◆塾長のつれづれなるままに
塾長の近況を気まぐれにつづったページです)

◎ (2003/12/20)

このページも「更新」しないと忘れられそうです。何とか,頑張ります!

《伸びる子…挨拶》 どういう子どもたちがこれから先,伸びていくのかは,興味あるテーマです。次に引用するのは,ある(いろいろ教えられることの多い)有名塾の塾長が書かれているものです。

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ことテストで測る「学力」に関する限り、よくできる子とは、問題出題者と対等の「会話」ができる子だと思います。

恋愛に似ています。
相手の表情、言葉、しぐさから、相手の意図、ねらいを的確に判断し、相手の求めている答え、言葉を相手に正確に伝えることができる、これが「よくできる子」です。

私の塾の決まりは一つだけです。
来た時、帰る時は「挨拶」をしよう、これだけです。
挨拶をするとき、人は相手の表情や態度から、その人の心理、自分に対する好感度、その人の体調まで瞬時に判断しているはずです。
挨拶によって、自分の置かれている位置と周囲への状況判断能力を自然に習得する、それが成績向上への第一歩と私は思っています。

うちの場合、ほとんどの塾生は自転車でやってきます。
面白いことに、
成績のよい子どもは自転車の置き方も上手なんです。置いてある列にきちんとくっつけて、帰りに他の人の邪魔にならないように、そこまで考えた置きかたを無意識にしています。
成績の悪い子は逆です。眼に自分しかありません。来た場所に適当に置いて、その後来た人が止めやすいかどうかとか、他の人が通りやすいかどうかとか、帰りに自転車を出す人の邪魔にならないかどうかとか、そんな複眼的な視点は一切ありません。

帰りに友人と大声で喋ったり、嬌声を発したりするのも、九分九厘成績の悪い子どもたちです。
近所の人にどういう印象を与えるだろうか、大人が自分をどのように見るだろうか、そういった
自分を客観視する視点が見事に欠如しているのです。

状況判断能力の欠如している子、それが「頭の悪い子」だと私は思っています。

また、挨拶などというものは、人類が苦労して学習してきた「便利な道具」のようなものではないでしょうか。
笑顔もしかり。
相手に敵意がないことを表明し、それをしておけば相手に安心して背を向けられるように工夫された道具、それが挨拶だと思います。

そうした先人が見つけてくれた生きていく上での知恵をある程度素直に受け入れられる子、そんな子は賢い子です。
方程式などを教えるたびに思うのですが、伸びない子ほど自己流に固執します。

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塾に来て,その日初めて顔をあわすと,何かしらの「挨拶」をします。元気よく「こんにちは」と言う子,静かに会釈する子,様々です。しかし,中にほんの数人ですが,顔を合わせているのに,「知らん顔」をする子がいます。そのうち一人は,こちらが「こんにちは」と言っても,「知らん顔」です。これは問題だなと思うのですが,「挨拶を強要」するわけにもいきません。

さて,その数人ですが,もちろん「学力」については分かっています。

よく「勉強さえしていれば・・・・」とか,最近では「勉強してくれれば・・・・」などということを聞きますが,勉強とか,「成績」とかは,実は,その辺に大きな原因がありそうです。

よくできる子(幸いにして,塾では成績のいい子はたくさんいますが)の挨拶は,本当に清清しい!

そういう子どもたちがいることは,成績より,順位より,進学状況より価値あることだと思います。一種の誇りです。


◎ (2003/6/23)

《歴史は繰り返すのか?》 今,合宿の「期の変更」を受け付けています。中には,かなり「いいかげんな」変更願いがあります。もちろん,大多数の諸君は,「くじ」という偶然の契機を受け入れ,期の決定から後に初めて予定をたてようとしているようです。ところが・・・・・。期の変更には「変わる相手」が必要だということを果たして考えているとも思えません。下に引用したのは,1995年6月18日発行の「塾通信」に書いたものです。

