塩飽史
『塩飽史』
江戸時代の公儀船方
吉田幸男 著 より



3. 江戸時代初期の塩飽  

 慶長5年(1600)9月15日、関ケ原決戦の時、塩飽年寄、宮本伝大夫は堺湊に待機し家康勝利の 報に接すると即座に琵琶湖東岸草津に徳川家康を待ち構え大名よりも先に戦勝祝いを述べ領地安 堵を願い出た。家康は上機嫌で朱印状は大阪城にて渡すと述べ、約束通り13日後の9月28日、大 坂城にて受領している。塩飽は徳川家康の求めに応じ、瀬戸内海各地、大阪湊で諜報活動を行い、 瀬戸内海を渡ってくる西軍の兵力、規模等詳細に徳川家康に通報していた。関ケ原の戦において 水軍を持つ有力大名はすべて西軍についており東軍は塩飽だけで家康も素早く朱印状を用意して いる。以前より家康との関係は駿河風土記には天正元年(1573)天竜川の渡しに塩飽を呼び寄せ たとの記録が残っている。

 徳川家康よりの朱印状は豊臣秀吉からの朱印状と同じ内容で塩飽船方650名に塩飽の島々の 領有と統治を認める内容であった。塩飽島中は豊臣家からひき続き徳川家の公儀船方となった。

 塩飽検地の事
一、弐百弐拾石 田方屋敷方
一、千参拾石 山畠方
合千弐百五拾石
右領地当島中船方六百五拾人に先判の如く下され候之条、配分せしめまったく領地すべき者也
 慶長五年九月二八日 家康朱印      小笠原越中守之を奉ず

 小笠原越中守は家康の実子で徳川家の船手組を統括していた。豊臣政権から続く領地安堵の朱 印状を得て塩飽は公儀船手組配下となった。のち、小笠原越中守は切支丹で家康より追放処分を 受け、豊臣方に迎えられ大阪城に入り大阪夏陣の後、行方不明となっている。秀吉時代と同様、 塩飽は自らの領地所有が認められている。塩飽では船方650名を人名と呼び、朱印状に記された 塩飽領1250石を共有し自治を許され無年貢地の特権と加子浦として周辺海域の領有、漁業権利 等すべてが含まれていた。島の統治に必要な税を徴収し公儀に納める必要はなく裁判権、徴税権 まですべて認められ、明治維新まで変わることはなかった。塩飽統治は年寄と呼ばれる最高責任 者によって行われ正式役職名は「大阪船手組塩飽島役人」もしくは「大坂船手組塩飽島代官」で ある。公儀による塩飽支配は書状をもって行われ、塩飽では650名を人名と呼んでいるが塩飽以外 では出てこない名称である。徳川家の高官達が塩飽をどのように見ていたかを示す文書が残って いる。寛政11年(1799)11月、大阪東町奉行水野若狭守忠通から塩飽に出された文書である。

 「塩飽島の儀は渡船要用の勲功をもって歴年御役水主650人に御朱印下され、貢とて納める 事なく、作物収納高も総島公用その他、島中物大払方に割符致し、有り余る時は650人の水主人 別に配分し、まったく作り取りにて、百姓の身分にたぐり稀なる規模の至り有り難からずや。 しかる上は島中一同その冥加を存じ、後年船方御用筋は勿論、御下知の品違背なく速やかに励 み勤むべき事、、、。」

 以下延々と続いているが公儀における塩飽の役割が良く分かる。完全なる無年貢地でたとえ 剰ったとしても上納することなく自らの収入にして良いとして、一方において公儀御用の船方を 務めよとしている。通常の加子浦が居住地近隣での役務のみであったのに対し、塩飽は日本全国 に及んでいた。

 塩飽支配変遷
松井友閖     (信長時代、堺代官)
小西行長     (秀吉時代)
福島正則     (秀吉時代、朝鮮出兵当初)
寺沢志摩守    (秀吉時代、唐津城主、長崎奉行、朝鮮出兵時兵站担当)
石川紀伊守    (秀吉時代、淡路島代官)
小笠原越中守   (関ヶ原の戦い以降、徳川家船手組、家康の隠し子で切支丹、徳川家放逐)
小堀遠州守政一  (備中松山藩主、伏見奉行)
大阪町奉行    慶安元年(1648)より 曽我丹波守 小沢民部丞(大阪川口奉行)
大阪川口奉行   寛文5年(1665)より船手組支配 大橋与三右衛門他
大阪代官     松村吉左衛門 万年長十郎 小野朝之丞 長谷川六兵衛     
松平讃岐守    宝永4四年(1707)より正徳3年(1713)まで
大阪代官     高谷太兵衛 桜井孫兵衛
勘定衆      享保3年(1718)より 鈴木運八郎 佐藤甚右衛門 他      
大阪代官     享保5年(1720)より 間宮三郎左衛門他
大阪川口奉行   享保6年(1722)より 松平孫太夫 永井監物 菅沼左京 朽木修理   
大阪町奉行    寛政8年(1796)8月より大阪東、西町奉行 幕末に至るまで不動。

