10-11 宮武 外骨
10-11000 宮武 外骨(昭和 2年撮影)    
10-11001 資料収集を終えて、東京帝大内の「明治新聞雑誌文庫」に戻ってきた外骨(昭和初年撮影)    
”反骨の人”、資料消失に愕然「明治文化研究会」を設立!

関東大震災から一年余りがすぎた大正13年11月、吉野作造(46)、尾佐竹猛(おさたけたけき 44) 石井研堂(いしいけんどう 57)、それにに宮武外骨(57)ら8人が発起人となり、「明治文化研究会」が発足した。

関東大震災によって失われたものは多かった。中でも、吉野ら大正デモクラシーをリードする人々にとつて、明治時代 の貴重なな文献・資料が失われたことの意味は大きく、それはみずからの立脚する基盤が足元から崩れ去るほどの、大きな 衝撃だった。

宮武外骨にとっても、それは同じだった。幸い、上野桜木町の仕事場と自宅を兼ねる「半狂堂(はんきょうどう)」は無事で、 外骨が長年かかって集めた膨人な新開雑誌などの資料も失われずにすんだが、しかし、外骨は震災による被害を取材する中で、 近代の書籍・雑誌・新聞など多くの貴重な資料が消失したことを知り、愕然とする。

こうした危機意識と、その教訓に基づいて設立されたのが「明治文化研究会」だった研究会はその後、講演会や機関雑誌 「新旧時代」の発行を行いながら近代史の資料収集につとめ、その成果として昭和2年、日本評論社から『明治文化全集』 全24巻が刊行される。筆禍による入獄5回、罰金・発禁29回というこの反骨のジャーナリストは、また近代史の資料収集 家であるとともに、優れた研究家でもあった。

宮武外骨は、旧暦の慶応3年1月18日、讃岐国阿野郡小野村(現・香川県綾歌郡綾南町)生まれ。幼名は亀四郎。生家は代々の庄屋で、 父・吉太郎の時代は五百石ほどの小作米があがる大地主だった。

外骨の平等主義と反骨精神は、この家の血筋と言えるのかもしれない。外骨の三代前の当主は、悪代官をたたき斬つたという記録がが あり、また父親の吉太郎は開明家として知られていて、たとえばば被差別部落の人々を、体を張って保護した。こうした家に育った外骨 には、悪を憎む意識と差別を嫌う心が、小さい頃から身についていたのである。

明治15年、外骨は上京し進文学舎(しんぶんがくしゃ)に入学。在学中は新聞や雑誌を読みあさり、投稿を繰り返した。

明治20年4月、外骨は初の雑誌「頓智協会雑誌(とんちきょうかいざっし)」を創刊する。ところが、これが外骨のその後の 運命を決めることになった。22年3月4日発行の第28号に、この年2月11日発布の帝国憲法のパロディーを掲載したところ、 これが不敬罪となり、禁固3年8月の刑に処せられたのである。

「外骨の反権力は、この事件によって火がついたと思います。パロディー化して自分では洒落たつもりだりたのが、不敬罪になったの ですから、心外だったでしょうね。明治34年に『滑稽新聞』を発行しますが、以後徹底的に反権力が貫かれます。

」 外骨の甥で、宮武外骨研究家の吉野孝雄氏はこう語る。

みずからを偉大なる狂人=g常識外れのねじけもの≠ニ称した外骨は、昭和2年、東京帝大内に設立された「明治新聞雑誌文庫」 の主任となり、同文庫の充実に尽力。昭和30年7月28日、生涯反骨を貫いて老衰で永眠しました。88歳だった。

日録20世紀 1924 大正13年 講談社より






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