○災害に強い地域づくり(市町村議会議員特別セミナー)
平成27年10月26日~27日
市町村アカデミー(千葉県幕張)
1. セミナーの概要
26日
講演①「日本の火山活動と防災」
静岡大学防災総合センター教授 小山 真人氏
講演②「災害時の要援護者支援」
跡見学園女子大学観光コミュニティ学部
コミュニティデザイン学科教授 鍵屋 一氏
27日
講演③「災害時の議会の役割」
山梨学院大学法学部教授 江藤 俊昭氏
講演④「東日本大震災被災地・南相馬市議会の経験とこれからの防災対策」
南相馬市議会議長 平田 武氏
2. 講演①「日本の火山活動と防災」
○先日NHK「ブラタモリ」に出演し、タモリさんらを富士山に案内したばかり。その取材余話など。
○原動力による噴火の3分類。水蒸気噴火、マグマ噴火、水蒸気マグマ噴火。
○マグマ噴火の分類。マグマの距離により、ハワイ50m、伊豆大島500m、2月のチリは1万mなど。
○火山で起きる危険な現象。
・空から降る…大きな噴石、火山弾。小さな噴石、火山れき、火山灰。
火山れきは時速100~200㎞で風に乗り、20㎞も遠くに飛ぶ。
火山灰とは、大きさ2㎜までのものをいう。1㎜で飛行機のエンジンが故
障、5㎜でスリップ事故が起きる。
・火口から流れる…溶岩流、火砕流、ラハールほか。これが一番危険。
・火口から漂う…火山ガス。
二酸化硫黄濃度と健康リスク
レベル4警報…5.0ppmで一般人に「重大な影響を及ぼす可能性」
高感受性者だと、レベル2警報…0.6ppmで「〃」
○日本には活火山が110。うち常時観測火山は47。データを見る限り「日本列島の火山は〝活動期〟に入った」とする根拠はない。マスコミのせいか?
○富士山の生い立ち。10~5万年前、古富士火山。2900~2200年前、新富士火山。崩れては整い、崩れては整いの繰り返し。皮をつけるように大きく高くなった。5000年に1回「山体崩壊」。かさぶたのような地層が覆い、現在は歴史上最も美しい富士山の山容を見られる。
○864~866年の貞観噴火、1707年の宝永噴火が特別なもの。前者は溶岩のみ、後者はすべてが火山灰。宝永噴火と同じ規模を現在は想定しているが、季節、風向きにもよる。次回も必ずこうなるというマスコミ論調はまちがっている。
○富士山火山広域避難計画はHPで。
○富士山では火口が想定できないのでシェルターの設置のしようがない。
○住民対策と登山者対策を縦割りなくし、連携して計画すべき。マイカー規制や避難マップの整備が必要。山梨県のマップは先んじている。避難パターンは4種を想定している。
○富士山噴火のよくある誤解。予知できる→予知できない。大量の火山灰が降る→宝永みたいなものは来ない。火山灰は怖い→大量の火山灰は稀。通常人ならマスクで十分。大きな噴石が飛ぶ→来ない。溶岩流は怖い→歩いて逃げられる。シェルターが富士山にも必要→シェルター設置は難しい。
○自然の災害と恵みは表裏一体。悲惨な災害も長い目では大きな恵みも。例えば火砕流によって平地が生まれ、大宮断層によって土石流はせき止められた。その上に富士宮市ができ、水が湧くようになった。悪いことばかりではないことの理解を。バランス取れた防災教育を。ジオパークなど、火山の良さをうまく活用し、地域振興に役立てることを考えよう。保全防災、経済観光、教育文化の3つの面から、火山は「大地(ジオ)が生んだ資産」と捉える。静岡県地域防災計画にはジオパークとの連携が明記されている。「ジオガイドは地域防災リーダーでもある」。
3. 講演②「災害時の要援護者支援」
○最初に体操。「頭で分かっていても体がついていかない」こと、「ゆっくりならできるが速くはできない」ことを知る。
○大災害の時、人は小学校低学年レベルの判断力に低下することを知る。
