○金井利之セミナー「議会にとって民意とは?」 2016.1.20東京
金井利之氏 東京大学法学部教授
2016.1.20 御茶ノ水駅前の貸会議室にて
1. セミナーの詳細
○昨今の議会・議員不信「議員は民意を反映していない」との批判。
民意≠私の意見
寂しい、腹が立つ、そしてあきらめる有権者。
議員は一部のグループの代表者となる。特定の利益集団の代表、首長との野合、そもそも本人の自己利益を追求。つるんでいる、甘い汁を吸っている、とケンモホロロ。
○しかし、現実の具体的な住民の意思が、必ずしも適切、妥当と思えない場合もある。わがまま、住民エゴ、自己利益の主張。もっとも、エゴのない人間はいない。聖人君主ばかりなら、政治は不要。ほとんどの意見は「エゴである」とも言える。
○住民は詳しく知らされないままに判断をし、感情を抱く。もっとも市民が議員と同レベルに詳細を知っているのなら、逆に議員は必要ない。「知らないのが市民」。
○「お前は行政の手足か」「市長とつるんでいるのか」「お前は役に立たない」「説明を聞けば聞くほど腹が立つ」。住民にとって「思い込み」が正しい。他人にケチをつける。危険である。政治家は広い度量を持たねばならない。逆に、「これは自分のエゴではないのか」と自らに問う姿勢が政治家には必要。エゴを通して責められるのは、エゴを言った人でなく通した政治家だ。
○政治は商売と似ていて「採点者だけがいる」世界だ。スケート競技なら採点基準があり、適正に採点ができる。政治は、正答がないのに採点者は決まっているというヤッカイなものだ。
○「切り札」=ジョーカーとしての民意。「出せば勝つ」カードだ。政治は国も地方も、民意に沿った意思決定をする義務を負う。「これが民意だ」という〝仮設検証〟の役割を担う。
○ ・1採点者
民意⇒自治体施策⇒答案 ・採点基準
・(正答)
この枠組みの中で「民意に沿っていない」という反証、「沿っている」という実証を行う必要があるが、これは極めて困難。
○スポーツ施設が欲しいという民意vs高いカネは払いたくないという民意。どこまでも水掛け論。民意を探るのが政治の仕事であり、民意とは何かをはっきりさせたいが、極めて難しい。
○民意という〝評価基準〟。住民自治の原理下だからこそ、民意が評価基準になる。独裁国家なら評価基準は将軍。宗教国家なら教義。君主制国家なら王様が採点者だ。
○「ポピュリスト」。民衆の拍手喝采は熱狂的な情熱などであって「評価基準」としては心もとない。民意と、熱狂・狂信・洗脳・詐欺とは違うと言われるが、どう鑑別するのかは難問。
○人気がある⇒ポピュラー⇒私が民意だ⇒ポピュラリスト。かつて橋下市長「デモは民意ではない」しかし維新が選挙に勝つと「選挙は民意だ」。「大阪都構想」を否定した市民投票の結果は無視する。いつまで経っても決着がつかない。
○「人々に従う」「人々の名のもとに勝手なことをやる」「皆の意見だ。何が悪い」しかし「皆の意見というのは得てしてまちがっている」。
○拍手喝采の中。「そうだそうだ」「万歳」で「俺ってグレート!」と思ってしまう。芸能のライブコンサートならいいが、政治だと危ない。夢から覚めるとタイヘンなことに。
○民意以外の評価基準を考える。例えば経済。言い換えると「人が食えること」。一方で「経済万能」ではいけない。経済のほか、科学的知識、幸福度指標、寿命や人口、天災や天変地異、平和・安定・秩序つまり「人が死なないこと」も基準たり得る。
○人が死なない社会、人が来たがる社会。地震は、政治に責任ないが被害には責任がある。
○もっと良いまちにしようという市民と汗を流そうとしない市民と。どちらの言うことを聴くべきか。
○9.11、先ごろのフランスでのテロ、ドイツでの難民の犯罪…。「やられたらやりかえせ」も民意となる。政治が関わり、事を大きくすることで支持狙いも。人間、やったことは忘れるが、やられたことは忘れない。原爆、拉致…。
○民意の「操作化」=「見える化」。その一つとして世論調査がある。しかし世論調査は設問によってゆがみ解釈によってさらにゆがむ。これのみに頼ることはできない。評価基準そのものを、民意によって決めなければならない。世論調査では2紙の比較に意味はなく、同じ新聞で前後の比較に意味がある。
