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| 10-1000 宮武 東洋氏 |
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宮武東洋 略歴
官武東洋男は1895(明治28)年、香川県仲多度郡満濃町公文で生れ、幼時を善通寺市で過した。先にアメリカへ出かせぎに出ていた父に呼び寄せられて 一家が渡米したのは1909年、東洋は高等科4年に在学中の時であった。母、兄、弟と東洋男の四人は日本郵船・丹後丸で神戸からシアトルヘ向った。 上陸先をシアトルにしたのは「移民の取扱いが、サンフランシスコよりシアトルの方がよほど寛大だから」という父のアドバイスに従ったからである。 一家はロスアンゼルスの、当時のチャイナタウンで父が経営していた菓子屋「松風堂」うらの住宅におちついたが、程なく店とともに下町のジャクソン街に移った。 東洋男ら三人の兄弟はアメーリアストリート・グラマースクールへ入学した。初日に校長から名前を訊かれて答えると、「東洋男では長すぎるからトーヨーにしたら」 と校長は言い、彼は「よろしけれは……」と答えた。以来、自らも東洋を名乗るようになった。 当時のロスアンゼルスでは東一街とサンビドロ街、それからジャクソソ街周辺に、いわゆる日本人町が出来上っていたのである。 父に呼び寄せられたアメリカで、どんな職業で身を立てたらよいか − 捜し求めるうちに2年が過ぎた。その間、東洋はフレスノの日本人経営の農園でブドウ摘みの アルバイトをして稼いだ。 ロスアンゼルスに帰って、思い屈しながら荷を歩いているとき、突然、脳裡にひらめくものがあり、東洋は思わずひとりごとに、「オレは写真屋になるんだ」。 のちになって彼は写真師になった遠因をこのように語っている。 「私は小学生時代から絵が好きで、将来は画家になりたいという淡い夢を抱いていたが、母に猛反対された。絵かきではメシが喰えない、というのが反対の理由だった」。 絵から写真 − の連想が一瞬のうちに働いたのであろうか。 数分後、東洋は街頭で親しい友人に出会い、早速胸のうちを打明けると、その友人は「それはまったく君の素質に合っている。向う(道の反対側に見えるトモエホテル を指して)の二階でハリー重田さんが写真館を開いていて、写真術講習のクラスもある。重田さんに会ってみたらどうか」と言ってくれた。東洋はその足で重田氏に 会って希望を述べ、講習会に入れてもらうことになった。 ハリー重田はその後、シカゴに移り、ライトと共同で「シゲタ・ライト・フォトスタジオ」という大きなスタジオを開いて成功した。重田の考案した商業写真の方式は 全世界に拡がっている。 東洋スタジオ 1923年9月、28歳の東洋は東一街にあった、その名も「東洋写真館」を譲りうけて一城の主となった。買いとったのが自分の名前と同じ名称の写真館だったのは まったくの偶然だったが、それも幸運のしるしのように、東洋は感じたことだろう。その前年の1922年、彼はひろ子と結婚、1924年には長男アーチー淳文が 誕生している。順風満帆であった。 東洋は、グレソデールでスタジオを開いていた、当時、世界的に有名な写真家、エドワード・ウェストソと親交を結び、彼の指導を受けて写真技術の向上につとめた。 1924年ロスアンゼルスの日系人が集まって開かれた初の芸術写真展で一等賞を得たのも、この精進の現われであった。舞踏家として著名だった伊藤道郎が、 かけ出しの写真家である東洋をハリウッドの有名人に紹介してくれたことも幸いした。1926年、ロンドン万国写真展に出品して入賞、全米各地で開かれる芸術 写真展にも度々入賞するなど、東洋の写真家としての評価はおおいに上った。 しかし、盛業に反して宮武一家の経済的状況は若しかった。東洋の経済感覚はゼロに近かったのである。夫人ひろ子の苦労は絶えなかった。 1932年に開かれたロスアンゼルスオリンピック大会では競技の写真撮影に当っただけでなく、自費を投じて朝日新聞社の報道写真の日本直送の便宜をはかり、 大いに感謝された。この年、母とともに日本へ帰っていた父の病が篤くなった。東洋夫妻は長男と次男バービーを連れて帰国する決心をした。しかし、帰国の旅費もない。 彼は羅府新報社長の駒井豊策や三好峰人らの助力を得て写真展を開き、どうやら族費に足りる収入を得た。しかし、洋上の浅間丸で、一家は「父病急変他界」の報せを 受けたのであった。