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日独戦争・独軍俘虜
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「日独戦争とドイツ人俘虜」
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「青島戦当時のドイツ軍の「部隊名・階級名」をめぐって」
「《研究ノート》第一次大戦期の青島ドイツ兵捕虜に関するいくつかの問題」
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「1918年大流行したスペイン風邪は鳥ウイルス原因」
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「日本占領時代の山東鉄道の地図」
「ドイツ占領時代の青島の地図」
書評 松尾展成著 『日本=ザクセン文化交流史研究』
「ドイツ・オーストリア軍の階級表」
青島戦時のドイツ軍の「部隊名・階級名」を中心に, レジメ, 本文, 独国陸軍官階表, 所属, 私案, 追記
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ソーセージに関する備忘
青島街路・町名の独日中対照一覧表 (1898年から1949年)


日独戦争

瀬戸武彦 著『青島(チンタオ)から来た兵士たち ―― 第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』(同学社、2006年6月9日発行)より同学社の許可を得て転載。

<青島へ侵攻>

日本は陸海軍合わせて7万余の大軍を山東半島に向けて派遣した。海軍は3つの艦隊、大小合わせて47隻の軍艦を派遣した。ドイツ軍には、援軍として加わつたオーストリア=ハンガリー二重帝国の巡洋艦を加えても、 僅か数隻しかなかった。しかし、青島を防御するドイツ軍の攻撃に直接関わつたのは陸軍である。陸軍は、福岡県の久留米に司令部を置く、歩兵第一八師団が中心となつて特別に編成された、独立第一八師団が攻撃の主体を担った。 青島(せいとう)攻囲軍と名付けられた独立師団を率いたのは司令官神尾光臣中将である。神尾光臣中将は、『カインの末裔』や『生れ出づる悩み』の作品で知られる、白樺派の小説家有島武郎の義父だった。やがてドイツ軍を降伏 させて東京に凱旋した神尾中将を、有島武郎は妻や子供たちとともに東京駅に出迎えている。実はその日が、ちょうど東京駅開業式の目でもあつた。

青島は緑美しい町ではあったが、その周囲には堅固な要塞が数多く設けられ、一種の要塞都市であった。膠州湾内に入ることや、青島の町に直接近づくことは困難だった。そこで日本軍は、山東半島の青島とは反対側の龍口という 港町に部隊を上陸させて、数百キロ先の青島へ進軍したのである。龍口は先に触れたように、日本の海運業者が活動していたので、部隊を上陸させるのにも適していたのであろう。

ごく概要だけ、日独両軍の部隊編成について記してみたい。

<ドイツ総督府守備軍>

膠州総督府参謀本部
総督マイアー=ヴァルデック海軍大佐
副官カイザー陸軍少佐、参謀長ザクサー海軍大佐、参謀べヒトルスハイム海軍大尉、
情報部長フォラートゥン海軍大佐(海軍省膠州課長)等。


第三海兵大隊(2334名)
海軍膠州砲兵隊(1173名)
海軍東アジア分遣隊((421名)
動員国民軍(128名)
巡洋艦皇后エリーザベト(398名)
砲艦ヤーグアル(122名)
その他(248名)

なお、( ) 内の数字は、俘虜4715名の部隊別等の人員数で、青島ドイツ軍の正確な数値ではない。戦死者等が算入されていないし、青島以外で俘虜となった者も含まれているからである。しかし、ある程度ドイツ軍の規模 を想像することが出来るであろう。

戦死者やイギリス軍管轄の香港収容所に送られた俘虜もいたことから、ドイツ軍の総勢は5000名余と考えられる。しかしこの5000名余がすべて現役兵ではなかった。予備役、後備役と呼ばれる臨時の応召兵が2000名近く いた。日本を含む東アジアで様々な職業に就いていた人々である。大学で農学やドイツ語、ラテン語を教えていた者もいれば、商社、銀行、郵便局、鉄道会社、鉱山会社などで働いていた人々もいた。商人、職人も数多くいた。 日独戦争の勃発に際して総督府は、大正3年(1914年)8月3日に予備、後備、補充予備を召集する動員令を東アジア一帯に発布したからである。その中には日本から応召した118名も含まれていた。

<日本軍の編成部隊>

独立第一八師団 (1万5092名)
師団長神尾光臣陸軍中将
参謀長山梨半造陸軍少将
歩兵第二三旅団 (旅団長堀内文次郎少将、歩兵第四六連隊、歩兵第五五連隊)
歩兵第二四旅団 (旅団長山田良水少将、歩兵第四八連隊、歩兵第五六連隊)
歩兵第二九旅団 (旅団長浄法寺五郎少将、歩兵第三四連隊、歩兵第六七連隊)

右記以外に、近衛、第一、第三、第一五の各師団のそれぞれ一部(6758名)、その他独立歩兵大隊(2090名)、野戦重砲兵第一、第二(5931名)、独立攻城砲兵四個大隊(2440名)、工兵大隊五個大隊 (3805名)、鉄道大隊(3000名)等の多数の部隊を合わせると、陸軍の総員は5万1880名だった。(『日濁戦史』による)

