9-3 大久野島+毒ガス資料館取材記録(2008.4.27)
(広島県竹原市 JR忠海駅前すぐ、フェリーにて約20分)
9-3000 大久野島地図 
1.通信壕 2.慰霊碑 3.大久野神社 4.医務室跡 5.灯台 6.毒ガス貯蔵庫跡
7.毒ガス貯蔵庫跡 8.焼却炉煙道口 9.弾薬庫跡 10.発電場
11.上水道配水タンク 12.検査工室 13.技能者養成所跡 14.表桟橋

9-3001 毒ガス島歴史研究所 山内正之先生との出会い 
9-3002 フェリーに乗り込み、9:30発 
9-3003 船上でレクチャー 
9-3004 忠海町 
9-3005 茶色の建物、戦時中 ガス兵器の運び出し用倉庫として使用 
9-3006 海岸線の洞窟、戦時中 船隠し用 

船上でのお話で、以下の事項が印象に残りました。

・大久野島は軍事用利用が、3度であること

  1. 日清日露時代の海上防衛基地−砲台跡の存在 芸予重砲兵大隊
  2. 1929年(昭和4)以後の毒ガス兵器工場の存在〜1945年まで16年間
  3. 朝鮮戦争時代 兵器貯蔵庫として
1963年以後 平和利用となっている

・戦時中 大久野島で働いていた人達

  1. のべ6700人程度、最大時2000人程度
  2. 毒ガス工場とは知らされず 陸軍工場誘致−31ヶ所の候補地の中から大久野が選ばれたこと
  3. 働く人達を募集するとき、軍属扱いとして優遇されること、新兵器製造のイメージで紹介されていること
  4. 秘密保持体制が徹底していたこと (工場内での様子を外部に漏らさない念書を書かされる、違反時 軍法会議にかけられる、 給料日 忠海町の要所に憲兵が要所に立つ、列車の鎧戸が忠海付近を通過時おろされる)
  5. 働く環境はかなりの事故、犠牲があり危険であるが絶対に途中で止めることができないこと、ただし 兵隊で最前線に行く場合のみ脱出できること

ほんとうに当時の様子がよく解りました。
9-3007 大久野島 
9-3008 バスで移動 
9-3009 毒ガス資料館へ 
9-3010 資料館前説明板 
9-3011 資料館内での様子 
9-3012 資料館パンフレット 

日本が毒ガスを使用したということは、1984年(昭和59年)まで日本では殆ど知られていませんでした。化学戦の実体は慎重に秘匿され、旧軍関係者以外の日本人は 殆ど事実を知りませんでした。

1984年日本の化学戦実施に関する資料が報道されました。以来、日本の毒ガス兵器の研究開発は旧陸軍科学研究所(東京)・大量製造したのは大久野島 (広島県竹原市忠海)・充填は曽根(北九州市)・化学戦の運用と訓練は旧陸軍習志野学校といった日本の化学兵器の構図が明らかにされています。

今、大久野島は国民休暇村として開発され国民の保養地となり、往時を偲ばせるものは、僅かに砲台跡・発電場・毒ガス貯蔵庫等、数少なくなっています。この島で 毒ガスを製造した過程で多くの犠牲者を出すに至ったことは誠に痛ましく、ここに関係各位からよせられた当時の資料を展示して毒ガス製造の悲惨さを訴え、恒久平和 を希求いたします。

この資料館は、広島県、関係市町並びに障害者団体のご理解と、ご協力により建設されたものです。

資料館パンフレットより
開館時間9:00〜16:30(入館は16:00まで)
入館料100円(19歳未満50円)
729−2311 竹原市忠海町5491番地
0846−26−3036

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東京第二陸軍造兵廠忠海製造所は、日本陸軍の毒ガス工場として、昭和4年に大久野島に設置され、昭和20年終戦後米軍により破壌されました。この工場は、 各種の毒ガスや信号筒、風船爆弾が製造されましたが、イペリットの生産に重点がおかれていました。

