br.,br.
塩飽史
『塩飽史』
江戸時代の公儀船方
吉田幸男 著 より



5.塩飽切支丹と丸亀城築城  

 寛永15年(1638)2月28日、島原の乱が終息すると唐津藩主、寺沢広高は一揆の責任を問われ 領地の天草郡4万2千石は取りあげとなり、備中成羽城の山崎家治に与えられた。天草富岡城は 切支丹の猛攻にも耐え抜き縁起の良い城である。家治は富岡城の改修に着手、百聞塘(百聞土手) と呼ばれる巨大な石垣を構築し水をせき止め堀の代わりとし、大手門を造営し完成させた。 山崎家治は築城の名手として大阪城再建工事を担当し天主、本丸、二の丸の石垣構築に携わり 見事な才能を発揮している。  

寛永17年(1640)讃岐領主、生駒高俊は藩主としての能力を欠き御家騒動を起こし東北地方 出羽矢島1万石へ配流となった。讃岐の国は近隣大名の分割統治を経て西半分に天草富岡城 主、山崎家治が藩主となる。寛永19年(1642)讃岐の東半分に御三家の水戸徳川家初代藩主、 徳川頼房の長男、松平頼重が12万石で人封、高松藩となった。山崎氏が西讃に人封したもの の一国一城令により古くからあった丸亀城は破却されていた。廃城となり放置された原城が 島原の乱で利用され切支丹、一揆勢が修復し利用した事もあり城郭として再び利用できない ように徹底的に破壊されていた。山崎氏入封前の讃岐の城は高松城だけであった。 西讃は5万石で巨大な丸亀城を築く事は財政上問題があった。禄高に比して城域が大きく建設、 保持できるか問題であった。

 不思議な事に丸亀築城推進したのは公儀である。丸亀城主、山崎家治に白銀300貫(約3億3千万) を提供し、参勤交代も免除し、大阪城築城用に集めた残余の石を使えと許可している。 石垣も上部が垂直になるよう独特の反りをもたせ高さ60メートルの石垣は日本一高く、三の丸 石垣も22メートルである。当時の政策として城は最少との方針に反し高松に松平氏を入れ、西 讃に山崎氏を配置させ異常である。福島正則は広島城の修理普請に関して取り潰しされたように 城の修理さえ非常に厳しく咎められた時代である。

 公儀は何の為に丸亀城を造らせ仮想敵はどこでなぜそんなに恐れていたのであろうか。高松城 は瀬戸内海の海賊対策として築城され瀬戸内海への攻撃を目的とし海水を引き込んだ堀が二重に 配置されている。海への出撃が容易にでき、高い石垣はなく海に浮かんでいるような城である。 一方、丸亀城はすべてが逆で海に対しての攻撃ではなく守りの城である。瀬戸内海一帯の治安目 的の城であれば小豆島切支丹対策として高松城の強化の方が目的に合致している。丸亀城は小豆 島の切支丹以外の対策として築城された事になる。

 丸亀城築城の理由は瀬戸内海切支丹に対する備えと明らかにされている。天正11年(1583) 小西行長は秀吉より小豆島を与えられると大阪のセミナリオ(神学校)にいたグレゴリオ・ デーセスペデスを小豆島に呼び布教を命じている。島内の神社仏閣を破壊し1月余りで1400人に 洗礼を授け、15メートル以上もある十字架を建築している。神社仏閣を破壊するのは長崎 でも同様である。寛永14年(1637)11月、島原の乱では支配の小堀遠州守政一は厳しく対応し 小豆島の船に対して禁足を申し渡している。小豆島の船は少しも動かしてはならぬとの命である。 小豆島切支丹弾圧、監視するならば距離的にも近い高松城を強化するのが筋であろう。

 塩飽には切支丹信者が存在した物的証拠はない。それは塩飽に切支丹がいなかったとの理由に はならない。畿内に向かう宣教師はほとんど塩飽に立ち寄ったとの記録を残している。塩飽は小 豆島と同様、小西行長の領地で小豆島は自ら布教し島民の多くを切支丹信者にしている。小西行 長が塩飽に対して何もしなかったと考える方が無理であろう。小豆島と同しように布教を命じた に違いあるまい。宣教師達が塩飽島に寄航時に布教するのと違い、小西行長が領主となり切支丹 布教の命を出した場合、庶民層はともかくとして当時の塩飽支配層にとっては断る事はできない。 小豆島で行われた各諸条件を勘案すれば塩飽は多くの切支丹がいても不思議ではあるまい。

