○平成25年度第3回市町村議会議員特別セミナー
期 日 平成25年11月18、19日
会 場 全国市町村国際文化研究所(滋賀県大津市)
次 第 講義1 「災害からの再生と震災復興」
関西学院大学教授 山中茂樹 氏
講義2 「これからの地方議員のあり方」
東京大学名誉教授 大森 彌 氏
講義3 「地方財政の課題と方向性」
一橋大学経済学研究科教授 佐藤主光 氏
講義4 「地方自治と議会改革」
慶應義塾大学教授 片山善博 氏
(以下、文責は内田にあります)
講義1 「災害からの再生と震災復興」
関西学院大学教授 山中茂樹 氏
○「起きるほど理論が冴える地震学」
地震学は経験値を積んでいくが、一方で復興は、地震が起きるほど難しくなる。東日本大震災では「復興と復興の衝突」「防災と復興の衝突」という現象が起きた。この震災まで、国の法律で「復興」の定義はなかった。
H23年6月25日「復興構想7原則」と、同7月21日「復興の基本方針骨子」で、2つの定義ができてしまった。混乱を招く。
○ 南海トラフ地震では「5分で32mの津波」と想定されている。この事態に震災体験をどう生かすか。
そこで問題なのは「専門家が信用されてない」ことだ。「…ミリシーベルト」などと説明されて、国民は専門家を信用できない。また想定3mの場所に5mの津波が襲ったことで、専門家は信用されてない。
○ 24年9月9日放映「NHKスペシャル 追跡 復興予算19兆円」ではこれを「流用」としていたが、これは上記「法律」に基づくもので、「流用」ではない。
○ 東日本大震災復興基本法の概要として、「市町村が…政府の復興基本方針等に即して、復興計画を作成できるものとする」とあるが、これで良いのか疑問である。阪神大震災当時の貝原俊民兵庫県知事にヒアリング。被災地から遠い東京で立てた復興計画に「あんたたちがついて来なさい」でいいのか。
ペシャル 追跡 復興予算19兆円」ではこれを「流用」としていたが、これは上記「法律」に基づくもので、「流用」ではない。
○「復興プロセス論」
東京都の描く都市復興のプロセス。東京が潰れたら、こういう手順で、という「遺言」ではあるがビジョンでない。東京が潰れたら仮設住宅は作れない。壊れたものを使うという計画になっている。ビジョンは首長に属する世界だ。
○
関東大震災から阪神・淡路、東日本まで、そのつど復興への考え方が違う。
右肩下がりの時代に「もとどおり」はあり得ない。山古志はもとどおりにはならない。
○「復興災害」として、長田町の例。無理やり作った店舗はシャッター。復興は一つの手法では測れない。
・社会の豊かさを日本全体で捉える「集団主義的方法論」
・社会の豊かさを個々の地方ごとに捉える「個別主義的方法論」
両者を調和することが政治の仕事。
○「県の姿が見えてこない」との声。
国に復興庁ができ、県を飛び越えて国が市町村へ。大臣も来る。「県を頼ってもしかたがない」との声も。(上 昌弘・東京大学医科学研究所特任教授)
○
東日本大震災において、小さな基礎自治体は機能喪失。大きな災害への対応
は無理と露呈。
○
復興は現地主義で。企業を入れ、水産特区を設け、協業化を進める。漁港と
いっても大漁港と小漁港で異なる。「漁や野良作業を知らない識者が『規制緩和』
や『競争原理の導入』『大規模経営』をテレビでとくとくと語るのは、あまりに現実を知らない机上の空論である」。
○
災害の巨大化・複合化・重層化
東海三連動、関東直下型、富士山噴火となれば、東京都に10㎝の火山灰が積もる。パソコンは使えない。川の上流域には津波が川を遡行して来襲する。地下室はビルの下、地下街は道路の下。それぞれに対策が必要。
○ そんな中、ロシアンルーレットに例えて「何をやってもムダ」という厭戦ムードも漂う。お年寄りは「連れて逃げてくれなくていい」と。これからの災害復興は、
・事前復興:平時の脆弱性の発見と克服、災害後の脆弱性の修復が必要。事
前に合意形成しておくこと。たとえば空き家対策は緊急に。
・合意形成の準備:円卓方式、四面会議、アウトリーチ方式
○ 復興の主体となる各級のコラボレーションで「視点の複眼化」
・中間支援組織の活用:ボランティアを「ピラミッド化」
・対口(たいこう)支援:市と市との間でコンピュータデータ支援など
○ まちの脆弱性を発見し克服しようとする豊島区の例。ワークショップ、まち歩き、子どももいっしょに。
○ 複雑な住民利害の中、合意形成の手法は?
