(4)
収容所

全16ヶ所 (アイウエオ順)+収容所変遷図

青野ヶ原収容所
(兵庫県加西市及び小野市)


大分収容所 (大分県大分市)

大阪収容所 (大阪府大阪市西区)

熊本収容所 (熊本県熊本市)

久留米収容所 (福岡県久留米市)

静岡収容所 (静岡県静岡市)

東京収容所 (東京都台東区)

徳島収容所 (徳島県徳島市)

名古屋収容所 (愛知県名古屋市)

習志野収容所 (千葉県習志野市)

似ノ島収容所 (広島県広島市南区)

板東収容所 (徳島県鳴門市)   

姫路収容所 (兵庫県姫路市)

福岡収容所 (福岡県福岡市)

松山収容所 (愛媛県松山市)   

丸亀収容所 (香川県丸亀市) 

この項目は、

冨田弘「板東俘虜収容所−日独戦争と在日ドイツ俘虜」(法政大学出版局、1991)

秦郁彦編「日本陸海軍総合事典」(東京大学出版会、1991)

陸軍省飯田大尉の開閉一覧表

俘虜収容所開閉関係陸軍省告知

「静岡県史」資料編19、近現代四(平成3年3月20日)

旧住所は「日本帝国俘虜情報局−『俘虜写真帖』大正7年3月発行」

を参考にしています。

(以上は、習志野市の星昌幸氏によって執筆され、高知大学の瀬戸武彦先生,鳴門市ドイツ館によって加筆されました。)



俘虜収容所の設置

瀬戸武彦 著『青島(チンタオ)から来た兵士たち ―― 第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』(同学社、2006年6月9日発行)より同学社の許可を得て転載。

<先ず久留米に>

青島郊外で本格的な戦闘が始まると、ドイツ将兵が日本軍の捕虜となる事態が生じた。そこで大正3年(1914年)10月、久留米に最初の俘虜収容所が設置された。日独戦争の10年ほど前に起こった日露戦争では、 実に7万9367人のロシア兵俘虜が、北は弘前、南は熊本までの日本各地29ヶ所の収容所に収容された。それと比べると、日独戦争でのドイツ兵俘虜(ドイツ人だけではなく、オーストリア人やハンガリー人等の様々 な俘虜がいた)は4697人だった。

16ヶ所の俘虜収容所を、開設時期が早い順番に、及び同時開設の場合は閉鎖時期が早い順に列挙してみる。久留米と名古屋は最初から最後まで存続し、習志野、青野原、似島、板東が整理統合後の収容所である事が分かるであろう。 この俘虜収容所開閉一覧表は、後に俘虜の送還に当たって、送還委員会の委員を務めた陸軍省軍務局課長飯田祥二郎歩兵大尉が作成した資料に配列を多少変えたものである。

<俘虜収容所開閉一覧表>

久留米‥大正3年10月 6日開始、大正9年3月12日閉鎖
熊本‥‥大正3年11月11日開始、大正4年6月 9日閉鎖 (久留米へ移転)
東京‥‥大正3年11月11日開始、大正4年9月 7日閉鎖 (習志野へ移転)
姫路‥‥大正3年11月11日開始、大正4年9月20日閉鎖 (青野原へ移転)
大阪‥‥大正3年11月11日開始、大正6年2月19日閉鎖 (似島へ移転)
丸亀‥‥大正3年11月11日開始、大正6年4月21日閉鎖 (板東へ移転)
松山‥‥大正3年11月11日開始、大正6年4月23日閉鎖 (板東へ移転)
福岡‥‥大正3年11月11日開始、大正7年4月12日閉鎖 (久留米、習志野等へ)
名古屋‥大正3年11月11日開始、大正9年4月 1日閉鎖
徳島‥‥大正3年12月 3日開始、大正6年4月 9日閉鎖 (板東へ移転)
静岡‥‥大正3年12月 3日開始、大正7年8月25日閉鎖 (習志野へ移転)
大分‥‥大正3年12月 3日開始、大正7年8月25日閉鎖 (習志野へ移転)
習志野‥大正4年 9月 7日開始、大正9年4月 1日閉鎖
青野原‥大正4年 9月20日開始、大正9年4月 1日閉鎖
似島‥‥大正6年 2月19日開始、大正9年4月 1日閉鎖
板東‥‥大正6年 4月 9日開始、大正9年4月 1日閉鎖


