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塩飽史
『塩飽史』 江戸時代の公儀船方 吉田幸男 著 より |
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4.塩飽における石の採掘と巨大石造物 塩飽には大阪城築城の為に切り出されたものの運び出しを断念した巨石が山中に多数放置され 残念石と呼ばれている。大阪冬の陣、夏の陣が終り破壊された大阪城の再建が始まり石材は各大 名に割り当てられ全国より集められている。 塩飽島は御影石と呼ばれる花崗岩の産地で多くの石 が掘り出され大阪に運ばれていった。 花崗岩は城石としては最高級としての性質を持ち非常に堅く、堅固な石垣には適しており、磨けば 鏡のようになり珍重されている。櫃石島、与島、塩飽島、塩飽広島は特に巨大で良質の花崗岩が産 出し斡旋依頼が殺到している。塩飽は秀吉の大阪城築城の際も多くの石の採集が行われたが徳川家 の大阪城再建に関しては規模を増して石の切り出しが行われている。 近年丸亀城石の会による調査が行われ調査報告書が出ている。元和10年(1624)大阪城築城の採石 は西国大名59家に命じられたが塩飽島で大規模に採掘を行ったのは豊前細川藩で3,273個の石を運び 出している。越前藩主松平家は櫃石島を中心に与島、塩飽島、広島等にも串団子の刻印のある残念 石を残している。塩飽吉田家文書によれば豊前細川家の家老が笠島浦年寄、吉田彦右衛門に塩飽よ り大阪までの海上輸送を依頼する書状が残っている。石の採石は各大名家臣が行い、大阪までの石 の運搬は塩飽の人々が行っていたようである。九州の黒田氏は江戸城にも塩飽島屋釜の石を運んで いる。江戸城建設にも塩飽船は建設材料を大阪より江戸へ運んでいるだけではなく伊豆地方の石を 江戸城築城用に海上運送している。塩飽の石材運搬船が関東でも活躍しており巨石の輸送技術を持 っていた為であろう。伊豆から江戸城への石の運搬は三千隻の船が動員されている。 石の海上輸送であるが丸太に巨石を海中に吊るし運送すると言われていたが無理である。杉材で 直径1メール、長さ10メートルの浮力(0.5×0.5×3.14×10=7.85立方)乾燥杉材の比重は0.4石の 浮力にまわせる重量は(7.85×0.6×1.02)4.8トンの浮力しか得られない。大阪城で一番大きなタコ 石は120トン、丸太吊り下げた場合は80トン、乾燥した大木16本必要となる。水中で使うからには水 が材木に浸透すれば浮力はさらに少なくなる。塩飽から大阪へは引船が必要で非常に難しい。 現在でも荷を積んだ船を汽船の押し船が用いられ、引船は非常に難しく江戸時代の帆船では不可能 に近い。 江戸時代に出された「農具便利論、大倉永常」の中に石の運搬船の絵図が掲載されている。船に 轆轤(クレーン)をつけ石材は船底に固定して運送している。石船はどの位の運搬能力があるか 計算してみた。御影石1メートル立方体の重量は一丁七トン(花崗岩平均比重は2.7)海に沈めて 海上輸送時は浮力があり海水1立方メートルの浮力を生じ、陸上では2.7トンの石が海水 (比重1.02)中では1.68トンとなる。大阪城の最大の蛸石は陸上重量約13トンとされ水中重量 約80トン、弁才船子石積みの最大積載量は150トンで550石積の船ならば楽々可能である。千石 船クラスであればほとんどの巨石は運搬可能である。 塩飽島には巨大な石造物が残っている。泊浦小鳥神社鳥居、宮ノ浜浦八幡神社鳥居、宮本家 墓石、吉田家、入江家の墓石である。