→成功例として「サンタクルーズの物語復興」。ワークショップを通じ、市民に「50年後のまち」を描いた作文を書いてもらい、都市計画の専門家からの助言や投票を経て、まちなか情報センターで広報→市民と共有する。300回にわたるワークショップを外部コーディネーターがリードした。
○ 「アウトリーチ手法」は首長が自ら出ていく。これは為政者が優秀で「太っ腹」でないと不可。「四面会議手法」はディベートしながら進める。穴水町。「対口手法」では関西広域連合が好例。
○ 復興は、さまざまなコラボレーションで。行政と住民との橋渡しの仕事は、政治と学問とが担う。
《感想》
冒頭の「経験値」の話に共感。地震や津波という自然事象を鉄壁に理論や科学でカバーすることはもちろん不可能。学問は、英知を尽くしてアドバイスをいただきたいが、命を守るのはまず自分であり、次にコミュニティであることを肝に銘じなければならないと思います。
氏の論説はこれまでの数百年の日本の災害史と資料を概観しつつ、人間が「為政者」として何ができるのか、何をしたのか、できなかったのかを分析。冷徹な目で、これからの災害への備えはどこまでも「コラボレーション」であること、そして行政と市民とを橋渡しするのは政治と学問であるという結論にも深く共鳴するところがありました。
講義の中で出てきたNHKの番組は私も見ました。番組冒頭から、沖縄のある漁港が「きれいに改修された」と喜ぶ付近の住民が登場。NHKは「これ、東日本大震災の復興のお金でできたの、ご存知ですか」と、やや意地悪な問いかけがなされていました。しかも、わが丸亀市にとっても他人事どころか、野球場建設という極めてシビアな関連事項でありました。
やがてこの施策は見直され、復興に直接関係しない予算は削られることに。けれども教授がお話されたとおり、それはデタラメな「流用」ではなかったのです。しかし、そうは言っても世論はどうしてもNHKの目線に共感するでしょう。政治に、「先が見えてない」、そう言えるのかも知れません。
だからこそ、政治と政治家に「生活」が見えてないといけないのだと思います。冒頭述べたとおり、地震や津波災害を誰が完璧に、冷静にカバーできるでしょうか。ここに、大災害が複合化してやって来る時代の、政治の使命があります。のみならず、「事前防災」という言葉に表されるように、いたずらに不安を煽るのでなく、日常生活の中で防災意識と行動とが備わっているような、そのようなライフスタイルとコミュニティやボランティア活動のありようが、とくに地方政治と行政において、強く要請されているのだと知りました。
具体的には「いつ来るかわかりもしないものにそんなに真剣に備えなれない」というホンネもありましょう。今年の防災訓練と、昨年同時期のそれとでは、早くも参加者が少なくなっていた、それが現実です。
繰り返しますが自分の命はまず自分が守る。あえて、それを怠って行政にねだってもダメですよという意識の醸成も含め、地方行政が積極姿勢に出ることこそ時代の要請と、改めて確認したところです。
講義2 「これからの地方議員のあり方」
東京大学名誉教授 大森 彌 氏
○ 20、30年前の議員さんが、このような勉強の場に来ることはなかった。議会も変わりつつある。ただし人間はそう簡単には変わらないが。
○ これからの議員のあり方を語るにあたり、これまでの姿を語り、「これでいいのか」を語りたい。
普通の人は選ばない「議員」という人生。なぜ選んだのか。4年に一度“失業”するのに。動機はさまざま。「世のため人のため」だろうか「自分のため」だろうか。その兼ね合いが難しい。
○ 日本初の公選議員は知事。当時は国の出先。国の言いなりの知事であることこそ最大に大事なことだった。GHQは公選でないと許さなかった。そこから直接公選制が実現。国は、地方をコントロールできなくなることを心配。そこで知事を「国の機関」とした。そして「通達」で縛る。国の仕事を地方にやらせるとはひどい。
1990年、第一次分権改革。私(大森)の考えるのは「県」を「地方」にすることだった。基本的には、地方議会が地方のことを決めることになった。2000年4月の一括法によって。
