◆塾長のつれづれなるままに塾長の近況を気まぐれにつづったページです)

『過去ログその6』(2002年)

◎ (2002/12/4)

《家永三郎氏死去!》 一昨日,「教科書裁判」で有名な,家永さんが亡くなられました。昔,大学生になって,『杉本判決』(1970年7月)を学習したときの驚きと感動を思い出しました。しかし,それ以降の「教科書」の歩み,更には,教育行政の歩みにも驚きを禁じえません。そう,確かに「教育が国をつくる」のです。そこに気付いてしまったのです。いつのまにか,『原則』が忘れ去られ,「アメと鞭」の政策がとられてきました。ご冥福を祈るとともに,「何ができるか」と自問しなければと切に思います。

更に,普遍的価値を持つ判決を出した裁判長の左遷を見るとき,また,かの「福島判決」の福島裁判長の不遇を見るとき,「教育」だけでなく,司法の分野への権力的介入を思わざるを得ません。そうした流れの中で「今日」をきちんと捉えることが必要なのだと思います。

《大手前中学クラス開始について》 従来,レーゼクライスでは,大手前を含め,「私立中学」の生徒を塾生から排除してきました。(一時期,高3生に限って入塾を許可したことはあります。)それは,「特別な学習」をしなくても,附属も含めた「公立」中学の中で,そして公立高校の中でも,『量より質』の学習を原則的に行うことによって,それなりの大学に進学できるという,(全国的な私立への流れに対する)一種の「反発」があったことは否めません。しかし,それも考えてみれば,附属の存在が大きかったと言えるでしょう。附属中学では,決して「特別な学習」をしているわけではありません。(そういう意味では「教えない学習」とも言える)ただ,「無意味な長時間部活」等々の活動がなく,また,半数近くが丸亀高校へ進学するという点からも,一定の層が集まり,そういう意味で,「変則的6年制」を塾で実行することも可能でした。

しかし,「長時間部活」を含め,様相が変化してきたのです。また,「学校5日制」になり,原則的学習だけでは,私立との差は埋まりそうにありません。(その「結果」は,今の中1・2生が大学受験を迎える頃には,明白になるでしょう。)

大学進学が決して目標ではありませんが,その先を考えたとき,むしろ,大手前の生徒を,「学習面のリーダー」的存在にしなければ(できるかどうかは別にして),公立の生徒自身の学力の低下に歯止めをかけることはできないだろうと思うのです。(つまり,はっきり言えば,今までの「リーダー」だった附属の生徒は,もはやリーダー(あくまで学習面ですが)にはなり得ないということです。「朱に交われば赤くなりがち」ですから!)

◎ (2002/10/7)

《「ためぐち」追放!》 最近の子どもたちの発言に,いわゆる「ためぐち」が目立ちます。休憩時間等は別にして,(そうした時間でも常識的「物言い」があると思いますが),授業中でさえ,きちんとした(というより,私たちが「当たり前」と思っている程度)言葉遣いができません。例えば,「これ,分かりましたか?」に対して,「うん」。「違うでしょ,「はい」でしょ!」という会話が多過ぎます。気になるので,子どもたちに聞いてみると,小学校では,ほぼ100%,「ためぐち」(「ともだちのような言葉遣い」,と解説するケースもありましたが)だそうです。中学校では「こわい先生」のとき以外は,やはり「ためぐち」!

これは,もしかしたら,「意思一致」してやっているのだろうか,とも思ってしまいます。恐ろしいのは,それが子どもたちにとって「当たり前」になることです。そうすると,結構な年齢になっても,「ためぐち」しかできない人間ができそうです。

「ためぐち」は,決して『親しさ』を表すものではない,実は「乱暴な言葉遣い」だと思うのは,私の年齢の為せる業でしょうか?常に『長幼の序』を守れ,という訳ではありませんが,言葉には自ずから「人格」が投影されるものだと思います。

塾では,生徒を呼ぶとき,呼び捨てにしたことはありませんし,いわゆる「あだ名」でも呼びません。若干の方言が混じることがあっても,授業中は丁寧語を原則としています。「ためぐち」は追放します!

※実は,ホームページの更新に当たっては,ちょっとした「意識」があります。ある塾人のホームページの更新に負けないようにという(笑)。それらの方々の真面目で真摯な姿勢にあやかっているのです。従って,そちらの更新が滞ると,それを「内的言い訳」にして,こちらも更新をサボってしまいます!一人の方は,最近,凄い勢いで書かれているので,こちらも大変です!(笑) 

◎ (2002/9/23)

《「試験」と「平常授業」と》 今年から丸高では,「2学期制」が採用され,現在前期期末試験中です。試験期間が19日から25日までですから,「いわゆる」(というのも,私たちにはそんなものはありませんが)3連休を間に挟むことになります。これでは,こちらの授業に差し支えるので,特に高3は,ほぼ平常通りの授業体勢を組んでみました。そうすると,ほとんどの子はきちんと出席するのですが,中に(ネーム順下位の子),「あやしい病欠」があったりします。本当に塾の授業に出席できないほど勉強しているとは到底思えません。それほど勉強する習慣があるのなら,「ネーム順下位」になるはずがないですし,常日頃の「学校成績」も悪いはずがありません。問題は,何かと「理由付け」をして「目先」を追う姿勢にあります。そして,(合宿中,たびたび「いねむり」をカメラにとられたように),居眠りに時間を費やしているのが「関の山」でしょう!

