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ドイツと青島
ドイツと青島
瀬戸武彦 著『青島(チンタオ)から来た兵士たち ―― 第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』(同学社、2006年6月9日発行)より

ドイツによる青島占領

<外国の餌食>

19世紀中頃から、欧州列強諸国は中国の領土割譲を目指して、虎視眈々と狙っていた。第一次阿片戦争(1840−42年)の結果結ばれた南京条約では、広州、福州、厦門、寧波、上海の 五港が開港され、香港がイギリスに割譲された。第二次阿片戦争(1856−60年)中に結ばれた天津条約で清国は、牛荘(営口)、登川(芝罘)、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、潮川(仙頭)、 瓊州、南京、天津の11の港の開港を余儀なくされた。更に第二次阿片戦争以後の北京条約(1860年)では、イギリスは九龍半島市街地を割譲させ、ロシアはウスリー江東岸を割譲させて、 翌年にはウラジオストックを建設した。このように、中国は列強諸国の餌食さながらの状態にあった。

欧米列強の極東に向けられた眼は、実は日本にも及んでいたことは歴史で学ぶところである。安政五年 (1858年)、アメリカとの間で結ばれた日米通商修好条約で、日本は神奈川(横浜)、 長崎、函館、やがて新潟、兵庫(神戸)の開港を約束することになった。文久二年 (1862年)8月21日、薩摩の島津久光の行列を横切ったことでイギリス人三名が殺傷された事件、 いわゆる生麦事件では、イギリスが報復として軍艦から大砲で薩摩を攻撃したが、まかり間違えば、鹿児島の一部が占領されかねなかったとも言われている。

<遅れたドイツ>

植民地獲得競争に遅れをとったドイツは、明治4年 (1871年) にドイツ帝国が成立すると、直ちに植民地の獲得に乗り出した。その結果、明治17年(1884年)に南西アフリカを、 明治19年(1886年)には東アフリカを保護領として獲得した。しかし、アフリカの植民地は、ドイツにとっては必ずしも望ましい土地ではなかった。特に南西アフリカでは、やがて大規模な 反乱が起こって、凄惨な戦闘が繰り広げられ、また原住民を教育しての植民地経営も思うようには行かなかったのである。是が非でも中国にドイツの拠点を築きたい、市場規模からいっても中国は 比較にならない、これがドイツの念願であった。明治18年(1885年)、南太平洋のマーシャル群島を獲等したのを手始めに、やがてスペインからカロリン諸島、マリアナ諸島等を二千万マルク で買い取った。南太平洋ではグアム島を除くほぼ全ての島を手中にした。いわば中国進出への第一歩だったといえる。しかし通常の手立てでは、中国の領土を手に入れることは出来ない。 イギリス、フランス、ロシアなどが領土を手に入れた背景は、紛争や戦争などの軍事的行動の結果だった。

明治28年(1895年)の時点ですでにドイツは、将来中国に設けるべきドイツ東アジア艦隊の基地として、三都湾、膠州湾、舟山島、厦門、膨湖諸島、香港に近い大鵬島の六ヶ所を挙げ、 その中でも膠州湾が最適であるとの考えを抱いていた。それに関与したのは、幕末に日本を訪問し、九州地方の地下資源などの調査も行った地質学者リヒトホーフエン男爵だった。

<宣教師殺害事件>

明治30年(1897年)11月14日、山東省曹州府鉅野県張家荘という、山東省でも地の利の悪い辺鄙な村にあった教会堂で、ドイツ人宣教師2名が殺害される事件が起こった。 ドイツにとって格好の口実が出来たことになる。二週間後には早くも、ディーデリヒス中将率いるドイツ東洋艦隊の軍艦三隻が青島沖に現れて、やがて膠州湾内に入り込んだ。中国の新聞によれば、 次のような推測もおこなわれた。

   「…しかし今回の迅速さは、余りに素早すぎる嫌いがある。最も不可解なのは
   先日ドイツ政府が東洋海上にいるドイツの軍艦を日本に集結させるべし、との
   皇帝の命令を下し、ドイツ東洋艦隊司令官が全軍艦を横浜に集結させたことだ。
    ドイツ政府のこの行動は特に不可解だ。というのも数日を経ずして膠州湾を
   占拠する事件が起こったのだ。どうしてドイツ人は山東でキリスト教徒迫害事件
   が起こり、軍事行動を起こすことになると予測できたのだろうか」         
                             (『申報』、1897年11月21日)

青島には当時、約2000の清国兵が駐留し、大小五つの兵営があった。列強の軍艦が頻繁に出没していたことから、清国側も警備を強化していたのであった。しかし清国の軍隊はドイツの艦船が湾内に 入ることも、上陸も阻止しなかった。寧ろ誤解から、歓迎の意を表しようとさえしたのである。つまり、儀礼訪問のためにドイツの艦船が訪れたと誤解したのだ。ドイツ軍の軍艦もそのように錯覚させる 行動を見せた。軍艦から続々とドイツ兵が上陸しても、清国兵たちは何の警戒心も見せなかった。町を一望し、万一攻撃する場合には格好と思われる場所に集結すると、ディーデリヒス司令官は清国の 章高元司令官に対して、三時間以内に武器を放棄して15キロ先の町滄口まで退却することを要求した。これに対して清国兵は、なすすべもなく要求に従わざるを得なかったのである。

<山東半島>

ドイツが欲しがった膠州湾や青島がある山東半島とは、どんなところだったのだろう。山東半島の風土や歴史について若干紹介しよう。孔子の生地曲阜や名山で知られる泰山を有する山東省は、中国でも 早くから文明・文化が開けたところである。