○世論調査は2000人取れば1億人の民意が汲める。国会議員が2000人いれば選挙はしなくて済むことになる。むしろ選挙のほうが、世論がゆがんで反映される。
○「見える化」の②として「新聞論調」がある。これこそ本当の世論。これが民意からかい離すれば、本も新聞も売れなくなる。そこで政治家もこれを気にしている。まっとうでないものは消えていく。「言論の自由市場」という。しかしながらそれが絶対ではない。日本経済新聞、『ウエッジ』誌の論調は〝金持ち〟の論調。貧乏な人は新聞を買わない。すると新聞世論は新聞を買う人、金持ちを代弁することに。「○×」は瞬間反応だ。井戸端で語られるのはSMAPのことであり、政治は語られない。
○「見える化」の③としてネット論調。貧乏の人でも安いコストで発信可能。しかし過激なヘイトスピーチ、ネトウヨ、ヤラセ・フォロワー。自己満足、自己同調、内輪の世界。繰り返されると洗脳、「沈黙の螺旋」に。炎上を喜ぶのはリンチの世界だ。「暇人の影響力」。書き込みができる暇人の意思が「ネット論調」を左右する。「カツの横流し」という事件があったが、「ときどき」混じっているからこそ事件になる。みんなが横流しなら、その店に行かなければいいだけ。ネット論調も同じで「ときどき」真実が混じっている。
○「選挙で民意を問う」とは。選挙でいかなる〝民意〟が示されるのか、不明。「死に票」で死ぬ民意が大量発生。投票と当選が一致しない。○○氏が当選した、といっても民意はわからない。選挙制度の操作で民意も歪む。民意は選挙ではわからない。しかし公約や党の推薦によってだいたいわかる。白紙委任とはならないが、これによって選択ができる。「無所属」ではわからない。買収された投票結果は民意なのか。選挙運動資金に支えられた選挙結果が民意と言えるのか。棄権した人の民意は。子どもは…。民意とは誰の民意なのか。
○そもそも民意が何であるのかが分かるくらいなら、民主主義は要らないとも言える。結論が出ないのが政治、怒られるのが政治家、とあきらめよ。
○政治はマークシートではできない。
○例えば「熱がある」という場合に、工学的な処置は「熱を測る」こと。政治的な処置は「問診」である。見える化努力は必要だが、とても難しい。
○個々の意見の足し算が集団の意思となるが、ルソーの言う「全体意思」では、いくら足しても民意は出てこない。疑う余地がある、とされる。結局、集まり、話し合い、意見を出して落ち着いたところが民意、となる。これがルソーの「一般意思」である。そこで「話し合い」の方法が大切になる。しゃべるのがヘタな人、声の大きい人、恫喝する人、口のうまい人、美人…。話し合いのルール化で、議論は死んでゆく。ただのおしゃべりでなくするためにルール化するも、それで発言が自由にできなくなっている。自分の首を絞めてきた議会の70年だった。戦前は「言いたい放題」でアクティブだった。
○〝デリバレーション〟=熟議。とことん話すこと。「よく話し合う」ことと「いつまで話し合うのか」のせめぎあい。全員一致はあぶない(9.11)。反対意見があることを示すことが重要。
○かつての自民党では「落としどころ」がうまい人が出世した。多数決を取らない。竹下登のような人。正反対が小泉純一郎。調整は芸術の世界に近い。現今の政治家は劣化し、アートから遠のく。
○民意の〝型〟としての「マジョリタリアン=デモクラシー」=多数派民主主義。
民意は、1つにしなければならない。49対51でも。これに対して80対20でもダメとする世界もある=特別多数。例としてマンション建て替えの決議は4分の3。いつまでも決まらない。もっとも「決まらないこと」すなわち現状のままがいい、という民意ということもできる。
○アローの「不可能性定理」。多数決も操作化方法によって結論が変わる。単純過半数は選択肢が2つのときは決着ができるが、3つ以上のときには無理。多数決はあてにならない。どのような順番で採決するかで結論が変わってしまうことがある。世の中に「2つに1つ」などということは普通、ない。たくさんの選択肢があるのが世の中だ。
例)A30 B25 C45という場合。
