院へ入る。

なぜ露店を素通りするのか。それは私の子どもや孫たちは露店で売られているおもちゃやたこ焼きばかりに目が行き、お大師さんへの信仰心やご利益が薄らいでしまう、と私が勝手に思っていたから。

東院から西院に入ると、お大師さんの歴史が描かれた絵画が飾られている回廊を渡り、御影堂(大師堂)へ行きお参りをする。

このコースは一般的なのかもしれない。しかし、我が家では必ず護摩堂の左隣りにある「ほやけ地蔵」に参るのを慣わしとしている。

このお地蔵さんは、大きな頬やけのある娘さんが毎日お参りしていると、娘の頬やけが無くなり、その代わりに「ほやけ地蔵」さんの顔に頬やけができたという言い伝えがあるお地蔵さん。

「ほやけ地蔵」さんにはこのような伝説があり、病気平癒を願う人たちから篤い信仰を集めている。

このお話は私の母から教わった。そのおかげで、私の家族では大病を患った者がいない。これもお大師さんのおかげだと私は信じている。

(でもどうして「ほやけ地蔵」なんだろう・・・) 幼い頃の私は不思議であった。

お参りの最後に、南大門近くにある五重塔へ行き、その下にみんなで輪になって座り、春のお彼岸では「牡丹餅」をほおばるのを常としている。

美月にとって今日は初めてのお大師さん参り。でも美月はお参りよりも、私が作ってきた牡丹餅の方に興味があるみたいで、車のシートの上にちょこんと置かれている、竹皮に包まれた牡丹餅ばかりに目がいっていた。


2.父と「あんこ」

私の脳裏に残るかすかな記憶をたどることにしよう。物心がついた頃、我が家に父はいなかった。近所のお友だちにはみんな父親がいるのに、なぜ私には父がいないのか、不思議でならなかった。

そこで三歳の頃、思い切って母親に尋ねてみたことがあった。

「母ちゃん、なんで私には父さんがおらんの? 死んだん?」

この時ばかりは、いつも優しい母に、私はきつく叱られた。

「お前はなんちゅうことを言うんじゃ。父さんは今、お国のために遠い所で戦っとんじゃ」

「えっ、父さんは今どこにおるん?」

「母ちゃんも詳しいことは聞かされておらんのじゃけど、支那におるんじゃ」

「支那ってどこ?」

「中国じゃ」

「ふーん」

私の父は大日本帝国陸軍の軍人として、中国にて任務に就いていた。

一九三七年(昭和十二年)七月七日(水)私が一歳になろうとしていた頃、日華事変が勃発。その頃、父は中国を相手に中国で戦っていた。

つまり、アメリカやイギリスを相手にした太平洋戦争が始まる何年も前から、日本は中国との全面戦争に突入していた。

戦時下でも、一年に一度くらいの割合で父は帰ってきた。五歳の頃になって初めて父親の存在に気づいた。

でも一年に一度ぐらいの帰国では、たとえ父であっても、幼児の私にとって、その男の人が誰なのか、分からなかった。

一九四一年(昭和十六年)
ある秋の日、「軍事郵便」と赤い印が押された父からの手紙が届いた。母がその内容を確認すると、家中が大騒ぎになった。

母は嬉しさのあまり、近所、親戚中に父が帰って来ることを触れて回った。手紙の内容は、近々、一時帰国するということであった。

「良かったの、良かったの」

そのような声が私の回りを飛び交った。

何が良かったのかはよく分からないけれど、私も弟も一緒になってその場で喜んだ。

父が帰って来る日、私と母と弟の三人は、大野原の実家から歩いて三十分ぐらいの所にある、国鉄の豊浜駅まで父を迎えに行った。

まだ一歳になったばかりの弟は、母の背中におんぶされていた。

豊浜駅近くの踏切まで来た時、観音寺の方から力強く黒い煙を吐きながやって来る蒸気機関車が見えた。

「あの汽車に父ちゃんが乗っとんじゃ」母からの話を聞いて、私は嬉しくなりその場で飛び跳ねた。

蒸気機関車がホームに入線した時、機関車の勇壮な姿と客車から降りてきた軍人である父の凛々しい姿とが重なって見えた。

弟にとっては初めて見る父。でも父のことなど分からず、蒸気機関車の方ばかりに目が行っていたようだ。

ついに、父が帰ってきた。

小銃こそ持っていなかったが、カーキ色の軍服にゲートルを巻き、戦闘帽をかぶった父は、帝国陸軍の軍人であった。

母が一言「お勤めご苦労様」と頭を下げると、父はその場で敬礼。

でもその短い母の言葉と父の敬礼の中には、これまでのいろいろな想いが込められていたんだと、私が成長して大人になった時に感じた。

初めは怖そうに見えていた父の姿も、母との会話で次第に和らいできた。

「『てー』は大きくなったの」

私はいつも近所の人からも、友だちからも名前を略して「てー」と呼ばれていた。

私は父に抱きかかえられ、「高い、高い」をしてもらった。

それに弟が抱っこされた時、父のことが分からず、人見知りをよくする弟は、急に泣き出して暴れた。

父なのに、見知らぬ人だと感じてしまったようだ。さぞかし怖かったのだろう。

大野原の実家に帰る時、真っ赤な夕日が背中を照らしていた。

私の両手が、母と父の手で握られ、私は万歳をしているような姿で道を歩いた。

「夕焼け、小焼けのあかとんぼ、おわれて見たのは、いつの日か」

「山の畑の桑の実を、小籠につんだは、まぼろしか」

父が急に童謡の「赤とんぼ」を歌い始めた。それに合わせて母も歌い出した。

私もつられて一緒に歌った。弟は泣き疲れたのか、母の背中で寝ていた。

あの頃の道はもちろん舗装はされておらず、車もほとんど通っていなかった。ただ大野原へと続く、一本の田んぼ道であった。

父から「満州の夕日はもっと赤いぞ」と聞かされた。私が満州という地名を聞いたのは、その時が初めてだった。

「満州ってどこ?」

私が父に尋ねると、軍人である父は、たとえ相手が幼児であっても、遠い言い回しはせず、「北京のずっと北の方だ」と単刀直入に答えた。

でも、そのような軍人的な言い方も、実家に帰ると、次第に元の優しい父に変わっていった。

父は三日ほど家で静養した。その間、私は父に絵本を読んでもらったことを覚えている。

貧しかった我が家に、絵本は一冊しかなかった。それは「桃太郎」だ。

鬼を退治に桃太郎が鬼ヶ島へ行った時、次のような会話文がある。

「桃太郎さんは大きな声で言いました『。かかれ!』」

私が幼児になろうとしていた頃「、かかれ!」の「か」が言えなくて、いつも「たたれ!」になっていた。父が「桃太郎さんは大きな声で言いました」と絵本を読み上げると、次の「かかれ!」は私が代わって「たたれ!」と手を振り上げて大声で叫び、回りの人たちを笑わしていた。

そのことを覚えていた父は、今回もそこの箇所が来ると「、桃太郎さんは大きな声で言いました」で止まった。

そして、私の顔をじっと見つめた。それは、「かかれ!」というセリフを私に言わせるためだ。でも、私はすでに五歳。まさか「、たたれ!」となるはずがない。

私は大声で「かかれ!」と言った。

その時の父は、驚きを隠せない表情だった。「おー、『てー』はやっと『か』が言えるようになったんか」と目を細めた。

その絵本は私の嫁ぎ先まで持っていった。そして、私は息子に、息子は私の孫に、そして孫はひ孫にまで読み聞かせをしてきた。その「桃太郎」の本は今ではボロボロ。

時代の流れを感じさせる絵本となった。 どうやら「たたれ!」と言っていたのは、私だけだった。

父の好物は牡丹餅であった。父が帰って来ると、季節に関わらず、母は必ず牡丹餅を作った。

母の牡丹餅は祖母譲りの腕前。甘いこしあんと、米粉の餅とが絶妙に合作され、美味しさを醸し出していた。こしあんに入れる砂糖の量は母の企業秘密のようで、他人が簡単にマネをして作れるような、あんこではなかった。 作り上がった牡丹餅は、まずは母屋(本家)の仏壇に供えられた。

