| <1914年−大正3年> | |
| 7月28日 | 第一次世界大戦勃発 |
| 8月23日 | 日本はドイツに宣戦布告 |
| 9月12日 | 青島(チンタオ)で最初の戦闘 |
| 11月16日 | 青島より俘虜324人(将校7准士官21下士卒296)福寿丸にて門司港から多度津へ到着
塩屋別院、丸亀市船頭町看護婦養成所跡二ヵ所(正式には丸亀俘虜収容所)へ収容 |
| 18日 |
ランセル大尉ならびに高級古参下士ブンゲより四つの願い出あり
(T食事の量を増すこと、U麦酒を飲ませること V酒保を開くこと、W将校には自由に散歩を許すこと) |
| 19日 | 午後3時〜5時酒保を開く。菓子類、果物類、たばこ、ビールなどを販売 |
| 30日 | フットボール1個を支給する−俘虜おおいに喜ぶ |
| 12月 1日 | この日から下士官以下の自炊を許可 |
| 4日 | 将校に給料を支給 |
| 22日 | 丸亀市長の俘虜慰問 |
| 24日 | クリスマスを祝う |
| 26日 | クリスマス最終日、演芸なども行われる |
| <1915年−大正4年> | |
| 1月10日 |
第1回寺院楽団演奏会
(この年、寺院楽団として2回音楽会を開催、その後解散、再結成された丸亀保養楽団によって7回開催される) |
| 2月18日 | 土工器具を俘虜に貸して排水を良くさせる |
| 4月20日 | 健康保全のため平行棒と跳越台を支給する |
| 6月 2日 | 塩屋海岸にて海水浴を開始 |
| 6日 | アマンドゥス・テンメ氏死亡(←十二指腸虫による) |
| 11日 | 小鳥数羽の飼育許可(犬の飼育の記録もあり) |
| 7月25日 | 音楽合唱会を催す |
| 8月27日 | 月例身体検査(体重増加の傾向にあり) |
| 10月20日 | 駒ケ林陸軍墓地へ255名でテンメ氏の墓に墓参 |
| 23日 | 東練兵場で運動 |
| 12月19日 | 娯楽会−こっけい芝居、落語、舞踏、音楽演奏 |
| <1916年−大正5年> | |
| (この年、丸亀保養楽団として12回音楽会を開催) | |
| 2月12日 | 俘虜2人が脱走 翌々日、辻村(山本町)で発見 |
| 4月12日 | 石井彌四郎所長から納富廣次所長に交代 |
| 5月10日 | 金倉川堤防沿いを通って金蔵寺までの往復を遠足 |
| 12日 | 運動会を開催 |
| 28日 | 器械体操を施行 |
| 30日 | 活動写真上映会を開催する |
| 6月 6日 | テンメ氏一周忌のため墓参 |
| 7月19日 |
伍長ヘルマン・スタインメッツ楽器購入のため市街へ
酒保の繁昌はスバラシいものである(中略)俘虜収容所が出来た為丸亀市に 落ちる金は莫大なもので開所以来丸亀市に潤うた金は二十万円以上に達 するであろう(大正五年七月二十五日大阪朝日新聞四国版より) |
| 28日 | 丸亀市長慰問−絵葉書、タオルを寄贈 |
| 30日 | こっけい芝居と室内音楽会を開催 |
| 8月12日 | 俘虜2名が食パン納入商人の製造所を見学 |
| 18日 | 俘虜27名が木工具等購買のため丸亀市に出向く |
| 19日 | 俘虜3名が指物用板等購買のため丸亀市に出向く |
| 9月11日 | 俘虜2名がブリキ細工用材料購買のため丸亀市に出向く |
| 10月 4日 | 大分に俘虜将校7人転出 |
| 9日 | 大阪、久留米、青野原などから俘虜17人転入 |
| 20日 | 丸亀市四国製作品品評会に俘虜8人参加 |
| 21日 | 俘虜エンゲル(音楽教師)+スタイメッツ 丸亀高等女学校にて、試験的に演奏する |
| 11月 4日 | 丸亀高等女学校の書記長谷川音次郎が収容所に来て、俘虜音楽教師について協議 |
| 23日 | 俘虜2名が脱走、翌日 六郷村下金倉海岸で発見 |
| <1917年−大正6年> | |
| (この年、丸亀保養楽団として4回音楽会を開催) | |
| 1月 9日 | 俘虜中の指物師および建築技師2名 香川県立工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)にて技術指導する(この日以降 数度にわたり実施) |
| 2月 4日 | 鞣革(なめしがわ)試作を開始 |
| 3月 1日 | 俘虜5名 菓子製造のため、丸亀市に出向く |
| 10日 | 俘虜製作品の展示会を近くの寺で開催(翌日も) |
| 4月 7日 | 俘虜333人、多度津港から小松島を経て、板東収容所に移転収容される |
| 参考文献:丸亀俘虜収容所日誌−陸軍省 |