(5)-04白熱する和戦の大評定
   月夜に流れる横笛の主は?




5-0401
『明治 大正 昭和 香川県民血涙史』香川文庫 十河信善 編 より

 この日の朝、騎馬に乗り、火事装束に身を固めた町奉行の手の者が、二騎あるいは三騎をもって一隊となり、城下丸亀町、新町、通町、西通町などの辻々に大声を叫んではかけ回った。

 「官軍がきょう、あすにも攻めて来るとは流言である。ただいま大殿様はじめご重役の面面、城内にてご評定の最中、町人どもが騒いでご心配をかけるでないぞ。恐れながらご歴代藩公が領民 をいくつしみ給うたご恩を返すのはこの時じゃ。官軍攻め来る時は前もってお布令(ふれ)を出すによって落ち着いて布告を待て、町民ども、静まれ静まれ」さらに西浜の高橋、お林(はやし=栗林村) でも家財道具を背負い、女子供の手を引いて在郷へぞくぞく避難している者たちへ声をからして「藩庁を信頼して引き返せ」とくり返した。

 この日、官軍の大部隊が京、大坂から海上を押し渡り、お城下を奇襲するとの流言が飛び、城下は騒動して、われもわれもと避難をはじめたのである。そこで藩庁は一部の藩士をわざと下城させたので、 町民ども騒動は一応おさまった。

 この騒ぎを鎮めるのに手間取り、城内重役の評議は人数がそろわず、夕刻近くになって開かれた。藤沢南岳の示した降伏和平論に対して執政間島沖、家老矢野織部(やのおりべ)芦沢伊織(あしざわいおり) 小夫兵庫、小河又右衛門、堀多仲(ほりたちゅう)らの官軍迎撃篭城の主戦論がまっこうから対立し、はじめから息づまるふんいきとなった。

 藤沢はまずふところから一通の手紙を取り出した。
 「官軍参謀、大山格之助殿にあてた小生よりの書面の写しです」
 正席にいた大老大久保主計(おおくぼかずえ)がこれを見ると、だまって間島執政に渡した。読む間島の顔が怒りで真っ赤になった。
 讃岐守朝命に敵し候段、大罪これに過ぎず、しかれども奸臣両三輩より起りしことゆえ、私ども早々まかりくだり、伏罪仕まつりたく(中略)この儀異論あり即決なく候えばすみやかに切腹 仕まつり候 頓首死罪
  正月十日              藤沢恒
  総督参謀 大山格之助様

 南岳は父の門弟の高鍋藩士を通じ、薩藩有馬新七(ありましんひち)と面接し、そのとりなしで大山格之助に書面を出し、裏づけとして、伏見事件の指揮官小夫、小河家老の首を届けることを 約束した。切腹覚悟の独断専行だった。

 南岳は漢学者として有名な藤沢東がいの子である。東がいは香川郡安原中村(塩江町)の百姓の子だ。同郡横井村(香南町)の学者、中山城山がフロにはいっていると外で難解な詩を 読み上げている者があり、驚いて飛び出してみると、近所の九才になる子守であった。城山が弟子に教えていたのを暗記していたのであった。これを内弟子にしたのが東がいだ。三十一 才で早くも大坂に出て塾を開いた。豊岡藩主松平飛騨守、尼崎藩主松平遠江守、砲術家高島秋帆(たかしましゅうはん)らはその門人である。柴野栗山(しばのりつざん)=牟礼町出身 =は幕府に仕え、いまでいえば東大総長になったが、東がいは幕府の朱子学派と反対の復古学派でいわば関西随一の私立大学の学長であった。先年、東がいの生誕地に“春色新”の石碑 が立ち、曽孫にあたる作家、藤沢桓夫氏も除幕式に列席した。

 さて、この書面をみて、平生は口数の少ない小夫兵庫がまず口火を切った。時に四十二才、温厚な落ち着いた性格だった。

 「われら幕府歩兵奉行、佐久間近江守(さくまおうみのかみ)様に従い輜重(しちょう)の警護をつとめ前軍の交戦によってやむなく発砲したのみ。賊名をわれに課するは薩長の陰謀じゃ」 「錦旗に発砲したといわれるが、錦旗はいずれにおわしたのか。われらの目には一向につかず、賊名をこうむるいわれなし」

 若い又右衛門は叫んだ。彼はフランス式のだんぶくろの黒のつめえり服に白木綿の帯を二重に回して大小を差し、白いねり絹に雲龍をえがいた陣羽織姿が、二十七才の若さによく似合った。 青白く緊張した顔がいっそうりりしく見えた。名門小河家のムコに見込まれて家中一の美女の養子になり、慶応二年八月、二十五才の若さで家老に抜てきされた藩中切っての俊秀であった。 やがて評定の部屋の外から
 「一戦を交えて義を正し、正を主張するは、武士の道でござるぞ」「断固戦うべし」「やれやれ」ワーッという声が上がった。障子をあけるといつの間にか、武装した藩士が月夜の庭に 一面つめかけ、評定のなりゆきに耳をかたむけていた。これが、たまらず気勢をあげたのであった。

 「われらにも評定の席の片すみをお貸し下され」と口々に叫びだした。このため十三日の深夜、評定は大広間に移され数百人の藩士がつめかけた前で続行された。南岳の横にいつの間にか 白髪の白いあごひげをはやした老人がつき添っていた。高松藩勤皇派の大物で、安政の大獄では江戸伝馬町の牢(ろう)で吉田松陰(よしだしょういん)と隣合わせになり、松陰を激励した という長谷川宗右衛門(はせがわそううえもん)であった。彼の名は西郷隆盛の交友録にも、松陰の留魂録(りゅうこんろく)にも出ている。桜田門の変で幽閉を解かれ、書院番頭五百石に 復職していた。

 月が高く上がり、白く浮かび出た天守閣が、この夜はかがり火にうす赤く染んでいるが、五番丁の小河家からは手にとるようにみえた。髪を男まげにゆい直し、ろう城にそなえ家のなかを 片づけ、火事装束の又右衛門の妻、種は縁先から天守を仰いで眠られぬ夜を立ちつくしていた。夫の首がかかった評定とは知らず、しかしなにか胸騒ぎがしてならなかった。

 この時、じょうじょうとした横笛の音が石清水八幡の方から流れてきた。この藩の重大時に、ゆうゆうと笛を吹くのはだれか。十三夜の月に笛をたむけるのは城南宮脇村、亀阜荘に住む、 藩主の公族、松平左近頼該(まつだいらさこんよりかね)であった。九代藩主頼儀(よりのり)の総領(長男)に生まれたが、父が愛妾、お時の方の色香に迷い、その子の弟頼胤(よりたね) に藩主をゆずり、三千五百石の捨て扶持(すてぶち)で隠居させられた。が、法華経と芝居に明けくれながら天下の志士と交わる怪傑、横笛の名手でもあった。  




5-0402

トップページにもどるには次の矢印をクリック