山東半島の気候は比較的温暖で、養蚕が行われ白菜、落花生等の農産物に富み、大規模な塩田で知られた膠州湾の後背地は、石炭を始めとする鉱物資源も豊かだった。青島の緯度は日本に当てはめると、 茨城県の水戸市とほぼ同じである。明治42年(1909年)から大正3年(1913年)の五年間の統計では、平均すると最高気温は7月が29度6分、8月は32度1分、9月が28度2分、最低気温 は12月が零下8度2分、1月で零下11度9分、2月は零下10度1分となっている。最低気温はかなり低いが、中国の中では気候の面で比較的恵まれているといえよう。
2-001 1898年3月頃の青島。左は青島の中国人集落。右は清国の兵営

<労 山>

古くから道教の霊山として知られ、秦の始皇帝や漢の武帝、さらに唐の詩人李白も登ったとされる名山でもある。やがてドイツ人によって「山東のアルプス」とも称されたように、風光明媚な景勝地も多い。 ドイツ時代にはこの山に至る丘陵部に、保養所や別荘が1建てられたのもその証である。

<倭 寇>

明の時代、山東半島の沿岸部一帯は絶えず倭冠の侵攻を受けていた。その防御の施設が半島のあちらこちらにあった。半島先端部の近くには狼煙台が設置され、「煙台」という名の地名も残っている。 ドイツ時代にプリンツ・ハインリヒ山と呼ばれた青島近郊の浮山の麓の浮山所は、かっては倭寇防御の基地があったところである。清朝時代になると倭寇の襲来はなくなり、青島を始めとする沿岸部の集落は、 再び鄙びた漁村に戻っていった。

<膠州湾>

膠州湾の湾口はそれほど広くはないが、入り江は深く、湾に入ると大きく広がっている。軍港・給炭港としては絶好の条件である。湾の奥には広大な塩田が開けていて、更にその奥には膠州の町がある。 湾の名称もその町の名に由来する。ドイツは明治18年(1895年)頃から2年をかけて中国沿岸の測量、更には一級の測量技師を派遣して膠州湾口の水深の測量も行っていた。不凍港を欲しがっていた ロシアも、一時期は膠州湾に狙いを付けていたが、ドイツほどには執着しなかった。
2-002 山東省略図(1905年当時)

<青島の名称の由来>

青島の名は、沖合いに小さな島「青島」があることに由来する。中国では、島に面する海岸部近くの集落にその島の名が付けられることがある。ドイツ時代に青島で最も活気のあった中国人商店街区は大飽島 と呼ばれたが、その街区の対岸の膠州湾には同名の島、つまり大飽島がある。「ターパオタオ」と発音するのがより中国語発音に近いのであろうが、日本人は「タパトー」ないしは「タパタオ」と発音したよう である。後に板東収容所内にドイツ人俘虜による商工業街区が設けられたが、それを俘虜たちは「タパタオ」もしくは「ターパオタオ」と呼んだ。因みに「鮑」の字は、日本では「アワビ」を意味するが、この場合の 「鮑」は、鱸の類の大きな魚を煮汁に漬け込んで、紙などに包んで売られていたことから名づけられた。
2-003 ドイツ時代の青島及び大鮑島
2-004 青島市街図(1908年当時)

ドイツによる青島の建設

<九九ヵ年の租借>

明治31年(1898年)3月6日、ドイツと清国の間で独清条約が締結された。その主たる内容は宣教師二名殺害への賠償金の他に、青島周辺並びに膠州湾一帯551平方キロを99ヵ年租借、青島・済南間 430キロ、及び張店から博山までの支線40キロの鉄道敷設権、沿線15キロ以内での鉱山採掘権等の取得だった。賠償金以外のものこそがドイツにとっては、喉から手が出るほどに欲しかった利権だった。 この99ヵ年の租借という妙案は、ドイツが初めて考え出したものである。この妙案をやがて他の列強が模倣することになった。

ドイツは総督府を置くとともに、海軍に所属する海兵隊と砲兵隊合わせて約1500の兵員を駐屯させ、やがて市街地の形成に取り掛かった。ドイツ占領時の青島は、清国の兵営こそ小さなものを含めて五つほど あったが、実質的には二千人ほどがほそぼそと暮らす小さな村に過ぎなかった。住民たちは専ら漁業を営んでいたが、それは畑となる耕作地が乏しかったことと、そもそも山東半島には満州族が多く、女性は纏足 をしていたために畑仕事をすることが出来なかったからである。周辺の山の多くは、住民が木を切って薪にするために禿山同然の状態で、勢い土地も肥沃ではなかった。

兵営以外の主な建物としては、18世紀末の明の時代に建立された道教の寺院天后宮と、清朝時代の軍役所にあたる鎮守府衙門、衙門防備のために清朝末期に築かれた衙門砲台と灰泉角砲台ぐらいであった。 今日でも有名な青島桟橋はまだ建設の途中段階だった。天后宮は青島に留まらず、膠州湾一帯のところどころに建てられていた。水の女神を祭るとも言われる天后宮は、漁民たちの守り神でもあった。後に日独戦争 によるドイツ兵俘虜が、日本に移送されるために輸送船に乗り込んだ沙子口にも天后宮があった。
2-005 鎮守府衙門
2-006 道教の寺院天后宮
2-007 壁に描かれた巨大な怪物「ドン」