○ 分権改革とは「関与を廃止すること」。“霞ヶ関”の影響、関与があれば地方は思うようにできない。関与を廃止か是正することだ。おせっかいを焼き続けている。
○ 自治法は“悪法”。国が自治体を“管理”する法律だ。基本構想、計画の義務付けを廃止した。するのかやめるのかは自治体が決められることに。そこで根拠条例が必要になる。議会が「考える」ことになった。また議員定数への関与もやめた。議会が自ら「考える」ことになった。一括法により議会の仕事は増えた。議会が考えなければならないことも増えた。議員の定数を国が決めるなんて余計なお世話。もう法的根拠はない。議会が考え、議会が決めることに。これは一種の“危機”といえる。
○ 議員の定数についてはこれまで、行政改革に「お付き合い」し、従来の国の基準よりもやや少なくしてきた。これからはそうでなく、「自分たちで正面から考える」ことに。
○ 考えてない議員は怠慢です。議会は憲法上、“滅びる”ことはできない。これに対して「首長」は必須ではない。
憲法に寄りかかってはならない。住民自治の「砦」は首長ではなく、議会。
○ 憲法に言う「地方公共団体」はウサンくさい。憲法草案には自治体の種類は府、県、市、町としていた。GHQが異論。自治体の中身は自治法に規定することになった。昭和30年代に、普通地方公共団体に基礎的と広域的、の分類をし、対置して特別地方公共団体を置くこととした。
○ 今後、102ある20万人以上の都市は今のままだろう。それ以外の市と町村は、なくなるだろう。
○ 日本の地方制度は、首長と議会とを対置すれば紛糾するから、圧倒的に執行機関が優位に、議会は脇役に、となっている。これらは法律で定められている。和歌山県の災害対策本部は、本部長が知事で副本部長は副知事となっていて、議長は「およびでない」。いざ危機のときにどうするのか。議会にも非常時の体制整備が必要ではないか。
○ 日本の地方の執行機関は「お手盛り」機関。自分に都合よく企画立案している。議案原案の8分は行政。議会はほとんど手をつけない。
・日本の地方の首長は予算編成権を持っている。米大統領すら持っていない。
・条例案もほとんど首長が提出する。
・問題提起できず、執行機関がいなくては資料準備もできない現状。
→「風下に立つ議会」
○ 執行機関が出てこないと運営できないという、この国の地方議会は情けない。執行プロセスを押さえていないと企画立案はできない。議会はこれでほんとうに「行政を監視」できているのか疑問。“企画立案せずして監視はできない”。
○ 「議会はキラクな家業」ではない。質問する側から「回答する」立場になることだ。質問しているだけでは、能力は高まらない。
○ 議会事務局職員の心は「議事がうまくいくこと」を願いがち。「こんな条例案は通すべきでない」と思っても職員はそうは言わない、動かない。「気の毒な事務局職員」。
職員に「ミッション」を与えてほしい。雑用でなく。職員の「市のため市民のために働きたい」との思いを実現させたい。職員の目が輝くように、議会議員は能動的に動くべきだ。
○ 住民との「直接回路」。市役所に試験で入る職員には「合格通知」。選挙で入る議員は「当選証書」。職務専念義務はないが、24時間265日、議員だ。首長は常勤でもないのに退職金をもらっているのはヘンだ。
○ 法律には、議会の権限は書いてあるが議員の権限はどこにも書いていない。それは、「議会基本条例」に書くことになる。
○ 議会での「住民参画」が遅れている。住民の声を反映することは必要ないと思っている。明日の講義で片山氏は「公聴会、参考人制度を使うべき」とおっしゃるだろうが、使ってないのも無理はない。アメリカの公聴会制度は使う仕組みになっている。
傍聴席の“切なさ”。じっと聴いているだけ。市民の声を聴ける回路を作るべき。聴かないと、「私たちの議会」とは思ってくれない。議会に冷たい市民となる。“「自分たちの作った議会」と思ってない”市民が増えてゆく。