○災害支援は東日本大震災を機に「プッシュ型」、呼ばれなくても行くように大きく変わったが、まだ気づいていない。これからは「支援」ならぬ「受援」計画が必要であること。そのあるなしで復興に差が出る。一方「支援計画」では、神戸が先駆けている。
○震災3年目、ストレスはピークに。神戸を参考に「10年続く」。
○東松山市の復興は早かった。これは「活動する地区を支援する」しくみを作っていたから。地区単位のワークショップに、人口4万人中2000人が参加し、復興計画に携わっていた。いざという時、とても早く進んだ。「一人で頑張る」から「仲間と一緒に頑張る」へ。
○東日本大震災での死者の教訓。6割が高齢者。障がい者の死亡率は2倍。自治体職員221名、消防団員254名、民生委員56名、福祉施設職員86名。これらは逃げれば逃げられた人。
○地域とのつながりが弱い人、安全と思われた施設や病院での死、要援護者を救いに向かった支援者の死、避難所での衰弱。
○災害時、市役所職員は①遺体対応②道路を開く③避難所支援④物資支援、さらに通常の市役所業務BCP。死者対応で手いっぱいとなる。生きている人への支援が細く、後回しとなる。→災害で死ぬな。他者の迷惑となる。
○これからは自助、従来からの共助(近所、消防団、自主防災会など)、公助に加え、「防災の正四面体」として「新たな共助(ボランティア、NPO、企業など)」が協定により稼働すべき。
○まずは自助。我が家の防災会議。奥さんが言い出すと主人は従うが、主人が言い出すと成功しないかも。
○持ち出し品のポイント。日傘雨傘は必携。猫砂はオススメ。携帯トイレも。水道水は3日間持つ。カセットコンロさえあれば7~10月なら家庭にあるもので暮らせる。入れ歯など個々人に特別なニーズも。
○要援護者支援では、「車いすを押したこともたたんだこともない」人が多い。
○要援護者のポイント。高齢者は、自分で行けない人のみが対象。外国人、障がい者、難病の人にも配慮。意外に軽く見られる妊産婦。男性にはわからない。議員や職員の多くが男性であり、見落とされる。
○「避難しよう」と誰から声をかけられたか、の調査(死んだ人には調査できない)の結果、家族、近所や友人のほか、福祉関係者からの声掛けや連絡という回答も多く、これはすごいこと。
○実際の避難で手を貸してくれたのは、との調査で家族、近所、福祉関係者がほとんど。警察は0、消防は1ケタだった。近所の人や福祉関係者の役割は大。
社協、ヘルパー、ケアマネは防災計画に載っているのかチェックを。
○2013.3内閣府「避難支援検討会報告書」での指摘。福祉サービスの災害時継続体制確立、福祉関係者の行動を計画に盛り込む、福祉サービス継続BCPを組み入れる、訪問介護計画書にも利用者の避難支援を記載し役割分担を明確化など。
○2013.8内閣府「要支援者の避難行動支援指針」。ここには上記のことが〝1行も〟書かれていない。国がこれらの現実を無視して勝手に作ったもの。
○高齢者の避難所での事例。寒さで体力低下、認知症が悪化するもオムツ取り替えてあげる人がいない、集合住宅になじめず壊れた家に帰る、判断や手続きができない、狭い仮設で家庭関係悪化、行き場を失うなど。
○障がい者の事例。高齢者が障がい者の世話をしている家庭ではともに逃げ遅れ、自閉症の子を持つ母は避難にてこずるも近所の人が無理やり手助けをして助かった例も。福島の聾学校の中村雅彦先生は一軒一軒を訪問調査し「あと少しの支援があれば~東日本大震災障がい者の被災と避難の記録」を著作。
○仮設の多くが和式トイレ。つかまるところがなく、高齢者は立ち上がれずに汚物まみれに。便器の前面でなくサイド側の適度な高さに持ち手を。(あるボランティアからのメールで)