お線香を上げて、みんなでご先祖様に手を合わせた。その後、竹皮に入った牡丹餅を縁側に持って行き、緑茶を飲みながら、みんなで味わった。

父が帰って来ると、挨拶を兼ねて近所の人たちもやって来る。その時にはおすそ分けをして、みんなで食べた。

父は口の中で牡丹餅を「クチャクチャ」させながら、本当に美味しそうに食べた。あまりに美味しいのか、誤って父の頬っぺたにあんこが付いた時があった。

その時は、私も母も弟も腹をかかえて大笑いした。でも父はなぜ笑われているのか分からず、苦笑いをした。

そこで、私が父の頬っぺたについているこしあんを舌で舐めてあげた。

あんこの甘さよりも、無精ひげの「ジョリジョリ」とした感触が、今も私の舌に残っている。

「うわー、『てー』に『チュウ』されたわい」父は悲鳴に近い大声をあげた。五歳になった私は少し恥ずかしかったけど、家族みんなで大声を上げて心の底から笑った。 でも、このような馬鹿笑いもこれが最初で最後だったように思う。

翌日、私が畑から帰った時、父はすでに家にいなかった。

「父さんは?」

母に尋ねると、母は「父さんはまた兵隊さんに戻っていった」という返事だった。

(昨夜、みんなで豊浜駅まで見送りに行こうと、あれほど父さんと強く約束したのに・・・)朝になって急に父は「、一人で豊浜駅へ行く。見送りは不要」と母に伝えたらしい。

私たちが父と一緒に豊浜駅まで行ってしまうと、父には家族みんなで見送られるという恥ずかしさと、家族から離れるという寂しさが錯綜してしまう。

そうなると軍人としての面子が立たなくなることを懸念してのことだろう。泣きながら家族の元から去るのは男の恥である。

こうして再び、母と娘と息子の三人家族の生活が始まった。

一九四一年(昭和十六年)十二月八日(月)太平洋戦争が勃発。

翌日、私の庭で、「せんちゃん」という伯父とそのおばちゃん、そして、近所の人たちが集まって井戸端会議が開かれた。

「せんちゃん」の手には「帝國・米英に宣戰を布告す」と大きく書かれた新聞が握られていた。

五歳の私には何が書かれ、何が始まったのかさっぱり分からないけど、とにかく日本がアメリカやイギリスを相手に戦争を始めたらしいことだけは分かった。

これまで日本は中国を相手にずっと戦ってきた。さらに、これからはアメリカ、イギリスまでを相手に戦争をする。井戸端会議の内容は、中国へ行った私の父を案じてのことだった。

私の家は新屋。つまり本家から独立した分家。隣の家が母屋(本家)。

「せんちゃん」とは父の兄のこと。本当の名前は「千治さん」なんだけど、いつのまにか親しみを込めて「せんちゃん」となってしまった。

そして、小さい私までもが「せんちゃん」と呼ぶようになった。父は弟なので分家して隣に家を建てた。

ほとんど父は不在なので、「せんちゃん」が私の父親代わりのような存在であった。隣の母屋へ行けば、兄や姉のような従兄弟たちもいた。寂しくはなかった。

一九四二年(昭和十七年)六月のミッドウェー海戦以降、戦局は悪化の一途をたどっていた。にも関わらず、ラジオや新聞で流されるニュースは連戦連勝という、日本にとって有利な報道ばかり。国には報道管制が敷かれていたため、何を信じればいいのか、誰も分からない時代であった。 ただ戦争が始まった頃、大野原のような田舎では戦時色はあまり見られなかった。

一九四三年(昭和十八年)四月私は尋常高等小学校に入学した。

桜花絢爛の季節から新緑の季節を迎えた五月。久しぶりに父からの手紙が届いた。いつものように「軍用郵便」という赤い印が押されている。

「父さんからじゃ」

母が嬉しそうに手紙を郵便屋さんから受け取った。

「父さんが帰って来る。また一緒に牡丹餅が食べられる」

私と弟は嬉しくなり、はしゃいだ。

しかし、手紙の内容を一読した母の表情は硬かった。母は手紙を持って隣の母屋へ走った。

私も弟も一緒に行ったが、大人たちの会話の中に子どもが入っていけるような雰囲気ではなかった。

我が家に帰って来た母に対して恐る恐る尋ねてみた。

「母ちゃん、父さんに何かあったん?」

「えーか、よーに聞けよ。父さんは戦地で大怪我をしたそうじゃ。敵の弾に当たったらしい。もう少ししたら、日本の病院に転院されるんじゃ」

「転院って?」

「中国の病院では治らんから、日本の病院へ運ばれるってことじゃ」

私の心の中は複雑になった。怪我をしたこと自体はとても辛いことだ。もしかするとその怪我が元で、命まで奪われるかもしれない。

でもこれでまた父に会える。私は小学一年生。父に小学生になったことを報告できる。

しかし、父の怪我のことを心配している母に、私の本音を伝えることはできなかった。

怪我も「名誉の負傷」と考えれば、「人間万事塞翁が馬」。「転禍為福(禍(わざわい)転じて福と為す)」。命に別状なかったのなら、吉と考えた方がいいのでは、と誰もが考えた。

問題は父の怪我の程度であった。一生、足腰が立たないような大怪我なのだろうか。でも手紙を書くことができたのだから、そこまでの大怪我ではないのでは。など様々な憶測が近所、親戚中を飛び交った。

二週間後、父は、中国から呉の軍港へ船で帰ってきた。しかし、我が家へは帰らず、そのまま善通寺の陸軍病院へ入院することとなった。

父が入院したと連絡を受けた翌々日、母と私と弟の三人は豊浜駅から汽車に乗り善通寺までお見舞いに行った。

豊浜駅から多度津駅まで約一時間。そして、土讃線に乗り換えて善通寺駅へ。待ち時間も入れると片道二時間ぐらいかかった。

私や弟にとっては初めて乗る汽車。力強く煙を吐き、シューという音と共に蒸気が吐き出され、蒸気機関車の車輪がゆっくりと回転する。

客車で座っている私たちにも、連結器の「ガタン、ガタン」という音が聞こえて来て、車体が動き始めるのが分かる。

車体はゆっくりと動き出した。車内に煙が入って来るので、母は急に窓を閉めた。そして、目に煤煙が入らないように、私と弟にハンカチが与えられた。

そして、これで目を覆うように言われた。でも、スピードが上がるにしたがって、ハンカチのことなど忘れて、流れるような景色に見入った。

詫間駅を過ぎると左手に瀬戸内海が一望できた。詫間と海岸寺の間を走っている時、母が急に海に向かって手を合わした。

「母ちゃん、どうして海に向かってお祈りをするん?」

私は尋ねた。すると母はこう応えた。

「あの島に向かって海岸から橋が延びとるやろう。あの島は『津嶋さん』といってな、子どもの神様じゃ。お前もちゃんとお祈りしとき。

それに父さんの怪我が早く治るようにな」 私は敬虔な面持ちで手を合わした。島に橋ができたのは昭和八年のこと。それまで本殿がある島までは船で渡っていた。

今では、夏季大祭のある毎年八月四日と五日だけ、橋を渡ることができる。私は母の教えを忠実に守り、私の息子や孫、そして、ひ孫にも、夏季大祭の日には必ず津嶋神社を参詣するように言ってきた。

陸軍病院へ行き、詰め所で父の病室を尋ねた。父は六人部屋の一室で仮眠していた。

父は敵の銃弾を頭に受ける大怪我であった。いわゆる頭部の貫通銃創。銃弾の位置がほんの数aずれていると、小脳や大脳にまで被弾することになり即死。 死ななくても、話すことができない、歩くことができない、これまでの記憶がまったくないなど、重大な後遺症を残すことになる。

父が銃弾を頭に受けていながら、命に別状なく、後遺症も残さず、こうして善通寺の陸軍病院に入院することができたのは、奇跡中の奇跡であった。 これもお大師さんのおかげだと、母はお大師さんの方に向いて手を合わせた。

父は、私たちに心配をできるだけかけないように冗談を言って、私たちの心を和らげようとした。

「支那の奴らの弾も、たまには当たるわい」という感じであった。でも父の頭の傷口を見せてもらうと、私の人差し指が一本入るような穴が空いていた。

「『てー』もついに小学生になったんか。早いの」 私に優しく声をかけてくれた。物心がついた弟は、父に遠慮せず、父のベッドの上ではしゃいで母に叱られた。

「まあ、えーがい、えーがい」

父は息子の無邪気な行動をとがめるようなこともしなかった。

帰りまで時間があったので、母と私と弟の三人でお大師さんへお参りに行った。何といっても、大怪我はしたものの、命に別状がなかったことに対するお礼である。

父は一ヶ月ぐらい入院していた。その後、陸軍病院を退院。我が家に戻ってきた。そして、家で静養することになった。 近所や親戚の人たちは「、まあ、『日にち薬』やきに、ゆっくりしとったらええがな」と父に言っていた。