<俘虜収容所長一覧表>

久留米俘虜収容所長‥歩兵第48連隊附歩兵少佐 樫村弘道、後に真崎甚三郎歩兵中佐、
                    その後 林銑十郎歩兵中佐、高島巳作中佐、渡辺保治工兵大佐
熊本 俘虜収容所長‥歩兵第13連隊大隊長歩兵少佐 松木直亮
東京 俘虜収容所長‥歩兵第 1連隊附歩兵中佐 侯爵西郷寅太郎
姫路 俘虜収容所長‥歩兵第10連隊附歩兵中佐 野口猪雄次
大阪 俘虜収容所長‥歩兵第37連隊附歩兵中佐 菅沼來
丸亀 俘虜収容所長‥歩兵第12連隊附歩兵中佐 石井爾四郎(後に大佐)、
                          後に 納富廣次歩兵少佐(後に中佐)
松山 俘虜収容所長‥歩兵第22連隊附歩兵中佐 前川譲吉
福岡 俘虜収容所長‥歩兵第24連隊附歩兵中佐 久山又三郎、
                          後に 白石通則歩兵大佐、江口鎮白砲兵中佐
名古屋俘虜収容所長‥歩兵第23連隊附歩兵中佐 林田一郎、後に中島銑之助歩兵大佐
徳島 俘虜収容所長‥歩兵第62連隊附歩兵中佐 松江豊寿
静岡 俘虜収容所長‥歩兵第34連隊附歩兵少佐 蓮實鐵太郎、後に嘉悦敏騎兵大佐
大分 俘虜収容所長‥歩兵第72連隊附歩兵中佐 鹿取彦猪、後に西尾赳夫中佐
習志野俘虜収容所長‥西郷寅太郎中佐(後に大佐)、後に山崎友造砲兵大佐(後に少将)
青野原俘虜収容所長‥野口猪雄次中佐(後に大佐)、後に宮本秀一歩兵中佐
似島 俘虜収容所長‥菅沼爽中佐(後に大佐)
板東 俘虜収容所長‥松江豊寿中佐(後に大佐)

( )内で「後に中佐」等と記した場合は、俘虜収容所長在任中での昇進を意味する。

<俘虜郵便>

「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の第16條の規定には以下の文言がある。

「情報局ハ郵便料金ノ免除ヲ享ク俘虜二宛テ又ハ其ノ發シタル信書、郵便為替、有價物件及小包郵便物ハ差出國、名宛國及通過國二於テ一切ノ郵便料金ヲ免除セラルヘシ 俘虜二宛テタル贈與品及救恤品ハ輸入税其ノ他ノ諸税及 固有鐵道ノ運賃ヲ免除セラルヘシ」

階級によって異なってはいたが、平均すると俘虜一人当たり一ヶ月に、葉書と封書を合わせて3通の郵便を差し出すことが許された。しかも俘虜郵便扱いとして無料であつた。仮に、約4700人の伴虜が5年の期間に、3通の 郵便を出したとすると、その数は84万6000通になる。また条約によって俘虜宛の郵便物も無料とされたので、それを含めると優に100万通は超える膨大な数である。この俘虜郵便について、日本ではあまり研究はなされて 来なかったが、郵便の先進国の一つであるドイツでは、実に詳細な研究が行われてきた。先にも触れたが、かっては郵便が持つ意味は大きかったのである。

家族からの便りは、健康で過ごしているかを尋ねるものが多く、内容的には格別特色のあるものではない。そこである一通を紹介してみよう。友人からの便りと思われる。大正7年(1918年)10月13日に中国の漢口から、 板東収容所の俘虜アウグスト・フレーフエル上等兵に宛てた葉書である。差出人はヘルマン・ノイバクアーという人物であるが、詳しくは分からない。