毒ガス製造工員の体はゴム性の防毒マスク、衣服、手袋、長靴等で完全に覆われていても、イペリット・ガスは、その隙間から浸透し、皮膚、目、咽等を冒して 結膜炎、肋膜炎、肺炎、気管支炎等を引き起こしたが有効な治療法はなく皮膚炎に対する普通の治療法で過マンガン酸カリと酢で毒を中和し更に、火傷と同様に 扱っていた。しかも、呼吸器疾患に関してはできるだけ栄養のあるものを食べる以外殆ど治療法はなかった。

1935年(昭和10年)までには、すでに下表の毒ガスを製造するまでになった。当時イペリット製造部門では被害者が多くでたため、その被害のあった工員 は催涙ガスの製造部門へ移されたがここでも、製造工程全般にわたり、塩酸ガスにより目をやられる事が多く、工員待機所に洗眼用具を備えてはいたが、この作 業員以外の人の手を借りなくては洗眼をすることはできなかった。これらは悲劇の始まりであった。

資料館パンフレットより
9-3017 

9-3018 通信壕跡 
9-3019 慰霊碑 
9-3020 大久野神社 
9-3021 研究室跡
9-3022 検査工室跡 
9-3023 毒ガス廃棄壕跡 
9-3024 国民休暇村大久野 
9-3025 国民休暇村で昼食 12:00頃 
9-3026 毒ガス貯蔵タンク跡A 
9-3027 毒ガス貯蔵タンク跡B
9-3028 毒ガス貯蔵タンク跡B
9-3029 毒ガス貯蔵タンク跡C
9-3030 毒ガス貯蔵タンク跡C
9-3031 毒ガス貯蔵タンク跡D 
9-3032 毒ガス貯蔵タンク跡D 
9-3033 トイレ跡
9-3034 汚染残土
9-3035 北部海岸
ここから戦後残った毒ガスを占領軍は運び出した 
9-3036 毒物焼却場煙道口跡 
9-3037 北部砲台跡
9-3038 北部砲台跡 
9-3039 北部砲台跡 
9-3040 北部砲台跡
9-3041 北部砲台跡
9-3042 北部砲台跡
9-3043 北部砲台跡 
9-3044 弾薬庫跡
9-3045 弾薬庫跡 
9-3046 発電所跡外部 
9-3047 発電所跡外部
9-3048 発電所跡内部
9-3049 発電所跡内部
風船爆弾もここで検査された
9-3050 発電所に通じるトンネル
朝鮮戦争時代の英字が確認できる 
9-3051 明治時代の桟橋跡
9-3052 さらば大久野島
15:13のフェリーで忠海へ 


竹原市忠海の沖合い3kmにある小島、大久野島に『陸軍造兵廠忠海兵器製造所』、いわゆる“毒ガス工場”が開かれたのは1929(昭和4)年のことでした。 それまで島にあった3戸の農家も、“毒ガス工場”ができると対岸の忠海へ立ち退きになり、全島が“毒ガス工場”になりました。そして、毒ガス製造が最も盛んになった 昭和10年代、大久野島は、軍の機密により瀬戸内海の地図から消されてしまいました。

毎日、専用船で島へ通った工場の従業員は、多いときで5千人にもなりました。忠海の住人だけでなく、岡山や大阪、九州から出稼ぎにきている人も少なくありませんでし た。

戦争が終った1945(昭和20)年、大久野島には、3千トンを越える毒ガスが残されました。残された毒ガスは、米軍の指揮のもとに四国・土佐沖120kmの海中に 捨てられましたが、その作業中、毒ガスによる負傷者が数多く出たと言われています。

1962(昭和37)年、国民宿舎の建設工事中にも、[ルイサイト]製造工室(工場)跡で毒ガス事故が発生し、かなりの負傷者が出ました。

そうした不幸を乗り越えて、1963(昭和38)年、大久野島は、全国初の島全域の国民休暇村としてオープンし、現在に至っています。

『戦争と平和の島 大久野島[毒ガス工場]の記録』より
9-3053 東京第2陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所の開所式
昭和4年5月19日 
9-3054 従業員の安全祈願(昭和6年安全週間行事)
大久野神社前での記念撮影(当時の全従業員)  

フェリーに乗り込む前に山内先生の最後の説明がありました。
現在の中国、日本での放置−毒ガス事件の話でありました。そのなかの 「大久野の毒ガス問題は終わってはいないんです。現在なんです。」との言葉は我々のこころに変にひっかかっています。ありがとうございました。(赤垣)



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