一方海軍はドイツ側が編纂した『青島戦史』によれば、三艦隊合わせて2万5276名と推計されている。青島攻略に従軍した日本陸海軍の兵員の総合計は、実に7万8656名に及ぶ。

9月2日に龍口に上陸した日本軍は、じわじわと青島に向かって進軍し、また海軍は青島の沖の艦船から艦砲射撃を行った。戦闘は、9月26日から激しくなり、史上初の航空機による空中戦も数度にわたって行われた。 しかし、多勢に無勢で、さしものドイツ軍も1ヵ月半後の11月7日未明、白旗を掲げて降伏することになる。

<一時休戦>

戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦を取り決める会談が大正3年(1914年)10月12日に東呉家村で行われた。ドイツ側の代表はベヒトルスハイム海軍大尉で、胸には日本の旭日章を付けていた。かって伊集院五郎海軍 大将がキール軍港を視察した際に、案内役を果たしたことから授与されたものであった。その折、ドイツ人婦女子等の避難も合意され、15日に避難船が用意された。日本側の代表は山田耕三陸軍大尉で、15日にはドイツ人婦女子 を乗せた避難船に同乗して塔埠頭まで行き、さらに膠州からは山東鉄道で省都済南まで同行した。

<プリュショー海軍中尉>

唯一保持していた航空機で、日本軍複葉機と空中戦を行ったのはプリュショー海軍中尉で、青島の中国人からは「青島の鳥人」とも「青島の鳥王」とも呼ばれた。プリュショー海軍中尉は大正3年(1914年)2月末、ベルリンの ヨハニスタール飛行場で高度5500メートルの当時の世界最高記録を樹立し、大正3年(1914年)3月上旬に6年振りで青島に赴任したのであった。戦闘の最後には総督の命を受けて、11月6日午前6時、日の出とともに 上海へ向けて青島を脱出した。給油で着陸した江蘇省海州近郊で、中国官憲により機体没収の通告を受けたことから機体を破壊・炎上させ、陸路上海へ向かった。12月5日、上海発サンフランシスコ行きの汽船モンゴリア号に乗船 し、12月8日長崎港に寄港、検査・検閲を受けるが食中毒を装い逃れた。(『青島から飛び出して』170頁)

「余が以前から知っている長崎の陸地を船内から眺めた。…青島からの凱旋軍を迎える満艦飾で港も町も飾られていた。船内には青島を退去させられたドイツ人も大勢いた」

更に神戸、横浜に寄港し、ホノルルを経由してアメリカ本土に着いた。大正4年(1915年)1月2日サンフランシスコを去り、2月8日ジブラルタルに到着するが、イギリス軍の検問で露見して俘虜となった。イギリスで数ケ所 の収容所を転々とし、やがてダービーに近いロングイートンにあるドニングトン・ホールの将校俘虜収容所に入れられた。月給として210マルク(約60円、今日の物価では約40万)を支給された。

大正4年(1915年)7月4日に脱走してオランダの貨物船の救難用ボートに忍び込み、7月13日ベルリンに帰還した。ドイツ皇帝から「鉄十字章功一級」が贈られ、前記著作は70万部のベストセラーとなり、プリユショー中尉 は英雄として称えられた。その後軍籍を離れて民間飛行家となり、昭和6年(1931年)1月28日、アルゼンチンで複葉二人乗りの「チンタオ」号を操縦中に、墜落事故を起こして死亡した。

<イギリス軍部隊>

日本は日英同盟の誼からドイツの膠州湾租借地を攻撃したが、イギリス革もバーナジスト少将が2000の兵を率いて、青島攻撃に加わった。しかし、イギリス軍の影が薄いのには、一つの理由があつた。夜間の戦闘では、イギリス兵 とドイツ兵との識別が日本側の兵士には付きにくく、日本軍の銃撃を受けて死亡するイギリス兵が出たのである。そこでイギリス軍は後方に退くほかなかった。

<佐久間大尉と横綱常陸山>

9月18日における白沙河左岸における戦闘では、日独両軍の将校に戦死者が出た。日本側は佐久間善次騎兵大尉で、ドイツ側は元第三近衛騎兵連隊所属の男爵リーデゼール・ツー・アイゼナハ予備少尉である。リーデゼール予備少尉 の戦死はドイツ側にとって衝撃であったが、佐久間大尉の戦死も、時の横綱常陸山に思わぬ余波を与えるなど、日本側にとって大きなニュースとなった。当時の新聞は以下のように伝えている。

「京都祇園の東京大相撲20日の千秋楽に、常陸山は梅ヶ谷と取り組み敗れたるが、常陸山が土俵に上がる凡そ20分前、佐久間善次少佐戦死す、との朝日新聞号外場内にて朗読さるゝを聞き大いに驚き悄然として 『佐久間さんとは水戸中学で私の学友でした、此間出征前に返信を戴きました』と語り力なく土俵に上がりたりと」

