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塩飽史
『塩飽史』
江戸時代の公儀船方
吉田幸男 著 より




6.塩飽の弁才船、日本の海を席巻する  

 塩飽は朝鮮出兵に伴う急増する物資輸送に対応する為にひとつの船型を造りあげた。朝鮮の戦 場を支える兵站線とゆうべき釜山、名護屋、大阪間を結ぶ船である。多くの荷が積め、玄海灘を 渡り瀬戸内海の潮流を乗りきれる機動性に優れ、安価で、短期に建造できる船である。朝鮮出兵 において塩飽か命じられた船が兵船ではなく輸送船であった事が江戸時代初期より海上輸送の中 核を担うのである。

 日本海側各地、主要湊に必ず設置されている日和山が瀬戸内海では見られない。日本海は天候 を見極め、風を読みながらの航海、帆走航行する為に必要である。瀬戸内式気候は晴天が多く海 が大きく荒れる事は少ない。瀬戸内海航行は潮流、潮の干満の流れを利用しながら航行し、塩飽 近辺の干満の差は最大数メートルにも達し、海は音をたてながら流れ、激しい流れだけではなく 止まり、ゆっくり動き出し、数時間後には真反対に流れ出し、風と違い潮流は時間単位で予想が 可能である。瀬戸内海に住む人々は自然の力である潮流を利用しながら航海していた。潮流の速 度は場所によって違いが見られるが潮流を利用し航行する上で必要な事は船の機動性を高める事 である。弁才船が船体に比し巨大な舵を持っているのは瀬戸内海の生まれであることの証拠であ る。船が推進力を持たなければいくら巨大な舵であっても機能を果たさない。現在の船でも推進 器を回していないと舵は効かず漂流し海難事故となる。海水と船体との間に速度差がなければ舵 は効かない。瀬戸内海を航行する船にとって大きな舵と大きな帆は共に欠く事ができない。瀬戸 内海は強風が吹かず、舵を効きやすくする為にも大きな帆は必要である。瀬戸内海における潮流 は速く漕ぎ手を多く乗せても役にたたない。弁才船は舵、帆の絶妙な組み合わせにより、船の機 動性を高め瀬戸内海を安全に航海できるように工夫されている。天明5年(1785)弁才船の帆に 革命的改良を持ち込んだのが兵庫県高砂市の工楽松右衛門であり発明した帆は松右衛門帆と呼ばれ 全国の弁才船に使われることとなった。弁才船や松右衛門帆を生み出しだのが瀬戸内海であること はそれだけ海上交通が盛んであった証拠となろう。

 潮流利用は瀬戸内海航行だけではなく古くから九州西部でも積極的に利用されている。佐賀藩 領諌早と佐賀城下を結ぶ場合諌早市街地より満潮時に出発、ひき潮に乗り竹崎方面まで行く事が できる。次の満ち潮にのれば約12時間で佐賀城下まで行けるのである。その逆も利用可能である。 長崎街道を歩けば約2日(80キロメートル)かかる。このようなことができるのも有明海の干満の 差が数メートルに及ぶからである。長崎と鹿児島は陸路では離れているが海路の便は非常に良い。 中世、佐賀の龍造寺隆信は離反した有馬氏を討つとして島原へ出陣するも海路駆けつけた薩摩の 島津家久に敗北した。約5千の島津兵は八代方面から舟で直接島原に上陸している。江戸時代薩摩 藩は長崎に聞役を駐在させ現在でも屋敷跡は薩摩の秘密屋敷と呼ばれている。秘密屋敷から峠を 越えると茂木湊で薩摩藩の便船を係留しており、長崎半島を回り外洋に出ることなく、長崎と薩摩 を1日でむすんでいた。長崎港からだと野母半島を回り外洋にてなくてはならず、茂木だと内海と 潮流が利用でき天草と九州本土間の激しい潮流と良い風に遇えば高速で移動が可能となる。 九州西岸は佐世保湾、大村湾、有明海いずれも潮流の激しいところで干満の差が6メートルにも達 し古くより南蛮貿易を始めとする海上交通が発達している。

