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人形歓迎会
1927(昭和2)年4月5日の香川新報(現四国新聞)は、「お人形歓迎会・城西校」の見出しに続ぎ「城西小学校では5日午後2時から講堂で、アメリカ人形の歓迎会に併せて雛祭を催し、 高岡校長から日米親善に関する談話、歓迎歌合唱、全校児童の茶話会を開き、人形に供えた紅白餅の会食会食を行ふ。」と報じた。 この年、雛節句の煩から6月にかけ、アメリカから、12、739休もの親善人形が贈られてきた。香川にはその内の108体が贈られてきた。身長42cm、人形を起こすと目を開けて 「ママー。」と声を出した。いずれの人形も着替えの洋服をバッグに入れ、パスポートを持っている。もちろんそれぞれの名前が記入されていた。つまり人形ではなく人間と見立てての人形であった。 人形たちは歓迎会の後、幼稚園、小学校、女学校に、永住することになった。 なぜ青い目の人形が日本に? この頃、アメリカと日本の間には、移民問題をめぐる緊張関係が存在していた。第1次世界大戦後の不況の時代に、日本から職を求めて移民が大勢太平洋を渡った。彼らはアメリカ西海岸で、鉄道 の敷設や農場の出稼ぎ労働者として長時間安い賃金で働いた。このことが結果として白人労働者の賃金を引き下げることとなった。やがて、1924(大正13)年排日移民法が制定され、アメリカ の市民権を持つ二世を除き、日本人の渡航は不可能になってしまった。このことに心を痛めた一人の宣教師がいた。在日25年の経験のあるギューリック博士である。彼は「平和の基は親善にある。 国際親善は子どもの時から……」と全米に呼び掛け、親善人形大使を贈る大プロジエクトを計画し実行に移した。全米で270万人もの人びとが参画し、計12,739体の人形が贈られてきたので あった。 日米開戦と人形の運命 しかし、人形の来日から14年たった1941(昭和16)年、アメリカとの間に戦争が起こる。アジア・太平洋戦争である。戦争がエスカレートするに伴い、憎しみが増幅され人形たちは「敵の憎 い人形」「スパイ人形」として処分されるに到った。焼かれたり、竹槍で突かれたり、棒で叩かれたりしたものもある。筆者は当時児童であった方から、「運動場朝礼の時、校長先生が、『今から 焼却炉で敵の人形を焼きます。よく見ておくように。』といって焼いた日のことが忘れられません。」(本島小)とか「私は当時音楽の教師でした。日本各地で空襲が激しくなった頃、校長先生から 『近くの学校の青い目の人形は壊されている。うちの人形を壊すように。』といわれ、高等科の男子生徒にいって壊させました。」(岡田小)とかの証言を得ている。 戦争は人間から理性を奪い人間を狂気にしてしまう。ものいえぬ人形がもし話すことができるとすれば、おそらくこう言うに違いない。「私は親善人形。戦争は愚かなこと。人と人とは必ず理解し合 えるものよ。国と国でも同じこと。親善がいちばん大切よ。」 青い目の人形からわれわれが学ぶべきものは深くて重い。 (香川県歴史教育者協議会会長 石井 薙大) |
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