鎮守府衙門の正面に対峙する大きな土壁の壁面には、「ドン」と呼ばれる巨大な怪物が描かれていた。頭は獅子で、全身はワニのような鱗で被われ、尻尾は牛というその怪物は、昇りつつある太陽に向かって口を開けている。 太陽を飲み込もうとしているのである。それは食欲を意味する魔物で、この門を出入りする役人が、賄賂を受け取らないように戒めたものであると言われている。その壁はとうの昔に取り払われてしまったが、孔子の生地 である山東省曲阜の孔子廟には、同じような壁が今日も残されている。

<植林の開始>

市街地建設に当たって総督府は、中国人の民家をことごとく壊して焼き払った。当時の中国は衛生状態が極めて悪かったので、疫病の蔓延を恐れたからである。明治31年(1898年)10月からの1年半で、38名の 将兵がコレラや疫痢、赤痢などの伝染病で死亡している。水質の悪さが最大の原因だった。総督府の衛戊病院が完成するまでは、重病人や手術を要するけが人は、遠く横浜のドイツ海軍病院まで搬送された。横浜にドイツ 海軍病院があつたことは、今日ほとんど知られていない。明治11年(1878年)に横浜市街の山手居留地、今日は外人墓地として知られる辺りに開設され、33年間存続した。治外法権時代にドイツが獲得した利権で、 郵便事業も独自に行っていた。ドイツ人以外の英米の将兵や民間人も治療し、受け入れた患者数は3357名に達した。医学の先進国であつた当時のドイツを偲ばせる。総督府衛戊病院が建設された後、明治44年(1911年) 12月31日に閉鎖された。

鎮守府衙門と天后宮の二つの建物を残して一帯が更地になると、ドイツは市街地の建設にとりかかる。しかし真っ先に行ったことは、青島及びその周辺で植林を開始したことであつた。林学の発祥地ドイツの面目躍如と言える。 飲み水の確保が急務だつたからであろう。総督府の設立と同時に山林局を設けて、「林業に関する総督府告示」を発布している。中国人に対しては木の枝一本の伐採をも禁じ、違反すれば厳罰で臨んだ。なお、青島における林業 については、別の項目で記すことにする。

新市街地の名称として、正式に青島の名が用いられるようになったのは、明治32年(1899年)10月12日、皇帝の裁可を受けて時のテイルピッツ海軍大臣が布告したことによる。それまでも一帯を「チンタオ」と呼んで いたことは、独清条約締結後まもない明治31年(1898年)3月末、山東省を訪れた紀行作家ヘッセ=ヴァルテックが『1898年の山東省とドイツ租借地』の書物の中で、「チンタオ」の言葉を用いていることからも明ら かである。

<青島桟橋>

青島の桟橋は明治24年(1891年)に清朝政府によって、軍需物資を供給するために建設が始まり、翌年に一応の完成を見た。その時の責任者は直隷総督兼北洋大臣の李鴻章であった。やがて数年後に起きた日清戦争では、 終結後に清国全権として下関で伊藤博文と交渉に臨む人物である。青島桟橋はドイツによる占領時代、長さ400メートルへの延長工事が行われ、ほぼ今日の姿になり、青島第一の名所になっている。
2-008 青島桟橋

<ディーデリヒス記念碑>

明治31年(1898年)、ドイツは青島占領を記念して巨大な記念碑を、青島市街ディーデリヒス山の中腹に築造した。岩盤を削り、そこに石のプレートを嵌め込んで造ったものと思われる。高さはおよそ10メートルで、 中央部には羽をひろげた大鷲が描かれ、その足元に斜めに文字が彫られた。またその脇には、中国語による説明文も彫られている。やがて16年後、日本軍が青島を占領するとこの鷲の頭の部分から真下に、「大正三年十一月七日」 の九文字が刻まれた。

この記念碑は日本軍による青島占領終結の時点で、岩山から剥がされて日本に運び去られたとの説がある。平成16年(2004年)の夏頃にこの記念碑の行方をめぐって、日本、ドイツ、中国の研究者の間で様々な推測がインター ネット上を飛び交った。結局のところ分からないままであるが、意外な場所から思いがけずにその一部が出てくることがあるかもしれない。
2-009 ディーデリヒス記念碑

<義和団事件(義和団の乱)>

青島市街の建設は順調だったが、鉄道の敷設は必ずしも順調ではなかった。その理由は、農民側の反発と、明治33年(1900年)頃から山東省を中心に吹き荒れた義和団による妨害である。鉄道線路によって畑が分断されると、 水脈が絶たれることを農民たちは最も恐れた。先祖の墓地を移転しなければならないことも反感を生んだが、風水を守る習慣が農民たちに根付いていたからであった。こうした出来事から、青島の要塞都市化がいよいよ進むことに なった。

拳匪とも、大刀会とも言われた武装集団による義和団事件は、やがて「扶消滅洋」を掲げる政治的な勢力となり、清国政府の後押しによる排外運動になった。山東省に発した騒動は天津からやがて首都北京に移り、いわゆる北清事変 と呼ばれる騒乱状態が生じた。日本を含む列強八カ国の北京進駐は、映画『北京の五五日』としても知られている。その折、黄河河口の清国要塞、大沽砲台の攻撃を指揮した連合国軍指揮官は、シベリア単騎横断で名を馳せた福島安 正少将だった。

