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ヨハネス・バールトの記述より
丸亀ドイツ兵捕虜収容所物語』 高橋輝和編著より、 56p〜64p 次はヨハネス・バールトの『青島日記−丸亀で一九一五年一月/二月に記す』の一部である。 我々が今、行進して入った監獄、あるいは日本人達が言う通りの捕虜ホームは大きな本堂と二、三の比較的小さな別棟から成っていた。これらに加えて若干の小さい木造家屋が建てられていて、調理場や風呂場等として使われることになっていた。全ては塀に囲まれていた。 我々は各自一枚のむしろの上に居場所と毛布ニ、三枚、わら枕を貰った。それから、全員が相前後して風呂場に向かい、長く待ち望んでいた徹底的な身体洗浄を行なった。その後各自大きな白パン一切れと玉葱スーフを一皿受け取った。スープは何かのような味がしたが、まあ良い、表現のしようがない。しかし全員美味しかったと見えて、すすったり音を立てたりして平らげるために自分のスープ皿を持ってどこかに腰を下ろしたどの人もその目が輝いていた。 堅い寝床ですら妨げになり得ず、一晩ぐっすり眠った翌朝、我々は六時三十分にラッパの一吹きで起された。 七時に点呼があって、まだ誰も欠けていないことを日本の監視将校達が確認した後に、我々は熱いお茶というものと、各自再び大きな白パンを受け取ったが、パンは昨晩のようにカチカチだったものの、旺盛な食欲で食べ尽した。十二時には又してもパンと玉葱ス−プが出た。午後五時にはもう一度同じものが。これに加えて毎回かの有名なお茶が出たが、お茶本来の味はほとんどしなかった。 晩の八時三十分に再度点呼。その後我々は寝床にもぐり込んだ。翌週以降、来る日も来る日もこうであった。 我々は今や幸いな事に頭上には屋根が、足元にはしっかりした地盤があって、食べる物もある程度は満足できるほどあったのだが、その他の点では石鹸や下着、理髪屋、とにかく文明化された中欧人の生活に必要な物が全部不足していた。 徐々に、我々が日本人に対して全般的にとがめられることなく振る舞ったことによって、商人逢が全ての必要品をもって我々の所へ入って来ることが許されるに至った。 それらの品を、高価ではあったが、我々は購入することができ、それ以来、最大の窮状は過去のものとなった。また少なからぬ慰問小包も到着して、裕福でない者達の間に配られた。今日では、もちろん我々が熱望している自由以外には実際もう何も欠けていないという所にまで来ている。 ほどなく我々はまた自分逮で調理を引き受けたのだが、我々の調理係達は自由に使える僅かな材料でもってどうにか我慢できる料理を作ってくれている。週に二回は近くにある海辺の小さい貧相な公園への行進があり、一日に二時間は我々の監獄の前の通りで散歩をすることができる。そこで丸亀市の住民は我々を見飽きることがない。私はいつも、両側に立たされた学童達が我々に目を見張っていると、動物園のことを思わざるを得ない。 朝、我々若年兵は大抵一時間訓練を受けたり、体育教練や徒手体操をしたりするか、曹長の訓令を一時間じっと聞いていなければならない。 私個人に関しては、ここでの滞在はとても有益であって、これがさらに二、三か月続くと私は従軍義務を立派に果たし切っていることと思う。 ここに滞在した最初の数か月間、私は全く物静かに振る舞ったが、終始調子の良いこの時分に再び徐々に、良いと思われる限り、体操運動等に参加している。 毎晩そうなのだが、今日も私の一日最後の思いは、日増しに我々の神経にさわるこの拘留状態から解放される日が我々の方に今直ぐにでもやって来ますようにという願いである。 このバールトの手記からも自由以外のものは、全て一通りは手に入ると述べられている。 しかしドイツ兵捕虜の全員が熱望する自由を手にするまでには五年の歳月が必要であった。 次に取り上げるのは同じバールトの自伝『極東におけるドイツ人商人として』の中の丸亀収容所に関する部分であるが、先の『青島日記』とは違った側面が記されている。 