○ 議員に求められる資質。地方自治への知識が少ない。少ないからといって立候補ができないわけではない。議員には選挙はあるがテストはない。議員というのは「デモクラシーのコスト」とも言える。
このことを最低限、理解して立候補してほしい。住民の質問に答え、分かるべきことを分かった人を選べる仕組みに。
○ 「おののくような自制心で“権力”の行使を」。思い上がってはならない。
おごってはならない。しかし精一杯、権力を行使してほしい。「権力の怖さ」を知れ。権力は美酒だ。首長になればわかる。
《感想》
きわめて平易。わかりやすく、そして辛らつ。
愛読書などで氏の論説を読み、心服していましたが、講演でまみえるのは初めて。このような語り口の方であるとは、少し意外。
心当たりのあることが次々と飛び出して、聴講席の議員は時に哄笑、時に苦笑い。とびきり意外なことも語られないのに、とてもすっきり、納得ができたような、整理ができたような気持ちになります。
「いっちょ、バッジでもつけたろか」といったような動機の人は、私の周辺にはいませんが、ありていに言えば、そんな姿も世間ではまま、あることでしょう。一方で、党からの推薦を受けて出馬する私たちの立場では、もちろん「市のため市民のため」と言っているが、果たしてどこまで、本当の意味での「市民のための議員の仕事」を果たせているのか。改めて問い直します。
本来、日本の地方制度の中で議員が果たすべき責任、使命、権限を、これまでともすれば使い切れていなかった、そのことに気づいてさえもいなかった、というのが実情。しかし、それでは許されない時代が、ようやくここに到来したというべきでしょうか。しかし、私の見るところ、住民がそれを待望している、切望しているとは、表層的にはとても思えないのは私だけでしょうか。
ですから市役所も議会も、これからは「市民と接する」「市民と交わる」という、いまさらながらの「当たり前」のことを、中央のほうでなく住民のほうを見る市役所や議会になるという「当たり前」のことを、これからやらなければならないと、それが氏の講演の趣旨だったろうと思います。
なるほど。「私たちが作った議会」と考える市民は少数、というより稀有な存在でしょう。「自分が選んだ議員」というところ止まり。それ以上を、議会へ本来要求すべき責務や、期待すべき権能の行使を、市民はまだお気づきでない。だからこそ、孤独に私たち議会が、「お邪魔」であろうとどうであろうと、「まちに飛び出す」ことこそが、誰に求められるでもない、自分たちの覚悟としてそれがなければならないということだろうと思います。
丸亀市議会も議会基本条例制定から間もなく2年。PRのぼり旗を立て、チラシやポスターで大宣伝をしますが、「何それ?」という市民の怪訝なレスポンスがあります。かまわずに、やり続けるしかないのでしょう、さらに工夫を加えながら。
「ところで、何で立候補したの?」
この問いを、常に自分に問いかけたいと思います。
講義3 「地方財政の課題と方向性」
一橋大学経済学研究科教授 佐藤主光 氏
○ 消費税増税。借金の穴埋め。借金で社会保障を運営している形。
5㌫のうち1.2㌫が地方消費税、0.34㌫が地方交付税で、地方に。
地方法人特別税・譲与税は08年、増税すべきところであるのに置き去りのまま。
○ 税源の偏在。地方法人二税では、ダントツ東京都と最低の県とでは格差5倍。都だけで全体の25㌫。
アメリカ、フランス、ドイツ、中国、韓国、イギリスと比較し、法人税率において日本は極めて高い。
高い法人課税の帰結として、企業の国際競争率が低下。税収は不安定に。
○ 小さな政府と大きな地方。収入で国対地方は6:4だが支出では4:6。こういう国はめったにない。
公共事業の7割は地方。あながち国土交通省だけがムダ使いなのではない。生活保護も地方の扱いとなっている。支出で6:4とは、えらく分権国家に見えるが、そうではない。
○ 「集権的分散システム」。政策と財源は国が持ち、執行は地方が担う。これにより、責任があいまい。教育水準の低下は、誰のせいなのか?