義和団事件から北清事変に至る過程では、ドイツの北京駐在公使が殺害される事態が起きた。ドイツは70歳の老伯爵ヴァルダーゼ一元帥を艦隊司令官とする大軍を中国に派遣した。ヴァルダーゼーは列強連合軍の総司令官にも就任 して、北京での清国軍制圧に成功を収めた。帰国の折りには日本を親善訪問し、福島安正少将が出迎えるなど、日本側は朝野を挙げての大歓迎をした。福島安正は後に、日独戦争が始まる直前の大正3年(1914年)8月1日 、青島にマイアー=ヴァルデック総督を訪問する。この時福島安正は関東都督府長官陸軍大将であった。少佐時代に駐独大使館付武官を勤めた福島安正大将の訪問を、ドイツ総督府は断ることが出来なかったのであろう。日本の参 戦が予想された時点での福島大将の訪問は、明らかにドイツ軍偵察の意図があったと思われる。福島安正はその生涯をほぼ情報活動に従事した軍人だったのである。後にあるドイツ兵俘虜は、この福島大将の青島訪問を卑劣な行為 だったとも断じている。

<山東における謎の 「日月印」>

「日月印」 という言葉は、ほとんどの読者にとつて全く馴染みがないであろう。切手の消印に関心を抱く、フィラテリストと呼ばれるごく一部の人間だけが興味を寄せる問題といえる。しかし、切手に押される消印は単に好事家だけ 、あるいは郵便史だけの問題ではなく、政治史的な意味ももっている。ある場所から切手を貼った葉書や封書が届けば、その切手を発行する国家がその地を支配していることを明白に語ることになろう。つまり、通貨よりも実効支配を 示す力があるといえる。アメリカからの返還以前、沖縄では日本政府ではなく、琉球政府が発行するドル、セントの切手が発行されていたことがなによりの証である。

さて、青島を占領するやドイツは直ちに郵便取扱所を開設した。総督府の発足よりも早い明治三一年(1898年)一月二六日のことである。当時の清国においては、近代的な郵便制度が十分に確立していなかつたこともあるが、上海 で使用していたドイツの切手を持ち込んだのである。ドイツの切手を貼った郵便物が世界中に発送されることによって、青島がドイツの支配にあることがいち早く知らされた。後に日本軍がドイツの膠州湾租借地を攻撃したときも、野 戦郵便局は進撃する軍とともに移動して、何万通もの葉書を発送したのである。

話を山東の「日月印」に戻そう。義和団事件もほぼ収束した明治三五年(1902年)から翌年にかけて、山東省のドイツ租借地周辺の一四ヶ所の清国の郵便局で、消印に謎の「日月印」を押されたものが出没した。太陽を表している と思われる丸の中に点がある絵文字と、三日月の形をした絵文字である。「日」と「月」の漢字を意味していると考えられている。この「日月印」が何を意味するのかは、今日においても謎のままである。「日」と「月」を組み合わせ て「明」の字になることから、明朝の復興を意図するとの説もある。しかし、当時の清国の官吏や一般民衆は「扶清滅洋」を掲げていたので、ただちには肯定できない面がある。一四ケ所の郵便局を置く都市は、ドイツの利権や利害と 絡むか、ドイツ人に対する暴動事件が起きたところがほとんどである。反ドイツの暗号との見方もあるが、謎のままで解決をみていない。

郵便の問題に関して多少拘泥したのは、後に日本の俘虜収容所からドイツ兵俘虜たちが夥しい数の郵便物を故国や他の収容所へ書き送っているからである。また、ドイツ兵俘虜や俘虜収容所の研究が、そもそも郵便に関する研究から出 発したといえるからでもある。このことについては後に詳述したい。

<軍備>

ドイツの膠州湾獲得の第一目的は勿論軍事上にあり、東洋におけるドイツの拠点を築くことにあつた。一方貿易港を持ち、経済上の利益を上げることもそれに劣らず重きが置かれた。いくつかの候補地から膠州湾が選ばれたことは、 既に触れたように後背地に有望な鉱山があったことが挙げられる。しかし経済上の権益を守るためにも軍事力的裏付けは当然であつた。膠州湾租借地はアフリカ等の植民地、保護領とは違って植民省ではなく、海軍省管轄に置かれた のは特別な意味があつたからであろう。本国政府から毎年巨額の軍事費が注ぎ込まれ、青島は一面要塞都市と思われるほどでもあつた。大正三年(1914年)の時点での青島ドイツ軍の規模を、『日獨戦史』から記してみる。 但し、部隊名については、この書物の名称ではなく、後に一般的に使用される名称に変えてある。

青島駐屯部隊は、将校以下2180名で、その内訳は次の通りである。
第三海兵大隊(本隊並びに歩兵四中隊、騎兵一中隊、機関銃隊)・・1180名。
海軍野砲兵中隊・・約100名。前記大隊に属する。
海軍工兵中隊・・約150名。前記大隊に属する。
海軍膠州砲兵隊(本隊並びに四中隊)・・750名。

右記以外に、海軍東アジア分遣隊 (総員約460名)が北京及び天津とその周辺に駐屯していた。このように部隊名には海軍の名が付けられているが、実はその実態は陸軍といえるものである。純粋な海軍部隊は、海軍膠州砲兵隊 のみといえる。

軍事施設としてはビスマルク、モルトケ、イルチスの三つの兵営が先ず挙げられるが、各所に砲台が築かれた。ドイツによる占領以前からあつた衙門、台西鎮、灰泉角(会前岬)の三砲台に加えて、ビスマルク山、モルトケ山、 イルチス山にはいくつかの砲台が据えられ、更に浮山、台東鎮、海泊河口左岸とやがては続々と砲台が築かれた。

ドイツ東洋艦隊に所属する艦船としては、巡洋艦「シヤルンホルスト」と「グナイゼナウ」、軽巡洋艦として「エムデン」、「ニュルンベルク」、「ライプチヒ」の三艦が配備され、南太平洋のドイツ植民地との間を往来していた。