父も久しぶりにゆっくりと静養できることに、命の洗濯ができると感じたらしい。

一九四三年(昭和十八年)七月。

父が再び帰ってきた。この頃は、次第に物が不足してきた時代であった。一九三八年に国家総動員法が発令されて以来、人びとの生活は苦しくなり、国民は大変な犠牲を強いられるようになった。軍需品の生産が優先され、生活必需品の供給が減り、一九四〇年に砂糖とマッチが切符制に、一九四一年には、米が配給制に、翌年には衣料品が切符制となった。

そのような中、母は、父のために小豆と砂糖、それに米粉を工面して、納屋で隠れて牡丹餅を作ったことがある。

当時、住民を相互に監視させる目的で、町内会などの下に約十戸を単位とする隣組が形成されていた。だから、贅沢品である牡丹餅を作り食べるなんて論外。 このことが憲兵に知られると大変なことになる。父は陸軍の軍人さんだけど、憲兵といざこざを起こすとややこしい問題に発展しかねない。

父は母がせっかく作った牡丹餅を、一切口にしなかった。私と弟は暗い納屋の中で、人目をはばかりながら食べた。

牡丹餅の味は、いつもと変わらず美味しかった。けれど父が食べない牡丹餅は牡丹餅じゃなかった。 私にとっての牡丹餅は、父や家族と一緒に、しかも縁側で緑茶を飲みながら食べてこそ、本当の牡丹餅の味になると信じていた。

父は五ヶ月近く我が家で静養した。父の頭の傷は次第に治癒してきた。その間、父は私や弟と一緒に遊んでくれたけど、父の頭の中は戦局のことで一杯だった。 新聞記事はくまなく目を通していた。ラジオは近所に一台しかなかった。ラジオがあるその家を毎日訪問させていただき、ラジオのニュースに聞き入っていた。

父の年齢はすでに今でいう定年退職の年齢。つまり、軍の停限年齢に達しようとしていた。それに、傷口が徐々に回復しているものの、まだまだ負傷した身。 傷病兵だ。このまま戦地へ赴くこともなく、兵役を引退するのではないかと誰もが考えていた。

一九四四年(昭和十九年)の正月を迎えた。戦局は益々悪化の一途をたどった。

そのような中、善通寺にある陸軍第十一師団より父に帰営命令が下った。

「えっ、父さん、また兵隊に行くん?」私は父に尋ねた。

「これもお国のためじゃ、父さんはまた帰ってくるから待っとけよ。たぶん兵隊に行くのも、もうこれが最後になるじゃろ。帰って来たら、一緒に遊んでやるけんの」

と言い残したまま家を出て行った。

これが私と父との最後の会話になった。(このまま父の怪我が治らなければ良かったのに・・・)

不謹慎だけど私はそう思った。口にこそ出せないけど、母もそう思ったに違いない。

善通寺への出発の夜、母は一人納屋の中で泣いていたことを、今でも覚えている。

これも運命の悪戯。戦争の激化に伴い、多くの兵隊が命を失った。その穴埋めとして、高齢で傷病兵の父までが、兵隊に戻ることになった。


3.大日峠

一九四四年(昭和十九年)三月十九日(日)父からの軍事郵便が届いた。

手紙を一読した母はまたまた気が動転し、手紙を持って母屋(本家)へ走った。

私と弟も母の後を追ってみようとしたが、今回も大人の会話の中に入ることはできないと思い、家で母の帰りを待つことにした。

なかなか母は帰って来なかった。よほど深刻なことが起きていることが、小学生の私にも感じられた。小一時間ぐらいして母は帰ってきた。私と弟は母の元へ走り寄った。

「父さんの身にまた何かあったん?」

すると母は何か言いにくそうに話しだした。

「『てー』よ、よーに聞けよ。実はな、父さん、いよいよ外地へ出征することになったんじゃ。ほんでな、明後日の十一時から三十分だけ家族と面会できるそうじゃ。

お前、すまんけんど、善通寺へ行って父さんに会って来てくれんかい?」

「えっ、母ちゃんは? 母ちゃんはなんで私と一緒に行けんの?」

母は何か恥ずかしそうに言い出した。

「実はな、母ちゃんに赤ちゃんができたってことが、つい最近分かったんじゃ。ほんで善通寺まで行っきょって何かあったら、父さんに心配かけるじゃろ。お前に我が家を代表して行ってきて欲しいんじゃ」

今度は私が驚く番であった。それは母に赤ちゃんができたということと、どうやって善通寺まで行くかである。父のお見舞いに行った時は、母と弟の三人、汽車で行ったが、小学一年生の私が一人でどうやって善通寺の方まで行けばいいのか。一人で汽車に乗るなんて絶対に不可能だから。

思い切って母に尋ねてみた。

すると母から、思いがけない返答があった。「それがな、ええ案配に、母(おも)(母屋)の『せんちゃん』が明後日、炭を善通寺まで運ぶんじゃ、ほんでそのトラックに乗って行ってくれんかい?」

「えっ、トラック?」 私はトラックというものに乗ったことがなかった。私の知っている車とは荷馬車のこと。私の家の前を時々荷馬車が通ることがあった。 荷馬車が通ると、私と従兄弟たちは荷馬車の後を追った。馬が時々歩きながら大きな糞をする。その糞を集めて肥やしにするため。 だから、てっきりその荷馬車に乗って善通寺まで行くのかと思っていた せんちゃんは、大野原の「五郷」という山間の集落まで行き、そこの炭小屋で焼かれた炭をトラックに積み、善通寺の店まで運ぶ。 そして、帰りは、その店にある雑貨品を観音寺へ運ぶ仕事をしていた。毎日ではなかったけど、ちょうど明後日は五郷から炭を運ぶ日となっていた。

「えーか、行ってくれんかい?」

私は、父さんに会える嬉しさ、そして、生まれて初めて車に乗れるという期待から、二つ返事で承諾した。

すると、母はまたまた不思議なことを言い始めた。

「それとの、父さんが大好きな牡丹餅を持って行ってくれんかいの?」

今度は、私が驚く番だった。いくら小学一年生の私でも、当時、牡丹餅が非常に貴重な物であることぐらいは知っていた。だから、牡丹餅を作る材料がどこにあるのか、不思議でたまらなかった。

翌日、あんこづくりが始まった。切符制になった砂糖。配給制になった米。母は母屋(本家)へ行き、米粉を少し分けてもらった。問題は小豆。当時、小豆も大変貴重な物。でも思わぬ所に小豆があった。

母は私にこう言い出した。

「『てー』よ。ずっと前、お前に作ってやったお手玉あるやろう。それを全部ここに持って来てくれんかい?」

「お手玉?」

私はなんのことか分からないけど、母に言われるまま、五個すべてのお手玉を持って来た。するといきなり、母はそのお手玉をハサミでバサッと切った。

「ザラザラ・・・」

情けない音を立てて、小豆が鍋の中に転がり落ちた。数年前に作ってくれたお手玉に入っている古い小豆。そんな小豆から本当にあんこが作れるのかどうか。わずか五個のお手玉。小豆の量もほんのわずかであった。

母はその鍋に水を入れた。一分でも長く小豆を水に浸すためだ。

不安だったけど、こうなれば仕方がない。

善通寺へ向かう前夜、あんこ作りが始まった。お手玉に入っていた小豆から、うまくあんこになるかどうか分からない。小豆が古すぎる。こうなれば小豆との格闘だ。小豆がうまく作れないと牡丹餅にならない。

かまどのことを、讃岐では「おくどさん」と呼ぶ。そのおくどさんに薪がくべられ、火が付けられた。もちろん今のような都市ガスやプロパンガスはない。

それに今なら、圧力釜があり一時間ぐらい煮ると完成なのかもしれない。しかし、時代が時代。そんな物はあるはずがない。いつもごはんを炊いている土釜に水と小豆が入れられ、コツコツと煮る。

その火加減が微妙に難しい。しかし、母は熟練工のように淡々と薪の入れ方を調整した。

我が家には立派な鉄製の釜があったけど、昭和十六年の金属類回収令により供出。昭和十八年になると、再度、隣組の人たちが各家庭を回り、鉄類を供出。鉄の鍋までも持って行かれた。

土鍋の水が少なくなってきた時、母は非常に貴重な砂糖をほんの少しだけ入れた。本当なら小豆と同じ重さの量の砂糖を入れるのだけれど、それは不可能。

当時、台湾や硫黄島、南大東島など、南方から来る砂糖が途絶えたため、砂糖の値段は信じられないくらい高騰していた。 砂糖が切符制になったとはいえ、正直言って庶民には高嶺の花。例えば、昭和二十年一月の史料では、白米一升が二十円。卵一個が二円に対して、砂糖は約三百七十五グラムが五十円。

ではこの一円という単位が今のお金に換算していくらぐらいになるのか。昭和十七年の史料によると、カレーライスが十銭(一円の十分の一)、映画館の入場料が五十銭(一円の半分)といわれていた。