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『・・・くじとはいえ,自分で引いた責任を忘れて,破廉恥にも期間の変更を申し出ている。長い間,合宿メンバーは,我々が,様々な要素を考慮して,独断で決めていた。くじを始めたのも,大きな実験だった。幸いにして,くじ初年度の諸君が,生活面・学習面共に実によく運営してくれた。くじだから,気楽に変われると思うものが出てくるとは,思いもしなかった。過去を振り返っても,キャプテンになった者が,部の合宿に行かず,今になって思えば,可哀想なことをしたと思えるときもあった。2年前には,高校3年生が,教師の脅しにもめげず,「課外」を欠席し,合宿に懸命に取り組んだ。・・・・』

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 年々,合宿期間の発表を早め,くじの時期も早め,「予定」(そのような予定を持つことができるのは羨ましい限りですが)が立てやすいようにしてきています。(今年は,何と4月30日に発表しています。)また,年々,様々な事態への対応もしてきているつもりです。4月30日発表の「今年の合宿の変更点」を再掲します。(それでも,「去年は1・3期だったのに・・・」という発言が出るのは理解に苦しみます。)

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《今年の変更点と考え方》
○近年,1・3期が中学生であったのを,1・4期にしました。(高校生は,2・4期であったのを,2・3期に。)そうすることで,増えつつある高校生の「通期」を連続的に行えます。また,
学力テスト等の時期の早まりに対して,4期合宿中に,高校生の平常授業を開始できます。(高校生の平常授業は8月15日(金)から。)
○多くなった大学生スタッフの力を借りて,
2・3期の間に,中学生の「特訓」を連続的に実施できます。それにより,遅れ気味の者を徹底的に補習する事ができます。(「学習の診断」が9月に移行しているため,4期が中学生でも,診断までに時間は十分とれます。)
○上記のことから,3号館や5号館の開館日を多くすることになり(従来,合宿中は閉館のことが多かった。),
『自主学習』する者にとって便利です。(やはり学習は,継続的に行う方がいいし,個別質問もできますから。)

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高校(丸亀)では,昨年から2学期制が導入され,今年からは丸亀地区の中学校でも2学期制が導入されました。「学校」もテストの時期や「行事」そのものも変化してきています。そうした変化に,できるだけ柔軟に対処しつつ合宿は継続してきたのです。もちろん,私たちは,何の不満も言わず,くじという偶然を受け入れ,そこから懸命に努力しようとする人に感謝しています。

◎ (2003/6/16)

《事象の関連》 「北朝鮮」関係のニュースを聞かない日がありません。そして,マスコミで流される「ニュース」は,その大部分が否定的な,「危ない」ものばかりです。「こんな危険な国がある!いつ攻撃されるか分からない!・・・・」そうしたニュースが流されるとき,多くの人は,どのような反応をするでしょう?

 「拉致被害者」の問題にしても,なぜ昨年から,こんなに「騒がれる」ようになったのでしょう?

 また,まさに「ちょっと前」(そう,かの「有事法制」が「審議」されていたころ)騒がれた「オウムに似た集団」についてのニュースはほとんど聞きません。

 さて,これらのことは,一つ一つが「個別的に」起こっているのでしょうか?

 「国歌・国旗法」以来,顕在化してきたものは余りにも多く,今日では,ついに『教育基本法』の改正(改悪)までもが俎上に上っています。更には,「憲法改正」も,遂に日程に上ってきました。『共同性』を忘れた「個別的利益」を求める(それが当然のように)子供たちは,確実に増加しています。「その日」が近づいているという思いを禁じえません。

◎ (2003/6/14)

《学校格差とは何か》 「学校格差」は歴然と存在します。では,その実態は何か,問えば,いわゆる「進学成績」であったりします。しかし,それはあくまで「結果」にしかすぎないのです。最も大きな差は,ちょっと情緒的な表現ですが「雰囲気」なのです。勉強しないと,それなりの大学進学ができないことを知っていることとでも置き換えられるかも知れません。

下でも書きましたが,「スパルタ教育」の結果,(所詮高校入試は,その程度のものですが)M高校に入ったとしましょう。確かに,それはそれで一つの素敵な結果かもしれませんが,入ったという事実は,往々にして,自己の力を過信させます。その結果,「楽しい」高校生活を送ると,いざ大学進学となったとき,悲惨なことになります。

S高校に行っても,それこそ京都大学には行けるのです。(近年は出ていませんが)

ただし,それには条件があります。それは何か?