これほどの軍備を保持していても、日本との戦争では実質一ヵ月半で降伏することになつった。海軍省膠州課長で日独戦争勃発とともに、総督府の情報部長に就いたフォラートゥン大佐は、「青島の建設はヨーロッパの国との紛争 及び中国の内乱を想定して築かれたもので、日本を想定していなかった」と述べている。
2-010 灰泉角砲台

<港湾施設>

青島港の建設は、ドイツ膠州湾租借地の根幹であり、生命そのものであるともいえた。明治32年(1899年)の着工から明治40年(1907年)の完成にいたるまでに、5000万マルクが投資された。その額は山東経営総経費 の約四分の一である。

港には大港と小港の二つがあつた。大港の第一埠頭と第二埠頭を合わせて、6000トン級の船一二隻の係留が可能で、第三埠頭には石油貯蔵庫と海軍工廠が設けられた。また各埠頭には鉄道の引込み線が敷設されてもいた。小港は専 ら中国人のジャンク船の出入りに使用された。

<林 業>

青島市街地や周辺の地域に、アカシア、赤松、黒松、落葉松、桜等、650種に及ぶ数百万本の樹木が世界中から集められて移植された。特に日本からは数十種類の桜数万本が運ばれて植えられた。植林の総面積は1240ヘクタール に及んだ。異様なほどの情熱で植林を行った背景には、各所に点在する砲台を隠すためであつた、とのうがった見方もある。しかし、山林局内には農事試験場を併設して、土壌・肥料の改良から作物の品種改良も行い、技術者たちは 後述する徳華(独中)高等専門学校の農林科で、中国人生徒の指導にも当つった。ドイツが植林事業に投資した額は230万マルクであつた。

こうして青島は緑豊かな、一種理想的なドイツの町となり、「東洋の真珠」とも、「小ベルリン」とも称された。また青島のヴィクトリア湾沿いの海水浴場は、ドイツ人からは「極東のオーステンデ(ベルギーの海水浴場)」と、また 最大の利用客であつたイギリス人からは 「中国のブライトン(イギリスの海水浴場)とも喩えられた。青島は緑美しいドイツ風の町だった。お雇い医師のエルヴィン・ベルツは、明治36年(1903年)7月(15日から17日)の 日記にこう記している。

「東アジアを旅行するものは初めて青島を見てびっくりする。感じのよい、絵のような形の湾内に位置を占め、灰色、赤、緑と色とりどりの山のふもとに沿って、一見乱雑なように建ってはいるが、清らかな美しい都会で、家屋も多く は別荘風のものである」

<地名も変遷>

青島市街の街路や兵営には、ドイツの都市、王侯貴族、青島建設に功績のあつた将軍・学者の名が付けられ、市内の丘や周辺の山々にもドイツ語名が付けられた。例えばビスマルク兵営、モルトケ兵営、ベルリン街、ハインリヒ皇子 街、イレーネ街、テイルビッツ街、ディーデリヒス山等である。そしてやがて日本軍による占領・統治後、これらの名称は全て日本語名になつた。例えば前記の兵営や地名は、万年兵営、若鶴兵営、麻布町、佐賀町、久留米町、忠海 町、神尾山という風に改められた。中国に返還後はこれらの地名は当然中国名になるなど、青島及びその周辺の地名は、ドイツ語、日本語、中国語の地名と支配国によって変遷した。青島の名称の由来となった島「青島」も、「アル コナ島」、「加藤島」と変遷し、今日は「小青島」と呼ばれている。

<ガイドブックも>

青島の建造物や周辺の名所・旧跡を辿る案内書、ガイドブックも発行された。ドイツ語版だけではなく、英語版も出版されて版を重ねたことは、ドイツ人にとっても、またイギリス人を始めとする欧米人にも、青島がどれほど気に入ら れていたかを物語っている。そのガイドブックは、今日風に言えば、さながら「青島の歩きかた」と言えるもので、青島駅や青島桟橋を出発点にして、徒歩で何分、距離は何キロ、途中にはどんな建物があるのか、どこで道を曲がるか を、写真百枚以上を挿入して懇切丁寧に説明している。青島やその周辺に限らず、山東鉄道沿線の旅行案内にもなっている。
2-011 青島桟橋

<煙突掃除>

青島市街地で家屋を建てる場合にほ、細かい規定・規則があつた。その詳細は措くとして、煙突掃除はドイツの家屋では必要不可欠だつた。青島でも明治38年(1905年)に『青島官報』で公布された「煙突掃除強制に関する規則 施行細目」で、煙突掃除人の年齢、経験、親方の証明書等の資格から、試験科目に至るまでの細かい規則があった。ドイツ本国と全く同じであつた。青島市内を、黒い服を着て黒いシルクハットを被った煙突掃除人が歩き回っていた、 と想像すると愉快である。

<海 運>

歴史的にドイツの海運業は、ハンザ都市の物資を運ぶことで中世以来発展してきたが、近世はオランダ、イギリスに押されぎみだつた。しかし1847年ハンブルクにハンブルク・アメリカ汽船が設立されるとにわかに活気づいた。 ハンブルク・アメリカ汽船会社と北ドイツ・ロイド汽船の二つの船会社は、20世紀初頭には世界有数の会社になっていた。

特にハンブルク・アメリカ汽船会社は、第一次大戦直前には世界最大の汽船会社となり、所有船舶の数は206隻、総トン数は136万トンであつた。アジア地域では不定期欧州航路を就航させていたほか、定期近海航路としては 上海を起点として、青島、芝罘、大連、天津を結んでいた。第一次大戦中には、所有する船舶の多くが軍艦に転用され、大戦終結後の大正8年(1919年)には、その所有する船舶は5隻、4000トンにまで減少した。