○道が水没。水深50センチでもボートで避難する人々。100㎝では胸までつかる。ボートに乗る人が「大変な目に」というが、大変なのは胸までつかる消防団員だ。見附市では「手挙げ方式」大改革を行った。「不同意の人」もいる。名簿は災害時までは密閉。同市ではこれに常時かかわる1人の職員が必要と判断。市長はすごい人。
○仮設トイレは50人に1台。これでは「出るものも出なくて」便秘に。30人に1台だと楽。
○「災害エスノグラフィ」。もともと異文化を理解するための民俗学の手法。数人で災害体験を話すと、災害時の生々しさ、臭い、隠れやすい失敗、悪口、本音が聞ける。報道に書けないこと、記録に残せないことを聞く重要性。例えば「市長が逃げた」「救援を断られた」など。これらは経験しないとわからない。経験しても経験したことしかわからない。経験をホンネで語り残すしくみを。
○ここで簡単なワークでエスノグラフィを学ぶ。石巻支援学校教諭、片岡明恵さんによる手記を読み、教訓と思うところに印をつけ、2~3人で語り合う。(最後の「感想」に詳述)
○内閣府HPに紹介されている山梨県の福祉避難所訓練。甲斐の国だけに「人は石垣、人は城」、さずか、要援護者訓練を早くからやっているだけのことはある。てきぱきとした動き。
○「正常化の偏見」。何とかなるだろう、との思い。寝たきりの夫を介護する妻がどのように動くのかを事前に決めておかないと、助かりようがない。プッシュ型、押しかけ型で「弱者は手を挙げてくれ」。
○支援学校は「福祉避難所」にしておくべきだった、との反省。福祉施設は常に満杯。そこで、福祉サービス継続のために、支援学校、ホテル、旅館、公民館、教室・保健室、体育館の一部スペースなどを福祉避難所としておくこと。
○「近所の役割」のいちばんは「心の支援」。誰でもできる。役に立たない人はいない。心配する、気遣う、手伝う。ここでは要援護者こそ支援者になり得る。
助けてもらう人も「助ける人」になれる。誰しも役割があれば元気に。
○要援護者一人ひとりが「あんしん箱」を持つ下呂市、蕨市の取り組み。
○できることから始めよう、木造住宅では2階で寝る、タンスの下敷きにならぬよう、「断捨離」を、水と飴玉を備蓄する。
○R.パットナムの提唱「孤独なボウリング」。米国で、ボウリングをする人は減ってないがみんなでする人が減り、一人が増えた。かつてのアメリカは市民のつながりが強かった。そのつながりが幸福な暮らしと民主主義を支えてきたが、今は複数人でボウリングに出かけても一人が1レーンを使う。教会に行く人は1960年ころには30%、2000年には10%。治安が悪化、格差拡大、社会は非効率に。これからは「ご近所力」が決め手。ご近所力は付加的価値ではない。ご近所力こそが安心安全の源泉。「安心」は人と人とのつながりでこそできる。地区防災計画は「ご近所力強化計画」である。荒川区の防災は〝ご近所単位〟。
○「新潟は防災先進地」。柏崎市北条(きたじょう)地区。2度の地震災害。中越地震では安否確認が困難を極めた。これを反省し、中越沖地震では2時間で2000軒すべての安否確認が取れた。防災会議を月に3回開催。補助金で無線を導入、雪のフェスタのイベントでは無線訓練を行っている。しかし最初の10年は反応が弱かった。20年にしてようやく人が増えだした。「暖暖(だんだん)」と名付けた集まりの場所に人々が集う。300円の弁当など、「食べ物で釣る」手法も。
○黄色いハンカチを掲げて「我が家は大丈夫」と表明する富士宮市の取り組み。
○要援護者に個別のプランを。避難方法、誰が支援するのか、福祉関係者、家族、地域が共有。計画で終わらせず、訓練を。常に見直そう。
○洪水・津波は「逃げるが勝ち」。誰と逃げるか、どう逃げるか、何を持っていくかを決めておく。
○災害に強い地区のキーワードは
ハード×ソフト×ハート
設備×計画や訓練×助け合おうという気持ち