第19代横綱常陸山は、梅ヶ谷とともに「梅・常陸時代」を築いた明治時代を代表する名横綱で、9年の横綱在位期間に8敗しかしなかつた。水戸中学に学んだ当時としてはインテリ力士でもあつた。この出来事は「常陸山の落涙」 として新聞紙上で話題になった。この年を最後に常陸山は引退し、翌大正4年(1915年)、ドイツ兵俘虜慰問のための興行を四国で行った。松山俘虜収容所新聞『陣営の火』第1巻第13号には、常陸山が松山を訪問したことが 記されている。常陸山はかって、ハンブルクで巡業を行ったこともあった。

<シラーの詩集と女物のハンカチ>

妙に文学っぽいタイトルを掲げたのは、ある従軍記者の戦況報告とも関連するからである。以下は大正3年(1914年)11月2日付 朝日新聞に、「勇敢にして優雅なドイツ青年将校」と題して掲載された従軍記者美土路春泥の戦況 記事である。

「敵ながら哀れにも勇ましき物語がある。去る9月18日、我が軍の一部が努山湾に上陸の当時、湾を脚下する巌山の上の監視哨にあって、絶えず我が軍の行動を偵察して居た一隊があった。我が海軍のために撃退されて退却したが、 その際遺棄し去った革鞄の中には、控が数通収められて居た。その訳文は、18日ウンチャンに於ける斥候より陸戦隊司令官及びアンデルス枝隊に送りたる報告

小王村の北方小高地の麓に強力の歩兵(三中隊以上) 休憩中、…ここより前の報告3隻の外か、2本煙突を有する軍艦みゆ。−フォン・フリーズ少尉署名

9時30分、軍隊は撤去す。前進の方向は諸山のため未だ決定せず。
10時5分、多数の人員を載せたる小端艇は、絶えず軍艦及び商船より陸に向かって通行中。−フォン・フリーズ少尉署名」

参謀本部が大正5年に編纂した『日濁戦史』は、日独戦争の経緯、経過を詳細に纏めた戦史であるが、その上巻には本文中の随所に挿入された(付記)というドイツ軍側の資料に、このフォン・フリース少尉の名が何度も登場する。 斥候として日本軍の動静を細かく監視して報告していたフォン・フリース少尉の行動は、日本軍にとって脅威であると同時に、一種畏敬の念をもたらしていた。美土路春泥のフォン・フリース少尉に関する報告は更に続く。

「これによって始めて敵の将校斥候であつた事が判明するとともに、この大胆な貴族出のフォン・フリーズ少尉なる名は我が軍の人々に刻まれた。(中略)越えて9月27、8日の両日に亘って、我が左翼軍の一部は非常なる苦戦の 末に第一線を占領と同時に、重砲兵陣地なるワルデルゼ一高地もついに陥落して、佐賀山と名を改めた。(中略)10月4日の夜に至って、我が斥候将校はその中から敵のらしい死骸に遭遇して、後日の手懸かりに懐中品と20米 突ばかり離れて飛んで居た革の千切れた背嚢とを携えて帰った。まず改めた認識票には(111.S.B.5K.157)とあったが、名前は判らなかった。」

右記引用文中の括弧内に示された(111.S.B.5K.157)は、第3海兵大隊第5中隊157番の意である。春泥の文章は更に続く。

「懐中には(…)命令書が入っていた。その命令書には、《張村附近に退却して、柳樹台及び河東の敵を捜索して、沙子口附近の警戒をなすべし。》署名はアンデルス少佐で、宛名はフォン・フリーズ少尉殿!始めてこの死体は、 勇敢なるかのフォン・フリーズなる事が判明した。我が将兵のことごとく、好個の青年士官のために暗然として征衣の袖を絞った。(中略)更に「ハンタ同盟の日より」と題する軍書と、小型なシルレルの詩集の第3巻、第7巻 とが発見された。朱に染む死体の側に散る詩集、なんという美しい詩的な画題だろう。」

感傷の度を強めていった春泥の筆は、以下の文で締めくくられている。

「(‥・)他には女々しい記念は一つもなかつた。ただ哀れに死体の側に咲く撫子の花と、落ちて居た奇麗に畳んだ女持ちの手巾(ハンケチ)とは、更にこの死体の影に潜む短い半生を美わしく想像せしめた。死体は鄭重に葬られた。 祖国の方に頭を向けて、上には新しい墓標に墨色も鮮やかに認識票をそのまま111S.B.5.K157」

その後、美土路春泥は軍の検閲を経ないで記事を送ったことから、青島から日本へ退去させられた。春泥美土路昌一は後に朝日新聞社長に就任し、更に全日空社長に就いた人物である。

