ヨーハン・クロイツァーの記述より

『丸亀ドイツ兵捕虜収容所物語』

高橋輝和編著より、

43p〜47p

ヨーハン・クロイツァー氏の日記

次に引用するのは丸亀に収容されていたヨーハン・クロイツァーの手記の一部であり、ドイツ・フライブルクの連邦軍事公文書館に、本人自筆の原本から他人がタイプ打ちした写しとして保存 されている。この事情は次のように書き添えている。

この記録の元になったアルバーツハウゼンのヨーハン・クロイツァー氏の日記「青島(膠州)における第三海兵大隊第二中隊海兵としての私の軍務期間と日本における私の捕虜生活に関する若 干の事柄」は親切にもクロイツァー氏の身内が閲読のために私に委ねたものである。クロイツァー氏はヴュルツブルク近郊のアルバーツハウゼンが故郷であったが、そこで少し前になくなった。

 一九七五年八月、フェルスバッハ

         オイゲン・ヴェルティ

ヨーハン・クロイツァーについては生年が一八九五年、没年が一九六九年であることしか知られていない。以下に丸亀収容所時代の部分を示す。この時、彼は二十一歳前後であった。

 我々は一つの比較的大きな仏教寺院に収容されたが、第七中隊は我々の寺院に増築されていた、やや小さな別棟に宿営した。仏像は全て彼の仕切りで隠されていた。照明は電気だった。 歓迎の食事はかなり浅い皿に入ったスープと小さな一切れの白パン、ミカン二個だった。八時三十分に晩の点呼があって、日本人将校が我々を数えた。我々の寝床はむしろの上の毛布六枚で、 寺院の床中にむしろが敷かれていた。静けさと正式の収容所が我々全員を大いに元気づけた。やっと我々は再びまともに眠ることができた。

 毎日六時三十分に衛兵詰所の日本のラッパ手により起床。八時に朝の点呼。朝食には茶とパン二枚、昼と夜は同じ玉葱スープで、ひどく乏しい食事だった。そしてこれが四週間続いた。 我々は実際とても空腹にならざるを得なかった。その後は幾分改善されて時折、昼食にジャガイモとほうれん草が出たが、その際ジャガイモは当然、皮ごと腹に入れた。やっと調理場が出来 上がって、そこで捕虜達が食事を自分逢で調理することが許された。調理要員として下士官一名と調理係四名が送り込まれた。こうして我々には今やある程度は十分な栄養補給が保証されて いた。

 その他、収容所管理部は我々に、毎日午前と午後に一時間ずつ寺院の前の通りで散歩をし、週に二回海辺の(中津)公園へ三時間の遠足をすることを許可した。丸亀市と周辺の村々も度々 訪れることが許された。働く必要はなかった。近辺については十分に見ることさえてきなかった。寺院の建物は海岸からほんの百メートルしか離れていなかったのに、二重の非常に高い板囲 いが張り巡らされていたからだ。それで我々はとにかくトランプや読書、物書き、あらゆる種類のスポ−ツで暇つぶしをした。私もその一員だった中隊合唱団は取り分け次のクリスマス祭用 の歌を練習した。日本と東アジアに住むドイツ人らから慰問品、特に毛布や下着、金銭の入った最初の小包が届いた。

 一九一四年のクリスマス。寺院の建物中が厳かに飾りつけられていた。第七中隊の三人の宣教師の一人によってクリスマスイブに、ミサが執り行なわれた。これには収容所長を含む日本の 将校全員と、(塩屋)収容所から歩いて一時間(正しくは約十分)の所にある種物(=浜町収容所)に収容されていた我々の両中隊の将校らも参加した。日本キリスト教連合会から贈られた クリスマスツリーの燃える蝋燭と中隊合唱団の幾つかの歌が祝祭を素晴らしいものにした。ミサの後サンタクロースに扮した一人の下士官が演説をして、特別プレゼントを配った。続いて我 々にプレゼントの分配があったが、これは状況に対応していて、とても豊富なものだった。異数の寺院でのこのクリスマス祭は、我々の人生において恐らく二度と忘れることのない印象を我 々の心に残した。二日目の祭日には我々の中隊による演劇があって、レスリングやボクシング、体操の実演とその間に幾つかの滑稽な余興もなされた。この催しの前後には創設されたばかり の(バイオリンニ、ギター一、アコーディオン一からなる)シュランメル音楽団による演奏があった。

 一九一五年の元日祭は静かに過ぎた。どの捕虜もビールを一本貰った。合唱団は皇帝誕生日の歌を練習した。この日のためにもっと大掛かりな催しが計画されていたが、しかし日本人は全て の祭典を禁止した。同様に復活祭と精霊降臨祭の日々もそっけなく過ぎ去った。この頃には残念にも我々の戦友の一人(アマンドゥス・テンメ)が死去した。彼は、亡くなったロシア兵捕虜ら も横たわっている丸亀近くの墓地に埋葬された。その間に次第に暖かくなっていたので、我々の青服(=ブルーの海兵服)を、日本人から与えられたカーキ服と衣替えしていた。毎日海水浴を した。既に青島でそうだったように、我々はここでも飲み水と生肉には極度に注意しなければならなかった。さもなければ非常に危険な腸疾患が生じる恐れがあったからだ。蚊が多いので蚊帳 の中で眠った。

 丸亀に収容された年のクリスマスを収容所の中で祝うことが許されたのはドイツ兵捕虜達にとっては望外の喜びであったようだが、この喜びはクロイツアーの「異教の寺院でのこのクリスマ ス祭は、我々の人生において恐らく二度と忘れることのない印象を我々の心に残した」という言葉から窺える。収容所側も十二月二十四日は就寝時刻を午後十二時まで伸ばし、朝の点呼を二十五 日からは午前九時に変更する便宜を図っていて、『収容所日誌』の十二月二十五日の記述にも「本日ハクリスマス祭日ナルヲ以テ俘虜一同嬉々トシテ一日ヲ過ゴセリ」とある。

 クロイツァーは好奇心の旺盛な人物であったらしく、また心理的にも余裕があったようで、収容所外に出ることを許された僅かな機会に丸亀の様子をよく観察している。

 一九一五年炎暑の真夏。日本の農民らは収穫時を迎えた。米と秋蒔き大麦が最も重要な穀類として栽培され、さらに養蚕のために桑の木が加わる。穀物の刈り入れと脱穀はとても面倒だった。 この点では日本人は遥かに時代遅れだった。それ以外に浜辺にはさらに多くの塩田があった。そこで彼らは苦労して海水から塩を得ていた。丸亀市における主要産業は団扇と木彫品の製造だった ように思われる。これに関して住民らは全く独特の技能を示した。

 住民の大部分はとても貧しくて、低い木造または泥壁の小屋に住んでいた。窓や戸にガラスはなく、代わりに紙が張られていた。ほとんどの男女はキモノを着ていた。彼らは足に木製あるいは わら縄裂の履物を履いていた。ついでだが、とても美しい女性達がいて、彼女らの変らしい格好や目立つ髪型、色とりどりの衣装が人形のような印象を与えた。さらに言及すべきは、丁重な態度 で、これはこの種の女性にあっては最も大事な事だった。