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○第13回全国藩校サミット福岡大会

 

 平成27103日、4(視察は3日の大会部分のみ)

  ホテルニューオータニ博多

 

1.視察意図

 

 明年、第14回大会の丸亀開催が決定。今年開催の内容を勉強するため、視察しました。

 

2.大会のあらまし

 

 ※午前の当主会議・藩校会議は関係者のみの参加

 ○記念式典

   開会宣言 主催者挨拶 歓迎の挨拶 祝辞 登壇者は別紙資料のとおり

 ○記念講演「九州と漢詩」漢字文化振興協会会長 石川 忠久氏

 ○旧藩御当主紹介

 ○映像と語り「藩校の歩みと金子堅太郎」講談師 神田 紅氏

 ○パネルディスカッション「グローバル時代を拓く藩校の息吹」

  パネリスト

   ㈱日本取引所グループ代表執行役グループCEO 清田 瞭氏

   宮本アジア研究所代表・元駐中国特命全権大使 宮本 雄二氏

   ㈱安川電機代表取締役会長兼社長       津田 純嗣氏

  コーディネーター

   本大会実行委員会副委員長          川崎 隆生氏

 ○福岡宣言

 ○次期大会開催地挨拶 引継者受渡

 ○閉会の辞

 

3.大会の詳細①記念講演「九州と漢詩」

 

○かつて300藩が学問を競い藩校を設立。中心に江戸昌平坂学問所があり、ここで学んで帰藩した者が、藩校の先生になる。

○武士は全員、漢詩をたしなんだ。1800年の江戸で識字率は80%。ロンドンやパリで同20%の時代に。時代劇に出てくる「高丸」(高札)で庶民に周知ができたのは識字率が高かったからこそ。まして武士階級の教養は高かった。

○金子堅太郎は1853年、ペルーが来た年に生まれ、1942(昭和17)年、ミッドウェーで日本が負けた年に数えの90歳で没した。嘉永6年、16歳の時に明治元年、大変革の時代に突入。

○ここで漢詩の基礎知識。中国語は世界で唯一、音楽性を持つ言語。「4声」。成立の歴史をたどると、AD5世紀に発祥、完成した頃、日本から遣唐使が渡り、とても完成された形の漢詩が日本にもたらされた。千年が経ち、江戸で漢詩の最盛期。鎖国の中で武士は戦争なく、漢詩をたしなむ。最も美しい漢詩が日本で開花。日本の漢詩は隋、唐時代の美しい音楽性を保つ。

○堅太郎は殿様の命令で昌平坂に学ぼうとするも明治維新で学問所は閉鎖。

父が没した16歳で自作の詩、「立身して父名を顕さんと欲す」。

○その後も殿様の配慮でハーバードへ8年間留学。志を綴った自作詩「一条の鉄路三千里」西海岸を目指す鉄路で。Harvardは今の中国語では「哈仏」と表記。堅太郎の詩では「波婆戸」。

4作目の自作詩に「八年の蛍雪」。志の強さを記す。

○「五言絶句」に対して「七言律詩」のことを「七律」と言うが、作詩はとても難しい。堅太郎はこれに挑戦している。

 「書窓八年の春を経過す」

 「桑港の陰雲 千里の雨」

○帰朝し、伊藤博文の秘書を務め、やがて大臣に。48歳、本人がもっとも願った「司法大臣」となり、とても喜んだ。「階前に跪く苦学の身」。

○当時「立身出世」を願わない者はいなかった。

○明治37年、ロシアとの戦いに勝ったことになっているが、早く終戦工作をしたからこそ。セオドア・ルーズベルト当時の大統領はハーバード大の学友。これを頼り、早期終戦工作を成功させた。米留学時代の経験、語学力が発揮され、米国内各地で講演。日本の素晴らしさや正義を訴え、米国民に共感。大きく紙面にも紹介された。しかし無理解にも、国民は「勝ったのに賠償金を取れなかった」と憤り、焼き討ちなども発生した。

○後半生、堅太郎は男爵、子爵、伯爵と昇りつめた。

○晩年、ミッドウェー敗戦を知る前に没。波乱の時代の波乱の生涯だった。

 