10月18日未明、駆逐艦S90の魚雷をうけて二等海防艦高千穂(3709トン)が沈没したのは、日本軍が一度に受けた被害の中では最大規模だった。乗員総数284名の内、生存者は僅か13名で、艦長伊東祐保大佐以下 271名が海の藻屑となった。

<開城交渉と両司令官の会見>

11月7日午前6時30分、測候所頂上に白旗が掲げられて、2ヶ月近くに及んだ戦闘に終止符が打たれた。午後4時にはモルトケ兵営で開城交渉が始まった。11月10目午前9時にはモルトケ兵営で、神尾青島攻囲軍司令官と マイアー=ヴァルデック膠州総督の会見が行われた。

司令官神尾中将は、日本陸軍がドイツ陸軍より受けたこれまでの指導について謝意を述べたのち、日本の政策上不本意ながら青島を攻撃したこと、日本側に多大の損失が出るほど ドイツ軍の防備が優れていたことを語った。それに対してマイアー=ヴァルデック総督は、日本側の武勇を称えたといわれている。さながら日露戦争での旅順陥落後に行われた、乃木大将とステッセル将軍の水師営での会見を想わせる 。しかし水師営の会見は、僅か10年前の出来事だったのである。

会見から4日後の11月14日、マイアー=ヴァルデック総督は俘虜として日本へ移送された。ドイツが軍艦を膠州湾に入れて青島を占拠したのは、1897年11月14日である。奇しくもちょうど17年後の同じ日付であった。

青島陥落後、日本軍兵士の間ではドイツの三つの兵営を織り込んだ替え歌が流行った。なお小湛山とは、ドイツの砲台や墜塁がめぐらされていた要塞地域の地名である。

ドイツの肝玉小湛山 どうせこうなりゃビスマルク
早く壕内イルチスで 最早日本もモルトケる

<日独戦争における戦死者とドイツ軍俘虜>

日独戦争での戦死者の数となると、必ずしも明確に示す事は出来ない。特に日本軍の戦死者は文献によって様々である。すでにこの時代から日本軍は、統計上の数字を秘匿する傾向もあつたように思われる。そうした中で、青島に 建立された慰霊碑に祀られた戦没将兵の数が、比較的信頼できる一つの手がかりであろう。それによると、陸軍676名、海軍338名の計1014名となつている。

一方ドイツ側の戦死者数について、最近の文献では189名の数が挙がつている。これもなかなか決めがたい面がある。日本の俘虜情報局が大正6年6月に改訂版として発行した『濁逸及喚洪国俘虜名簿』には、巻末に日本軍埋葬戦 病死者として61名、濁逸軍埋葬戦病死者148名の名が記されている。しかし、単純に合計して209名とするわけにはいかない。理由は、日本軍埋葬戦病死者61名の中には、年月の上で最も遅い例としては大正6年 (1917年)5月に大分収容所で死亡した俘虜など、戦争終結後かなりの年月が経ってから、日本国内で死亡した俘虜まで含まれているからである。そこで、前記『俘虜名簿』に記載されて、俘虜と認定された者を戦病死者から 除くことにすると、182名になる。最終的には、どの時点を採用するかで異なるので、決めがたいと言えるであろう。なお、先にも述べた通り「俘虜」と言う言葉は、当時は「捕虜」の代わりに公式用語として使用された。 第二次大戦後に書かれた大岡昇平の作品『俘虜記』には、この俘虜の語が使われている。

<第一陣は門司へ>

俘虜の第一陣は、日独戦争の最中に門司に送られてきた。9月28日の浮山山中の戦闘で俘虜となった55名である。門司駅頭には神尾光臣司令官夫人を始めとして、第18師団幹部の夫人たちが出迎えて、虜囚の身となつた俘虜 に慰めの言葉を贈ったので、ドイツ人将兵たちは驚いたという。想像もしなかったからであろう。

日本の俘虜となったドイツ人将兵、オーストリア=ハンガリー帝国の将兵たちは、捕虜となるとただちに日本へ移送された。膠州湾は自沈したドイツ並びに、オーストリア=ハンガリーの軍艦や、機雷のために使用不可能の状態だった 。そこで俘虜は青島から22キロほど離れた沙子口湾から輸送船で運ばれた。東シナ海から朝鮮半島と済州島の間を通り、対馬の南を通過して玄海灘に入り、2日半をかけて門司港に着いた。福岡、久留米、熊本、大分の九州地方の 収容所に送られる俘虜はそこで下船した。他の俘虜たちは更に瀬戸内海に入り、四国の収容所に送られる者たちは高浜、多度津の港で下船して、松山、丸亀の俘虜収容所に向かった。本州の収容所に送られる者たちは、広島の宇品港 で下船して、鉄道で姫路、大阪、名古屋、静岡、東京へと向かったのである。なお、開設が遅れた徳島収容所に収容される俘虜も当初は大阪に送られた。