だから一円は今の五千円から一万円ぐらい。米粉と同じくらいの量の砂糖だと、二十五万円から五十万円となる。

母は戦争が始まる前から砂糖をきっちりと密閉できる容器に入れ、日の当たらない所に置いていた。ほんの少しだけど、蓄えがあったということ。砂糖を買ってきて牡丹餅づくりなんて、絶対に不可能であった。

それと母はこしあんにせず、粒あんにした。理由は小豆が少ないから。小豆の皮までも活用することにした。今考えると、塩あんでも良かったのだけど、少しでも父の大好きな甘いあんこに近づけようとしていたのだろう。

砂糖の量がいつもの半分にも届かないあんこになってしまったけど、それでも超が付くほど貴重なあんこ。

今だと、トリュフかキャビアのような物。

「『てー』よ。ちょっと舌を出してみ」 私が舌を出すと、母がほんの少しだけ、あんこを私の舌の上に乗せた。

「甘い!」

父と一緒に食べていた頃のあんこには、到底及ばなかったけれど、それでもかすかに砂糖の甘さと父の香りを感じた。

(そうだわ、これは父さんに「チュウ」した時の甘いあんこ)

私は心の中でそう思った。

「よっしゃ。できた!」

母の納得した言葉を聞き、嬉しそうな顔を見たのは,本当に久しぶりだった。

父の喜ぶ顔が想像できた。

いよいよ善通寺へ出発する日がやってきた。まだ夜が明けきらない午前四時前、母と私との共同作業による牡丹餅作りが始まった。母が米粉に少しずつ水を入れて団子状にした。それを私が小さい餅に丸める。

もともと米粉もあんこも少ないので、これまでのような大きい牡丹餅は作れない。母は私の手を借りたということにして、私にあえて小さく丸めさせた。娘が作った牡丹餅を父に食べさせてあげようとする母の優しさもあったのだろう。

湯が沸騰している土鍋に団子状の餅を入れる。餅が浮かびあがるとお玉ですくい、昨日つくったあんこをまぶす。いつものような大きい牡丹餅ではないけど、ピンポン球を少し大きくしたぐらいの牡丹餅が五個完成した。それを大切に竹皮に並べて、ハンカチで包んで完成。

「えーか『てー』よ。父さんに会ったら、『これは私が全部作ったんだよ』と言って、面会ができる部屋で一緒に食べるんで」

「うん、分かった!」

「父さんは、外地に行ってしまうと、しばらく牡丹餅は食べられんから、父さんよりよーけ食べたらいかんで。父さんが四つ食べたら、お前はひとつ。父さんが三つ食べたら、お前は何個食べたらええんかいの?」

すでに私は尋常高等小学校の一年生。このような計算はすぐできるはずなのに、手のひらを大きくひろげて、「父さんが三つ食べたら・・」と言いながら、「親指、人差し指、中指」と三本の指を折り曲げた。そして、残った二本の指を見つめて「二個」と叫んだ。

「合っとる!」

母は目を細くして私を見つめた。

「さぁ、ぼちぼち『せんちゃん』が迎えに来る頃やろう」

私は牡丹餅を大事に抱えて、家の前で待つことにした。

十一時からの面会だけど、少し早めに行こうということで、朝五時に迎えに来ることになっていた。しかし、いくら待っても「せんちゃん」はやって来ない。今なら、携帯電話で尋ねることができるのにあの頃とは時代が違った。

母が母屋へ行き尋ねると、今朝は四時に歩いて車を取りに行ったという返事。荷は昨日の夕方に積んだから、もう来るのではないかとのこと。

待つこと半時間。

「ドロン、ドロン、ドロン・・・」

ものすごい音を響かせて、「せんちゃん」はやって来た。まるで地響きがしているみたいで近所中の人たちが驚いてやってきた。

当時、車はとても貴重。もちろん個人で所有できるような代物ではなく、会社からお借りしている大切なトラック。ただ、現在の国道や高速道路を走っているような大型トラックではなく、三輪車。今なら小型トラック程度。でも私の目にははとても大きなトラックに映った。それと車は木炭車(木炭自動車)。

一九四一年(昭和十六年)九月

鉄道省より、バスやタクシーのガソリン使用を全面禁止すると発表。そして、代替燃料を使用した自動車だけが公道を走ることができた。運転台のすぐ後ろに、焼却炉のような木炭ガス発生炉が置かれ、木炭や薪を燃やして不完全燃焼により発生する木炭ガス(一酸化炭素)と微量の水素の混合気でエンジンを回して車を走らせる仕組みであった。運転台とは、乗り物を操作する運転席と助手席の総称。

これまでのガソリンエンジンを流用できることから、比較的簡単に改造することができた。けれど、ガスの熱量が小さく、エンジンの出力は極めて低かった。だから木炭バスだと、上り坂になると、乗客らが降りて、後ろから木炭バスを押すという光景が当時よく見られた。

木炭を早く着火させるため、ギア式の手回し送風機が取り付けられている。その送風機を回していると、燃焼筒の中が真っ赤になり強力な燃焼が始まり、エンジンがかかるシステム。でもおいそれと、エンジンが簡単にかかるような代物ではなかった。

「せんちゃん」は、エンジンをかけようとしたものの、冷えているためになかなかエンジンがかからない。そこで送風機を力一杯回しているうちに、やっとエンジンがかかったという次第であった。

「遅れてすまん、すまん。さぁ、『てー』よ。

早よ乗れ! ほんだら、行くど!」 私は母に抱えられ助手席に上った。

「ドロン、ドロン、ドロン・・・」

「すごい!」

まるでエンジンの上に座っているみたいで、エンジンの音が座席に直接響いてくる。それと運転台の高いこと。母の姿がずっと下に見えた。

すごいエンジン音に起こされたのか、弟も目をこすりながら起きてきた。そして、助手席に座っている私を見て「ぼくも連れて行け!」と駄々をこねて泣き始めた。母屋の従兄弟たちも起きてきた。そして、私を、羨ましく眺めた。

今なら、ベンツか何かの高級車に乗せてもらっているようで、私は優越感を感じた。

「くれぐれも父さんによろしゅうにな」

「分かったよ。この牡丹餅を父さんと一緒に食べるけんな。ほんだら、行ってくるけん」 私は窓から首を出して母に手を振った。「ほんだら『てー』よ、行くぞ。しっかりとそこの取っ手につかまっとくんど」

「せんちゃん」はドアの取っ手を指さした。

私はしっかりと取っ手を握った。

「ドロン、ドロン、ドロン・・・」

木炭車はものすごいエンジン音を響かせては走り出した。

(ウワー すごい!)

母の手で押さえられていた弟が「、ぼくも行く!」と母の手を振り切って追って来た。し左側のバックミラーを見ていると、弟の姿は次第に小さくなっていった。

とは言っても、現在の車と比較すると、木炭車の速さは話しにならなかった。それに道がとんでもない悪路であった。舗装なんかされていないし、ぬかるみにタイヤを取られる時もあった。

大野原から観音寺を通り、豊中から高瀬までの道は、現在の国道十一号線とほぼ平行していた。しかし、道幅はこの車で一杯。対向車はほとんどなかったけど、たまに荷馬車が来る時があった。前方から荷馬車が来ているのが見えた時は、ずっと手前の待避所みたいな所で待って、荷馬車が通過するのを待たなければいけない。運悪く出会い頭に荷馬車に遭った時には、こちらが待避できる所までバックしなければいけなかった。

なぜなら、私が乗っている木炭車はバックができても、荷馬車はバックできないから。木炭車の方が大きくて、威張っていられるような気がしたけど、この場合は、荷馬車に譲らなければいけない。

こうして荷馬車に遭遇すると、無駄な時間が流れることになる。

大野原の「十三塚」という所を過ぎると、私の郷里ともいよいよお別れとなる。

夜が静かに明けてきた。私は右手に目をやった。讃岐山脈の西端に位置する雲辺寺を見ると、山の稜線がそれまでの薄墨色から濃紺色に、そして時間の経過と共に、淡い群青色へと移りかわっていった。

大野原も戦争一色の世の中になってしまったけれど、夜明けという自然現象は変わらない。いや、変わって欲しくない。

今日は、宇宙の黎明を思わせるような美しい夜明けだ。こんな美しい夜明けを見たのは生まれて初めてだった。とても嬉しくなった。

しかし、弟の足では追うことができなかった。 でも神様は私に味方はしてくれたのか、見(今日はきっといいことがある・・・)心の中でそう思った。 方してくれなかったのか、それは神のみぞ知る。