今や我々の住まいとなった寺院は丸亀(地域)中で最も美しくて、最大の建物であった。我々のような並の兵士は大広間の中て各自睡眠用に一枚のむしろを貰ったが、下士官達は比較的小さな建物が与えられた。本堂の前には広い中庭があって、そこに調理場や日本式の洗面場、風呂場が新設された。大広間の側面には二、三の比較的小さな部屋が作り付けられて、その中で我々は一日中大きな机の側に座っていることができ、食事もした。我々の中の数人は少し料理をすることができた。それで我々は間もなく自分達の食事を自身で調理し始めた。我々は日本兵と同額の給料を貰い、さらには、日本在住の抑留されていないドイツ人達から若干の金銭を貰った。その結果我々は生活するには困らなかった。 幸いにも、いかなる類いの軍事訓練あるいは教練も許されなかったので、自分達の持ち物をきちんとしておくこと以外にする事がなかった。各自月に二、三日間調理場で手伝いをしたり、風呂の水を運んで来たり、あるいは寺院の部屋や庭を掃除したりする必要があった。残りの日々は単に日向ぼっこやトランプゲーム、あるいは何らかの歓談をした。我々の中で中国においてドイツの会社で雇われていた者は抑留期間中、小額の金銭(月に約五十円)を受け取るという嬉しい知らせを間もなく得た。この金銭の一部を我々は、そのような定期的な収入を持たない他の者達に調理場の仕事やその外の事をして貰うのに使った。そうして、我々の内の少数者だけが得た金銭が実際には全員に配分されたのだ。そして我々は直ぐに完全にうまく機能する共同体になっていた。我々は金があれば何でも買うことが許された。我々の望む物は全て調達できた数名の日本人商人が毎日収容所にやって来た。彼らが最もよく儲けたのはビールだった。大瓶が当時は二十八銭だったが、多数の大瓶が毎日空けられた。ビールが我々の通貨単位になってしまって、結局我々はもう何でも瓶入りビールの通貨でしか計算しなくなった。 捕虜のドイツ軍兵士が「日本兵と同額の給料を貰った」というのは、一人一日三十銭分の食事や衣服、寝具等の現物支給であって、捕虜将校のように給料を現金で受け取った訳ではない。先に見たゲルラッハの報告でも取り上げられていた事であるが、勤務先からの給与や家族からの仕送りといった収入源のない若年兵達には、金銭的に裕福な者が簡単な仕事を与えて代金を支払ったという。こうして彼らの中の「少数者だけが得た金銭が実際には全員に配分された」ことによって共同体的な戦友精神が強まったとされる。後に丸亀収容所において全収容所最初の健康保険組合が結成されるのは、このようにかなり早くから相互扶助の精神が収容所中に行き渡っていたからであった。 バールトもまた、メラーのように中国語の勉強に没頭したと述べている。 共用の部屋では誰もが歓談したり、トランプをしたり、酒を飲んだりするので、私は勉強できなかった。それで私は古いビール箱で机と椅子を作り、春にはそれらを中庭の片隅に運んで行って、そこで人に邪魔されずに学習できた。その中庭には低い桜の木があって、開花すると、私は机を樹下に置いて、本を読みふけり、自分を取り巻く世界を忘れた。次第に寒くなると、寺院の縁側の下に引きこもった。 寺院の床の高さは地面から優に二メートルあった。本堂の周囲には広縁が巡らされていて、その下に私は机と椅子を置いた。日に日にさらに寒くなってきた時には、少しずつ空間を畳で仕切り、書棚を組み立てて、最終的にはこの場所を全く快適な書斎に変えた。我々を監視する日本の衛兵達は、この部屋の使用目的が分かると、何も反対はしなかった。私は持ち金のほぼ全銀を本代に使い、中国語を勉強している間に、ドイツ語や英語、フランス語で書かれた中国に関する重要書を全て読み終えた。 ヨハネス・バールト(一八九一年〜一九八一年)は戦前、ドイツの貿易商会の広東(カントン)支店に勤めていた。戦後は神戸の貿易商社に勤めた後、東京で貿易商となって、日本人女性と結婚し、二人の娘をもうけた。彼の人生の最盛期は第二次大戦と重なっていた。