「前略 今日、君宛に煙草入り小包を発送した。僕の住所は今日からフリーデリヒ街のデイーデリヒセン気付だ。それを除けばここでは、まだまあまあってところだ。ただ、やはり一人、また一人とまいり始めている。7月7日付け の小包をまだ受け取っていない、と書いてあったけれど。それは煙草入りの小包かい、それともかみそりの刃を入れた方かい?ともかく今日はこれで失礼」

漢口にはドイツの租界ともいえる地区があった。そのせいでドイツ語の街路名がついていたと思われる。ディーデリヒセンは、青島でも最大規模の煉瓦製造会社の名前と推測される。剃刀の刃は俘虜にとつて、日常不可欠なもの だったであろう。収容所内では調達が難しかったのか、それとも日本製が肌に合わなかったためであろうか。

4-0001 俘虜郵便(三木 充氏所蔵)

<俘虜の給与>

俘虜郵便の規定同様にハーグ条約によって、俘虜には俸給が支給されていた。支給月額は、日本の同等将校・兵卒が受けるのと同一額であった。「陸戦ノ法規慣例二関スル規則」の第17條は次のように記している。

「俘虜将校ハ其ノ抑留セラルル國ノ同一階級ノ将校力受クルト同額ノ俸給ヲ受クルヘシ右俸給ハ其ノ本國政府ヨリ償還セラルヘシ」

この規定に沿って、膠州総督マイアー=ヴアルデック海軍大佐の場合は、262円19銭の俸給が支給された。以下、海軍将校への俸給を四捨五入して円単位でのみ示すと、中佐200円、少佐137円、大尉82円、 中尉55円、少尉46円で、一方陸軍将校の俸給は、中佐183円、少佐129円、大尉75円、中尉46円、少尉42円であった。

ドイツ軍部隊は形式上すべて海軍であったが、海軍膠州砲兵隊を除くとその実態は陸軍の部隊で、いわば陸軍から籍を一時的に海軍に移していたものだった。そのこともあってか、ドイツ軍の俘虜のほとんどは陸軍将兵の 換算で支給された。陸軍の方が給与は低かったのである。俘虜群像中のクーロ中佐の項を見て分かるように、形式上は海軍中佐だったクーロ中佐は、日本の陸軍省では陸軍中佐扱いとされ、支給された俸給は183円だった。 青島を脱出したものの、やがてイギリスの収容所に容れられた、前出のプリユショー海軍中尉は、120マルク(約60円)を支給された。

将校以外の下士卒の場合はどうだったのだろう。俸給はずっと低くなり、特に一等兵、二等兵の下級兵卒は日給換算で、10円前後であつた。煙草、ビール、菓子などの嗜好品を買うのがやっとの状態だった。そこで故国の 家族からの仕送りや、上海のドイツ人社会、日本の神戸や横浜のドイツ人社会からの義捐金を頼りとした。第1次大戦時は日本、ドイツにとどまらず、世界は貴族・階級社会だった。階級社会の典型といえる軍隊では、兵卒 は将校の身の回りの世話をするのが義務でも、習慣でもあった。その代わりに将校は身の回りの世話をする従卒に小遣い銭を与えた。

<俘虜の労役>

労役という言葉からは、どことなく強制労働を思わせるが、決してそうではない。強制労働もハーグ条約で禁止されていた。日露戦争に勝利した日本は、なんとか世界の一等国の仲間入りを目指していたので、国際条約の遵守に 腐心したのである。第一次大戦時の日独戦争に関しては「大阪俘虜収容所記事」によると、大正4年(1915年)1月から収容所の炊事室の炊事当番には、1日当たり下士7銭、兵卒4銭の手当てが支給されていた。また、 民間の麺麹所での就労では1日50銭の賃金を受けている。大正5年(1916年)10月の『俘虜収容所長会同ノ際軍務局長口演事項』という書類の「俘虜労役二就イテ」には、次の記述がある。