 塩飽の切支丹についての記述は西洋人宣教師の本国に発した日本通信の中にも見られる。中世 日本に来たイエズス会の宣教師達は本国への報告を義務づけられ、報告書は今もって厳重に保管 されており閲覧が可能である。イエズス会の日本報告には塩飽湊寄航、滞在に関する多くの記述 において布教に成功したとされている。隣国備前領主、宇喜多家は切支丹大名で加賀前田利家の 四女豪姫も輿入れしており切支丹である。関ヶ原の戦い以降、西軍に属した宇喜多家臣団の多く は塩飽に逃亡しているが、宇喜多秀家の姉が当時塩飽の年寄、宮本伝大夫婦人であった為かと思 われる。宇喜多秀家の弟、直晃は元和9年(1623)、塩飽島泊浦で死去、浄土宗の迎光寺に墓が 現存する。宇喜多直晃の墓は切支丹墓ではない。塩飽島泊浦迎光寺下には浮田家が今もって宇喜 多家の墓を守っておられる。

 倉敷の全国隠れ切支丹研究会副会長の川瀬潔氏の著書があり氏の御母堂は塩飽島笠島出身であ る。著書では塩飽には多く切支丹墓が存在し、塩飽の中世から近世への指導者、年寄の宮本伝大 夫、吉田彦右衛門も切支丹と断言しておられる。塩飽島泊浦十輪寺は数多くの切支丹墓が存在す るとしている。十輪寺は宮本伝大夫屋敷の裏手に建てられ「十輪」自体が切支丹を表現している と述べている。

 元和9年(1623)と刻まれた十輪寺境内にある宮本家一族の墓は2メートルを越え、「善人宮本」 と彫り込み堂々とした切支丹墓としている。宮本家三基にも同様に彫り込まれているとしている。 他にも卍が彫り込まれた墓もずらりと並んでおり良く見ると十字の先端にヒゲをつけ加えており、 後世に十字から卍に変え元は切支丹の墓であると断言している。多くの墓石にヒゲ十字が刻まれ 本当に切支丹墓であったのかと思うほど多く堂々と存在する。年寄、吉田彦右衛門の巨大な墓に もクローバー神像二体を彫り込んでおり、島の最高支配者二家は切支丹であったと記述している。 他にも泊浦浄土宗、迎光寺でもクローバー神像で異国風の墓が多く存在すると記述している。 塩飽の切支丹について川瀬氏の著書を否定するだけの知識もなくさりとて肯定する知識もない。 判断する基準を持たず以上紹介に止めたい。十輪寺は我が家を含め檀家の数は数軒で維持する事 も困難で、十数年前より境内に竹が進入し入る事さえできない。塩飽の切支丹の痕跡を探す事は 非常に困難で禁制以前は多くいたといえるであろう。

 江戸時代の切支丹対策はそれぞれの藩に委されており、藩主もしくはそれに準ずる者が公儀に 対して我が藩には切支丹はいないと報告すればそれで良かった。切支丹対策は領主、藩主にまか されていた事になる。大村藩の領民が浦上の人々に布教しているとの密告が長崎奉行所にもたら され大弾圧となった。大村藩は幕閣に対し一度は領内に切支丹はいないと報告しておりその報告 が虚偽とすれば藩取りつぶしに繋がりかねない事態である。結果、大弾圧となったのである。 塩飽には切支丹が相当いたとされるにもかかわらず塩飽には切支丹弾圧の記録は残っていない。

塩飽の年寄が領内に切支丹がいないと報告したのであろう。長崎県生月島は切支丹がいたにもか かわらず弾圧の記録はない。鯨が多く捕れ九州一、豊かな島であった。生月鯨組は江戸時代を通 じ約40万両(約264億円)を献金しかと伝えられている。平戸藩は公儀に対して生月島には切支丹 はいないと報告したのであろう。公儀は確実に塩飽に切支丹がいるとの証拠を握っていたであろう。 公儀の塩飽切支丹対策は実に大がかりで日本一の高さの石垣を持つ丸亀城を築城し、塩飽の島々を 眼下に睨み、恫喝している。丸亀城は塩飽切支丹の対策に築城されたのである。丸亀城築城は瀬戸 内海にいる切支丹の蜂起に備えると漢然と記されているが城の前面に広がる海に領地を持つ塩飽の 切支丹対策以外考えられない。丸亀近辺で切支丹が存在する可能性のある大きな勢力は塩飽を除い ておらず、さらに大船団を持っているのである。丸亀藩は山崎氏から京極氏へと代わっていくが 京極氏にしても兵船の準備が凄まじい。丸亀藩は御船蔵に関船、小早(小型戦闘船)を20隻、いず れも艪で漕ぐ船、戦闘用船舶を常備し、町船18隻を招集できる準備をしている。丸亀京極藩の船手 組は397名である。塩飽対策とはされていないが他藩に比べ大きな水軍力を常備している。後年、 丸亀藩の軍船が塩飽出動となる。
つぎのページ