○従来の防災計画は国→県→市と上意下達構造。その先に、「地区防災計画」を提案し、市が認めれば「公的」な性格とする。これにより、国民が自ら防災行政を担うことになる。
4. 講演③「災害時の議会の役割」
○地方議員はかつての6万人から平成合併で3万5千人に。
○平時の議会が非常時にも役に立つようにどうすればいいかを考える。
○自治会長が故障すれば副会長がいるが、議員はトリカエがきかない。議員として災害時に何をどうすべきなのか。
○災害時、議員は市民の声を「個別に」持ってきて行政のやっかいに。議員個々人でなく〝議会〟として、〝機関〟としてどう行動するか。
○阪神大震災時の芦屋市議会。毎朝9時に全議員が参集し情報収集。行政へは個々の議員でなく議長がまとめて提言を行う。そこからの情報はまた議長から議員へフィードバックする仕組みを実践。ところが災害の最中で〝名刺を配る〟事実がある。
○「二元代表制」という言葉は知っていても、市民は、議会が「住民自治の根幹」の意味を持つことを知らない。根幹は市長ではなく議会であることを住民は知らない。議会は多様性がある。議会は議論する。第三の道を見いだせる。その本来の〝議会〟として機能せよ。独善性を排除し、調査研究を怠らず、住民との意見交換を活発に。市民には賛否の結果の単なる報告でなく、なぜ賛成・反対したのかの説明が重要。
○飯田市議会は総合計画も議決案件にした。そのことで「議論が不可欠に」なった。
○大津市議会BCP。平常時における議会の役割。〝議員は邪魔〟からの脱却。復興にあっては地域経営の担い手としての自覚を。
○段階ごとの議会の役割(大津市議会を例に)
①初動期(発災1~3日)
議会の災害対策会議設置、安否確認、情報収集、地域活動、災害対策会議の
指示に従う行動
②中期(3~7日)
情報収集・共有、災害対策会議の指示に従う行動
③後期(7~1か月)
議会機能の早期復旧、本会議・委員会開催、復旧・復興予算の審議
④平常へ(1か月~)
平常時の議会運営体制、復興計画の審議
⇒東日本大震災では上記③の段階で、復興予算は専決で行われた。専決にさせ
ないためには議会が早く立ち上がること。
○〝機関としての〟議会が作動すること。個々の議員の口利き活動を行わない。
○議会は住民とともに歩み、議員間討議をし、それらを踏まえて市長と政策競争
をする存在に。
○大津市議会は議場で訓練を行っている。
○陸前高田市議会は議会報告会を基本条例に義務付け。そこに大震災。各地で「被災を聴く会」を20か所で催し、これを基に政策提言を。
○全国1700の自治体中700の議会で基本条例制定済み。これからはその中に危機管理を盛り込むこと。そこを見れば「動く条例か」どうかがわかる。
○継続的な議会。それに活力を与える議員活動。二つを一体として。
○板橋区議会では「緊急時における議会のあり方検討について」を策定(2014.10.7)。大津市議会「BCP(業務継続計画)」は2014.3。都市行政問題研究会『「都市における災害対策と議会の役割」に関する調査研究報告書』は2014.2。
これらに盛り込まれたのは、
① BCPの必要性と目的
② 行動指針と役割 議会、議長、議員
③ 市との関係
④ 想定する災害
⑤ 議会事務局体制
⑥ 議会の体制
⑦ 情報の的確な収集
⑧ 議会の防災計画と防災訓練
⑨ 計画体系図
○多様な住民自治を作動させる。人口減少エリアにどう対応するか。議員がいないエリアの情報をどうするか。自治体間連携・補完に議会がどう対応するか。NPO等との協力関係の構築。議会として平常時から連携を。平常時の条件整備こそが災害時でも作動する。
○新城市では合併10年にして初めて「地域自治区」を作った。
○「市民と歩む」議会にとって議会報告会は生命線。「参加してよかった」「手ごたえを感じた」「動いてくれた」と言われる報告会へ進化を。