 弁才船は速力もすばらしく鳳凰丸に乗組を命じられた塩飽の人々が浦賀に出向く時、大阪より 浦賀まで弁才船に便乗している。鳥羽から東京湾内浦賀まで1日で航行しており速度も非常に優 れている。弁才船は西洋式帆船のように帆柱に登り、作業する事なく操船が可能で、船体構造も 強靱で、風上に向かって航行する事が可能である。弁才船は非常に優秀で瀬戸内海航行用の船 がそのまま日本海を走り、太平洋沿岸の航海が可能であった。機動力を物語るものとして弁才船 は大きく帆を張ったまま湊に入り、小回りができ船体を船着き場に近づけ一挙に帆を下ろすと船 はぴたりと止まりそれは勇壮な眺めであったと酒田沖の飛島の長老は話している。弁才船は北国 の湊に入港の際も機動性を生かし引き船などを使わずとも入港できている。

平成11年(1999)大阪で作られた弁才船浪速丸の航行試験時、撮影の際にヨットを使用したが弁才 船のあまりの速さについて行けなかったほどである。さらに間切り性能を試みているが風上75度 程で従来の説が裏づけられている。世界的に見て弁才船の構造は独特で厚板で船体が造られてお り、頑丈で強度も十分で水漏れも少ない。モノコック構造で無駄がなく非常に優れた構造である。 船底に航と呼ぶ厚板の基本材を使い根棚、中棚、上棚と呼ぶ幅広の外板が順次、船釘にて縫うよ うに締められ接合されている。船釘による接続は非常に強く難破の時など破壊される時は接続部 以外から始まっている。重要な部分は十分に厚い木材を使用し、隙間は摺鋸を通し平面に仕上げ 船釘を打ち込み先端をいったん外に出し、先を折り曲げ、外そうにも外れない工法である。さら に接合部分は高野マキの樹皮を紐状に編み、接合部に打ち込み止水材としている。船首部には カッパと呼ばれる頑丈な甲板で船首材と共に変形三角錐を形成し船首の強度を高めている。大き く開いた中央部に甲板はなく船底から荷物を積み上げ、その上に板やムシロなどで雨覆いをする 程度で完全防水性や荒天時の航海は考慮されていない。雨の少ない瀬戸内海航行では十分で荷物 を積み上げる事により積載量は増大する。江戸時代の弁才船の遭難記録によっても漂流を1年半 以上経過しても船体は破壊されておらず船体強度は大である。江戸時代の船大工や廻船業者は西 洋式帆船を見ており、甲板を造る事は別段難しい事ではあるまい。弁才船は造りやすいのも特徴 の1つである。幕末、陸奥湾沿岸の川内湊において塩飽の船頭が注文した弁才船の完成期間は 3ヶ月弱で建造期間が非常に短い。造りやすい船である。

 弁才船は荷役の利便性、積荷が多く積める方を選んでいる。明治期以降に瀬戸内海の物流を支 えた石炭、石運搬用の団平船、機帆船も甲板を持たず昭和50年頃までは船倉上部は木の板を並べ ただけで水密甲板など持たず運航されている。建造費、運航経済性、荷役の利便性は重要で荒天 に備えただけの船は誰も建造せず使わないであろう。幕末時に日本西洋式帆船も多く遭難してい る。成臨丸に同乗指導したブルックでさえ乗船した船を日本の海で難破させている。日本にて海 難が減少するのはエンジンの搭載や気象観測の充実からである。

 弁才船の構造上の弱点として船尾の構造が指摘されている。荒天時、船尾から大波を受け続ける と舵が踊り船尾を破壊し、破船に至る場合がある。弁才船は良くも悪くも誕生に伴う特徴を備えて いる。瀬戸内海は冬期といえども海が荒れる事は少なく、台風の直撃などなく、海が突然あれたと しても避難する島陰は無数に存在する。塩飽廻船は冬期でも活動しており瀬戸内海、大阪と江戸間、 豊後、日向、日本海側石見国方面での活動が見られる。享保4年(1719)における冬期の御城米船の 記述がみられる。石州、豊後、日向との地名が書かれており冬期日本海石見(島根西部)方面まで 航海しているが大変だったらしく「冬請負石州三艘いまだ江戸に着き申さず」と「青木清五郎廻船、 亥年冬廻船先月、品川へ着船なるも品川出火、船上に参り帆桁、舵消失、その後水船となり濡れ米 400俵程陸揚げ」いろいろ事故模様も掲載している。冬期の記録が多く残っている理由として船火事 を起こしている。寒さのため暖房用の火が船体に燃え移ったのであろう。北国でも弁才船の遭難は 荒天時に限られており、凪であれば遭難はしていない。江戸時代、長崎に来港するオランダ船や中 国船は船体に比べ舵は小さいが外洋を帆走する場合は別段支障はない。船と海水との速度差が大で あれば舵は小さくても実用上十分である。江戸時代、オランダ船、中国ジャンク船が長崎港等に入 港する場合小さな舵は用をなさず10隻から数10隻もの手こぎ引き船が必要である。後世では大型帆 船は入出港時対策として蒸気機関搭載となってゆく。蒸気機関搭載の咸臨丸にしても石炭搭載量は 数日程で蒸気機関の使用は入出港時や緊急時のみ使用されていた。

