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(5)-05深夜に松平左近が登城
伊予路に土佐軍二六○○人が到着?
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『明治 大正 昭和 香川県民血涙史』香川文庫 十河信善 編 より
城内大広間には、十三日夜以来、三日三晩ぶっ通しの大評定がつづき、ついに十六日の夕刻を迎えた。居ならぶ重臣、藩士の面々には、あるいは緋おどし、 もえぎにおいおどし、あるいは、紫裾濃(むらさきすそご)など、思い思いの家重代のヨロイをまとい、時代おくれながらその姿は絵巻物のように美しい。 そのなかにフランス式の近代調練を受けた銃士隊の士官は黒のだんぶくろに、色とりどりの陣羽織を着ているスマートさが目立った。 しかし、どの顔も目を血走らせ、不眠不休で興奮し切っている。そのなかでただ一人、黒紋付きの羽織ハカマ姿の藤沢南岳の姿が武装した重役連にとり囲まれて 異様であった。 「あなたがたは、この辺地にあって時勢の移るのを知らない。江戸日本橋の水は英京ロンドンに通じておる。内憂外患ともに来る時、国内で兄弟垣(かき)に せめぐごとき内乱をいたす時期ではござりませぬ。私情において忍びざるも責任者を処分して降伏し、十二万石の城地、人民を救うのが、この際とるべきただ一つ の道ですぞ」 くり返して説く南岳のことばは「断固戦うべし」「官軍なにするものぞ。われらの英公(初代頼重)以来のご親藩のはなばなしい最期を見せようぞ」「丈夫は玉砕 あるのみ」などと叫ぶ多数の藩士の声に打ち消されてしまうのだった。降伏を説く南岳も、主戦論の又右衛門もともに二十七才の若い命をかけていた。 「家老の首をさし出してお家安泰をはかったとなれば、末代までの恥じゃ。もはや一戦のほかあるまいのう」 大老大久保主計が、大きなた吐息をついた。又右衛門はすかさず 「西は郷東川をもって一線を画し、東岸に銃隊を伏せ、西方寺山中に大砲をかくし迎撃いたす、南より来れば仏生山法然寺、由良山に兵を伏せて迎え撃つ。さらに 市内の鍵の手の辻辻、寺々に銃士を伏してねらい撃てば城に着くまでに半数はうち取れましょう。われら伏見表において大砲、銃隊の威力を目のあたりに見ましたぞ」 「されば用意の図面を」執政、間島沖がさし図して大きな地図をとり寄せ、作戦評定にとりかかった。 「もはや、これまで。時勢を解せず、あらた十二万石の名城も見おさめか」 南岳は、こうつぶやくと、すくっと立って控え部屋に退いた。腹をくつろげ小刀に手をかけた時、 「待て南岳、まだ腹を切るのは早い。このうえは城南亀阜荘にはせつけ、宮脇公の出馬を願うほかなし」 「おお、それではちっ居中の宮脇公のご出座を」 「うむ、しばし切腹は待て」 南岳をたしなめると、六十六才の長谷川宗右衛門はおっとり刀で曲がった腰をのばして走り出た。 |
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