○板橋区議会の災害対策資料では、大津市、大船渡市、陸前高田市を参考にしている。
○「議長不在の場合」の指揮者について、大津市議会では②副議長③最大会派会長、と定め、さらに議会事務局長不在の場合には②次長③課長④課長補佐と事務局の指揮体制も明記している。なお大津市議会対策会議の構成メンバーは正副議長と各派会長。情報が伝聞なのか事実か明確にすることも明記。口頭でなくフォーマットを定め、報告することによって責任を明らかにする。議会への「ちょろちょろするな」「邪魔するな」の批判に耐える行動を。全議員にタブレット端末を配備しており、報告フォームも入っている。防災袋も全員に配布。
○行政側の「災害対策本部」と混同されないようなネーミングを工夫。
5.講演④「東日本大震災被災地・南相馬市議会の経験とこれからの防災対策」
○南相馬市の人口は被災時H23、7万1千人から現在は6万4千人に。
○3.11、14時46分、震度6弱。午前は中学の卒業式、午後、議会では本会議で一般質問が行われていた。同49分大津波警報、15時51分、最大9.3mを観測。
本会議は延会とし、3/24に再開した。ここには執行部出席者ゼロ、一般質問は取り下げ、委員会は省略し、1日の日程で議決し閉会した。
○死者1109人、うち避難所や施設での震災関連死473人。このうち津波による死者は636人。
○震災による医療関係の状況は全病床数が1329から579に激減。病院は8から6に、診療所は39から27に、歯科は33から23に、特に小高地区は5からゼロに。スタッフ不足により施設はあるが受け入れできない状況に。
○介護関係では、要介護4、5の人の多くが死去または地区外への移動で減少。要支援1~要介護3の人が増加。施設はあるが稼働できない状況に。
○原発事故の情報混乱。避難指示によるバスの手配が国でされたことすら、市には知らされてなかった。国から市への連絡は一切なしのまさに地獄状態。テレビなどでかろうじて市も情報を得た。町は「原発は安全」の一点張りのムード。ガイガーカウンターも保有せず。ようやく手に入れたのはロシア製だった。日本製が届いたのは1年後。原発への〝備えなし〟。
○市に南北3つのエリアがあり、原発から20㎞圏内、30㎞圏内、30㎞圏外と分断された。真ん中の原町区では地区の一部が「ホットスポット」に該当。すると680戸中132戸が避難させられ、残りは避難が許されなかった。その後も賠償、税の減免、高速無料化で格差、分断が続き、地区の一体化を大きく阻害した。
○このような中、議会は3/15に災害対策会議を発足。4/14までは毎日、それ以降は週2のペースで会議を開催。議員個々人からの独自情報、市民からの要望をとりまとめ、災害対策本部へ情報として提供した。
○5/11、議会に「東日本大震災及び原発事故対策調査特別委員会」を設置し、組織的な活動を開始。5/23~6/2の延べ12日間、避難者数50人以上の市外県外避難所37か所を訪問。班編成には平等公正を期すため、各地区からまんべんなく選んだ4人1組とした。
○10月には仮設住宅現地調査を実施。延べ25日間、32施設を訪問し500人以上が出席。市長に要望書を提出した。「議会が来る」と口コミで広がり、体育館を参加者か埋め尽くした会場もあった。
○議会から国、県、関係団体へ必要な要望書提出活動を行った。県教育長へ学習環境改善、東京電力へ賠償請求書類簡素化、県知事へ仮設の環境改善、国土交通省と高速道路㈱へ無料化継続、など。
○議員は56人から24人に半減した。議員のいない地区も増えたが、ここでは区長の存在が大きかった。
○その他、委員会、議員からも各種決議、意見書など提出。被災市町村とも連携した。
○放射能との戦いは始まったばかり。先の台風禍で上流から放射能廃棄物の袋448個が下流へ流され、うち36個は回収不能で断念した。セシウム137の半減期は30年。除染後も逆に数値が戻るケースもある。長期化で帰還への意欲が減退、地域コミュニティが崩壊の危機。長期にわたる健康被害に不安。
