◆塾長のことば

◎はじめに

 レーゼクライスの情報が,「塾業界」に一石を投じるとともに,更なる『連帯』の足掛かりになり,また,塾に対する世間の認識を新たにし,さらに,多くの塾生諸君との新たなコミニュケーションの確保ともなることを願っています。以下の文章は,1997年度の「塾案内」に掲載したものです。一読を。

◎病んだシステム

 1996年は,「いじめ」の悲惨さに始まり、「沖縄」問題の意識化・「優秀な」官僚・「立派な」政治家の愚行に終わったと言えるだろう。戦後の日本社会を支えてきたシステムそのものが疲弊している。「教員採用」に殺到する若者達,彼らは,本当に今の教育状況を深く見据えているのだろうか。安定した体制の中からこそ矛盾は生まれる。そして,その矛盾は,根底的な止揚を目指して,動きを止めない。矛盾を先鋭的に感知し,矛盾の止揚に向かった多くの人々を暴力で圧殺し,「金」という「宗教」によって統治して来た「つけ」が,一挙的に露呈し始めている。物言わぬ,黙々と授業に出席する「いい子」は,今度は,国際的な競争の中で,「独創性がない」とか「意欲がない」と批判され,「個性」尊重の教育が声高に叫ばれ,地域の教育力を奪っておきながら,「地域の教育力」が「いじめ」の特効薬としてまことしやかに述べられる。自らの安定のために「ものを言わせぬ」システムを作り上げたにも拘わらず,そうしたシステムの帰結は悲惨なものでしかない。 服装を強制し,生活時間を強制し,はなはだしきは,もともと茶色っぽい髪をわざわざ黒く染めさせる,そういう「学校」の中で,どういう「個性」とどういう「独創性」が可能なのか,確認して欲しい。にもかかわらず,一方で「(学校の)成績を上げます」「〜点上げます」「順番がどうの」等々の愚かな宣伝にも躍らされ,多くの「賢明な」親たちは,その成績のみをわが子を見る判断基準とし,子供たちに「お勉強」を強制する。その一方で,「悪い官僚ね」などと,いっぱしの批判を展開する。果たして,官僚を批判する資格があるだろうか。政治家を批判する資格があるだろうか。

◎いじめをなくすには

 教員希望者が殺到するのは,「人確法」以来である。そのことの意味するものは大きい。「安定」を求める風潮は,その根底でほくそ笑む勢力に支えられてきた。そして,失われたものは余りにも大きい。どんなに人権を強調しても,どんなに生命を強調しても,鋭い子供たちは,その根底にある「本音」を看破し,屈折した抵抗を試みる。しかし,「安定」した者に,『苦しむ者』の本当の苦悩が分かるだろうか。

 いじめをなくすことは,意外と簡単である。「文部省」をなくすこと,教育委員任命制をやめること,そして,「人確法」以前に返すこと(「行革」になる!)である。しかし,より,本質的には,私たち大人が,唯一の価値観とも思えるかの「宗教」を捨てることである。果たして可能だろうか。しかし,不可能であるなら,私たちの,そして子供たちの未来はない。

◎連帯と実践

 「塾学会」の取り組みの中から,多くの各地の人達との同志的な結合ができつつある。「人間教育」を標榜しながら,実はかの「宗教」的行為の隠蓑にすぎなかったりする「塾」の多い中で,私たちは,共に一歩を踏み出している。そうした塾人が語るように,このような問いかけは,全て自らに還ってくるものだということ,そして,私達自身が,その在り方として解答していかなければならないということ,そうした私たちの生きざまそのものが,青年達に示せる唯一のものであることを確認したい。1997年,レーゼクライスは,今までの活動を更に展開するべく,丸亀の地に分校を持つ。子供たちの本当の未来を信じて,努力を継続しよう!

(1996年12月)

 

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