『自分から進んで学習する』ことです。そして,「間違い」を直す勇気と本当の努力です。かの京都大学へ行った彼の残している『たからもの』があります。(彼は,高校からの入塾ですから『間違い直しノート』を知りません。)何とそれは,『間違い直しノート』なのです。(メモかも?)彼は,間違いなく,自分から進んで学習し,そして間違い直しノートを作っていたのです。

進学高校でその後が決する訳ではありません。最大の問題は,何なのか,これはもう自明と言っていいのではないでしょうか。

◎ (2003/6/14)

《スパルタ教育の幻影》 「スパルタ教育」とは歴史的にどのようなものであったか,少し引用しましょう。出展は,かつて「愛読書」だったチャート式世界史です。

『男子教育…検査に合格した子供だけ育てられる。6歳までは家庭で厳しく育てられ,20歳までは年齢別に集団を組み,残酷なほど厳しい体育や軍事訓練を受けた。高い教育は施されず,実際生活に必要な読み書き程度を教えられた。ただ音楽と踊りは重視されていた。  女子教育…女子は健康な子供を生むために,激しい体育を受けた。そして母親となれば,自分の息子が勇敢に戦って戦死することを,何よりの名誉と考えるようになった。』

何より,忘れてはならないことは,この「スパルタ教育」が「少数派」が「多数の奴隷ないし奴隷に近い人々」を支配するために強力な軍事力を必要としたところから生まれたものであることが,歴史的には重要なのでしょうが,その後,かのスパルタは,戦争を繰り返し,時に勝利することもあったけれど,結局衰え,滅びていったという事実です。

今日,「受験」という制度の中で,無理やり学習する(場合によっては,「厳しさ」という美名による体罰も)ことをもって「スパルタ教育」と呼称されているわけですが,その「行く末」も似たような状況になるのではないかと思います。

そもそも勉強は自分から進んでするものです。本当の考える力や本当の意欲は,そうしたところからしか生まれないのです。更に,「スパルタ的思考法」は,子供たちの将来起こるであろう諸問題の解決の思考パターンを「ゆがめてしまう」恐れがあります。

では,子供たちが「自分から進んで学習しない」ときは,どうすればよいのか?道徳的・社会的に問題がなければ,『放っておくこと』こそ最良の方策です。人間の歴史を考えても,知的興味は,すでに遺伝子に組み込まれているものと思われます。問題は,そうした興味を「阻害する要因」なのです。分かりやすく言うと,IT革命の名の下に家庭を侵略したPCを休眠させる,過度の部活を止める。(「学校」へ言えばいいのです!)「携帯」も廃棄する。(数年前まで,なくてよかったものです。)テレビを壊す。何より・・・・・周囲の者が知的興味を持って学習すること,だと思います。

◎ (2003/6/10)

《国際理解と「生きる力」と部活・・・そして有事法》 最近の「長時間」部活にはかなり呆れています。午後7時過ぎの授業に遅刻,休日は試合・遠征(中学生ですよ)。そして,ついに,「坊主頭」!頭髪について全国的な批判(もちろん強制的な坊主ですが)の中で,いわば頭髪は自由化されました。しかも,各教科において国際理解が叫ばれる今日,「坊主頭」がアメリカでは囚人の象徴であり,ドイツでは「ネオナチ」の象徴であることは周知の事実のはずです。(もしかしたら,知らないのかもしれませんが。)従って,いかに子どもたちの「自主的な判断」であったとしても,少なくとも「指導者」には,そういう外面的連帯の危険性を察知し,(本当の意味で)指導する責任があると思うのですが・・・・。

特に中学の「部活」は身心の健全な発達のためになされなければなりません。文科省の「指導」を無視しても,長時間のほぼ毎日の「練習」を続けることに見出されるものは,ひたすら「勝利」(子どもたちの全人格的勝利ではありません,念のため。心の発達には「負ける」ことも重要ですから。)をめざし,そのことをもって「優秀な指導者」たる評価を得る自己満足にしか過ぎません。考える力,と言っても,疲れた子どもたちには,物理的に無理な話です。考える力のないところに「生きる力」などはありません。「生きる力」があるとするならば,それは,「命令」に忠実に従う「奴隷としての生きる力」でしかないでしょう。