○原発事故の教訓。国の基準「10㎞圏外は防災必要なし」。20、30㎞でも被害あり。警戒区域指定等はキロ数よりも市町村単位で。広域的な援助体制と長期的な支援体制の確立を。
○市役所職員は717人から535人に。対応に限界。全国から40人が派遣されている。税、建設部門で仕事に就く。任期付きも含め、現在687人体制に。
○H25.6.26「南相馬市議会災害対策支援本部設置要領」を制定。骨子は
①安否確認
②連絡体制確立
③情報共有を図る (詳細は別添)
○議会「災害時行動マニュアル」も整備。
①初動 発生で正副議長参集⇒市が対策本部設置で事務局長から議長に連絡
⇒議会災害対策支援本部設置⇒議員、市への周知
②初期 各議員が自身の安否、居所、連絡先等を本部に連絡⇒本部の指示に基
づき集合、現地情報収集、支援活動協力
③中期 市本部との情報交換、諸要請、被災者への助言、相談活動
④後期 全員協議会で被災状況掌握、市本部への協力、被災地・避難所視察、
国・県への要望活動、必要により臨時会
6.感想
「災害に強い地域づくり」という特化されたテーマのもと、話題性も高い多彩で多角的な講師陣でのセミナーでした。
失礼ながら個々の先生のお名前を覚えておらず、「先日『ブラタモリ』に出演しました」で会場に静かなどよめきが。この〝ツカミ〟によって、やや講学的な
アカデミックなお話も最後まで興味深く聞きました。私たちの生活に富士山の噴火がどう影響するのか。NHKのドキュメンタリー番組などではとてもビジュアルに、東京でどれほどの火山灰が降り、通信は遮断され…というのが漠然と脳裏にありますから、もちろん国家存亡の危機にさらされることでしょうが、例えば登山者を救うシェルターの設置ひとつをとってみても、どこから爆発するかわからない、ゆえに設置のしようもない、と聞かされると、そんなものかと感心も納得もしてしまいます。先日のあの番組で見た光景ともあいまって、相手が大きすぎる。「正しく恐れる」という言葉もだいぶ言われるようになりましたが、それはなかなかに難しいことでもあります。正確で的確な情報の提供と、落ち着いた判断と行動。「パニックになるな」との論調だったと思います。
「要援護者支援」の講義では「災害で死ぬな」とのフレーズが印象的でした。水害から助け出されるボート上の市民は「大変な目にあった」と言うが、本当に大変な目にあっているのはそのボートを胸までつかって引いている消防団員さん。彼らは助かろうと思えば自分は死ななかったのに、人々を助けようとして行動した、そのように落命した方がこれほど多いとは、厳粛な気持ちを禁じえません。
そしてテレビ画面には映されない過酷な現場を風化させないこと。匂い、いらだち、助けてくれなかった失意。いただいた資料「避難所となった特別支援学校」というタイトルの、石巻支援学校教諭(当時)、片岡明恵さんの綴った手記が胸を締め付けます。
医療器具はすべて海水に浸かり使えなくなり、悟君は命を引き取った。
近隣の高齢者が避難してきたことによって学校が大きな支援をしてもらうことになった。学校と地域の距離感はぐんと近くなった。
教職員の誰が倒れても不思議でない状態。
ライフラインの途絶えた59日間。避難者は生気を失い、子どもたちは自傷、他傷行為、赤ちゃん返りなど。子どもたちが健気にいるのは1週間が限界。
自閉症の子の保護者は周囲の避難者に沈痛に「すみません」「ご迷惑をかけています」と頭を下げる。
目と鼻の先の中学校には食料が早くから届いていたことも、医師が常駐していたことも後で知る。
支援学校の児童生徒がいたから、避難者の皆さんにも時として笑顔が戻った。子どもがいたからこそ。子どもの持つ力の大きさ。