①順次単発 Aを採決⇒否決、Bを採決⇒否決、Cを採決⇒否決、すべて否決。
②トーナメント
A対B⇒B(Cの支持者がAになると困るのでBに投票)
B対C⇒Bに決定(Aの支持者がBに投票)
真ん中の意見が有利になる=中位投票者定理
③上位決戦 ABCに順番をつけて採決⇒ACが残る A対C⇒Cに決定
④二位三位連合 最初からABが連合してAに一本化、A対C=Aに決定
どのような多数決採決をするのかによって、結果が変わることがわかれば、採決方法をめぐって揉めることになる。
○合意形成による民意「コンセンサス=デモクラシー」。全員一致や4分の3と決めておく。『12人の怒れる男たち』で陪審評決は全員一致。この場合「非決定」があり得る。合意的民意では採決があり得ないと考えることもできる。『スミス氏、都へ行く』で議会では発言権を採れば延々と喋る限り議場占拠できる。
○全会一致の危険。同調圧力による異論封殺、単純多数決よりもかえって危険。
裏取引。大蔵雄之助『一票の反対 ジャネット=ランキンの生涯』文芸春秋1989年。真珠湾攻撃で荒れ狂う世論に対して日米開戦議決に反対票。
○民意の数。民意は「1つ」でないと切り札とならない。ルソーの説く民主主義では、「話し合えば意見は一つになる」との前提で「中央集権を内包している」「国の言うことを聞くしかなくなる」ことに要注意。2つあれば決められない。1つに決める必要がある。どう決めるのかが重要となる。そこで国と自治体の仕事をきっぱりと分け、国と地方の外交交渉で「2つの民意」を認める。「民意は複数ある」と割り切らないと自治体は苦しい。
○民意の複数性としての「二元代表制」。大統領・首長の考える民意と議会の考える民意は異なり得る。それでこそ自治は成り立つ。「すわりが良い」。ねじれ国会。衆参が2つの民意でもいい。これらはいずれも制度的に民意が複数あることを認めている。これら2つの民意をより大きなひとつの民意にできるとは限らない。民意とは、切り札が何枚もあるゲームだ。落としどころを探すのは芸術的。
○判決。いくら判決を下しても、民意が了解・受容しない限り裁判の正当性が揺らぐ。民意の後押しを受けた政権は判決に従わない。場合によっては憲法停止。裁判官は自己の保身のために民意(=雑音)におもねる⇒曲学阿世の徒としての田中耕太郎。
○政治家とは、〝落としどころ〟の才能。教えられるものではない。集約する能力を試されている。「このラーメン店はまずい」とは言うが「どうまずいのか」を客は言えないもの。「うまい」落としどころを見出すのが政治家の永遠の課題。
2. 感想
議会にとって民意とは何か。とても大きくて抽象的、根本的なテーマを、一度東大の先生に教えていただくことも価値があるのではないかと考えました。
印象深かったのは、先生の講義中何度も「よく分からない」という言葉が出たこと。先生の口癖なのかも知れませんが、まさに「よく分からない」のがこのテーマの真髄ではないでしょうか。いかにも大学の学生のような気持ちになり、授業に向かう心地で講学的なひとときを味わいました。ルソーの「全体意思」と「一般意思」のところはもっと根本からとらえないとすぐにわかったような気持ちになるのは浅はかでしょうが、なるほどとうなずけた気がしました。こうした高邁な理論から時の話題まで、巧みに聴講者に説いていくのは先生の講義力でしょう。
で、結論は「うまい落としどころを見出すのが政治家の永遠の課題」ということになりました。選挙で民意を問う、などとありていに言うが、乱暴な話である。決め方のルールによって結論は180度変わってしまう。このように〝民意〟とは単純なものでなく、一つに絞れるという楽観的なものでもない。しかしだからこそ〝政治〟という営みがあるのでしょう。
あちこちで私の語っていることですが、人気の「ゆるキャラ」が賛成、反対の手を挙げることでも議会は成立します。京極くん、うちっ娘、じゅうじゅうくんがいれば丸亀市議会は成立する。しゃべらなくてもいいわけです。でもそうではないのだ。彼らに悪いが彼らには「落としどころ」の技術はない。芸術的ともいえる技能、と同時に情熱を持ち、議会人として腕を発揮したいと思います。