アードルフ・メラーの記述より

『丸亀ドイツ兵捕虜収容所物語』

高橋輝和編著より、

47p〜56p

アードルフ・メラー著『第一次大戦中の青島守備兵達の運命−私の父の遺品より』の引用

次はアードルフ・メラー著『第一次大戦中の青島守備兵達の運命−私の父の遺品より』(二〇〇二年)からの引用であるが、著者の父、ヴィルヘルム・メラーは丸亀に収容されていた捕虜 であった。彼は一八八四年の生まれで、開戦前は上海で商会の社員をしていた。終戦後ドイツに帰国したが、一九二一年再び上海に戻って複数の商会で働く。一九五〇年にドイツへ強制送還 され、一九六二年に亡くなっている。

 それ(塩屋収容所)は、日本ではかなり有名な、豊かな仏教宗派〔[西]本願寺〕の寺院だった。これが今やドイツ兵捕虜達の「ホ−ム」となった。次の二年半の間。寺院の個々の建物の 間に比較的小さな空間があって、石灯籠や樹木が立っていた。ある空間には井戸と大枝を広げて全てを見下ろす松の古木があった。その大枝は何メートルもの長さがあり、小枝は二メートル 以上の高さて、広範囲に及ぶ桁組みの上に広がっていたので、捕虜達は日陰を恵む大きなパーゴラの下にいるような感じて憩うことができた。  巨大な木造の仏陀からは捕虜の到着前に両目が取り出されていた。

 調和の取れた施設の光景は新設された、約二十メートルの長さの小屋とそのブリキ屋根によって妨げられた。

小屋の内部には幾つもの大釜や竈が備え付けられていた。それは後に約八名の捕虜が調理要員として白い前掛けを着けて働くことになる調理場だった。西洋料理を仕度するために、挽肉機を 含めた必要な調理器具や戸棚、机が備えられていた。

 寺院の建物の中に入る前には長靴を脱ぐ必要があった。床にはむしろが敷かれていた。どのむしろも長さは一.八メートル、幅は一メートルで、くっつけて敷かれていて、各人に一枚割り 当てられていた。それは寝場所、居場所、食事場所、戦友同士のコミュニケ−ション場所にして、長靴をはいた歩哨(=夜間の火の番)のためにも使われた。頭の側にはトランクやその他の荷 物が積み上げられた。その上の方には紐が張られていて、いつも洗濯物が一杯つるされていた。時々掃除が告げられた。その時はむしろに至るまで全てが取り除けられて、一階建ての建物の木 の欄干に掛けられた。

 このように生活空間が狭いにもかかわらず、捕虜達は多種多様な方法で肉体的、精神的に活動するすべを心得ていた。

 彼らはいかなる労働も強制されず、またひもじい思いを強いられることもなかった。一枚の写真では、今まさしく屠殺したばかりの一頭の豚を扱っている三人を笑顔の戦友らが取り囲んでい る様子が見られる。私の父はその下に「エルヴィーラ、最初の豚」と書き記した。それに加えてタイプライターで補足している。「最初の豚は最後の豚でもあった。聖なる境内で動物を屠殺す ることは許されていなかったのだ」。

第三海兵大隊の第七中隊には宣教師が三名いた。その一人、ヴァンナクス上等兵は叙任された牧師だった。一枚の写真は、彼が松の大パーゴラ下の即席祭壇−白い布とその上に描かれた十字架 で被った木箱だが−その後ろで日曜日の野戦ミサを挙行している様子を示している。

 丸亀収容所では海兵のアマンドウス・テンメが死亡した。一枚の写真には彼の新しい墓が見える。それは、花輪がなかったので、大きな棕櫚(正しくは蘇鉄)の枝と白いリボンのついた小さ な花束で飾られている。頭の側には白い墓標の十字架が立てられていて、側面に日本の文字が書かれている。その墓は松の木々の下のどっしりした防御柵の直ぐ側にある。背景では柵の向こう に多数の群集が見える。恐らくつい今しがた終了したキリスト教式の埋葬の見物者らであることは明白だ。どうやら墓は、約千名(正しくは約三百名)の捕虜が滞在していた寺院の施設の直ぐ 外に設けられたようだ(正しくは三.五キロメートル東の陸軍基地)。

