1999年6月23日
ペットロボットによって生命の感覚がおかしくなるのではないか
今日のは日記ではないけど、「AIBO」などのペットロボットに接することによって、生命の感覚がおかしくなるのではないかという危惧が聞かれたので、僕なりの考え方を記します。
ペットロボットだからこそ許される行為の、「飽きてしまったらスイッチを切ればペットとの関係を簡単に断つことができる」というところが、生き物に対しても同様の感覚を持つ恐れがあり、生命があたかも軽いもののように感じられかねないということらしいです。
そこで、まずはペットロボットが世に出ていない現在までの人の生命の感覚とはどんなものか考えてみたときに、私を含めた多くの人が愛という感情を感じた生き物(可愛いも当然含む)が死んだりしたら滅法悲しむのに、それ以外のものの死っていうのはそれほど心が痛まないですよね。
たとえ同じ人間同士であっても、立場が違えばとたんに命は軽いものとして扱われてる。
ついこの間までTVニュースでユーゴスラビアの空爆が日常的に放送されていましたが、一般人が犠牲になることと軍人が犠牲になることとでは悲しさがなんだか違って感じたりしませんでした?
極悪非道な犯人が死刑を免れ、無期懲役刑になったとき、死刑にしないことに疑問を感じたりすることはありませんか?
なんか馬鹿にされたとかってとき、相手を殴ってやろうと思ったことはないですか?
愛せなくなったり都合が悪くなったから捨てられて、その後そのペットがどうなったかなんて知らん顔の人も大勢いるようですね。
捨てた犬が餓死したり野良犬となって保健所に捕まって処理されちゃっても、捨てた人は言うんでしょうね。「私は殺してない」と。
人の生命感なんて元来感情に左右されるけっこういい加減なものなのだとすれば、とりあえずペットにとっては、ペットロボットは身勝手な人から身代わりになって守ってくれる有り難い存在にはなるだろうね。
万一、生けるものとロボットとを混同したとしても、いったいどれほどの問題があるのだろう。
むしろ問題なのは、我侭が許される世の中にあって、時として我侭によって傷つき失われる生命です。
生命の尊さや重さは長い時間をかけて教え伝えていかなくてはならないことであり、時には厳しく我侭を叱ることが大切だと思うのです。
結論として、僕はペットロボットが生命を持っていると錯覚することはあると考えています。考えにくいですが、生けるののをロボットだと錯覚することもあるかもしれません。
錯覚したならしたでいいんじゃないかと思います。
というか、ロボットに対して新たに生命感を持たなきゃいけない時代になったのではないか。生き物としてのロボットと接する時代がやってきたんだなぁとね。
万が一にも子供がペットロボットによって、ペットなどの生き物とロボットとを混同してしまい、生き物に対してロボットに対するような粗暴な振る舞いをするようになるのではと心配されているのなら、ロボットに対して粗暴に振る舞うことがいけないことだと教えてあげて下さい。
ペットロボットも粗暴な扱いを受けると、きっと怒っているに違いありません。
できれば、実際に生きたペットを飼う前にペットロボットを飼って、ペットを飼う訓練をしてから生きたペットを飼って欲しいとさえ僕は思っています。
”AIBO”は ソニー(株)の商標です。
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