弁才船における船食虫対策

弁才船の船尾を割り巨大な舵を引き揚げ式着脱式にしなければならないのは船食虫対策上必要な構 造である。海水中の船食虫は杉、松、桧なら3ヶ月、欅、樫、楠でも6ヶ月が限度である。船食虫が 入ると木は強度を失いスポンジ状になり船の寿命を短くし沈没の原因にもなる。約3ヶ月に1回ほど 有効な船食虫の対策をしないと新船でも破壊に至る。瀬戸内海だけ航海する場合であれば干満の差 の大きい塩飽付近の船蓼場に持ち込み、船底を燻せば船食虫は退治できる。塩飽近くには蓼場島ま で存在する。いぶす為に陸上に揚げるときに巨大な舵は邪魔となり跳ね上げるか取り外す必要がで てくる。船尾を割る構造がどうしても必要となる。日本海航海の場合、干満の差が少なく船底をい ぶす方法では船食虫を退治できない。大きな川を遡り完全に真水の場所で7日から10日前後浸けて おくと船食虫は死滅する。停泊中や浅い川を遡る時、舵を高く上げるか取り外す必要があり舵は 着脱式でなければ作業上支障がでる事になる。江戸時代の絵図に巨大な舵を船尾より綱をつけ流 している風景が描写されている。喫水線以下に薄い板を張り船食い虫が船体に入り込むのを防ぐ 対策もとられている。船食い虫が板の境目を通過できない性格を利用した方法で船食い虫に食わ れた薄い板を定期的に貼り替える必要がある。船食い虫に食われた板は開けられた穴が石灰質の 分泌物でコーテングされており板塀などに利用されており2百年程持つと言われており石川県地 方の船主の家で見かける。

 船食虫は世界中の海に存在しヨーロッパや中国の船も例外ではない。西洋式帆船にしても船体 に石灰や麻を塗り海岸近くに船を寄せ帆柱に縄をかけ引っ張り横倒し船底を手入れしている。中 国のジャンク船は隔壁を多く造り、船食虫に穴を開けられても航海中修理できる構造にしている。 マルコーポーロの「東方見聞録」に中国船についての記述が隔壁で13の区画に仕切られ浸水して も荷物を別の区画に移し破損部分を修理して荷物を戻していた。荷物区画に流入した海水は水溜 専用の区画に移動させ航海中でも修理が可能な構造であった。長崎の町は現在も防水材料を扱った なごりの本石灰町の町名がある。西洋の船にしても船食虫を完全に克服したのは18世紀で船底に銅 板を全面に貼るという方法である。軍艦咸臨丸も船底には全面銅板が貼られていた。伊豆戸田にて ロシアと建造したヘダ号も船底全面に銅板を貼り付けている。鋼鉄船建造前の木造船では船食虫対 策は非常に重要であった。船食い虫 軟体動物、白色、紐状で長さ30〜45センチになり海水中を泳 ぎ太さは7〜8ミリである。海水中の木材の内部に食い込み削り取った木も餌にしている。穴と体の 間に石灰質の管を作り外敵に備え、一度木材の中に食い込むと二度と移動する事はなく、二本の水 管で海水を取り入れプランクトンを補食する。冬は冬眠し春になると雄、雌と変化し一度に数千万 に及ぶ卵を産卵する。船食虫は海水から引き揚げると穴の入り囗を石灰質の蓋をする。海水から引 き揚げられた状態での生存期間はおおよそ10日弱で真水中でも同じ期間で死滅する。重ねた板を通 過できない性質を持っている。低温の海水温では動きが鈍く、暖海では活発に活動する。
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