<ドイツ・アジア銀行>

明治22年(1889年)5月に設立され、建物は明治22年(1889年)から明治24年(1901年)にかけて建てられた。資本金は750万上海両。ドイツ銀行、メンデルスゾーン銀行、北ドイツ銀行、バイエルン抵当銀行等 の13銀行・企業が出資した。本店は上海にあり、青島と山東省の省都済南に支店を置いた。後には横浜、神戸にも支店を構えるなど13支店を有した。

<山東鉄道会社>

山東鉄道会社は、明治32年(1899年)6月1日、ドイツ・アジア銀行など14の銀行、企業が計5400万マルクを出資して設立された民間会社である。ドイツが青島に投資した施設としては、大港とならぶ大規模な事業であつた。 起工式は明治32年(1899年)9月28日に、ドイツ皇弟ハインリヒの鍬入れで行われ、明治37年(1904年)6月1日に青島・済南間430キロと張店・博山間の支線40キロの開通式が行われた。鉄道敷設に従事した 中国人労働者は、1日2万人から2万5000人だった。ドイツ人社員は僅か61名で、中国人を多数雇い、会社内に鉄道学校を設けて、中国人鉄道員の養成を行った。

<山東鉱山会社>

明治34年(1901年)10月10日、前記山東鉄道会社と同じ銀行・企業グループにより資本金1200万マルクで設立された。山東鉄道会社の兄弟会社といえる。ドイツ人社員数は71名で、坑内外で働く中国人の数は 2330名に及んだ。坊子竪坑を含む三つの竪坑を切り開いて石炭を掘り出し、それを山東鉄道で輸出尉や家庭燃料用として青島に運んだ。経営状態は必ずしも良くはなかつた。例えば坊子炭鉱の採炭量は、明治44年(1911年) では53万3000トンであつたものが、大正2年(1913三年)には19万9000トンに落ち込んでいる。やがて採算の取れないいくつかの鉱山は、後に中国に返還された。やがて製鉄所の建設を計画し、大正3年 (1914年)6月、着工に取り掛かつたところで日独戦争となつて頓挫した。



ドイツ時代にどのような建物があつたか、主な建造物について記してみよう。

<総督府>

総督山に明治36年(1903年)から明治39年(1906年) にかけて建てられた。地下室から三階にかけて150余の室があり、建造費約85万マルクだった。日本の占領・統治時代は守備軍司令部となった。

<総督官邸>

ディーデリヒス山に明治38年(1905年)から明治40年(1907年)かけて建てられた。花崗岩を用いた高さ30メートル、建築面積4080平方メートル、建造費約100万マルクであつた。豪華絢爛、贅を尽くした 建築で、下水管には銅を用いるなど、庭園を含めた周辺設備を合わせると350万マルクにも達したと言われる。そのためトゥルッペル総督は本国の議会で批判を招き、年俸5万マルクが4万マルクに減俸され、トゥルツペル総督 はそれを不服として辞任した。日本の占領・統治時代は守備軍司令官官邸として使われた。なお、ディーデリヒス山は神尾山となった。


2-012 総督官邸
2-013 郵便局

<郵政局>

明治34年(1901年)、プリンツ・ハインリヒ街とアルベルト街が交差する角に、石造り三階で建てられた。ドイツ時代の建造物では比較的早くに建設された。郵便業務の重要性を示すものである。租借地内のドイツの郵便 局としては、郵政局内の青島郵便局の他に、青島大飽島、青島大港、台東鎮及び膠州、高密、李村、沙子口、四方、槍口、労山保養所、塔埠頭に設けられた。なお、中国には青島の他に上海、北京、天津、煙台、済南、漢口、南京、 鎮江、福州、廣門、仙頭、広州の広範囲にドイツの郵便局が設置された。膠州湾租借地は海軍省の直轄地であったが、郵便事業だけは逓信省の管轄下にあった。

<総督府衛成病院>

総督府のある総督山北東の敷地約6万6000平方メートル(約2万坪)の広大な土地に、明治31年(1898年)起工し、300万マルクの巨費を投じて明治35年(1902年)に完成した。小児病棟、婦人病棟、結核病棟、 精神科病棟等を含む15棟から成り、ベッド数は150床だった。医師の数は院長を含めて6名、いずれも海軍軍医であった。後に李村、四方、即墨、膠州等に診療所を設けて出張診療も行った。日露戦争当時、約200名の ロシア軍負傷兵が旅順から逃げ延びて、ここで治療を受けたとも言われる。

<ビスマルク兵営>

明治36年(1903年)、ビスマルク山の西南の麓に建設費約75万マルクで建てられた。花崗岩の石造り三階建てで、コの字形の配置をしていた。騎兵中隊を除く第三大海兵大隊の兵営として用いられた。日独戦争時には ドイツ総督府の参謀本部が置かれた。日本による占領・統治時代は万年兵営と呼ばれ、ビスマルク山も万年山と改称された。

<モルトケ兵営>

モルトケ山の東、プリンツ・ハインリヒ山の麓に、建設費約50万マルクで建てられた。騎兵中隊、機関銃隊、工兵中隊、海軍野戦砲兵隊の兵営だった。日独戦争終結の開城交渉が行われ、日本による占領・統治時代は若鶴兵営 と呼ばれ、兵営内に青島俘虜収容所が設置された。またモルトケ山も若鶴山と改称された。