4.大会の詳細②映像と語り「藩校の歩みと金子堅太郎」

 

○黒田如水。卓越した情報収集能力と外交力。その下で〝和魂洋才〟の堅太郎。

〝困難を賞賛に変えた男〟。〝有志在途~志有れば途は在る〟の信念。

○父が病没。酒のためと言われる。「母はこれから厳しい父となります」。

○伊藤博文の秘書官として憲法草案づくり。藩校修猷館の再建にも尽力。八幡製鉄所創設にも関わった。農商務大臣、司法大臣を経て男爵になったときに母が没。

○全米180回のスピーチで米国民の80%を親日派にした。

○留学時代のスプリング・フィールドでキャリー・アベー譲との淡い恋と別離。しかしスピーチ旅の途上で再会すると、彼女はかつて〝記念〟として彼から贈られた博多織の紙入れを持っていた。それは愛用されてぼろぼろになっていた。「スピーチはすばらしいものでした」。

○後日談「私が修猷館を創ったのではない。修猷館が私を創ってくれたのだ」。

藩校スピリッツは今も健在。

 

5.大会の詳細③パネルディスカッション

 

○明治維新で一旦閉じられた藩校「修猷館」は1885年に再建。ここから排出された現代のリーダーの方々がパネラーを務める。

(清田)日本取引所とは、東証と大阪取引所との上位にある取引所。株は、国が丸抱えして支えた。今は32%を外国人が持っている。日本の株式市場ほどグローバル化しているものはない。今、東芝やVWの状況が心配だ。国の復活は企業の復活から。カネを給料へ、投資へと循環させるのがアベノミクスだ。だが企業はもっと経営をしっかりさせなければならない。グローバルに見れば当たり前のことが、日本ではできていない。「自己資本利益率」が日本は45%、欧米は1415%、中国13%。アベノミクスで8%に押し上げる。「株は企業のもので株主のものではない」と長年、日本企業は考えてきた。しかしここまで外国株主が多くなると持ちこたえられない。今の中国は経済巨人で政治巨人。今の中国は昭和40年代の日本だ。うまくつきあえば日本のためにチャンスだ。

(宮本)修猷館の最大の特徴は〝自由〟。「自分のことは自分で考えろ、責任は自分で持て」との気風。ここから自分を確立させ、個を確立させた。「緑の中で緑であったら存在感はない。緑の中で赤でないと、自己主張できない」。物事への考え方=価値観がなければ主張できない。金子堅太郎はじめ明治人には価値観があった。それを中学校で身に付けた。ルーズベルトはただ堅太郎が学友であっただけなら会わなかっただろう。再会が実現したときルーズベルトは「何でもっと早く来なかった」と歓迎したが、金子はそれほどの〝人物〟であったのだ。

アメリカとアメリカ人を知り尽くしていた。迎合でなく、尊敬される他国とのつきあい。1936年の講演で堅太郎「国家有為の人物になれ」と。これこそ修猷館の精神である。外国から立派と思われる人はまず日本で尊敬されている。個の確立、公の為に、との精神を育てよう。

(津田)国の恩に報いようと、事業を興した安川大五郎。これからの日本に一流のエンジニアを送り出そう、これが100年前、安川電機創業者の精神。経営理念「仁義礼知信はグローバルにつながる」。

(宮本)中国から漢字が来たから意味は同じと思われているが、同じ字でも意味が違う。中国では「法化思想」といい、「殺すな」「盗むな」とシンプル。日本の法律は「法の支配」…人間を守る為に法律がある、という考えだが、中国は「法によって国を治める…国民を守るためでなく国を治めるために法律がある。この例から、相手にわかる言葉と理屈で外国に接していかねばならない。

(清田)英語を身につけるために「ベッドでは寝ない」半年を送った。結果、1ページあたり5070の単語を辞書で引いていたが、半年で10以下になった。

藩校とは、リーダーを育成するところ。「ナンバーワンよりオンリーワン」と歌われ、「2番ではいけないのか」とも言われるが、リーダーはこれでは育たない。黒田如水は各人の資質を見極め、選び、そして育てた。童謡「ふるさと」にある「志を果たして」。指導者層の教育はこれでないといけない。修猷館に小倉から転校生が入ってきたが、ここにいじめがないことに衝撃を受けていた。〝修猷魂〟あればこそである。