死者数の確定とは少し違った視点から、つまり俘虜の収容に関する数字を挙げてみよう。この数字の方が、遥かに興味深く、かつ重要な数字である。

<俘虜の収容に関する数字>

 A)俘虜番号を付された俘虜総数:4715名
 B)青島及びその周辺で死亡した俘虜:7名
 C)大戦終結まで青島俘虜収容所に収容された俘虜:1名
 D)青島俘虜収容所から逃亡した俘虜:1名
 E)南洋群島のヤップ島で宣誓解放された俘虜:9名
 F)南洋群島から日本の俘虜収容所に移送された俘虜:5名
 G)日本国内等(横浜、門司、長崎、奉天)で捕えられた俘虜:4名
 H)青島から日本へ移送された俘虜:4688名
         (A−(B+C+D+E+F+G)=4688)
 I)日本各地の俘虜収容所に収容された俘虜:4697名
                 (F+G+H=4697)
 J)日本の俘虜収容所から海外へ逃亡した俘虜:5名
 K)日本の俘虜収容所に収容後釈放された俘虜:1名
 L)日本の俘虜収容所に収容中に死亡した俘虜:87名(内、自殺した俘虜:2名)
習志野(31名)、名古屋(12名)、久留米(11名)、似島(9名)、板東(9名)、 青野原(6名)、
大分(2名)、福岡(2名)、大阪(1名)、熊本(1名)、静岡(1名)、松山(1名)、丸亀(1名)

前記の一覧の中で、分かりにくい用語や疑問に思われる個所について説明しよう。

<俘虜番号>

日本帝国俘虜情報局が発行した『獨逸及墺洪国俘虜名簿』(以下、『俘虜名簿』と略記)では、4715名の俘虜全員に番号が付けられている。これが俘虜番号である。同姓同名の俘虜もいたが、この数字で区別が出来るので重要な 番号である。例えば、東京収容所に収容された俘虜は1番から315番、久留米収容所の場合は316番から852番、というように1人1人に番号が付けられたのである。

日本軍が青島等で俘虜にしたドイツ兵は、実は4715名より76名多かった。総督府衛成病院に収容されていた重傷の俘虜76名が、イギリス軍に引き渡されて大正4年(1915年)2月14日、青島から船でイギリスの香港 収容所に送られたのである。イギリスからの要請によるが、その理由は南方の中国人たちに、ドイツが中国地域での戦闘に破れたことをはっきり示すことだった。やがて香港収容所のドイツ兵俘虜は、更にオーストラリアにあった リヴァプール収容所に移送された。

大正6年(1917年)8月14日、中国がドイツに宣戦を布告すると斉斉吟爾(ちちはる)、天津、南京、香港等中国各地10ヶ所に俘虜収容所が開設され、ドイツ人たちはそれらの俘虜収容所に収容された。当時アジアにいた ドイツ人が収容されたのは、日本の収容所だけではなかったのである。


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<青島俘虜収容所>

日本軍はドイツ軍を降伏させて青島市街地に軍隊を入れると、戦乱を逃れてもぬけの殻になつた中国人街に、ドイツ軍将兵を野営させた。やがて、ドイツ総督府の建造になる堂々たる兵営の一つ、モルトケ兵営内に俘虜収容所を設置し た。それが青島俘虜収容所で、俘虜を日本へ送るまでの臨時的な収容所となつた。しかし第一次大戦が終結して、俘虜の解放が行われる最後に至るまで存続したものと思われる。何故なのかは不明であるが、一名だけが最後まで 青島俘虜収容所に容れられていたからである。

<南洋諸島>

先に述べたように、ドイツが南太平洋に獲得した海外領土で、マーシャル諸島、カロリン諸島、トラック諸島を総称して日本では南洋諸島または南洋群島と呼んでいた。やがては日本が統治することになり、第二次大戦終結まで日本の 信託統治領だった。

<宣誓解放>

第一次大戦時はたとえ俘虜となっても、当該戦争中を通して、再び軍隊に加わらないことを誠実に宣誓れば、解放しなければならないとする国際条約があった。それは文明国に存続してきた国際慣例と法規とに拠るものであつた。 明治32年(1899年)7月29日に締結されたハーグ条約であるが、日本政府は明治40年(1907年)10月18日にハーグで調印した。それは「陸戦ノ法規慣例二関スル規則」と呼ばれている。

その規則の第二章俘虜の項の第10條には、以下の規定が記されている。
「俘虜ハ其ノ本国法律カ之ヲ許ストキハ宣誓ノ後解放セラルルコトアルヘシ」

25年ほど後に起きた第二次大戦では考えられないことである。大正6年(1917年)6月改訂の『俘虜名簿』には、41名の宣誓解放者の名が記されている。ドイツが戦争に敗れてエルザス及びロートリングン地方がフランス領 となり、その名もアルサス及びロレーヌとなると、その地方出身者がいち早く収容所から解放された。同様のケースはポーランドや北イタリア出身者、オーストリア=ハンガリー二重帝国のチェコ出身などの俘虜にも見られ、 最終的には250名ほどが宣誓解放された。