○ 地方と国とは別々のサイフを持っているわけではない。国が赤字なら地方も即赤字に転落。地方財政の究極の責任者は誰か。現状では国の「保護者責任」を問うべき。
○ 集権的分散システムの二つの顔。それは「国の縛り」と「地方の甘え」である。国の縛り(財源保障=自治法232条2項)がある限り地方の自立はない。=甘えっぱなし。
これでは地方は「国の下部組織」。国の関与が地方の「主体性」を低下。地方の自立と責任を阻害している。持たれあい、なすりあい。
○ 悪しき循環論
①細かすぎる国の関与・規制→②地方の自己決定権・自己責任の拡充→③地方への財源保障は不可欠→④国は、金を出すから口も出す。
この循環は1990年から20年間議論してきたが頭が痛い。少しずつ改善されるも根本は変わってない。地域格差ゆえに、一律な解決策は乱暴。
○ 地方財政の現状。地方債残高200兆円。GDPに占める割合は41.8㌫。誰の責任か。これまで国が地方に「借金をしろ」と言ってきたからし続けた。財源保障が地方を甘やかし、持たれあいつつ借金は膨らむ。
この200兆という借金は、戦争でもしなければ作れない借金だ。
国と地方の「呉越同舟」。サイフは実はひとつである。
暗黙裡の信用保証。地方債が「安全資産」であるのは国の財源補償があるから。
規制緩和策を取る。ゼロ金利だから借金があってもよいが、金利の変動があれば一気に破綻もあり得る。「借金はバクダンである」。
○ 地方財政健全化黒字化のためには、5㌫増税では足りない。かつて「3割自治」と言われていたが、地方の歳入に占める地方債は35㌫に達している。
○ わが国の地方税の特徴。①多様な税目②法人課税への依存③税収の不安定④地域間格差⑤法人課税に偏った課税自主権。
○ エコカー減税は国の減税のように思われているが、実体は自動車取得税の減税であり、地方税の減税であり、地方が巻き込まれているのである。
○ 地方税収に占める法人所得税は日本が13.9㌫。スウェーデン、イギリス、フランスは、なし。ドイツ10.8㌫、アメリカ6.6㌫など。企業の収益に大きく左右され、不安定な税源だが占有率は高い。世界でも珍しい。
日本企業の活力を奪う法人税制。外国へ行く。これは高度経済成長時代の税制だ。右肩下がりの時代に、この税は法人を苦しめる。
固定資産税の占める割合は市町村の全税収のうち40㌫だが、その中に償却資産が含まれ、これは事業課税である。高い税が経済を苦しめる。
○ 法人税の特質は、「払う人」と「負担する人」が違うこと。誰が負担するか。しわ寄せは働く人、庶民に。
企業は支払う税額をどこから調達するか。
・商品の値段を上げる…消費者が税を負担することになる=消費税
・賃金を下げるか、雇用を減らす…労働者が負担することになる=所得税
法人税は法人が負担しているというのはフィクションだ。税金の怖さは、めぐりめぐることである。
○ 建前上は「儲けた人が負担する」ということだが、実体は「取りやすいところから取る」ことであり、結局庶民が負担している。
税の支払い=税の負担、ではない。“転嫁”が行われる。
○ 税の公平の2原則
・応能原則→国の税に向いている。
・応益原則→フラットに、広く浅く負担する。地方税。
○ 税負担の議論の循環
①赤字企業は法人事業税を払わない(7割)→②赤字の会社も受益しているのだから負担をすべきだ(応益原則)→③赤字企業にも課税=外形標準化。しかし払えるわけがない。→④不公平が生じる(応能原則)
○ ねじれた応益原則。応益原則は法人二税にしかないが、住民税や固定資産税にも応益制を入れるべきである。「政治的配慮」から、住民課税は現在のまま。