一家の日本滞在は一年で終った。故郷で写真館を開いて暮そうという東洋の望みは実現しなかった。東洋はとりあえず妻子を残して、再びロスアンゼルス へ戻った。ロスアンゼルスを永住の地と心に決めたのはこの時である。 ちょうどセントラル街角に空店があったのを借り、しまいこんでおいた機材を取り出して「東洋官武スタジオ」は再スタートを切った。こんどの店は地の利にも恵まれて 繁昌した。伊藤道郎が主宰する舞踏団がハリウッド・ボウルに出演して絶讃を博したのもこの頃である。この公演の指揮者として日本から招かれたのが近衛秀麿である。 東洋と近衛との親交はこの時から始まった。伊藤道郎の依頼で公演の写真撮影を引受けたことも、東洋の商売にとって益するところ小さくなかった。 禁制のカメラとラジオ マンザナーでの日々を漫然と過ごすことに、東洋は耐えられなかった。彼はこれまでの多忙にまぎれての勉強不足を取り戻そうと、とりあえず「ブック・オブ・ザ・マンス」 クラブの会員となり、送られてくるベストセラーを次から次へとむさぼり読んだ。 収容所では、当局の方針で各自に適した仕事が割りふられた。東洋は教育部管轄の博物館の、美術部助手というものになり、月給19ドルを支給されることになった。 キャンプ内の最高給ということだった。 マンザナーでの思い出を、のちに東洋が語ったことのひとつに、次のようなことがある。 「私は禁制品のラジオを持ち込んでいたが、ある日、友人がやってきて日本からの短波放送が聴けるように改造できる」といって持ち去った。数日後、返してもらうと、 何と、日本から放送されている戦況がハッキリと聞こえる。 妻のひろ子は毎晩のようにそれをノートし、それを所内の物識りが整理して所内の各所に配る。所内だけでなく、各地に散在する10カ所のキャンプにも配られるように なった。 この事がやがてマンザナーのメリット所長の耳に入ったが、彼は『日本人である以上、日本勝ったのニュースを信じ、喜ぶのは当然だ』と平然としていたという。 私はメリット所長の太ッ腹と見識に感心させられた」。 カメラももとより持込み禁止品だった。にもかかわらず、東洋の撮影は大目に見られたことについては、彼は次のように語っている。 「マンザナ一書察署長はウィリアムという人で、この人はたまたまエドワード・ウエストソのスタジオの常連で、写真術の歴史に詳しかった。そういう縁でウィリアム 署長は私に好感を持っていて、禁止品のカメラで撮影することを暗黙のうちに許してくれたのだろう。キャンプの最高地位にあるメリット氏と法的取締の最高兼任者 だったウィリアム氏の二人が私の違反行為に寛大だったのほ、彼らがいわゆる親日家で知日家でもあったことに因るように思える」。 さらばマンザナ一 例の日本からの短波放送が、8月15日午前8時に重大声明があることを伝えた。友人数名とラジオの前に待機したが何事もない。10分ほどしてアメリカの放送が 日本の降伏を伝えた。「ある者は声をあげて男泣きに泣き、ある者は声を殺して暗涙にむせんだ」と東洋は語っている。 |
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| 10-1001 収容所の入口の標識(1942.冬 撮影) |
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| 10-1002 1943年建立されたマンザナー収容所の慰霊塔 |
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| 10-1003 マンザナーの砂嵐の様子 |
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| 10-1004 四国新聞記事(2009.11.12) |
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| 10-1005 四国新聞記事(2012.04.30) |
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| 10-100A |
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(10)-01-1 宮武東洋の日系収容所の写真 |
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