学校が5日制になって,あるいは学習内容が削減されて,いつも言われてきたことは,「過度の塾通い」です。果たしてそうなったでしょうか?(私は,きっと「過度の部活」にしかならないことを述べてきました。)昨今の状況を見たとき,土日とも部活のない「部」は数えるほどしかないでしょうし,せっかくの「土曜休日」も,それを当てにした「公式試合」すらあります。そして,中には,「遠征」なども行うのです。

学習内容を削減し,部活で体力を鍛え(同時に,本当の考える力を奪い),その結果,目指していることは一体何なのでしょう?「有事法」(あるいは,その先にある「正規軍」)は物理的な「兵士」を必要とします。上記のことが続けば,きっと優秀な兵士が大量生産されることでしょう。かの「指導者」こそ,現場での優秀な洗脳者なのかも知れません。果たして,流れが止まるでしょうか?

◎ (2003/5/20)

《読書・お話し教室》 少しでも「ボランティア活動」をと読書・お話教室を始めて3年目を迎えています。近年,子どもたちの「読む力」の低下が危惧されています。現に授業中,問題文等を読んでもらっても,以前の子どもたちより読めません。(実は「テキスト」には,意図的に少し難しい漢字を使っていたりします。)

そうした状況の中で,当初は「無料」で,昨年は1000円(本代別),今年は本代を入れて1500円と「価格」を設定しています。もちろん,「収益」はありません。「入塾」とは何の関係もありません。

しかし,どういう訳か(もしかしたら曜日の関係かも知れませんが)参加者が増えません。『日本語を読む力』は,本当は「英語」よりもっともっと大切だと思うのですが・・・・・。

高校生との学習の中で,日本語力の強い者が結局,各教科において大きな伸びを示すということは分かっています。そして,その日本語力は,小学生の時の活字への触れ方にあるということも分かっています。ちょっと残念ですね。

◎ (2003/5/5)

《21世紀の教育!》 丸亀地区の中学では,今年から「2学期制」が始まりました。「テスト」が少ないので余裕を持って学習できるという点ではいいのかなとも思っていますが,その制度の導入を前に,「なぜ2学期制か?」に対して,教育委員会が答えた文書があります。その中に,今日の『教育基本法』の改正(改悪に他なりませんが)につながる「生きる力」についての興味深い記述がありました。少し引用します。

21世紀の社会が現代の教育に求めているものは,子ども一人ひとりの個性を生かし,自ら考え判断し,行動できる,そして,豊かな心と,たくましい身体をもつ人間を育てることです。教育界ではこれらの資質・能力を「生きる力」と呼んでいます。「生きる力」を育てるには,【新しい学習指導要領に基づいた教育】を実践し,習熟の様子を把握しながら,個別指導や,繰り返し学習を行い,基礎的基本的ことがらを学びとらせ,さらに,子どもの興味・関心を大切にした,より深い内容の発展的学習や,身のまわりの事象との関連を図った,体験的な学習や問題解決的学習を通して自主的・主体的に学ぶ心や,態度を育てることが必要です。そのためには,子どもたちに必要な時間をあたえて,ゆとりをもって学ばせたいと考えます。・・・・・・」(なお,赤字は,論理矛盾と「教える側」の問題ある立場を鮮明にするためにつけたものである。)

 ここで,現在の『教育基本法』の一部を引用します。

「前文 ・・・われらは,個人の尊厳を重んじ,真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに,普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。 第1条 教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたっとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。  第2条 教育の目的は,あらゆる機会に,あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには,学問の自由を尊重し,実際生活に即し,自発的精神を養い,自他の敬愛と協力によって,文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。・・・・」

 「教育委員会文書」に登場する「生きる力」=「21世紀の教育」と,基本法の述べていることとの相違点を発見するのは難しいでしょう?(むしろ,基本法の方が,より『本質的・本来的』に述べているとも言える。)

 確かに現代教育には様々な問題があることは誰しも認めるところではありますが,それは,むしろ,基本法を無視し続けた国家や行政側にこそあるのであって,基本法そのものや「生きる力」にある訳ではありません。