初めて長い橋を渡った。柞田川だ。

でも、どうも様子がおかしい。出作(現在の観音寺市出作町)付近を走っている時、朝から引っ越しをしている家が多すぎる。

「せんちゃん」に尋ねてみた。

「『せんちゃん』、なんで、ようけの家が引っ越ししよん?」

すると「せんちゃん」は声を潜めて話してくれた。

「ここらにの、飛行場ができるそうじゃ。ほんだら長い滑走路がいるじゃろ。滑走路の邪魔になる家は、のかん(立ち退き)といかんのじゃ」

あの頃の私は、日本の勝利を信じていた。もう少しすると、日の丸をつけた戦闘機がこの上を飛び交い、アメリカの飛行機をやっつけてくれるんだと。しかし、観音寺海軍飛行場の完成間近、この地は度重なる空襲を受けるようになる。日本のゼロ戦に対抗して作られたグラマン戦闘機が、毎日のように低空で飛来し、住民たちに機銃掃射をおこない、多くの犠牲者が出るようになった。

結局、飛行場の完成を待つことなく、終戦を迎えることになる。

私は、引っ越しをしている人たちのことを案じて「せんちゃん」に尋ねると、「軍の命令は絶対じゃ。嫌じゃと言えば、大事になるんぞ」と言われた。

「せんちゃん」が話してくれたことを、数時間後に私が身をもって体験するとは。

あの時の私は、まだお気楽であった。

またまた長い橋を渡った。財田川だ。

「『てー』よ。これが財田川じゃ。この川を渡ると本山じゃ。あそこに五重塔が見えるじゃろ。あれが本山寺じゃ」

「ふーん」

すごく遠くに来たような感じがした。 本山寺。

四国霊場七十番札所となっている古刹。

「えっ、何じゃ、何じゃ!」

急に「せんちゃん」が大声を上げた。

「どうしたん?」

「『てー』よ、あれを見てみい。なんでか知らんけんど、人がよーけおるがい。どしたんど」 「せんちゃん」は、いつもこの道を通って善通寺まで行っている。だけどこんなに多くの人を見たのは初めてらしい。

「『てー』よ。今日は何日じゃ?」

「今日は二十一日だよ」

「ほんでか。今日はお彼岸のお中日じゃが」 お彼岸の中日ということで、多くの参拝者が近隣の村から本山寺にやってきている。

路上では、威勢よく農家の人が野菜を売り、農具や植木などを売る市も開かれていた「。のぞき」という見せ物小屋もあった。

このまま車を走らせると、お祭りの行列の中に突っ込んでいくようであった。でも迂回路はない。

仕方なく、「せんちゃん」は、「ブーブー」とクラクションを鳴らしながら、人混みの中に車を進めた。車に気づき、人びとは左右に避けてはくれるけど、スピードは一段と下がった。

徐行運転をしないと、人をはねてしまえば大変だ。私は不安になってきた。

「『せんちゃん』、十一時に間に合うん?」「大丈夫、大丈夫。もうちょっとしたら、人も減るじゃろう」

本山寺付近から、わずか五百b走るだけで、三十分近い時が流れた。大野原を出て本山まで二時間もかかったことになる。今なら本山まで、国道十一号線を走ると十五分ぐらい。高速道路だと五分ぐらいで到着する。

権兵衛さん(現在の三豊市豊中町笠田笠岡にある七義士神社)を過ぎる。高瀬に入り、六ツ松付近から右折した。直進すると鳥坂峠となる。なぜ右折したのかというと、大日峠越えの方が、善通寺へ行くには若干距離が短いから。

この分かれ道が、私にとって、「運命の分かれ道」となった。

いよいよ大日峠を越えるということで「、せんちゃん」は道幅が広いところで車を停めた。そして、木炭や薪を木炭ガス発生炉にどんどんと入れ始めた。

「『せんちゃん』どうするん?」

「『てー』よ、木炭車のお腹が空いていたから、飯を食わしてやるんじゃ。これで腹も起きるから、言うことを効くやろう。がんばって大日を越えてくれよ。頼むぞ」

「うん」

「せんちゃん」と私は木炭車の荷台を叩いた。

木炭車の燃費は、木炭十五sで十qぐらい走ることができる。しかし、坂道になると燃費は十分の一ぐらいに悪くなる。しかもトルクがあまりないので、大量に荷を積んだ場合、坂を登り切れなくなることも考えられる。

「せんちゃん」は、何回も大野原と善通寺を往復しているので、いつもこの場所に停まり、木炭を補給している。だから、どのくらい荷物を積めばいいのかよく知っている。

しかし、今日に限って荷を少し積み過ぎたようだ。それも災いの元となった。

高瀬の下勝間から上勝間を過ぎ、上高瀬に入ると、いよいよ上り坂に差しかかった

これまでの「ドロン、ドロン・・・」という軽快なエンジン音から、「ドッドッドッ・・」という人間で言えば喘ぐような音に変わった。

それにスピードが格段と落ちた。

「頼むど! 登ってくれよ」

「せんちゃん」は、我が子を諭すように言った。私も声を出して車のドアを叩いた。

「がんばれ! がんばれ! がんばれ!」「せんちゃん」は、アクセルを一杯に踏み込んでいる。それでもスピードは上がらない。上がるのはエンジン音ばかりだ。とは言っても、今と違って道はとても細く、前から何か来たらすれ違いはできない。もしも、車が停まってしまうと、この坂道では動き出すことはままならないだろう。「せんちゃん」もそのことは分かっているので、スピードを出すこともできない。

「せんちゃん」の時計の針は、九時半を過ぎていた。ここまで四時間もかかっている。「せんちゃん」も時間のことが気になっているみたいで、時々チラッと時計を見る。

左手に大きな山が迫ってきた。

「『てー』よ。あれが我拝師山と言っての、あの山が見えて来ると、大日じゃ。もう少しじゃけんの」

私はこれまでとても元気だったのに、坂道にかかると激しい揺れで吐き気をもよおしてきた。いわゆる車酔いだ。これまで助手席の取っ手に必死でしがみついていたが、顔が下向きになり、かえって吐き気を助長しているみたい。

車を停めて地面に吐くこともできるけど、登り道で一度停まってしまうと大変。動かなくなる。そこで私は左のドアに付いている取っ手を回して窓を開けた。そして、危険を承知で顔を外に出し、「ゲー」と吐いた。

危険を察した「せんちゃん」がハンドルを右に切った。右手に崖が迫ってきた。

「ガリガリガリ・・・」

変な音と共に衝撃を感じた。

「あっ、やってしもたがい。それより『てー』大丈夫か? 車に酔ったんか?」

私が急に頭を窓から出したので、危険を感じた「せんちゃん」は、ハンドルを右に切った。しかし、少し切り過ぎて、車体の右側面を擦ってしまった。

「車の中に吐いてもええけん、絶対に顔を出すな! 危ないんど!」

私は、吐き気と恐怖で次第に震えてきた。

こんな怖い経験をしたのは初めてだ。泣き顔になってきた。

でもこんなのは序の口であった。

本当の怖さはこれから経験することになる。


やっと大日峠が見えてきた。

(峠を越えると善通寺・・・)

(いよいよ父さんに会える)

私の心も次第に落ち着いてきた。 「せんちゃん」が再び時計を見る。

「今、何時?」

「十時じゃ。でも大日を越えると善通寺じゃ。越えたら下りになるけん、速くなるぞ、すぐに着くけんの」

ついに大日峠を越えた。

右手に金比羅さんがある象頭山、正面に飯野山(讃岐富士)が見えた。

いよいよ西讃の地から中讃に入った。

「『てー』よ、善通寺に入ったぞ。もうちょっとで父さんに会えるんど」

「せんちゃん」にしても、久しぶりに弟に会えるのか、心なしか嬉しそうだった。

「もうちょっと下ったら善通寺さんの五重塔が見えるけんの。あのねきに父さんがおるんど」

「やった! やっと父さんに会える・・・」「そうじゃ。もうちょっとで父さんに会えるけんの。でも道が、くねくねしとるけん、取っ手にしっかりとつかまっとれよ。こなに遠くまで来たんは初めてやろう。大丈夫か?」「大丈夫、大丈夫。私、父さんと一緒にこの牡丹餅を食べるの楽しみにしとんや」

「『てー』は優しい子やの」

私は牡丹餅が車の床に落ちないように、牡丹餅が入っている袋を自分の方へ引き寄せた。

「ドロン、ドロン、ドロン・・・」

エンジン音がいつもの軽快音に変わった。

車は地球の重力に逆らうことなく、下りになるとスピードを確実に上げた。しかし、道幅は細く、くねった道。

「ザッザー」

時折、笹や木々が車体をこする

そのような中でも、「せんちゃん」のハンドルさばきは見事だった。右に左に鮮やかにハンドルを切った。対向車も来ない。

車は着実に善通寺に近づいていた。

「走れ! 走れ!」

このままだと、十時過ぎには善通寺に到着することができる。そして父に面会でき、この牡丹餅を父と一緒に食べることができる。

「せんちゃん」もきっとそう思ったに違いない。


その時だった。

一羽の鶏が私たちの運命を変えた。

突然、一羽の鶏が右手から飛び出してきた。

しかし、道幅が狭いので避けようにも避けることができない。

「せんちゃん」は急ブレーキをかけた。

でも、荷の積み過ぎで車が停まらない。

「キー、キー」

刹那!