教職員中心の避難所運営から避難者が中心の運営に。
2か月ぶりの学校再開。登校してくる子どもらに保護者も前向き、避難者たちも先生たちも意欲を吹き返す。
以上は講義の中ほどで、この資料をもとに気づいたことを付近の人と語り合う、というコーナーの時に、私がマーカーを引いた部分です。前後し、要約してあります。
講師の結論は「弱者に対して何をしておけばいいのか」という問題提起。それは○弱者であることを知ってもらっていること○自分たちができること、避難所でできることを事前に確認しておくこと。この教訓に基づき、丸亀市でも高齢者や障がい者を対象に事前の調査やプライバシー取扱いについてのコンセンサスが進んでいます。災害は待ってくれないものの、こちらは制度の推進以前に私たちのまず意識改革が必要。とても時間がかかるのは致し方ありません。でも時間との戦いであることを訴えながら、できるだけ早く、制度を確立しなければなりません。確立したあとの不断のチェックや更新も含めて。
丸亀市は比較的に災害が少ないですが、H16年の台風で金倉川が氾濫し、城坤小学校に避難してきた自閉症を持つ子とその母のことを忘れません。「この子はあと30分で必ずパニックを起こします」。家はすでに床上浸水。私にはどんな方策も浮かびませんでした。親子はその時刻が近づくと、あきらめて床上浸水の家に戻って行かれました。
災害は日々に疎く。先日善通寺市で受講した「釜石の奇跡」を生んだ片田教授による災害セミナーでも、「神戸の震災から20年。力を込めて神戸の高校生たちに訴えたのですが、意外にもポカンとしているんです。彼らは震災当時、まだ生まれていなかったのです」と語っていたのが忘れられません。
だからこそ、常備体制しか頼るものはありません。意識の高い人が中くらいの人を引っ張り、さらに低い人たちを巻き込んで、一歩一歩と進めるしかない、忘却との、それは戦いなのかも知れません。
第3講では、議会改革論者の急先鋒、江藤先生による日常議会のあり方改革も交えての論考。幸いにして、丸亀市議会では「緊急対応マニュアル」を策定しました。ここまでは一歩前進。ただ被災する議員もいるでしょうし、私のように高齢者と障がい者を持つ家庭、そして消防団活動もしなければならない議員、女性議員など立場もそれぞれです。一糸乱れず、ということは望まないほうが現実的です。
ただ先進市議会を参考に、「うちはこういう状況だ」と議員から議会に一報を入れる、という簡単なことから、定期的な連絡会合の開催、被災地や避難所の訪問、議会としてまとまっての要望活動、緊急予算の審議、復興計画策定への参画まで、時々刻々を追っての指針が必要なことは論を待ちません。「多様性」をフルに発揮し、議論し、第三の案に到達し、市長と政策競争をする、という、氏の高邁なビジョンには心酔もし、そのとおりと共鳴します。さあ、何から始めるか、という心地でもありますが、私から始めなければならない、そう自覚してもいます。
災害の緊急時に大パニック、総崩れの市議会になるのか、第4講の報告のように「議会が来てくれた」と体育館が満杯になるほどの期待と満足を市民に示していけるのか。それもこれも、「常時議会」の体制にかかっているというのは本当です。
他の先進地の参考資料も本編になるべく詳しく引用させていただきました。このレポートを読んでいただけると、先進事例のイメージがほぼつかめる、そのように、HP掲載を意識してのことです。僭越ですが議員、市民の皆様の目に、このレポートが触れることを願っています。
最後に南相馬市議会からの心痛む、そして心の動く報告。
3つに区分される市の生活圏域。そこで昨日まで、町が機能し、コミュニティが成り立っていた。しかし原発禍は容赦なく、同心円で地区は切り刻まれ、圏域と圏域外で市は分断、コミュニティが崩壊。1mしか離れてない隣同士の家の、18歳の子と19歳の子で扱いに大きな違いが生まれ、人々は暮らしも心もバラバラに。「放射能は同心円には広がらない」という、ごく当たり前の知識すら、ここでは度外視されていたのでした。