「俘虜ヲシテ労役二従事セシメルノ必要ハ、大臣ノ訓示セラルル所ノ如シ。而シテ我国産業ノ発達利益二資スヘキ職業伎偏ヲ有スル俘虜ヲ収容所外二於テスル利用法ハ、昨年各省次官会議二提出セラレ各省二於テ使役場所、 使役方法、賃金、取締方法等ヲ定メ、本省二於テ最期ノ決定輿フルコトニ協定セラレ…」

大正5年(1916年)頃からは、徳島、習志野、名古屋、大分の各収容所で俘虜の労役が始まり、取り分け徳島では活発に行われた。やがて収容所の整理統合が行われると、名古屋、板東、久留米では大規模な形で労役が 行われるようになる。下級兵卒にとっては、ちょっとした収入源にもなり、やがて大戦終結して解放後には、就労先の企業に高給で雇われることにも繋がった。

<俘虜の懲罰>

収容所に容れられた俘虜にとっての義務は、朝晩二回の点呼を整列して受けること以外には、ほとんど強制された義務はなかった。しかし5年余の収容期間には、各収容所で大なり小なり俘虜の懲罰がかなりの頻度で行われた。 俘虜群像で数例ではあるがこのことに言及しているので、ここでは細部に触れることはしないが、2、3日の重営倉入りは、多くの収容所で日常茶飯の出来事であった。

<傷痍軍人>

この言葉を知る人も今では少ないであろう。太平洋戦争が終わり、敗戦国となった日本各地の町には、戦地で負傷した多くの帰還兵の姿が見られた。心痛む光景だった。ドイツ兵俘虜の中にも、言ってみれば当然ながら負傷兵がいた。 俘虜関係の諸文献では、サッカーやテニス、組み体操や競歩など、日の当るスポーツが取り上げられることが多い。しかし、年齢的な問題だけではなくて、そうしたスポーツに加わることが出来なかった俘虜もいたのである。 つまり、義肢、義足や義眼の俘虜もいたことを特に記しておきたい。日本に移送されてから、負傷兵に義足などが「贈られた」、と公的な文書に記されている。

<寺など12ヶ所>

日独戦争が終結して、4700名近い俘虜を収容する収容所が必要になつた。そこで当初、西日本を中心に12ヶ所の収容所が設置された。収容先としては寺を使用する事が多かった。その理由は、当時は大勢の人間を収容できる 施設としてはお寺以外に、学校など僅かしかなかったことによる。普段は仏像を安置する本堂などに、キリスト教徒の俘虜を収容することに抵抗感はなかったのか、不思議に思うところである。本願寺系統の寺が多かったのは、 本願寺派の寺は他の宗派の寺よりも建てものが大きかったからであろう。

俘虜収容所が設置された都市は、管轄する陸軍省の意向でもあるが、収容所の設置をめぐっては誘致合戦も行われた。数百人の俘虜が滞在することは、波及する経済効果も大きかったのである。まずは畳を新しく換える必要があった。 その他に暖房具としての火鉢を始めとして、諸々の物品を調達する必要がある。俘虜は俸給を支給されるので、ビールや煙草などの噂好品を買うことが出来たし、石鹸などの日用品を買う必要もあった。やがて自炊することになると その材料の購入など、一大消費団体が出現したといえる。地元の経済が潤ったことは想像に難くない。10年前の日露戦争時に、俘虜収容所が設置された都市の商人たちが利益を得たとの見聞は、まだまだ記憶に新しいことだつただ ろう。

しかし、日露戦争の時とは違って、戦争は一向に終わる気配がなく、2年、3年と年月が過ぎていった。そこでいわば仮収容所的な寺から、本格的な収容兵舎を建設する必要が生じた。その際に12ヶ所の収容所を6ヶ所に統合した のである。当初からの収容所である久留米と名古屋はそのまま存続したが、新たに習志野、青野原、似島、板東の4ヶ所の収容所が設けられた。