 生活態度が良ければ、毎日一時間、寺院の前の通りで散歩をすることが彼らには許されていた。ここで彼らは、又しても大きな、丸太のように太いヨーロッパ人に感心する小柄な現地人らに 出会った。

 このような出会いの頂点は、捕虜達が念入りに、多大な労カをかけて準備した一九一六年(正しくは一九一七年)三月の展覧会だった。彼らはそれを、幾分皮肉を込めて「万国博覧会」と呼 んだ。このために工作を行ない、素人仕事を行なった。道具と材料も並べられた。その結果、招待された周辺住民は外国人捕虜の手仕事の技能に感心し得た。もっとずっと大規模な展覧会を後 に、ここでなされた経験に基づいて板東で組織することができた。

 「居住事情」はその寺院の施設内では大変窮屈だった。しかしながら捕虜らは自分達のために多種多様な活動や娯楽を具体化する点てある種の調整を見出したことが分かる。音楽団が演奏会 を行ない、その際、多数の聴衆はデッキチェアでくつろいだ。他の者らはスカート(=トランプ競技)の輪に集まったり、何度も試みた後にいわゆる体操の模範演技を催し、その際取り分け四 段ピラミッドを見せたりした。 最寄りの寺院、金倉寺(こんぞうじ。善通寺市金蔵寺町)へ連れて行かれる遠足は、捕虜達が収容所のさらに外に滞在できる数少ない機会の一つだった。四国島は、島中に散在していて、日本 の他の地域からの巡礼者に参詣される八十五以上の寺院のあることで知られている。

 私の父は戦友四名と共に、ある捕虜仲間の指導で漢字の授業を受けた。

 ヨーロッパにおける戦況は注意深く見守られた。このために松の枝の下の横木に大きな地図が掛けられていた。彼らは自分達が捕虜であるという事実を毎日毎日− 一切を取り囲む有刺鉄線の 他に −朝晩その都度、命令される点呼によって思い知った。点呼ために「整列!番号!」と命じられるのであった。

塩屋収容所は本来、(西)本願寺派の塩屋別院であるが、十年前の日露戦争時と同様に、捕虜の収容に際して本堂の内陣は板で囲われ、本尊の仏像は捕虜達が起居した外陣から完全に遮断され ていた。従って境内での宗教活動は停止していたものの、外部で活動するために寺院の関係者は別棟の一部にとどまっていた。このことは俘虜情報局の事務官が行なった一九一六年八月の 『俘虜収容所視察報告』の中に「丸亀収容所中…寺院ノ居住者卜俘虜トハ金網一枚ヲ以テ相境ヒスル如キ個所アリ」と問題視されていることから分かる。

 メラーが言うような「巨大な木造の仏陀からは捕虜の到着前に両目が取り出されていた」ことはあり得ない。恐らく事前に行なわれた儀式の「魂(たま)抜き」を適訳が「目玉抜き」とでも 誤訳か戯訳したのであろう。

 塩屋別院の借り上げには収容所から費用が支出されたと思われるが、『収容所記事』にその具体的な金額は記録されていない。しかし付表第二、第三、第四の「開設当時ヨリ大正六年三月迄 二支払ヒタル所要経費」から推定することが可能である。これらの付表によれば一九一四(大正三)年度(一九一四年十二月〜一九一五年三月)の土地建物借り上げ料は八百十円、一九一五年 度は二千三百六十七円五銭、一九一六年度は二千四百七十八円で、二十八か月の合計は五千六百五十五円五銭であったので、1か月の平均額は二百二円である。丸亀収容所では准士官・下士官 ・兵士用に借りた塩屋別院の外に、将校用(後には特殊捕虜用)に丸亀市内の赤十字看護婦養成所跡と事務所用に塩屋別院前の尾崎邸を借り上げていたので、毎月の借り上げ料の半額百一円、 二十八か月の総額の半分二千八百二十八円を塩屋別院に支払っていたと仮定する。これを現在の貨幣価値に換算するために、郵便葉書(当時は一銭五厘、現在は五十二円)と封書の料金 (当時は三銭、現在は八十二円)を採用すると、上昇率は三千四百六十七倍と二千七百三十三倍であり、山手線一区間(当時は五銭、現在は百四十円)と東京大阪間(当時は三円七十銭、 現在は八千七百五十円)の鉄道通貨を採用すると、上昇率は二千八百倍と二千三百六十五倍である。また換算基準を米価に取ると、一九一四年当時の標準米十キログラムは東京で一円八銭で あり、二〇一四年三月三十一日現在で二〇一三年産うるち米十キログラムの平均販売基準価格は東京で二千四百四十六円であったので、その上昇率は二千二百六十五倍となる。この五者の単 純平均値は二千七百二十六である。従ってこの百年問の物価上昇率は大まかに三千倍と考えるのが妥当と思われるので、これによれば塩屋別院への借り上げ料は毎月三十万三千円、総額は八 百四十八万四千円であったことになる。