なお、収容後に釈放された俘虜は、実はロシアの脱走兵だつた。シベリアの兵営を脱走して満州、中国を転々とした後に、飢えと寒さから大正5年(1916年)5月4日、ウラジスラフ・コフラーという名のオーストリア人と 称して青島に流れ落ちてきた。ロシア語以外はろくに話せなかつたが、敵国人として日本の収容所に送られた。収容所に容れられてから、実はロシア人であることを告白して解放を求め、やがて日本駐在のロシア領事に身柄が引き渡 された、という変り種である。

<スペイン風邪>

スペイン風邪は大正7年(1918年)から翌年にかけて世界的に大流行したインフルエンザである。アメリカの兵営に発したとも、中国から発生したともいわれている。地球上の人間の約半数が罹患したといわれるが、フランス からイギリスに伝播してから、スペイン風邪の名で知られるようになつた。死者は2500万人とも、5000万人ともいわれ、第一次大戦の戦死者約1000万人を遥かに上回った。当時の世界の人口は16億人ほどと推測される ので、想像を絶する規模の死者数といえよう。人口が約5900万人だった日本でも、2500万人の罹患者を出し、38万人余が死亡したとされている。

インフルエンザに罹った時は、安静にすることがなにより大事であるが、スペイン風邪が流行した時、安静にしていることが出来なかった人たちがいた。戦場の兵士である。特に前線の兵士に安静などは考えられなかった。 バタバタと兵士が倒れていった。スペイン風邪が戦争の終結を早めたといわれる所以である。

日本の収容所に収容されていた俘虜も、スペイン風邪に罹ってベッドに臥せる者が続出した。前記、日本の収容所で死亡した俘虜87名の内、60名近くはスペイン風邪による死亡であつた。死亡者に若い兵士が多かったのは、 治りかけると、ベッドにじっとして寝ていられなかったから、とも言われている。習志野収容所での死者が飛び抜けて多かったのは、東京に近かつたからであろう。近年、このスペイン風邪は鳥インフルエンザではなかったか、 との推測もされている。


日本による占領・統治時代の青島

ドイツ軍の降伏後、青島を占領した日本軍は11月18日、青島市街中のドイツ街路名を全て日本名称に改めて、同日よりただちに実施した。同26日、神尾中将は独立第18師団長を免ぜられて、新たに設置された青島守備軍 司令官に任ぜられ、12月1日占領地に軍政を布いた。

日本による占領・統治後のドイツ人はどうなったであろう。その実態を明確に示す資料は多くはない。統計上の数字もはっきりしていないが、いくつかの日本の文献を手がかりにして記してみる。

『山東概観』によれば、大正4年(1915年)1月13日に大検挙が行われて、新たに92名の俘虜が出現した。なおも48名の拘留調査対象者がいると記している。この文献では左記の数字を挙げている。

男子 137名
その妻 56名
子供 87名
俘虜の妻 102名
その子供 125名
独居婦人 59名
その子供 23名
計  590(戸数は119)

上記の男子(成人男子)のほとんどはやがて俘虜として日本へ移送され、大阪俘虜収容所に収容される。カール・ユーハイム等の国民軍の軍籍にあつたことが判明した者たちである。成人男子の内で、その後も青島に残留するのは 1桁台になる。医師1名と学校の教師数名等である。婦女子もやがて主として上海へ移ってゆく。青島のドイツ人学校は大正4年(1915年)3月に再開するが、別の文献の記すところでは、その当時の在籍者は男子49名、 女子37名であつた。大戦終結して俘虜の解放が行われる大正9年(1920年)1月の時点では、青島で暮らすドイツ人は230名ほどになっていた。

日本が青島を占領し、軍政を布いた期間、つまり大正3年から大正11年までについての文献は余り多くはない。その後中国に返還されてからも、青島や山東半島及び山東省に関する文献は決して多いとは言えない。しかし、 第二次大戦終了まで、青島を中心に省都済南を始めとする山東省の諸都市に、3万余の邦人が暮らしていた。