<西郷寅太郎(慶応2年〜大正8年、1866〜1919)>

歩兵第1連隊附歩兵中佐から東京俘虜収容所長を経て、習志野俘虜収容所長となる。西郷隆盛の嫡男だった。明治18年(1885年)、ポツダムのドイツ陸軍士官学校に留学し、在独期間は13年に及んだ。明治35年(1902年) に父隆盛の名誉回復がなり、侯爵に列せられた。大正8年(1919年)1月1日午後4時、収容所で新年祝賀の挨拶をして帰宅後に、スペイン風邪により死去した。習志野俘虜収容所での2人目のスペイン風邪による犠牲者であった 。東京港区の青山霊園に墓所がある。

<松江豊寿(明治6年〜昭和30年、1873〜1955)>

旧会津藩士松江久平と妻ノブの長男として会津に生まれる。明治22年(1889年)仙台の陸軍幼年学校入学。明治25年(1892年)陸軍士官学校へ進学し、明治27年(1894年)陸軍歩兵少尉に任官された。大正3年 (1914年)12月3日徳島俘虜収容所長、後板東俘虜収容所長。松江所長は俘虜に対して可能な限り最大限の配慮を示し、俘虜による自主的な活動や、近隣住民との交流を許した。その人間味溢れる人柄から、松江所長は俘虜 から敬意を払われ、慕われもした。このことから板東収容所は模範的収容所と言われるようになつた。松江所長のこうした俘虜に対する姿勢は、会津の出身であったその出自に起因するとも言われている。後にドイツでかつての俘虜 たちにより「板東会」が結成されたのも、このことを如実に示している。鳴門市ドイツ館には元俘虜やその子孫から様々な資料が寄せられているが、こうした背景が関係しているであろう。大正2年(1922年)2月陸軍少将に昇進 した。12月27日付けで第9代若松市長。大正15年(1926年)5月末から、東京世田谷の狛江に住み、昭和30年(1955年)5月21日死去した。松江豊寿の人となりについて記された文献としては、横田新 『板東収容所長 松江豊寿』、中村彰彦『二つの山河』(直木賞作品)などがある。

<2つのサッカー国際試合>

平成18年(2006年)の6月、サッカーのワールドカップがドイツで開催され、ドイツ各地で試合が行われる。6月9日のミュンヘン等での試合を皮切りに、決勝戦と閉会式は首都ベルリンで行われることになっている。 実は今から約90年前の大正8年(1919年)、日独による二つのサッカーの国際試合が行われた。

その1つは1月26日、当時の広島高等師範学校のグラウンドで、日本初といえるサッカーの国際親善試合が行われた。対戦したのは広島高等師範学校、広島県立師範、高等師範付属中、広島一中の生徒たちの合同チームと、 似島収容所のドイツ兵俘虜たちだった。二試合行った試合の結果は、ドイツ兵俘虜チームの圧倒的な勝利で、日本の学生チームは1度もボールをゴールに入れることが出来なかった。

日独戦争に敗れて日本に送られる以前、ドイツ兵たちは青島の練兵場兼グラウンドで、時にイギリス海軍の兵士たちとサッカーの試合を行っていたのである。一方日本では、サッカーはまだまだ未知のスポーツといえた。 ボールのけり方一つをとつても未熟で、似島イレブン(田中清司氏所蔵)ひたすら翻弄されたのであろう。

似島の俘虜たちは、既に大阪収容所時代にサッカーチームを結成していて、1軍と2軍の2チームがあったと思われる。写真のユニフォーム姿のイレブンは1軍かと想像される。足元のサッカーボールには、 「OSAKAチーム1916」と記されている。大阪収容所の俘虜は大正6年(1917年)2月に似島へ移されたが、ボールの文字と背景の生垣から、まだ大阪時代に撮られた写真と推測される。 広島高等師範学校のグランドで生徒達と対戦して、記念撮影に写っている俘虜の顔ぶれとは異なるようにも思われる。しかし、イレブンが勢揃いしている写真の時から、2年ほど年月が経っていると考えられる。メンバーの入れ替え があったかもしれない。

4-0002 似島イレブン(田中C司氏所蔵)
4-0003 サッカー交流試合での記念写真(山田足穂氏所蔵)