「ギャー! グゥエー!」

三輪の前タイヤが鶏を確実にはね飛ばした。数枚の鶏の羽が宙を舞った。

急停車したので、私はダッシュボードに強く頭をぶちつけた。

「『てー』、大丈夫か?」

「『せんちゃん』、大丈夫、大丈夫! それより早よ、行こう!」

「せんちゃん」が、そのまま見過ごして、車を走らせていれば事は大きくならなかったのかもしれない。しかし、心優しい「せんちゃん」は、車から降りて成仏している鶏に手を合わせようとした。

その時、右手の細い路地から、初老の男が血相を変えて走って来た。

「おい、お前ら、何してくれたんぞ。よくぞまぁ、俺んとこの大事な鶏をひき殺してくれたわの。さぁ、どうしてくれるんど!」 この人の剣幕は普通の状態ではなかった。常軌を逸していた。飛び出して来たのは鶏の方である。絶対に避けようにも避けることができない。

「せんちゃん」も黙ってはいなかった。

「ほんじゃけんどの、飛び出して来たんは、鶏の方じゃが、絶対に避けることや無理じゃ」 こうなれば、売り言葉に買い言葉である。「お前が、こなな細い道をあなに速よう走るきんいかんのじゃ」

「あのな、この子の父さんは軍人さんでの、十一時までに行かんと、面会させてもえらんのじゃ。ほんで、急いどんじゃ」

「そななん、知らんがい。この子の父親がどうなろうが、わしにや知ったことではないがい」

「『そななん、知らんがい』とはどういうことど。何をうれしげ(偉そう)にいよんど」「お前の、この鶏は毎日、卵産んどるんじゃ。卵一個なんぼするんか知っとるやろう。さぁ、なんぼで手打つんど」

卵一個が二円。現在の価格にして、卵一個が一万円から二万円という、信じられないような値段であった。金の卵を産むような鶏は、超貴重な生き物であった。その鶏をはねてしまったのだから、この人の怒りも分からないでもなかった。

私は、「せんちゃん」の後ろに隠れて震えていた。

ふと、助手席を見るとドアが開いている。

(あれ? なんでやろう・・・)

「せんちゃん」と一緒にドアを開けて飛び出して鶏の方へ走ろうとした時、私は確かにドアを「ガチャン」と閉めた。このことは確実に覚えていた。なぜなら助手席には大切な牡丹餅があったから。

悪い予感がした。

車の所へ戻り、運転台の中を見上げると、人の気配がした。

「誰な? 何しょんや!」私は叫んだ。すると、中に浮浪児のような髪の毛がぼうぼうと伸びている男の子が見えた。年齢は私と同じくらい。

そして、竹皮の包みを開け、その包みを自分の体で隠すようにして、中に入っている牡丹餅を手でつかみ、「むしゃむしゃ」と食べていた。

「おい! 食うな! それは父さんのじゃ」 私ははらわたが煮えくり返り、必死で運転台に登ろうとした。しかし、運転台は高く、しかも足が滑ってなかなか登ることができない。やっとの思いで登り、竹皮を取り上げようとした時、すでに中身は一個しかなかった。

「食うな!」

私が最後の一個を取り上げようと手を伸ばした時、男の子は一個の牡丹餅をさっと握り、運転席の方から軽々と飛び降りた。

そして、走りざま残りの一個を口の中に放り入れて、路地の中に逃げて行った

私は時間のことも心配だったけど、父のためにせっかく作ってきた牡丹餅を、まったく見知らぬ子どもに食べられてしまった方が悔しかった。

(くそー、やられた・・・)

私は大泣きながら事情を「せんちゃん」に話した。すると、初老の男も事の事態が分かったみたいで、「あれはわしの孫じゃ」と言い出した。

「せんちゃん」が事情を尋ねると、私より一歳年下。母親はあの子を産んだ後、産後の状態が悪く亡くなった。そして、父親は徴兵で遠き戦場へ出征しているらしい。祖父一人があの子を育てているのだが、見ての通りの貧困家庭。

「鶏は亡くなったが、牡丹餅を食べることができたのは、ここ数年間なかったようなご馳走にありつけられた」

初老の男の怒りは次第に落ち着いてきたようだ。

しかし、そのようなことは戦後になって私が知ったこと。あの時の私の頭の中は、大切な牡丹餅をあの悪餓鬼に食べられたことで、頭の中はまっ白になっていた。そして、悔しさと辛さと憤りが私の脳裏をぐるぐると回っていた。

「せんちゃん」も、私の事情を爺に話した。

十一時に外地へ出征する父の面会に行っている。そして、あの牡丹餅は父の大好物で、ぜひとも食べて貰おうとわざわざ作ってきた物であるということを。

「ほんだら、また、お金ができたらいつでも来い。それより早よ、父親の面会に行ってやれや!」 と許してくれた。

戦後数年が過ぎて、「せんちゃん」は律儀にも鶏の償いに行ったそうである。あの時の子どもはすでに小学生四年生になっていた。しかし、戦後の混乱で、食糧事情はさらに悪化。ガリガリに痩せていたらしい。そして、我拝師山や讃岐富士を見ては「おにぎり山」と呼んで友だちと遊んでいたそうだ。

それと、父親は戦場から帰らぬ身となっていた。祖父が元気なうちはいいけれど、祖父がこの世を去った後はどうなるのだろうか。

恐らくあの男の子は、戦争孤児という残酷な現実と向き合うことになるのだろう。

どうか強く、生き抜いて欲しい。

その後の男の子のことは誰も知らない。 戦争がすべての運命を変えたと言っても過言ではないだろう。

今考えると、あの子に罪はなかった。


大日峠ですごく長い時間を費やしてしまった。「せんちゃん」の時計を見ると、時計の針はすでに十一時を回っていた。 急がなければならない。 父が首を長くして待っている。「神様、仏様。どうか助けてください」 私は、助手席に座って手を合わして祈り続けた。

十一時半。善通寺にある大日本帝国陸軍第十一師団工兵第十一大隊正門前にやっと到着。

「せんちゃん」はトラックから飛び降り、正門前の詰め所に走り寄った。すると、門衛から数名の兵士が小銃を持って飛び出してきた。私も父に一秒でも早く会いたいと思い、「せんちゃん」の後を追って走った。 小銃を抱えた兵士数名が「せんちゃん」を取り囲んだ。「せんちゃん」は何も悪いことをしていないのに、小銃を突きつけられ、尋問されるような言い方をされた。

「おい、貴様、何の用だ!」

「この子の父親の面会に来た。事情があって遅れてしまった。せっかくここまで来たのだから、どうか会わして欲しい」と願い出た。

しかし、何回お願いしても、一向に聞き入れてくれない。

「ダメだ。面会の時間はすでに過ぎている。

会うことはできない。早くここから帰れ!」 こ の一点張りである。

私は、「せんちゃん」が、「軍の命令は絶対である」と言った言葉を思い出した。

この世には、神も仏もいないのではないか。私は、その場に座り込み大泣きした。

その時である。一人の将校がコツコツという靴音を立てて歩いてきた。 軍刀を手にしている。

「せんちゃん」を取り囲んでいる兵隊たちが、一斉に直立不動の隊形をとり、両手で小銃を体の中央前に垂直に捧げ持ち、将校を直視した。いわゆる捧げ銃の姿勢を取った。

「何事か?」

でもまた事故に遭えば確実に遅れてしまう。 「ハッ!」

速度は上げたいが、上げられない。どうすればいいのか。

兵士の一人が敬礼する。

「参謀長殿。この者たちは、本日出兵する兵士の面会に来たのですが、すでに面会時間が過ぎております」

将校が静かに尋ねた。

「それで?」

「もう面会はできないと追い返しているところです」

「追い返す? 貴様! それでも帝国陸軍の軍人か? 家族があっての軍人ではないか。 軍人たる者、言葉を慎み給え!」

将校が兵士に怒鳴った。

「ハッ! すみません」

兵士は顔色を変えて最敬礼した。

「でも時間は守らなければいけない」

と言いながら、泣いている私の方に顔を向けた。

「そこの娘、いつまでも泣くな。面会したい方は、お前の何になる人じゃ?」

「せんちゃん」が私に代わって、父の名前と所属している部隊名、そして、遅れて来た事情を将校に話してくれた。すると思いも寄らない返答があった。

「ヒトサン、マルマル・・」と言いかけて、「すまんすまん、軍隊用語を使ってもわからんはな。本日午後一時、この門をその部隊が出征していく。この道路の向こう側でいれば、お前の父さんを必ず見ることができる」 そして、将校はしゃがみ込み、私の両肩に軽く手をかけた。