 塩飽は石高1250石、面積は20平方キロ以下で、中心となる塩飽島は6平方キロである。 同じような加子浦、公儀支配所では小豆島がある。小豆島は石高3696石、面積は周辺島嶼 を含め165キロ平方と広大であるが無年貢地の権限は認められていない。塩飽に領地を与え日 本最大の輸送船団を手中にする事ができた事は安い買い物といえよう。

 徳川家康よりの朱印状は豊臣秀吉からの朱印状とまったく同じ内容で船方650名に塩飽の 島々の領有と統治を認める内容である。秀吉と家康の朱印状が同じ内容なのは家康が関ヶ原の戦 いに勝利し実権を握ったものの形式上は豊臣秀頼の家臣で秀吉の朱印状を完全に無視する事はで きなかった。

 寛永12年(1635)武家諸法度が発布され大船建造禁止令により大名の兵船は淡路島に集められ 破却となったが塩飽の船は対象外であった。禁止令は櫓で進む兵船が対象で、帆のみの輸送船は 対象外であった。大船禁止令で大名達がさしだした兵船を江戸に運んだのも塩飽であった。

兵船を持たなかった塩飽は対象外で公儀船方として厚い保護も受けていた。公儀御用の時は食米 として1人あたり1日2升もしくは1升の米を支給されるのみであるが公儀支配所や藩の荷物を運ぶ 事ができ、参勤交代が始まり九州、四国の各大名からは瀬戸内海渡航依頼が塩飽にもたらされている。

当時、瀬戸内海を大名の格式のまま移動できる船を持っていたのは塩飽船だけで各藩は御座船と 呼ばれる大名や側近の乗る瀬戸内海渡航の船は持っていたが荷物や大勢の家来達の乗る船は塩飽 に依頼してきた。年に1度か2度乗る為の船や水主を抱える事は無駄であった。佐賀藩の瀬戸内海 渡航時における北九州の本陣は塩飽屋である。北九州大里や、豊後杵築には塩飽屋が軒を連ねあ らゆる階層の瀬戸内海渡航に応じていた。両地とも小笠原藩で藩主は共に譜代大名で兄弟である。

大阪へ船で入る場合は大阪川口奉行の御裏判が必要でこれらの処理も請け負っていた。塩飽の 人々は大阪船手組役人配下で大阪港入港手続きも便宜が図れたと思われる。北九州大里は瀬戸 内海渡航の拠点で藩主小笠原家は譜代大名で九州大名の監視役を務めていた。北九州小笠原家 の実弟が藩主を務める杵築藩も九州全域、長崎奉行を含めすべての大名を取り締まる目付を兼 ねていた。島原の乱でも江戸から板倉重昌、松平伊豆守信綱到着以前は杵築藩主が軍監、総目付 を勤めていた。

 塩飽の公儀御用

 慶長11年(1606)小堀遠州守政一と子息が諸国巡見使として塩飽島来島の折は41人が12日間出役、 巡見船の御役水主を勤め1人1日2升宛受け取っている。諸国巡見使はこの時より延宝年間(1606〜1681) まで続いている。御役水主は数10名から100名を超える時も1人1日1升の扶持米の時もあった。同年、 備中連島(現岡山県倉敷市)より米、木材、鉄材を大阪まで運送している。

 慶長11年〜元和8年(1606〜1622)江戸城修築の時、堺より江戸へ瓦を20隻の船で運送している。 江戸城西の丸修築の折り、木材を大阪より江戸へ運送している。さらに伊豆半島で採石した巨石を 江戸へ船で運んでいる。江戸御普請のとき塩飽船20艘に堺より土瓦を積み江戸へ相まわし申候御事 西ノ御丸御普請のとき塩飽船13艘に御用木積、江戸へ相廻り候御事

 元和元年(1615)大阪夏の陣前後、備中より兵糧米を堺まで廻送し、同地に停泊し海上警 護についている。

 元和5年(1619)安芸国藩主、福島正則移封となり広島城受け取りの上使2人を送り届ける為、 大阪より安芸まで塩飽船40隻を出している。福島正則は剛直な人と知られ、城を明け渡すのを拒み、 戦になった場合に備え塩飽水主に1尺8寸(約50センチ)の刀を持たせて広島宇品へ出発し無事役目を 終えている。