<歴代青島守備司令官>

初代司令官:神尾光臣(1855−1927;安政2年11月11日−昭和2年):
信州諏訪郡岡谷郷に生まれる。幼名信次郎。明治7年10月3日陸軍教導団に入って武学生となり、明治10年の西南戦争には曹長として従軍した。明治12年2月1日陸軍少尉に任ぜられる。以後、清国公使館附武官、近衛歩兵 第3連隊長、第1及第10師団参謀長、歩兵第22旅団長、遼東守備軍参謀長、清国(天津)駐屯軍司令官、関東都督府参謀長、第9及第18師団長を歴任して、独立第18師団長(青島攻囲軍司令長官)となる。陸軍中将。大正3年 11月26日付けで、上記の職を解かれ、青島守備軍司令官に就任(1914年11月から1915年6月)。大正3年12月18日青島から東京駅に凱旋した。その日が東京駅開業式の日であった。大正4年3月24日付けで東京衛戍総 督に転出、大正5年6月24日大将に昇任、7月14日男爵に叙せられ、8月辞職した。次女安子は明治42年3月有島武郎に嫁ぎ三男をもうけたものの、大正6年12月2日27歳で病死した。[『死其前後』(大正6年5月5日 『新公論』第32巻第5号に発表されたが発禁処分を受け、その四日後に5月倍号の付録欄に掲載)は妻安子の病状・病中等を題材にした戯曲である。その後若干の加筆をして『死』と改題され、大正6年10月18日新潮社から 『有島武郎著作集第1輯』に収められた。大正7年10月3日から8日にかけて、島村抱月演出、松井須磨子主演で上演された。

第二代司令官:大谷喜久蔵:
福井出身。大正4年5月24日陸軍中将で第2代青島守備軍司令官に就任し(1915年6月から1917年8月)、在任中の大正5年11月16日大将に親任される。その後浦塩派遣軍司令官、連合軍総司令官となり、更に戸山学校 長も歴任し男爵の位を授かった。晩年教育総監にも就いた。陸軍士官学校旧制2期卒。

第三代司令官:本郷房太郎:
兵庫出身。明治38年7月18日陸軍省高級副官兼俘虜情報局長官。大正2年5月7日陸軍次官、同3年4月17日第17師団長、同5年8月18日第1師団長、大正6年8月6日第3代青島守備軍司令官(1917年8月から1918 年7月)。大正7年7月2日在任中に大将に親補される。陸軍士官学校旧制3期。

第四代司令官:大島健一(1858−1947;安政5年−昭和22年):
岐阜出身。陸士・4期。明治14年(1881年)陸軍士官学校卒業後ドイツに留学した。大正2年8月25日陸軍中将。大正3年4月17日陸軍次官、同5年3月30日第二次大隈内閣陸軍大臣、同7年10月10日第4代青島守備軍司令官(1918年7月から1919年5月)。後に貴族院議員、枢密顧問官に就いた。 息子大島令は第二次大戦開戦前後のドイツ大使を勤めた。

第五代司令官:由比光衛(1860−1925;万延元年−大正14年):
万延元年10月15日、土佐郡神田村高神(高知市神田)に生まれる。海南私塾分校(現小津高校)を経て、明治10(1877)年幼年学校に入り、同15年陸軍士官学校、同24年陸軍大学を首席で卒業。日清、北清、日露の各 戦争に参加。明治41年3月9日近衛歩兵第1連隊長、同42年5月20日参謀本部第1部長、大正3年5月11日陸軍大学校長、陸軍中将、同4年1月25日第15師団長、同6年8月6日近衛師団長、同7年8月9日浦塩派遣軍 参謀長、同8年5月28日青島守備軍司令官となる。同8年11月25日陸軍大将。同11年軍事参議官となり、同12年待命、予備役に入る。大正14年9月18日没。第5代青島守備軍司令官(大正8年5月から大正11年12 月まで)。在任中に大将に親任される。陸軍士官学校旧制5期。

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帰国後の俘虜の動静

日本の収容所から解放されると、ほとんどの俘虜は祖国に帰還した。日本に留まった俘虜の数は、正確な数字となると困難であるが、解放当初は、200名以上が日本に残留する道を選んだ。その幾人かについては俘虜群像で 採り上げている。再び青島を始めとして、中国各地に戻った者も僅かながらいた。また、蘭領印度(現インドネシア)に渡った俘虜も200名以上いたことが資料で判明している。しかしそれも解放から数年後までのことで、 その先の状況になると分からないのが実情である。第1次大戦が終結して、日本から多くの俘虜がドイツ、オーストリア、ハンガリー等に帰還したが、ヨーロッパは戦争後の大混乱に陥っていた。大帝国だったドイツ及び オーストリア=ハンガリーの両帝国は瓦解し、領土は縮小し、猛烈なインフレがドイツ、ハンガリーを襲った。帰国した俘虜は生活を立て直すことで精一杯であっただろう。

<斎藤茂吉と二人の元俘虜>

歌人斎藤茂吉は大正10年(1912年)12月から大正13年(1924年)11月末まで主としてヨーロッパに滞在した。その折に、茂吉は2人の元ドイツ人俘虜に出会っている。

その最初は大正13年(1924年)6月2日、オーバーパイエルン地方のガルミッシュ=パルテンキルヒェンの、それも片田舎の、アイプゼーという小さな湖の畔にある店屋での出来事である。散文「蕨」の中には次の一節がある。

「この絵葉書などを売る家の主人は、シイボルトの孫だと云った。バグアリア師團の陸軍少佐であるが、戦後ここで店を開いてゐるといふことであった。その主人と話してゐる一人の男は突然『今日は』といった。 この男は俘虜になって久留米に5年もゐたなどといった。」