宮本家、吉田家の墓石は勤番所と合わせ重要文化財に指定 され香川県最大の墓石である。宮本・吉田家の巨大な墓石であるが多くの墓に破壊の跡がある。 明治維新の後、長州藩村上海賊を名乗る人々が塩飽を襲い宮本・吉田家の墓を破壊したものであ る。破壊された跡、再び組み立てた墓が現在のものである。塩飽の巨大石造物は元和6年(1620) から数年間に集中して造られている。全国的に見ても石造巨大建造物の初期にあたり、一番古い 時代に巨大石造物を造っていた事になる。当時は鳥居にしても木造が多く、全国的には石造鳥居 の造営は江戸中期以降となる。八幡神社鳥居と木鳥神社鳥居は薩摩石工、紀加兵衛の作である。 小烏神社の鳥居は寛永4年(1627)、八幡神社の鳥居は寛永5年(1628)、広島立石神社は寛永16年 (1639)にそれぞれ造営されており県下ではこれより古い石造りの鳥居は直島八幡宮(慶長5年、 1600)1基だけである。石の鳥居は費用もかかりその建造が島嶼より始まっているのは当時の財 政事情であろう。 塩飽島泊浦小烏神社鳥居 寛永4年(1627) 宮本道意禅定とその子息の名前が彫られ石大工として薩摩石工紀加兵衛小工5名とある。薩摩 石工が塩飽において活動する時期と細川藩等、大阪城築城にかかわる採石の時期と重なってお り、採石技術者として塩飽に招かれた1人が紀加兵衛との推論も可能である。 塩飽島宮ノ浜浦八幡神社鳥居 寛永5年(1628) 右柱正面に薩摩石工紀加兵衛、小工久右衛門、新左衛門に続いて神主に高倉宗左衛門とあり 高倉家が江戸時代初期より神主の家として続いている。裏面には吉田彦右衛門の名前も見える。 塩飽広島立石浦八幡神社鳥居 寛永16年(1639) 石大工九郎兵衛とある。 山口県防府市防府天満宮鳥居 寛永6年(1629) 当国太守秀就公御建立(毛利藩初代藩主)で石大工薩州住木賀平衛尉、同小工讃州塩飽嶋住民 五人、肝煎(世話役)同國住人宮本吉右衛門尉と彫り込まれている。塩飽島産の石が使用されて いるとの説もあり薩摩石工が塩飽の小石工を使い塩飽の宮本一族が世話役で製作された鳥居で山 口県下最古の鳥居で文化財となっている。山口県下には木賀兵衛尉銘の鳥居が4基発見されてい る。 山口県萩市、毛利輝元夫人墓前鳥居、五輪塔、石灯籠 寛永8年(1631) 木賀兵衛尉の銘。 山口県大島郡小松志駄岸八幡宮の花崗岩石灯籠 寛永14年(1637) 木賀兵衛尉の銘。 山口県柳井市賀茂神社鳥居 寛永14年(1637) 花崗岩製で木賀兵衛尉の銘。 山口県柳井市代田八幡宮鳥居 寛永16年(1639) 木賀兵衛尉の銘。 塩飽と山口県、当時は周防国であるがその関係について手がかりが残っている。柳井 市賀茂神社鳥居の願主は乃美孫兵衛尉元貞武運長久子孫繁昌祈ると記されており毛利氏 の水軍を束ねた小早川の有力家臣、中世よりの海賊の名家である。山口県大島郡小松志 駄岸八幡宮は毛利水軍の根拠地で村上武吉の子孫、毛利の船手組等、多くの水軍関係者 が移り住んだところである。代田八幡宮を含め、三神社は近くで塩飽と村上海賊は中世 よりの海賊としての交流が鳥居建立に至ったと考えられる。 愛媛県川之江八幡神社鳥居 慶安4年(1651) 塩飽泊浦、石大工九郎兵衛小工2人とあり石は塩飽島と記載され大きさは全国で2番目 である。薩摩石工より塩飽へ石材加工の技術が伝えられ塩飽石工として独立して仕事を している。 江戸時代の塩飽における職業別の戸籍調査が残っているが石工は見あたらず、後年勤 番所長屋門の基礎石、正面石階段にしても日本海に面する石見石工を招いて作られている。 塩飽は墓石等の石工がいたと思われるが職業としては記載されていない。 |