 寛永9年(1632)5月22日 肥後藩主、加藤清正の子、忠広は江戸参府を命じられるも品川宿で止められ 上使、稲葉正勝より出羽庄内への移封を命じられている。塩飽は熊本城受け取りの上使、稲葉丹後守一行 の瀬戸内海渡航を命じられ、水野日向守(備後福山城主、妹は加藤清正の妻、熊本城受け取り役)の命に より加藤家移封荷物を羽州鶴岡まで塩飽船70隻でもって運んだと記録されている。寛永10年(1633)讃岐 の領主、生駒家で御家騷動か起こり、公儀より移封の処分を受け、生駒家は出羽国矢島へ配流となった。 公儀より高松城受け取りの為、上使青山大蔵一行を大阪より高松まで送迎している。37日間、約300人を 用立て1人1日1升の扶持米であった。

 寛永12年(1635)大阪川口奉行小浜民部丞は上使の瀬戸内海渡航を塩飽島中へ「肥前島原にて切支丹共 狼藉につき大船24隻を用意し大阪より九州まで上使板倉重昌を送り届けよ」と命じている。寛永14年、 肥前国島原の郷民一揆の節、御上使、板倉内膳様御下知うけ塩飽船25艘に大坂より御陣道具をつみ、島原へ 相届け右の船数のこらず彼地に相つとめ一揆落城まで御用とどこおりなく相勤め申し候御事

 塩飽は24隻の船を用意、上使一行と戦陣の道具を北九州まで届けている。乱後の処理に対応する上使、 松平信綱一行を九州まで送り届けるよう命じられている。信綱は12月15日、伏見を船で出発されたとの 報が届き、17日大阪城御到着、19日大阪湊を御出発、無事北九州まで送り届けている。寛永12年(1635) 11月8日より最終的に島原の乱の収束した寛永13年(1636)2月23日までに35隻の船と391名の水主を動員し ている。水主1人1日あたり2升の扶持米を受け取っている。島原の乱は終息に時がかかり塩飽の船方が活 躍、上使一行の人員だけではなく陣立て道具として武器、弾薬、兵糧の輸送を行っている。塩飽船は別々 の時期ながら板倉重昌、松平伊豆守信綱両名の瀬戸内海渡航日数は同じ9日である。

 寛永13年(1636)江戸城修理用の材木、神社仏閣の建設用に用木の運送を行っている。

 寛永17年(1640)板倉殿より荷船3隻に船方41名乗り組み大阪より江戸まで運送を命じられている。

 寛永17年(1640)小浜民部丞預かりの旧島原、松倉氏所有の高来丸、薬師丸、福徳丸の没収船に材木を 積み大阪から江戸に運送し、塩飽水主41名乗組水主1人1日1升の扶持米を受け取っている。

 寛永19年〜延宝6年(1640〜1678)毎年2回、公儀目付の瀬戸内海運送を命じられ、役水主200名が動員さ れている。扶持米は1人1日1升であった。寛永年間(1642)から40年間、公儀の目付一行を大阪より九州ま での送迎を命じられている。期間は年に2回、毎回人数は相違し1回あたり200名程で1人1日1升の扶持米で あった。

 長崎奉行瀬戸内海送迎

 承応3年(1654)より長崎奉行の瀬戸内海渡航が塩飽の役目となり通常は秋に行われるので秋御用と呼ばれ ていた。最初、長崎奉行は1名であったが2名、3名、4名と変遷し最後は2名となった。2名の奉行は1年交代で 江戸と長崎に詰め、毎年8、9月頃に交代した。塩飽の水主により大阪より北九州まで送り届けそのまま待ち、 交代した長崎奉行を乗せ大阪まで送っていた。秋になると公儀より必要な水主の人数が伝達され塩飽島中の 年番より各浦の庄屋に動員の数が示され自浦で人数不足の場合は他浦より雇って調達した。総支配の年寄一人、 水主引廻(船頭)の2人が責任者で水主は数十名から百数十名程で決まっていなかった。大阪御船倉に陸揚げ していた船を下ろし、送迎後には御船倉に陸揚げしてから塩飽に帰るのが常であった。船は公船で「万歳丸」 と「姫路丸」が使われ「御貸し船」と呼びこれに水船が1隻もしくは2隻伴走するのが通常であった。期間は おおよそ60日前後で、公儀よりは水主1人あたり1日米1升が支給されるが米は一括して年寄が受領し換金して 塩飽島中に納めた。水主達には銀百匁(約11万円)が塩飽島中より支給されている。宝永元年(1704)には 御役御免となり九州の藩が代行する事となった代わりに毎年、4貫600匁(約500万円)の銀を納める事となった。 根拠は元禄13年(1700)から同17年(1704)までの9回分、期間は春秋2回行われており平均、1回分の賃金 6貫270匁(約700万円)より扶持米の売り払い料金3貫950匁(430万円)を引いた額を支払っていた。 享保5年(1720)には再び長崎奉行送迎は塩飽に命じられる事となった。公儀御用といえども1人1日1升では 採算とれる訳なく再三にわたり公儀御用辞退の願いを出している。以下は与島、岡崎家にのこる秋御用の詳 細である。  寛政元年(1789)、長崎御用 加子支配 宮本伝之助 8月1日 島出船
 御下向 永井筑前守様、帰府 水野若狭守様 加子賃銀110匁(約12万円)宛渡し候、11月11日、加子罷り 下り。御公儀船頭衆両名肴代として銀10匁(約1万円)遣わし候。
 寛政3年(1791)は御下向 永井筑前守様、帰府 水野若狭守様、両所様陸路にて罷り成り公船出ずとある。 瀬戸内海の船旅を避けているのは船酔いの為か。
 寛政9年(1797)閠7月、御下向 松平石見守様、帰府 平賀式部様
 加子58名、差し登り仰せになり御公船1艘、加子着揃いは24日までに登りの事。加子支配高島惣兵衛、世話役泊浦、 各々閠7月20日島出船、25日川人、8月1日、御船乗り込み、15日大阪出船、28日小倉着、9月4日御暇でる。 7日小倉出船、20日下津井滞船。25日大阪川人。10月1日、御船登り。3日加子暇でる。5日川うけ、16日加子下る。