斎藤茂吉の研究家には知られているエピソードである。しかし、この俘虜は果たして誰であろう、などといったことは全く研究・調査の外に置かれていたであろう。ドイツ兵俘虜に関心を寄せ、しかも俘虜全員をくまなく調べられる 資料がない限り、とてもおぼつかないことであるからだ。最近、この人物の特定に迫った調査を、習志野市教育委員会の星昌幸氏が行った。屈指の俘虜研究家星氏の消去法による推論の道筋を示してみよう。

『俘虜名簿』に掲載されている4715名の中で、オーバーパイエルン出身者は53名である。その中で久留米収容所にいた者は13名、更にその中でガルミッシュ=パルテンキルヒエン出身に該当する者はただ一人、俘虜番号 3706番のハンス・ザルトリ(Hans Sartori)である。もちろん100パーセント間違いないという訳ではない。この地方出身ではなくて、他の町から移住してきたとか、この近辺に住んでいるのではなくて偶然やって来た、 との異論を唱えることも不可能ではない。しかし、そうした可能性を指摘するよりも、土地の人間と見なすのが素直な受け止め方であろう。また、次の事実も挙げておこう。このザルトリは久留米収容所時代に、バイエルン方言 を用いた戯曲を書いた事で知られる、劇作家ルートヴィヒ・トーマの農民劇『一等車』に出演していることである。バイエルン方言を話せたのである。

ところで茂吉は、この俘虜には余り関心がなかったようだ。「シイボルトの孫」の方が医師斎藤茂吉の心に残ったのであろう。歌集「遍歴」には、6月11日の日付で詠まれた次の歌が収められている。

「シイボルトの孫にあたるが湖(うみ)のべの店をひらけり縁(えにし)とやいはむ」

茂吉が2人目の元俘虜に会ったのは、それから二週間ほど経ったある日のライプチヒでのことである。「ニイチェの墓を弔う記」には以下の一節がある。

「道が分からぬので街頭の巡査にたづねると、その巡査はにこにことして『今日は』とか『兵隊さん』とか、そんなことを日本語で言ふのに驚かされた。その巡査は俘虜になって5年間日本に居たさうである。京都、名古屋、神戸、 福岡を知って居た。『僕は加藤大尉と懇意にしてゐたが、このごろ通信が無いから地震で死んだかも知れませんね』などとも云った。そして僕をFock(フォック)まで連れて行って呉れた」

Fock(フォツク)まで茂吉を案内した間に、元俘虜氏は日本のことなどを話題にしたのではと推測されるが、茂吉は何も記していない。俘虜が解放されて帰還したのは大正8年(1919年)末から翌年の初めにかけてである。 それほどの年月が経っているわけではない。茂吉の方にそれ以上の関心がなかったのだ、とするほかないであろう。

ところで、この俘虜を特定することはどうだろう。残念ながら先のケースとは違って困難である。収容所名が分からないこともーつであるが、ライプチヒのような大都会には、周辺部の村からも人々が入って来るであろう。ただ この元俘虜は、福岡収容所から名古屋収容所に移された者との推測も成り立つ。元俘虜氏が挙げた4つの地名の内、京都や神戸はドイツ人が知っていても不思議がない地名である。しかし、大正時代に福岡や名古屋は、西洋人に とってどの程度知られていたであろう。住んだことがない限り、俄かには出てこない地名に思われる。在日ドイツ人は、俘虜を除けば極めて少なかった時代である。元俘虜氏が帰国後巡査であったことは、大戦以前から日本に住んで いたのではなくて、青島からの応召兵であることも推測させる。「加藤大尉」なる人物は、収容所の所員であったのかもしれない。ところで福岡から名古屋へ移送された俘虜は194名に及んでいる。相当な数である。星昌幸氏の検索 によれば、ライプチヒ出身者はただ1人。しかし、二人目の元俘虜の人物推定はここまでにしておこう。不確定な要素が多いので、軽々しい判断は出来ないと言えそうだ。

<二つの戦友会>

かつて日本の俘虜収容所に容れられた人たちの帰国後の動静が表に出てくるのは、二つの「戦友会」とでもいえる会合である。

解放から14年ほど経た昭和9年(1934年)、かつての俘虜の1人エドアルト・ライボルトが「板東を偲ぶ会」を結成した。後にフランクフルトで例会を開き、最大時には80人ほどが参集した。しかしこの例会も途絶する運命 にあった。第1次大戦が終結してから20年を経ずして、ドイツは再び世界大戦に突入することになるからである。

第2次大戦後の昭和29年(1954年)11月6日には、青島戦闘40周年を記念して、「青島戦友会」がハンブルクで開かれた。これには久留米俘虜収容所の元俘虜を中心に66名が参集した。昭和35年(1960年)頃にも この戦友会は開かれたが、その後の動向は不明である。元俘虜の高齢化が否応なしに訪れてきたことで、開催されなくなったのであろう。