(清田)中国、インドなどアジアに30億人が住む。世界の成長ポイントであり、九州福岡はその要だ。

(宮本)太古から見れば、国境を作ったことで人は不自由になったのではないか。外に出てみて日本が見える、自分もわかる。わかれば豊かになる。よそは大変、日本は幸せ。そのことを知ってから文句を言うべきだ。だから〝よそ〟に行こう。その先頭に、福岡が立とう。

(津田)不平等条約が反骨精神を生んだ。この精神で、世界に飛び出し、アジアの雄になろう。経済産業省は日本のロボット市場のことを盛んに言うが、EUは世界のことを言っている。EUにも関与し、世界の一員となろう。

 

6.感想

 

 藩校サミットとはどのようなものか。そもそも藩校とは何なのか。同僚議員が突然のように提案し始めた「藩校サミットを丸亀で」という意見。正直に言ってあまり関心がなかったところ、どういう経緯か知りませんがにわかに来年、それが実現することに。そして今年の第13回が間もなく福岡で開かれると案内され、ともかくも博多にかけつけました。

 会場に入るや、その広さと結集人員の多さに驚嘆。後で聞くと、毎年がこの規模であるのではなく、それぞれのサイズがあるらしいので安心。しかし「丸亀で何をやるのか」「誰が何を語るのか」、思えば不安がぬぐえません。

 金子堅太郎。私も知りませんでしたが、実はパネラーの人たちもまた冒頭、笑いながら「知りませんでした」と。漢詩の薀蓄から修猷館、そして現代の修猷高校が排出したこれらの方々の活躍ぶりと深い思想、そして行動に、これまた驚嘆しかありませんでした。

 それに加え、式次第の途中にはさまれた現代の「ご当主」たちとそれぞれの藩の「お国自慢」のコーナーはまったくの初経験。こういうことなのか。そして講談師、神田紅さんの名調子も私には初の体験。スライド画面とともに講談調で描かれる金子堅太郎という人物に、誰もが親しみと感動を覚えた、そんなひとコマでありました。

 「世のために」「人々のために」という志を培った藩校という存在。ひとりぼっちで孤立した日本が、戦うのでなく尊敬される国になろうと努力した、明治の日本人。藩校サミットを開く意図は、決して明治の時代へ〝復古〟することではないでしょう。ここに培われた精神や知恵に、現代という航海に資すことのできる価値がある、それを確認しあおうということなのだろうと思いました。

 一方で、漢詩の授業のような記念講演は、私にはとても魅力的でした。自分が大学時代の第二外国語に中国語を選んでいたこともあり、こういう「座学」がとても好きです。伊藤博文の秘書、男爵。この近づきがたい人を、いかにも近しく描き出してくれたこれらの「立体演出」には大きな拍手を送りたい。さわやかなロマンスまで付けてくれて、ここからまたNHKの大河ドラマか朝ドラの素材が見出せるのではと思ったほどです。

 ところでこれを書いているのは年も変わって2016年春。朝ドラではまさにこの時代が描かれ、女子教育や新しい経営手法を考案して明治の時代に名を残した「あさ」が主人公になっていました。そこに登場した薩摩藩の五代友厚。別の番組で、この五代と長州からは高杉晋作が、同船し、アヘン戦争に敗れた中国をつぶさに見学した、というのを紹介していました。屈辱的に扱われる中国人。そのありさまに晋作は「攘夷」「戦争」を構える。一方で五代は英米と商売をやりたい、と発想する。そんな番組の内容を思い出しました。

 人は多様な人生観、価値観を持ち、生きている。ことをなすに必要なのは、まずは話し合いであり、そこに議会の存在意義があります。

 これからの国と地方、それぞれの議会が、もっと市民、国民の「幸せ」を導く高邁な存在に、なってゆかねばならない、そんなことまでも学ばせていただきました。

 秋開催の藩校サミット第14回、丸亀大会を、名実ともに成功させたいと思います。

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