<イルチス兵営>

イルチス山の西南の麓に、明治32年(1899年)から明治34年(1901年)に建てられた。建設費は約95万マルクであつた。ヴェランダ風のテラスを持つ二階建てで、夏の熱さを凌ぐための構造であつた。 海軍膠州砲兵隊の兵営だつた。日本による占領・統治時代は旭兵営と呼ばれ、イルチス山も旭山と改称された。


2-014 ビスマルク兵営
2-015 イルチス兵営

<カトリック教会天主堂>

明治35年(1902年)に完成したスタイル派神言会のカトリック教会。明治30年(1897年)に曹州府で宣教師殺害事件が起り、それをきっかけにしてドイツは膠州湾占拠を実行した。殺害された宣教師こそ スタイル派の伝道師であった。ベルリン街とルイトボルト街が交差する場所に、威風堂々と建つ、広壮にしてかつ壮麗な建造物である。それらはドイツ政府が建造して、教会に与えたものである。?州府に本部を持つ.ドイツ 海外女子学校、高等女子学校を併設し、敷地面積は3000平方フィートであった。

<プリンツ・ハインリヒ・ホテル>

青島のヴィルヘルム皇帝滴岸通りに明指32年(1899年)に建設された。同ホテルの名は青島と格別にゆかりのあるドイツ皇帝の弟ハインリヒ皇子に因み、青島随一の豪華なホテルであつた。花崗岩を用いた二階建ての 白亜のホテルは、その豪華さで東京の帝国ホテル、横浜のグランドホテルと比べても遜色ないと言われた。部屋数は大小80室で、他にヴェランダ、テラス、婦人室、倶楽部室、読書室、控室があり、また舞台を備えたホール があつた。一ヶ月の滞在費100ドル(約160万円) から150ドル(240万円)だった。パーティー、舞踏会が繰り広げられ、演奏会や演劇もしばしば開催された。この豪華なホテルも日独戦争中は臨時野戦病院に 充てられた。


2-016 カトリック教会天主堂
2-017 プリンツ・ハインリヒ・ホテル

<メクレンブルクハウス(柳樹台保養所)>

労山中腹、標高460メートルの柳樹台に建てられたメクレンブルクハウスは、ドイツ本国の東アジア救済会及慈善彩票会の寄付により建設され、明治37年(1904年)に開業した。名前の由来は、最高額寄付者 メクレンブルク公爵による。元来はドイツ人官吏、軍人の保養施設及び療養施設として建てられたが、余裕のあるときは、ドイツ人以外の外国人にもその利用が開放された。山腹には総督の別荘もあつた。近くには 九水及び北九水の景勝地もあり、秦の始皇帝、漢の武帝、詩仙李白も登った労山は、山東では泰山に並ぶ名山として古くから知られていた山である。

<ゲルマニア麦酒会社>

いわゆる青島麦酒会社は、明治37年(1904年)にドイツ人の他英米仏の民間人による資本金40万マルクで設立された。資本提供者のほとんどはもちろんドイツ人だった。設立以前、ビールは日本及びドイツ本国 から輸入されていたが、ビールの需要は青島に留まらず、中国本土でも高まっていた。明治38年(1905年)からゲルマニアの銘柄名で販売された。北京、天津、上海、香港と、その販路はたちまちにして拡大し、 明治44年(1911年)には輸出量は3万2000ガロンに達した。しかし、原料がドイツ本国からの輸入であったことと、中ビン1本(330ミリリットル)が20ペニヒで日本製ビールより高価だったことから、 日本製に対抗するまでには至らなかった。


2-018 労山と北九水
2-019 ゲルマニア麥酒会社

<徳華(独中)高等専門学校>

明治42年(1909年)10月25日、中国人子弟のために設立された。創設費は64万マルクで、その内訳はドイツ政府60万マルク、清国政府4万マルクだつた。予科は修学年限5年で、中等・高等を折衷した学科であつた。 ここではドイツ語の履修に重点が置かれた。その理由の一つは、更に本格的に学ぶためには日本留学が必要であり、ドイツ語はその上でも不可欠だつたからである。本科は法政、医科、農林科、工科の四学科に分かれ、 修学年限は法政と農林が3年、医科と工科は4年であつた。学院内には図書館、博物館、翻訳局等の設備があり、図書館には独、考仏等の洋書5000冊、漢書8000冊が所蔵され、博物館には標本、模型その他最新の器具、 機械が備えられていた。その所有する書籍や実験設備は、日本の大学にも引けをとらないものだった。入学者は増加の一途をたどり、大正2年(1913年)9月末の在籍者は予科が301名、本科は67名、 大正3年(1914年)には予科生500名を数えるに至った。第一次大戦終結後に結ばれたヴェルサイユ条約では、青島のドイツの官有財産は日本の所有するところとなつたが、徳華高等専門学校の蔵書はいわゆる「歯獲書籍」 として日本に送られ、当時の大学や高等学校等に寄贈された。先頃、愛媛大学(前身は旧制松山高等学校)、山形大学(同じく旧制山形高等学校)の図書館で、大量の「青島守備軍寄贈」の印が押された書籍が発見された。 それこそすなわち歯獲書籍2万6260冊の一部である。


2-020 鹵獲書籍

<屠畜場>

官営の施設で明治37年(1904年)に起工し、2年後に完成した。建築費85万マルクを要した東洋一の設備だった。5300坪余の広大な敷地には、検査場、処理場、厩舎、消毒室、冷蔵庫のほかに研究室もあった。 冬季における輸出用の一日あたりの処理数は400頭、明治40年(1907年)の輸出額は約6万5000マルクだったのが、大正2年(1913年)には22万6000マルクと3倍強に達し、総督府における重要な 財源となりつつあつた。