その後、高等師範学校の主将を務めた田中敬孝は、ボートを漕いで島に渡り、似島の俘虜たちからサッカー技術の指導を受けたとも伝えられている。なお、バウムクーヘンで知られるカール・ユーハイムも大阪時代にサッカーをして いて、ゴールキーパーを務めた、との最新の研究・調査もある。

ところで、イレブンが勢揃いしている写真の人物については、ごく僅かの俘虜については人物の特定が出来ている。その内の1人がクライバーである。俘虜群像で記しているが、ドイツに帰国後クライバーはテュービンゲン近郊の村 ヴァンバイルでサッカークラブを結成した。そのクラブは今日なお存続し、会員数は700名に及んでいる。そこから育ったサッカー選手には、現在浦和レッズで監督を勤めるブーフグァルトがいる。このエピソードは、平成18年 (2006年)1月22日テレビ新広島(フジテレビ系列) で、『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』として放映されて話題を呼んだ。

もう一つのサッカー試合は、同じ年の10月5日に名古屋で行われた。この事実は俘虜収容所研究家の校候善夫氏(名古屋日独協会理事)の調査で判明したことである。

名古屋収容所の俘虜と、第八高等学校や明倫中学校の生徒・卒業生たちとの混合チームで試合が行われた。その理由は必ずしもはつきりしないが、10月5日付けの新聞『新愛知』の予告文章では次のように記されている。見出しは、 「日濁蹴球本日 雨天の際は他日に延期」である。なお、原文にはない句読点を施し、明らかに誤まりと思われる文字は訂正した。

「本日午前九時より明倫中学校々庭に於て、濁逸俘虜と名古屋蹴球團の試合を催す。先づ混合にて一戦を交へ、其後で出來得べくば封坑の試合を行ふ筈である。若し降雨を見る時は他日に延期する事とする。本日出場する名古屋蹴球 團側の選手と職掌は左の如く決定した。八高明倫のベストメムバーたる若手を集め、それに明倫中學の先輩を加へたものである」

4-0004 名古屋俘虜収容所一般関係要図
『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』創刊号の改訂版51頁、校條善夫論文より)


記事の最後には、選手の苗字と学校名、卒業校を記したメンバー表が載っている。

先ずは混合戦で試合をすることになったのは、サッカーの技術力に差があり過ぎることを懸念したためなのか、その他の事情に因るのかは明らかではない。俘虜収容所の間で俘虜郵便のやりとりが行われていたことは、先に記した 通りである。広島市内で行われた俘虜の対外試合とその結果は、似島の俘虜によって名古屋の俘虜に伝えられた可能性もある。

同じ『新愛知』の6日付けの記事を紹介しよう。見出しのタイトルは 「日濁混合蹴球戦 白軍二、黒軍一」である。大正8年時点でのサッカーの試合運びが偲ばれる、実に珍しい記事である。

「名古屋収容所濁逸俘虜と名古屋蹴球團の混合蹴球試合は、4日(ママ)午前9時から明倫中學校庭に催された。今にも雨を齎さん許りの曇り空ながら、数百名の俘虜を始め選手の武者振に接しやうとして集る観覧者多く盛況であった。 兩軍を一人置きに折半して分配し、黒白の二組を編成して、午前9時黒組のキックオフに始まる。濁の選手は大なるキックと器用なへクデングを利してパッスすれば、混合ながらハーフ、フォワードの連絡も巧みに行はれたが、北側に 陣せる黒組は兎角壓迫され勝ちにて、味方のサイドにて戰ひ乍らも揉み合ひ一進一退、二十分にして須永のペナルティエレアよりの強きキック見事にゴールインして、白組先づ一點を舉ぐ。(中略)混合試合のこととて敵封の意気興味 は缺けてゐた」

この新聞記事によれば、大勢のドイツ兵俘虜と一般市民が一緒に観戦したことが明らかである。記事の最後には、黒、白両軍のメンバー表、守備範囲や、ゴールキック、コーナーキック、ペナルティーキック、フリーキックの回数も 記されている。2006年はサッカーのワールドカップドイツ開催に当るので、それに相応しい記念碑的な発掘記事と言える。