《先見性!》 何事にも「先を読む」ことは重要です。(数学の問題を解くときにも!)教育基本法の先見性を見ておきましょう。基本法の前文は,次のように始まります。

「われらは,さきに,日本国憲法を確定し,民主的で文化的な国家を建設して,世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は,根本において教育の力にまつべきものである。」(上の引用の・・・の部分。)

 気付いてしまったんですね。「理想」を実現するためには,まず教育だと。さて,「理想」(勿論,カッコ付きですよ)がどのようなものであるかは,日々明らかになりつつあります。この先見性は,何といっても,日本国憲法前文に顕著です。

「日本国民は,正当に選挙された(どこに「正当な」選挙がある!)国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために(残すのは莫大な借金!),諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたって自由(あるのは「ブタ箱の中の自由」!)のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し,・・・・・・・・」(なお,(  )内は,独り言で,決して憲法そのものではありません。)

◎ (2003/4/26)

《高校入試とはちがうんだ!》 中学時代に本当に『原則的学習』ができていなかった人が,高校でもそのように「適当な」学習を続け,そして高3になったとき(「入試問題」を本格的に扱うようになったとき),その力のなさに愕然とします。高校入試は,所詮,6年制一貫の子達は受けませんから,それほどの競争はありませんし,いかに「進学校」であっても,倍率もせいぜい1.1〜1.3倍。ところが,大学入試はそうはいきません。まして,「それなりの大学」への進学を志せば,それなりの努力(それも,まさに血の滲むような!)をしなければなりません。『見通し』の利く子は,ぼんやりとでもそのことを分かっていますから,「適当な高1・2」を送らず,「部活に没入」せず,やるべきことをやっています。それでも,(血が滲むほどでなくても)焦りと自己に対する歯がゆさとにせかされているものです。

ところが,人間は「ぐうたら」をその本性として持つからか,(プライバシーの感覚の欠如した)「ダイレクトメール」に騙されるからか,もしくは,自分を省みないで「他人」を見るからか,「強烈な勧誘」のせいか,自分の「不出来」を自分に返すのでなく,周囲のものにもって行きます。親が悪い,学校が悪い,塾が悪い!そういう子は,「悪いのは自分」という紛れもない事実を引き受ける勇気がないのです。今まで,「宿題」をしなかったこと,「テスト勉強」をしなかったことなどは忘却の彼方へと消えてしまっています。

普通なら,今度からは「テスト勉強」もしっかりしよう,「宿題」もしっかりしよう,何より『間違い直し』をしっかりやろう,となるはずなのですが。最近は,「普通」が減りました!

《(小説)私はどうしてできないの?-その1》

★「私は,基本ができてないのよね。だから基本からやりなおさなくっちゃ」

☆「基本ができてないって,どこで分かるの?それから,基本て何をするの?」

★「この前,○○テストがあってさ,理科がさんざんだったのね。だから理科を中心にやりたいの。塾でやっているのはどうも難しくて,この前,××でビデオを見たのよね。そのあと,問題解いたら,さっとできちゃった。」

☆「○○テストって,平均点も低いんでしょ。それに,○○テストを気にしないようにって塾で言われてるし,難しいって言ったって,志望校の問題は見たの?それに,2年のときから,◇◇という基本問題集はずっとやってきてるし,あれを復習したほうがいいんじゃない?先輩もそう言ってるし。それに,ビデオってあれでしょ。易しいとこで,その問題ができるように編集してあるやつでしょ。私は,ダイレクトメール嫌いだから,信用してないわ。」

★「理科はセンターしかいらないのよ。2次で大事なのは,英語と数学なのよね。でも,2年のとき,まじめに授業聞いてなかったし,◇◇問題集ってやってないのよね。今さら,面倒だし。ビデオ見る方が簡単じゃない。それに,英語の問題集だって難しくて時間がかかってしょうがないわ。まだ,部活あるし。」

☆「でも,あの英語の問題集は,標準編だし,量もそれほど多くないし,速単だって,最近のセンターや2次の問題見ても,速読力がないと太刀打ちできないみたいよ。数学だって,学校が指定している問題集でしょ。もうすぐ学校でも使うようだし。」

★「そんなこと言ったって,もう××のビデオ,申し込んでるのよ!環境を変えてみるのよ!」

☆「・・・・・・・・・!」


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