<青島の文化生活>

明治43年(1910年)には欧米人約1500名が暮らし、10以上の様々な文化サークルが生れて、音楽会や講演会を楽しんでいた。音楽は第三海兵大隊や海軍膠州砲兵隊の軍楽隊によって、クラシック音楽から ジャズに至るまで演奏された。秋期、冬期には演劇、芸術・科学講演会も頻繁に開かれた。やがてドイツ人たちが俘虜として日本の収容所に収容された際、様々な講習会が行われた背景には、こうした青島での生活が あったからと思われる。退屈が最大の敵であつたともいわれる収容所生活では、とり分け音楽と演劇が俘虜にとっては最大の娯楽であつた。

後に日本人が住むことになつた青島は、その町並みだけではなく、生活そのものが西洋風の趣があったと言われる。指揮者石丸寛(大正11年〜平成10年、1922〜1998)、ミリオンセラーともなった世界的なヒット曲 「上を向いて歩こう」の作曲者中村八大(昭和6年〜平成4年、1931〜1992)は、青島で少年時代や青春時代を送った。彼らの音楽基盤は、日本内地とは一味違った青島での生活にあったと言えるかもしれない。

アウグステ・ヴィクトリア湾沿いにあつた広大な練兵場は、競馬やスポーツフェスティヴアルにも利用された。日独戦争後、俘虜として日本に送られ、やがて収容所が統合されて運動場が確保されると、サッカーやテニスの競技に 限らず、組み体操やレスリングなどが行われたが、その下地も青島の練兵場にあった。

<高橋写真館>

青島が町としての体裁を整えると、ドイツ本国から徐々に職人や商人がやってきた。そんな中で、写真館だけはどういうわけか、日本人経営の高橋写真館が隆盛を極めた。青島勤務のドイツ人将兵は必ずと言っていいほどに、 この写真館でスナップ写真を撮ってもらったという。青島を訪れるドイツ人旅行者たちもここで記念写真を撮り、また高橋写真館が発行した青島市街や青島周辺の名所・旧跡の絵葉書を買い求めた。技量が優れていたのと、 会話術が巧みだったとは、やがて日本の俘虜となった人物の報告が語るところである。しかし日本が占領・統治すると、高橋写真館にとつて代わったのが三船写真館で、日本軍御用達の写真館ともなった。世界的俳優で知られた 三船敏郎はその写真館主三船秋香の息子で、大正9年に青島で生れた。

<青島の人口>

大正2年(1913年)8月1日発行の『膠州湾総督府官報』の統計に依拠した『山東及膠州湾』によれば、青島の人口は、5万5708人で、その内訳はドイツ人1855人、その他の欧米人124人、日本人327人、 中国人5万3212人と記されている。ドイツ人の数は当然ながら、兵営等にいる軍人・兵士は含まない、住民の数であろう。従って、軍人・兵士を含むドイツ人は、4000人以上と考えるべきである。ところで中国人を除くと、 ドイツ人についで日本人が多かったことは、青島が早くから日本人の関心を引き寄せていたことをうかがわせる。その一例として、明治25年(1892年)には、青島と山東半島を挟んで反対側の港町龍口に店を出していた 岩城商店があった。この会社は、日独戦争開戦以前から膠州湾で海運業を営んでいた唯一の日本人海運業者である。青島、威海衛、芝宋、大連間を週に一度回航する定期船と、南洋、香港、朝鮮、ウラジオストックを回航する 不定期船を所有していた。

<歴代膠州総督>

初代総督:カール・ローゼンダール (Carl Rosendahl 1852〜1917)

1898年1月4日、海軍大佐として膠州湾占領地区の守備に当たる膠州海兵隊司令官に任ぜられる。着任までの代理はトルッペル海軍中佐が 当たつた。4月16日初代膠州総督に就任し、1899年3月16日、第二代総督イェシュケと交代した。

第二代総督:パウル・イェシュケ(Paul Jaeschke 1851〜1901)

1899年3月16日に、ローゼンダールの後を襲って第二代総督に就任した。1899年の義和団事件勃発に際して、アンツアー司教が初めて軍隊の出動を要請した時の総督。1901年1月27日、青島で死去した。

第三代総督:オスカル・フォン・トゥルッペル(Oskar von Truppel 1854〜1931)

1898年1月26日、2隻の輸送船で歩兵1155名、砲兵303名を率いて青島に上陸し、2月11日それまでの暫定司令官と交代して海兵隊司令官となり、また民政の執政官にもなつた。4月16日、ローゼンダール 大佐に替わつた。1901年2月20日第三代膠州総督に就任し、1911年まで10年間その任にあつた。青島経営に費用がかかり過ぎるのと、華美を尽くした総督邸建設の非難を本国の議会で浴び、やがて年俸を5万マルク から4万マルクに減額され、それを不満として辞任した。その折りの参謀長はマイアー=ヴァルデック海軍大佐だつた。後に大将となり、『青島の陥落』(1914年)の著作を遺した。

第四代総督:アルフレート・マイアー=ヴァルデック(Alfred Meyer-Waldeck 1864〜1928)

1864年11月27日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた。父親はサンクトペテルブルク大学のドイツ文学教授だつた。10歳の時父親は退職し、一家はハイデルベルクに移り住んだ。大学で一年間歴史学を学んだ後 海軍に入り、1908年に青島に赴任して、1911年まで総督府参謀長を務めた。同年8月19日、トゥルツペル総督の後任として第四代膠州総督に就任、植民地加俸、交際費等を含めた年俸は5万マルクだった。 身長190センチの長躯で胸幅厚く、白髪まじりの山羊髭をたくわえた風貌はロシアの将軍を思わせた。