 朝鮮通信使の送迎

 塩飽は朝鮮通信使一行の備讃瀬戸通過における安全確保の為、番船を出すように命じられていた。下津井と櫃石島 間は下津井瀬戸と呼ばれ特に難所で通過時には塩飽より番船数隻を出し警備していた。第9回以降朝鮮通信使来日で は上記の塩飽海域での番船警備以外に大阪より伏見までの淀川の通行を命じられた。淀川の川船の運航は塩飽では できず日頃従事している川人足を多数雇用しなければならなかった。約3500名を雇い入れ、塩飽の衣装を買い揃 え運航管理を塩飽島中がしなければならなかった。宝暦14年(1764)、朝鮮通信使の船団は6隻で対馬藩の船40隻が 随行し、一行は大阪尻無川河口で下船し川船に乗り替えている。尻無川は別名、唐人澪と呼ばれ朝鮮通信使が通る川で、 川筋には公儀御番所や御船蔵が並んでいた。金箔で飾られた7隻の川御座船に乗り替え京に向かって登る。塩飽の朝鮮 通信使の公儀御用は第9回の享保4年(1719)、第10回寛延元年(1748)、第11回明和元年(1764)の3回で第12回は中 止となっている。享保年間、第9回の塩飽の支出は5671人を雇い入れし10回目は銀38貫(約4200万)、第11回は3500名 を雇い銀40貫(約4400万)の支出であった。公儀御用として塩飽に支給されたのは1人1日1升の扶持米であった。 明和元年(1764)、塩飽が担当した朝鮮通信使の接待中に事件が起こっている。対馬藩士通詞鈴木伝蔵が朝鮮通信使、 崔天淙を剌殺した。崔が紛失した鏡を鈴木が盗んだと思い、ムチで打ち、鈴木は槍で刺し殺したものである。 朝鮮通信使の蛮行はいたるところで記録されている。

 朝鮮紀行 イサベラ、バード著 明治27年(18994)。
 「半島の災いのひとつに、両班と称する特権階級の存在がある。地方旅行は大勢の御供をかき集められるだけかき 集め引き連れていく事になっている。従僕に手綱を持たせ馬に乗るが両班に求められるのは究極の無能さ加減である。 従者達は行く先々で住民を脅して、飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。」朝鮮通信使は朝鮮で行う一般的な事を 日本で行った為に殺人事件となった。朝鮮では両班は公然と盗みができるのである。戦後処理が徳川政権下で行われた。 朝鮮側は当然として日本が連れ帰った人々の返還を求め応じている。朝鮮陶工達に帰還の有無を尋ねると全員陶工達は 朝鮮に帰るのを拒否している。朝鮮では陶工達が作陶に失敗すればムチでもって叩くのが習慣であった。異国であって も大切に扱われる日本での生活を選んでいる。対照的に儒者も多く日本に連行したが返還交渉ではムチで叩かれない層 は朝鮮に帰ると希望し送り返している。

公儀は朝鮮が貢ぎ物を持ってくる外国として優越感だけで過剰に朝鮮通信使を優遇し、対馬藩は朝鮮人参の利益確保 する必要があった。江戸時代後期には朝鮮人参の国産化に成功し、輸入する物がなくなり朝鮮貿易の利益はなくなった。 
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