「えっ、おっちゃん、ほんまに?」

私は、嬉しくなって気軽に話しかけた。「これ、『てー』よ。この方は将校様じゃ。位 の高い方じゃぞ」

「いやいや、そんなことはないぞ・・・」 将校は手を横に振りながらも、私の目をじっと見つめた。そして、「大丈夫じゃ」と私の頭を撫でた。

「ありがとうございます」

「せんちゃん」は、将校に両手を合わして丁寧にお礼を言った。

「『てー』よ、良かったの。父さんに会えるぞ」 私も嬉しくなり将校に何度も頭を下げた。ところが、将校から、次のことを必ず守るように強く言われた。

「見るのはいいが、『父さん!』と呼びかけたり、父さんに手を振ったりしては絶対にいけない」

私は「何で?」という顔で将校を見上げると、「お国のために、遠き外地へ出征する兵隊が動揺してはいけないからじゃ。分かったか?」と念を押された。

さらに、「お前は何年生じゃ?」と私は聞かれた。

「一年生!」

私は大声で答えた。

「うーん、なかなかしっかりしている子じゃ。父さんはお国のためにがんばっておられる。

お前も体に気をつけてがんばるんじゃぞ」私に優しい声をかけてくださった。

「はい!」

私にはこの方が校長先生のように見えてきた。軍帽を深くかぶって一見怖そうだけど、本当は心優しい人なのだろう。

「お父さんに何かお渡しするものがあれば、私が必ずお渡しする。何でも遠慮せず言いなさい」

「・・・」

私は言葉に詰まった。

あの時の牡丹餅があれば、渡してもらえるのだが、すでに牡丹餅はない。

「・・・ありません」

「よろしい!」

将校は私のような子どもにまで一礼し、その場から去って行った。

再び、兵士たちが将校に向かい一斉に捧げ銃の姿勢を取った。

「せんちゃん」と道路の向こう側で待つこと約一時間。すでに五百名近い兵士が第十一師団正門付近に整列している。正門からずっと奥に位置している兵舎の扉がおもむろに開いた。

そして、多くの兵士が兵舎から出てきて、庭の前に整列した。 百名ぐらいの兵士が隊列を組む。

全員、重そうな背嚢(はいのう)を背負い、右手で小銃の銃床を握り、銃身を右肩にかけている。

「全体、進め!」

先頭にいる一人の兵士の号令のもと、隊列が進む。

「総員、敬礼!」

両側に立っている上官が号令。兵士全員が直立不動で敬礼。

ついに、隊列が門を出た。

私と「せんちゃん」は父の姿を探すのに必死であった。隊列は幅が五列、長さが二十人ぐらいの列をなしている。父の位置が、私が立っている側ならすぐ分かるだろう。しかし、中の方とか向こう側なら、分からないかもしれない。

「父さん!」と大声で呼び、手を振れば、父なら返事をしてくれるかもしれない。でもそれは絶対に許されない。このことは、将校からきつく言われている。いくら子どもでも、軍人の命令に反すると連行されるかもしれない。私が連行されなくても、代わりに「せんちゃん」が連れていかれるかも。そうなると、大野原に帰ることができない。

私の目で、必死に父の姿を探す以外、なすすべはなかった。

頼れる者は自分しかいない。

隣の「せんちゃん」に話しかけることもできなかった。そういう物見遊山で隊列を見て回るような雰囲気ではなかった。

外地の最前線へ送られる兵士たちの顔は、全員緊張のあまり硬直していた。

ガラスのような張りつめた空気が流れた。

私は必死で父の顔を追った。

みんな同じ顔に見えた。

白黒の活動写真を見ているようであった。しかし、いくら探しても父はいない。

(父さんがいない、父さんがいない・・・)(本当に父さんがいない・・・)

私も「せんちゃん」も焦ってきた。

百人あまりの兵隊たちが、私たちの前を通り過ぎた。

(あの時、将校さんは、「この道路の向こう側でいれば、お前の父さんを必ず見ることができる」と言っていたのに・・・)

もしかすると、今日、外地へ出征する部隊は、父が所属する部隊とは違うのではないか。

それとも父は別の部隊に移り、すでに出征して行ったのではないだろうか。

一抹の不安が私の脳裏をよぎった。

一陣の風が吹き、風が去った。

百人の隊列が過ぎた。

(これですべてが終わった・・・)

私は肩を落としてその場にしゃがみ込もうしとした時のことであった。

信じられないことが起きた。

隊列から遅れること約二十メートル。

たった一人の兵士が胸を張って行進してきた。

(誰だろう・・・?)

不思議な気持ちになり、その兵士を見た。

そのとたん、私の目は兵士に釘付けになった。

(あっ・・・父さんだ、父さんが・・・) 隊列から外れ、父はたった一人で行進して来た。

父の歩き方には特徴がある。

足の挙げ方、手の振り方、その手足の力強さは、まさに豊浜駅で見た蒸気機関車そのものであった。

(父さん!)

(牡丹餅をあげられなくてごめんなさい!)

(絶対に、私の所へ戻って来て!)私は心の中で必死に叫んだ。

その時であった。

きりっと前を見つめていた父の瞳がほんの少しだけ動いた。

父は私を見た。 私も父を見た。

一瞬、私と目があった。

すべてはそれだけであった。

後はゼンマイ仕掛けの人形のように、私から静かに去って行った。

私から遠のいて行く父の後ろ姿は、すでに私の父ではなかった。

父が去った後、先ほどの将校が私の前を通り過ぎた。

私を見て、軽くうなづいた。

後で分かったことだが、あの時の将校は、善通寺第十一師団参謀長、岡田元治陸軍大佐であった。


4.五重大塔

父は南方の戦線に送られたそうだ。

時々、父から「検閲済み」の赤い印が押されている「軍事郵便」が届いた。手紙が届くということは、父は生きているという生存証明にもなった。

「お前たちは、元気に暮らしているか」と私たちのことを案じた内容であったが、今考えると、父が伝えたかったのは「私は元気に生きている」ということではないだろうか。 一九四四年(昭和十九年)十一月私に二人目の弟ができた。

母は、そのことを父に知らせるために手紙を出したが、父からの返事は来なかった。

私たちは毎日、不安に駆られるようになったが、当たらなくてよい予感は当たった。

一九四五年(昭和二十年)四月二十日(金)役場から一通の通知が来た。

母はそれを握り、慌てて母屋へ。

一片の紙切れ。それが父の戦死を知らせる「死亡告知書(戦死公報)」であった。

一九四五年(昭和二十年)七月父が戦地から帰ってくる。家族みんなで父を豊浜駅まで迎えに行った。父は白い布に覆われた小さい桐の箱に入っていた。

私たちは母屋の仏壇の前で手を合わし、母は遺骨箱を恐る恐る開けた。私たちは、てっきり父の遺骨が入っていると思った。しかし、中に入っていたのは、どこにでも転がっているような黒い石ころが一個だけであった。(これは父さんの遺骨ではない。父さんは死んではいない。何かの間違いや。父さんは生きてきっと帰ってくる・・・)

私は母屋を飛び出し、自宅の納屋の中で泣いた。

(なぜ遺骨箱には黒い石ころが一個?)