一九四一年、商用のためシベリア鉄道でドイツに向かう途中で独ソ戦が勃発して一時捕虜となる。その後釈放されてドイツに帰国したものの日本に戻るには長く待たなければならなかった。一九四四年ドイツ占領下のフランス西部のロリアン港で日本の潜水艦「伊二九号」に同乗してシンガポールに到着する。東京のドイツ大使館で通訳を務めるドイツ人達も同行していた。この潜水航は三か月もかかったが、それはアフリカ沿岸のコースが危険であったため、ブラジル寄りに大きく迂回してインド洋に入ったからである。シンガポールからは日本の軍用機で台北に渡り、そこから民間旅客機で日本に帰還した。その後、日本に向かった「伊二九号」はほどなくしてアメリカの潜水艦に撃沈されたと言われる。彼は戦後、進駐軍より財産を没収され、ドイツへ強制帰国させられたが、五年後には再び日本に戻り、以後終生鎌倉に住んだ(瀬戸『青島から来た兵士たち』も参照)。彼はレアメタル等の輸入を通して、第二次大戦後の日本におけるトランジスター産業の発展に貢献しただけではなくて、ドイツ語の著作でもって日本文化の紹介にも寄与した。 『講談と浪曲』一九二八年 『景清 − 日本史劇の考察』一九三三年 『日本の国民教育に資する文学と演劇』一九三五年 『日本史一覧表』一九三八年 『大和魂』一九四○年 『鎌倉−ある都市と時代の歴史』一九六九年 『鎌倉−市内外の重要礼拝場への道』一九七〇年 『時代の流れから見た日本の演劇』一九七二年 『江戸−日本のある都市と時代の歴史』一九七九年 図版26(五一頁)の中国語授業の講師はハンス・フリードリヒ・クリスティアンゼンであったが、バールトはハンス・ティッテル副曹長から古典中国語を習ったと述べている。戦前、上海のドイツ帝国郵便局に勤めていたティッテルは多くの東洋語をマスターしていたそうである。彼は一九一九年に板東収容所の印刷所から相撲の解説書をドイツ語で出版している。またハインリヒ・グロースマンとの共著で日本の小学校読本のドイツ語解説書(十二分冊)も出したことが知られている。 ティツテルやバールトを始めとする多くのドイツ兵捕虜あるいは元捕虜によって日本の文化や歴史の理解と紹介が熱心になされたことは、その後今日まで続くドイツ人の日本観の形成に大いに寄与したものと思われる。 以上見てきた六人の証言からは、丸亀に収容されていた捕虜達にさほど大きな不満や不都合がなかったように思われる。それどころかバールトは次のようにさえ述べている。 我々が日本に収容されていた長年の間ずっと、我々が同様に友好的に接する限り、全ての日本人は我々に同情と援助を惜しまずに親切心をもって接してくれた。 (『極東におけるドイツ人商人として』) しかしながら、二〇一三年に初めてハンス=ヨアヒム・シュミット氏によって公表されたクルト・ルートヴィヒの日記(ただし一九一五年七月六日までで、七月七日以降は欠落)には次の二件のトラブルが記されている(しかし虐待のような事件の記述は全く見られない)。 一九一年五月十二日、日本人(経営)の簡易食堂で第七中隊付属の一員とそこで働いている日雇い人達との間で争いが生じた。 一九一五年五月二十二日、果物商は値段が高すぎるためにボイコットされた。 簡易食堂でのトラブルは『収容所日誌』にも以下のように記録されている。 午後、俘虜上等兵アウグスト・へーデル、大西一品料理店雇ヒ人高砂政之助卜争ヒ居リシ旨、補助将校大野少尉ヨリ報告アリ。即取り調べタルニ俘虜ヘーデル湯茶貰ヒ受ケノ為、同店ニ至リ、汲ミ取ラントセシ際、右政之助同時ニ茶釜ノ傾キヲ直サントシテ之レニ手ヲ触レタルニ、言語不通ヨリ相互誤解ヲ紹キ争ヒ居リタル旨判明セリ。 収容所管理部は、言葉の相互不通からいつでもこのよう些細な感情の行き違いが生じ、それが重なって大きな騒動になり得ることを十分警戒していたと思われるが、素早く双方から話を聞いて首尾よく事件を収束させている。しかしながら、収容所側が懸命の努力をしているつもりであったにもかかわらず、当初の予想に反して戦争が長期化するにつれて捕虜の間では種々の不満がくすぶり始める。 |