「気の毒だ」。そんな感想でこれを終わらせるわけにはいきません。
災害時にとかく議員は「得点稼ぎ」のために現場をうろつき心配顔で歩き、市役所に向かっては個々に接した市民の「ため」という大義で行政の予期せぬ要求を突き付けたりして全体に迷惑をかける、と、一般には言われており、今回のセミナーの中でもちらほら、そんなことが冗談がてら、ささやかれていました。
現に私も城北小学校の避難所に「命からがら」、逃げてきた高齢のご婦人をみつけ、寒さに震えるのを見て「毛布を」と職員に要求したのを覚えています。余談ですが「命からがら」とは大げさな、と、私も一瞬考えたものでしたが、水深50cmの水路は時として激流に化ける。水面はまるで湖面でも、転ぶとたちまち水流にあらがえなくなる、ということをのちに何人かから教わりました。
また一方、城坤小学校を視察したときのこと。正面に体育館があってすぐ右が職員室、という構造。体育館に上がってみるとラジオもテレビもない。職員は立ったまま。そこでそれを要求すると、確か「指示されてない」という意味の返答であったと記憶しています。私は職員室へ。そこにはいくらでもラジオもテレビもあるのです。もう古い話となりましたので、ここで余話として加えさせていただきました。たちどころに、体育館内にニュースが流れ始めました。
「人を助けるのは労働力ではない、知恵だ」と、テレビで誰かが説いていました。一分の利があると思います。
「指示されてない」という言葉ほどシゴトになってない言葉はない。それが業務であるかないかにかかわらず、自分に出せる知恵と力を使い切ったのか、それが試されるのが災害、その時でありましょう。議会という機関にも、それが突き付けられる、そのことを真摯に、いよいよこれからの時期、受け止めなければならないのだと思います。
南相馬で、議員は56人から24人に。議員個々人が老人を誘導、死体の処理、そして西に逃れる車両で長蛇に遭遇、そこで的確な情報提供を市の本部へ。職員は対応従事で情報もつかみきれず。そんな中、こうしてもたらされた議員からの情報が有用だった。一方で、風評、不正確、届いたつもりが届いてない、こうした混乱が混乱を生んだ、まさに修羅場の様相だったのです。
だからこそ合議体で動こう、冷静客観に市に提言をしよう。そして行政の手が届かない、市外県外に逃れた〝市民〟の声を聴きに行こう。この南相馬市議会の行動は絶賛以外の何物でもありません。
過酷を極める自然の猛威。なかんずく私たちの生きる国土はほとんど「動いている」状態と言っていいのかも知れません。厳しい現実の前に、絶望する人に元気を、泣く人を笑顔に、寒さに震える人を温めてあげなければなりません。でもその向こうに、第1講の先生の語ったとおり、悪いことばかりではない、きっとまた大自然は思いもよらない恩恵を私たちに準備してくれる。それを指し示すこともまた、「復興」という大きなテーマとして私たちの前に横たわります。
行政だけではできない。行政だけが頑張るな。それが私の結論です。
むしろ行政が、市民に声をかけ、市民と語らい、市民のステージを準備することに臆病であるな、そのことを訴えたい。そしてそこにこそ、それをリードする存在としての議会の使命と責任も明確になってくるのだと思います。
※今後の参考
○福祉避難所と常時の訓練…山梨県
○要援護者一人ひとりに「あんしん箱」…下呂市、蕨市
○「ご近所単位」の防災計画…荒川区
○安否確認システム…柏崎市北条地区
○黄色いハンカチで安全宣言…富士宮市
○BCP、災害対策…大津市(タブレット端末を活用しての情報報告も)、板橋区、