出征する父を見送ったのが豊浜駅。

戦線から一時帰国する父を迎えに行ったのも豊浜駅。

無言で帰って来た父を迎えに行ったのも豊浜駅。

豊浜駅は思い出を運ぶ駅となった。

一九四五年(昭和二十年)八月十五日(水)日本はポツダム宣言を受諾。

日本は無条件降伏をした。

でも、我が家の戦争は終わっていなかった。まだまだ戦争は続いていた。

いや、我が家の戦争はこれからだった。

戦後の極めて劣悪な食料事情のもと、母の細い肩に、私と弟二人の養育がかかってきた。 復員してくる人たちが多い中、戦死公報は何かの間違いで、父はいつか帰ってくると信じていた。

しかし、いつまで待っても父は帰って来なかった。

そんなある日のことであった。

汚れたゲートルを履き、埃にまみれた軍服を着た男性が我が家を訪ねてきた。私は一瞬、父が帰ってきたのではないかと思い、喜び勇んで座敷に上がった。しかし、振り向いたその人を見た瞬間、私の期待は砂の城のように崩れ去った。 (父さんと違う・・・)

その方は、父と同じ部隊に所属しており、父がどのような最後を迎えたのか、わざわざ我が家にまで報告に来てくださったのだ。 私は母の後ろで正座をして、その方の話しをじっと聞いた。

「ご主人様と私は同じ部隊で戦っていました。昭和二十年一月下旬、アメリカとの激しい戦闘が行われ、我が軍は山中へ撤退しました」「そこで主人は、鉄砲の弾に当たって亡くなったのですか?」

「いいえ、亡くなったのは・・・」

そこで話しが途絶えた。その方は肩を振るわせてその場で泣き崩れた。

母の背中も小刻みに震え始めた。 激烈な戦闘ができるほど、父の部隊には物資がなかった。父の部隊は一旦後退して、日本からの武器弾薬、食料等の補給を待つことにしたそうだ。しかし、補給路を断たれた父の部隊に対して、本土からは何も送られてこなかった。 そして、父たちはジャングルの中を敗走することになった。

父の最後は、フィリピン・ルソン島(現在のリザール州ボソボソ)であった。

死因は・・・

その方が最後におっしゃったお言葉は、

「私たちには食べる物が何もなくなりました。私たちは雨水やトカゲ、ネズミなどで命を繋いでいました。ご主人様は次第に痩せ衰え、栄養失調に・・・」

「ご主人様の最後は・・・最後は餓死・・・」

(餓死・・・?)

私の心の中に「がし」という二文字の言葉が、単なる音として流れた。

あの時、父に牡丹餅をおなか一杯食べさせてあげることができていれば・・・ 父が亡くなって十年が過ぎた。昭和三十年三月二十一日(月)

あの日もお彼岸の中日(春分の日)だった。

母と私、そして、弟二人の四人でお大師さんへお参りに行ったことがある。その頃になると、食糧事情も徐々に回復していた。母は大きい牡丹餅を五個作り、それを竹皮で大切に包み、四人で汽車に乗り善通寺へ向かった。 いつもと同じ参詣コースをたどり、最後に五重塔の下で座って四人で牡丹餅を食べようとした時のことであった。

母は、バックの中から大切そうにハンカチに包まれている物を取り出した。

「母ちゃん、それは何な?」

私と弟たちはハンカチの中身をそっとのぞき込んだ。よく見ると、それは黒い石ころであった。

(あっ、確か遺骨箱に入っていた・・・) 私は思い出した。

母はそれをどうするのかと思っていると、母は、五重塔の床下にそれをそっと置いた。

そして、私たちにこう話し始めた。

「五重塔の下には仏舎利というお釈迦様の骨が置かれとんぞ。父さんは、今日やっとこのお大師さんの胸に抱かれることになったんじゃ。これからお大師さんへ行く時には、父さんの大好きだった牡丹餅を持って行き、この五重塔の下でみんな一緒に食べるんど。きっと父さんも一緒に喜んで食べてくれていると思うけんの。それと『ほやけ地蔵』さんにお参りすることも忘れんとっての」

五重塔の床下にそっと置いた黒い石は何かに似ていた。そして、父の頬っぺたにあんこがついて、みんなで力一杯笑った時の父の顔は、誰かに似ていた。

それからの私は、母の言いつけを守り、お大師さんへ春のお彼岸参りに行く時には、父さんの分の牡丹餅を欠かさず持って行くようにしている。そして、「ほやけ地蔵」さんの何だか優しそうな顔に手を合わした後、必ずこの五重塔の下のこの場所で、みんなと一緒に食べている。 母が亡くなった後は、母の分も作ってお参りに行っている。

今日は、孫とひ孫の美月の三人、そして、私の両親の五人で一緒に牡丹餅を食べる。

もちろんいつも参詣ルートを通り、いつもの五重塔の下のこの場所で。

大きい牡丹餅を五個作って来た。

美月は楽しみにしていた竹皮の包みをじっと見つめている。そして、私がおもむろに開ける様子をしっかりと見続けた。

美月にとって牡丹餅は見るのも食べるのも初めてだ。

「大きいばあちゃん、この黒い物って何?」「これは牡丹餅というおいしいお菓子じゃよ。

美月、『ぼたもち』と言ってごらん」

「ぼ、た、も、ち !」

美月はゆっくりと、大きな声を上げた。

「上手! 上手!」 私は美月の頭を撫でてあげた。

美月は牡丹餅を箸で上手に取り、ゆっくりとかわいいおちょぼ口へ持っていった。

初めて食する物なので、少しの期待と大きな不安が入り交じっているのだろう。

一口、美月がゆっくりと食べる。

あんこの甘さがジワーと口の中に溶け込んで来たようだ。

美月の顔が次第に変化して来た。

美月の目がどんぐりに、そして、顔が満月になった。

「おいチーい!」

美月は牡丹餅を食べながら、私にそっと耳打ちした。

「私ね、小さいばあちゃんがこの前、買って来てくれたハンバーガーより、大きいばあちゃんが作ってくれた、この『ぼ、た、も、ち』の方がだーいチュき!」美月は大きい牡丹餅をまるごとパクッと食べてしまった。

「大きいばあちゃん。もう一個食べてもいい?」

竹皮の包みに残っている牡丹餅をじっと見つめながら言った。

(この二個は、父と母の分なのに・・)

と思いながらも、

「そうやな。まだ二個残っているから・・・まぁ、いいか。美月に食べてもらおうかいの」

「ヤッター、ヤッター」

美月は両手を挙げて喜んだ。

「でもな、今から、大きいばあちゃんが言うように言ってから牡丹餅をもらうんじゃよ」

「いいよ」

「こう言ってな。『大きい大きいじいちゃん、牡丹餅をもらってもいいですか? 大きい大きいばあちゃん、牡丹餅をもらってもいいですか?』ハイ、言ってごらん」

「分かったよ。『大きい大きいじいちゃん、ぼたもちをもらってもいいでチュか。大きい大きいばあちゃん、ぼたもちをもらってもいいでチュか』」

私は腹話術のようなまねをして、自分の口を押さえて、裏声の小さい声でこう言った。

「美月、ええよ。おたべ」

美月が大きい瞳で私を見つめた。

「あっ、大きい大きいじいちゃんと大きい大きいばあちゃんが『美月、ええよ。おたべ』と言ったよ」

「本当? じゃあ、どうぞ食べてもええよ」

「いただきまチュ」

美月は二個目の牡丹餅を食べ始めた。

ところが、あんこが美月の頬っぺたについてしまった。私がハンカチで拭いてあげようと、バックの中からハンカチを取り出そうとしていると、孫がいきなり舌を出して美月の頬っぺたをペロッと舐めた。

「イヤーン」

美月は顔を振った。 かつて娘の私が父にしてあげた仕草を、時代が経ると父が娘にしている。

仕草は変わってもいい。

でも絶対に変わってはいけないこと。

それは絶対に戦争はしてはいけないこと。まさに、不易と流行。

この世には、絶対に変わってはいけないことと、変わってもいいこととがある。

「大きいばあちゃん。今度イッチョに『ぼた もち』を作ろうね」

さりげなく美月が私に声をかけてきた。「ええよ。大きいばあちゃんが作る牡丹餅はプロ級だよ」

この子に、牡丹餅の作り方をなんとしても伝えなければいけない。

それまで、元気に生き続けなきゃ。

こうしてこの世に生を受けた美月は、私にとって「棚から牡丹餅」なのかも知れない。

「ねえ、パパ。あの門までどちらが速いか駆 けっこしない?」

美月が南大門を指さした。 牡丹餅を食べて満足した美月は、体を動かしたくてしょうがないみたい。

「よっしゃ、美月と競争するぞ! 今日は、 手加減なんかせんぞ」

孫が足を伸ばし始めた。

「まあまあ、ぼくよ、美月はまだこんまい子 じゃけんの。わざとに負けてやるんで」 私は孫がまさか本気なのかと心配した。「大丈夫、大丈夫。わかっとるよ。それよりばあちゃん、『よーい。ドン』言うてつか」「はい、はい。じゃあ位置について・・」 父娘が走る位置についた。

私が審判役だ。

「よーい! ドン!」

父と娘が南大門をめざして走り出した。「美月、がんばれ! がんばれ!」

私は手を叩いて、必死に美月を応援した。

走る二人の姿が、私と父の姿に重なった。

おわり



(9)香川近代史研究会自己紹介・取材記録にもどるには次の矢印をクリック

トップページにもどるには次の矢印をクリック