 塩屋収容所内で一度限りとは言え、豚の屠殺が認められたというのはこのメラーの報告のみであり、証拠の写真もメラー旧蔵のアルバムの中に発見された。塩屋収容所内ではキリスト教の 行事や肉食が許されていたが、さすがに所内での屠殺は、恐らくは寺院側からの抗議があったためか、二度と許可が下りなかったのであろう。

 丸亀収容所での死亡者は、一九一五年六月六日に病死したアマンドゥス・テンメだけであった。『収容所日誌』の一九一五年六月八日の記載によれば、葬儀は丁重に行なわれている。 しかしこの時、火葬にするのか土葬にするのかで収容所管理部は迷った。俘虜情報局からは、将来遺族から遺骨の返還を要請される可能性を考慮して火葬しておくようにとの電報が届いていた。しかし、カトリック教徒である彼を火葬するのは好ましくないという捕虜仲間の意見を容れて土葬することになった。

 図版26(五一頁)の中国語講座で板書されている「人は懶惰(らんだ=怠惰)たるべからず。懶惰はまさに貧窮の先兆なり」はドイツ兵捕虜達が自戒として設けた生活信条の中国語訳であ ったと思われるが、この気概は帰国途中の船内新聞『帰国航』最終号(一九二〇年二月十四日)の巻頭論説「自由に向かって!」の結語に受け継がれている。

 われわれかつての戦争捕虜は、よき先例をもって先頭に立ち、全体に広がっている労働の忌避や享楽欲や道徳的堕落に対して戦う使命を、他の誰にもまして帯びているのである。いやそれど ころか、われわれ全員が欲するのは、ただ働くことだけだ。この意志をしっかりと持ち続け、わが民族を毒している大いなる病には感染しないようにしよう。そうすれば、われわれの捕虜体験 は故郷の幸へと転化するだろうし、我慢と忍耐は生命とカへと変じるてあろう。
(鳴門市ドイツ館史料研究会訳)

図版26(五一頁)に見られるようにメラー達は収容所内で中国語の勉強を始めていた。このような外国語学習は最初に取り上げた手紙の中でも「あちらでは人々が中国語や日本語、英語の授業 に集まります」と報告されており、二番目のノルテマイアーも「僕はその後八時半までロシア語文法を勉強します」と伝えている。ゲルラッハの報告でも「英語やフランス語、日本語、中国語の 外国語コース」が設けられていたとあることから分かる通り、ドイツ兵捕虜の若者達は概して勉強熱心であり、またその知識を持つ年長者達も喜んで指導に当たったようである。丸亀収容所内の 外国語講座や講演会は、松山や徳島の収容所における同様の催し物と共に後の板東収容所で大学教授経験者達が主催する「収容所大学」(ムッテルゼー/ベーア『鉄条網の中の四年半−板東俘虜 収容所詩画集』(板東一九一九年)では戯れに「バンドー大学」と呼ばれている)にまで発展していくことになる。

 ドイツ兵捕虜の「収容所大学」が第二次世界大戦では正規の大学として公認されたという、にわかには信じ難い話を聞いたことがある。筆者のミュンスター大学時代の恩師であった言語学者の 故ヘルムート・ギッパー教授は一九三八年に高校を卒業した後、召集されて兵役に就いたが、一九四四年に北アフリカ戦線で負傷してアメリカ軍の捕虜になり、アメリカ・テネシー州クロスヴィル のドイツ軍将校収容所に収容された。教授は、そこに設けられた「収容所大学」でフランス語・フランス文学、英語・英文学や言語学、哲学の勉強を始め、一九四六年に帰国して入学したマール ブルク大学で本格的に勉学を再開するが、アメリカの捕虜収容所大学での取得単位が戦後、正式に認められたとのことであった。つまりギッパー教授にとっても収容所生活は決して無駄ではなか ったのである。