○ 税をやたらに作り「屋上屋」。法定外税、外形標準課税、ふるさと納税、地方法人特別税、新型交付税…。課税自主権を行使し、固定資産税強化をするとか、法人事業税の抜本見直しなどはやらない。ますますややこしくなる。住民にとって好ましくない。
○ 政策は「サイエンス」ではなく「アート」である。
○ これからの地方税改革
・法人二税依存度を下げる。
・地方消費税を引き上げる。ただし低所得者対策が必須。
→地方が自由にできる収入として、消費税を上げてほしい。
→コスト意識の醸成。「あれもこれも欲しい」でコスト意識希薄に。
○ 交付税の功罪。交付税は便利で「おいしい」制度だが、国に巻き込まれ、国に左右され、自主性を損ね、手足を縛られる。地方の税なのに国が代わって徴収するものなので国民は「国税」と認識。ここが厄介。
社会保障のために使うという「目的化」。国の決めた社会保障のルールによって支配される。地方のオリジナルは損なわれる。
○ 望ましい地方税とは。①収入の安定性②地域間偏在がない③固定性(課税ベースの)④財政責任
○ 改革のメッセージ
「右肩下がり」の時代の経済環境に適応した税体系の再構築が望まれる。企業課税から消費課税へシフト。
地方には国を当てにしない安定した財源の確保を。安定的な公共サービスを提供するために。
地域住民には「税金は地域社会への参加の対価」と理解してもらう。高いサービスを受けるなら高い負担がかかるとしてもそれは悪いことではない。
《感想》
日本の税制は地方も含めてすべてが法律で定められている。だから地方議会はそれをうんぬんする余地がない。臨時財政対策債に象徴されるように国が地方に「借金しなさい、面倒みるから」と言われれば議会が反論する余地はない。そのように“固く”、私も信じていました。
けれども地方が声を上げていかなければ、この先、社会保障の破綻とともに地方財政は立ち行かなくなる、もちろん、地方なくして国はないのですから「国がなんとかするだろう」と、またもや地方は国依存の姿勢に陥る。これは姿としてはやむを得ない構図と思いますが、同時になんとしても、どこかで循環の輪を断ち切らねば未来が開けません。
企業が海外に出て行く。東京の企業ばかりではありません。地方財政の空洞化という強いボデーブローを、地方もまともに受けることになります。
教授の講演を聴き、私には難解なところもありましたが、消費税増税を目前に、最後に負担をするのは誰か、そして誰であるべきなのかを見極める眼力を、われわれ地方議員も持たねばなりません。
さらに勉強せよと叱咤された心地でありました。
講義4 「地方自治と議会改革」
慶應義塾大学教授 片山善博 氏
○ 議会は最高意思決定機関。法律上は長が代表し、統括するとあるが、決めるのは議会。長が単独で決められることは多くない。長は案を作る。決めるのは議会だ。アメリカの制度でも、大統領は議会に「お願い」するにとどまる。先日、米国の行政が止まってしまった。議会が予算を決めなければ、オバマもお金を使えない。自由の女神像にも入れない。
議会が決めたことを「誠実に」執行するのが長だ。
○ 地域のことは地域住民が決める、これが自治だが、地域のことは国が決めている、これが今の日本。ズレが起き、ムダが生じる。
○ 安倍総理は地方自治や分権に関心なし。足踏み、お休み、踊り場状態。「アゴ足取らず」。内閣は今、取り組むこと多く、一度にたくさんやるのは無理。むしろ「踊り場」の今を有効に活かしたい。考えてみる時間にしたい。
○ 分権改革の議論の当初には、市民の95㌫が賛成した。しかし「地方の議会が決めるんです」と言ったとたんに、賛成者は激減。「地方の議会が決めるんです」「それなら安心だ」とならねばならないのに。
分権はいいことなのに住民は顔をしかめる。それは議会が信頼されてないからだ。“主観的認識と客観的評価は異なる”。住民は常日頃、議会に違和感を持っている。
「市民に閉じられた議会を」とは誰も言わないが、実際に閉じられている。
大学のゼミ生が議会の傍聴に訪れると、警戒される。傍聴は「どうぞどうぞ」と歓迎されるムードではない。3回くらい行くとようやく心を許される。
「ウェルカム」な議会に。
傍聴に際して「注意事項」「傍聴人取締規則」という言葉をまだ使っている議会もある。明治以来、「傍聴に来るヤカラはロクな奴じゃない」と考えられた時代のまま。まるで「ならず者」。
アメリカでは傍聴人は議会と同じフロア。日本では“隔離”。たくさん来ればパイプ椅子でも良いではないか。
拍手も許されない。
○ 米国の議会では「アジェンダ」制。「来週の議会はこの議題を扱います」と市民に周知。それを見た市民がやって来る。いくつかの議題で、自分の関心のないものをやっている間は授乳や読書をしている。
傍聴の改革が第一歩だ。
○ 次に請願の扱い。“請願”とは、清教徒時代の言葉。「請い願う」は今日的に違和感があるが法律、憲法の用語だからいたしかたない。「国民はすべからく請願できる」。清教徒は「不当に逮捕しないで」と「請願」を行った。議会での請願には紹介議員が必要。これは国会での請願制度に準じている(国会法)。私(片山)は港区民だが区議会議員を誰も知らない。そんな私が請願したいときはどうすればよいのか。紹介議員制度はおかしな制度だ。国選弁護人のように議員が当番制で受けたらどうか。
○ 3番目に「趣旨説明の場」を設けること。この制度がない場合、議会で取り上げてもらいたい市民は各会派の部屋を回り、説明をさせられた。もっと市民に耳を傾ける姿勢を持て。
○ 4番目に「何を言っているのかわからない」のは改めよう。裁判所で傍聴しても何を言っているのかわからないが、それでも「何をやっているか」はわかるものだ。議会を、「議員本位」から「市民本位」へ、「議員中心」から「議題中心」へ転換を。
関心のあることについて傍聴したいが、何をいつやっているのかわからない日本の地方議会。議題ごとにやるのが理想。
アメリカでの例。議員がある提案をする。市民22人が発言をする。それを全議員が聴く。その後議員がディスカッション。日を改めて1週間後、採決。賛成、反対、留保の態度を選択。とても分かりやすい。
賛否の議論があるから議会である。全員賛成で可決なら、傍聴に行かなくていい、となる。
アメリカでの例。図書館予算の削減、支所閉鎖について提案。移民の人が「図書館で学び、この町の一員になれた。図書館の予算を削らないで」と訴え。年金生活者「税金が増えるより図書館を閉じて」。小学生は「マンガを読みたい」と訴え。お母さんは「子どもと一緒にいる居場所をなくさないで」と訴え。市民は2分ずつ語る。米地方議会はわかりやすくおもしろい。大入り満員。
一方、日本の議会は“学芸会”。
登壇者の家族、支持者が傍聴に来る。終わると帰る。次の議員の家族や支持者が来る、という具合。
裁判所でも、事案ごとにやるから進む。弁護士本位だと何がなんだかわからない。議会も「案件本位」で。そのプロセスで、市民の声を聴く場を持つ。
“良心と法令と事実関係に基づき、判断する”。
アメリカの地方議会には会派がない。日本の地方議会は会派の約束どおりに表決。議場に入るとき、そう“固く決意”して入る。
アメリカの議会では「結論が変わるから議会の意味がある」。審議の途上で「なるほど、一理あるなあ」と賛否が入れ替わる。そうでなければ「消化試合」だ。
変わりつつ、合意が形成されていくのが議会だ。
○ 参考人や公聴会は、国でも盛んにやっている。でも採決の直前にやるのが通常。参考人の意見を聞いて「もっともだ」とは思ったけれど、「いや、わしはもう決めておる」。
○ 以前、教員の退職手当カット条例が年末に出た例。国は年末に出したから退職希望者を募れた。しかし地方はそれを受け、年が改まってから上程。ある知事はこのようなカットは不見識だ、となじったが、不見識なのはこんな条例を出した知事自身だ。辞めた教員はもっともだ。誰がタダで働くか。働けば働くほどソンをすることになる条例だった。意見を聞くことなく、役人の言うことしか聞かないからこんなことになる。
この件では、通年議会との関連で講演後の質問あり。通年議会にしていれば、国と同様に年内に上程できた。「次は12月議会だ」は時代遅れだ。年4回では間に合わない。
○ 首長に招集権がある、というのは古き絶対王政の時代のやり方だ。「王様が必要なときに集まれ」。通年議会にすれば「議題中心」で運営できる。
《感想》
相変わらずの痛快な講演。
回顧談になりますが、かつて氏が主宰した「鳥取自立塾」。私もそこに臨み、ほんとうに自分の立ち位置、時代の要請をつかみました。その私がまた後日、別の議員に関連記事を提供して啓発を受けるということもありました。こうして、議会が改革していく、変貌していく姿は、遅々としているようですが確実に広がっているように思います。私は、それを「エンパワー」する一員として自ら任じております。
昨日の大森教授が「20、30年前ならここに勉強に来る議員などいなかった」とおっしゃったのとあいまって、転換期、というより本当に本来の「民衆の議会」というものの日本初の実現の胎動が、いまこの時だと思います。
図らずもこの年、NHK大河ドラマ「八重の桜」は会津藩を扱ったものでありました。後半、あの戦乱の世とは劇的に転換して、京都の発展に貢献する山本覚馬。京都府議会議長に推挙されるも、立ちはだかるのは京都府知事、という構図であり、大森氏のお話がリアルに耳に届きました。地方はまさに「国の出先」そのものであったのです。
今の時勢と比較するならば、「議会はたるんでおる」と、大いなる怒声を浴びせられるのではないでしょうか。先人たちが「民主主義」という、最高、とはいいながら紆余曲折、まことにたどたどしいこの道のりを歩みながら、昭和、平成の世に、いまだに「民衆の治世」ができていないではないか、と、覚馬の叱咤が飛びそうです。
片山氏の講演は、そうして足踏みする地方議会の当事者たる私たちに、温かくも厳しくも、「こうするんだよ」とアドバイスをくださったように受け止めました。
私は市役所職員を20年、経験したあと、議員となりました。それから早や16年が経とうとしています。思えば遅々たる成長で、申し訳ない心地もします。
しかし、いよいよここからだ、との意気にも燃えています。世の中を変え、市役所を変えていくために、私たちはいるのだ、との自覚を新たにします。氏が紹介したアメリカの議会は、日本ですぐに実現とはいかないものの、各論的に指摘があった「意見陳述の場」など、すでに丸亀市議会でも実現しています。「議員本位」から「市民本位」へ。講演を受け、私も気持ちを新たに、この現場で、信念の行動を貫こうと思っています。