《えっ,19日!》 9月の「休日」を数えてみると11日あります。ということは,子どもたちが学校へ行くのは19日間ということになります。(実際は,「過度の部活」で,もっと行っていますが)しかも,21日・22日と運動会等の行事が続きました。また,中学3年生は4日に,「診断テスト」(今や,堂々と授業時間をつぶして行われるようになりました!)がありましたから,(おっと,行事で休みの日が「つぶれる」と,必ず「代休」があります。)授業を進めるのに一体,どれほどの時間があったでしょう?どうやら,学校は「学習の場」であることを放棄しつつあるように思います。これは,「批判」のつもりでなく,その分,私たちが引き受けざるを得ないという「一種のため息」の表明という意味合いが強いのです。

《成績について》 最近,よほどのことがない限り,「学校成績」に対して興味が沸きません。口では「全学年制覇」などと言っていても,そうした気持ちを敏感に感じてか(?),子どもたちの方に今一つの熱意を感じず,従って,実現はしませんでした。(学力テストや模擬テスト。)過去,10位内8名とか1位〜6位独占とかの記録を出していることもあって,3〜4人が10以内に入っているからといっても,「悪いなぁ〜」としか思わないのです。診断テストも久々に240点が出ましたが,記録は245点ですし,現高3の子が中3のときに240とか243とか記録しているので,「久々」という気はしてもどうも感激性がありません。定期試験も「絶対評価」に変わったこともあって(「評価」に占める割合は4分の1でしかありませんから),むしろ(姑息と思いつつも),「日常的な側面」にある程度重点を置かざるを得ません。もっと『違うこと』をやりたいのです。例えば,中学生段階で,「一貫校」以上の力を,高校生にも「入試や入試後を見据えた」ことをやりたいのです。しかし,そうした方向にシフトしたとき,一体何人が,と考えると,難しい。

◎ (2002/6/12)

《「部活」と「勉強」と「習い事」と「親」》 この時期,特に中学生で授業中の「あくび」が気になる子が出てきます。気候の不順とともに,7月の「総体」を目指して,「部活」がハードになるのです。中には「遠征」とか,「学校5日制」の趣旨などどこ吹く風,ひたすら「勝利」を目指した「長時間練習」に子どもたちを駆り立てる「指導者」もいたりします。

親は往々にして子どもたちに「過度の期待」をかけがちです。スポーツもできて,それもそこそこのレベルにまで達し,勉強ももちろんできて,更に「素直」であることを子どもたちは求められます。その上,ピアノを始め,数々の「習い事」の分野でも,それなりの(決して超一流とか,プロとしての道などは要求されませんが)腕を示すことまで求められます。こうした事柄がパーフェクトにこなせる子は,まずいません!いるとしても,割合として1%どころか0.01%くらいでしょう。(もちろん,これは子どもたちに関わってきたまだまだ短い年月からの「経験則」にしかすぎませんが。)

それでも,親は「自分の」子どもにそれに近いことを求めることがよくあります。それは変形した「自己愛」とでも呼ぶべきもので,自分の達成できなかったことを子どもに投影し,そのことをもって結局は「自己」の満足を得る。もちろん,そうした(無意識であれ)意識は,もしかしたら「進化」を義務付けられた「生き物」としての人間の性かも知れませんが。

私は,その「いない」という地点から,子どもたちの活動を見ていかなければならないと思います。少なくとも,『なぜ?』に対して何の返答もないものを認める訳にはいきません。

《日本語の力こそが重要》 中1・2の社会の授業で,2回ほど,「仮説」を実験してみました。社会ができない子は多く,そのための時間を塾では十分にはとれていないという事実もあるのですが,各学校の中間テストの「範囲」であった教科書の部分(つまり学校では既に習っているはずの所)を読んでもらい,その部分に登場する「言葉の意味」を片っ端から聞いてみました。

例えば,中2では「アメリカの独立に先立って18世紀の西ヨーロッパには,理性の光に照らして因習や偏見を批判する啓蒙思想が・・・」という一節を読んでもらいます。そして,「理性とは?」「理性の光とは?」「因習とは?」「偏見とは?」とどんどん聞いていきました。

子どもたちは,(もちろん)答えられません。簡単なところでは,商業,貿易,官僚制,常備軍・・・・・どれも答えられません。中1では,農耕,かんがい工事,「たて穴住居って?」「中央アジアってどこ?」・・・・

つまり(殆ど確信的な)「仮説」とは,教科書そのものが読めていないし,もしかしたら,「学校授業」は,そうした部分を捨象して行われているのではないかということです。意味も分からない出来事を懸命に「詰め込んでも」,分かりはしないし,歴史の面白さを味わえもしない!徒に「問題集によるパターン学習」を繰り返すのでなく,きちんと読めさえすれば,そしてその結果として,分かりさえすれば,自ずから「できる」のだと思うのです。

◎ (2002/5/21)

《「新課程」と日本国憲法前文》 この数日,壊れかけた「コンポ」が活躍しています。というのも,どうやら「中間試験」で,日本国憲法前文が出題されるそうなのです。初めてこの文章を読む人は何のことか分からないでしょうが,今ではすっかり合宿中の食事の歌(別名「塾歌」とも)として定着した「日本国憲法前文の歌」のダビングを頼まれるということなのです。果たして,言葉の意味も十分に分からないのに,覚えるだけというのは惜しい(だって,あの「訳」は秀逸です!)のですが,まあ,それでも覚えることには一定の意味があると思うので,喜んでダビングしています。よく聞くと・・・何ていい歌なんでしょう!

かつて,私たちが中学生だった頃,「覚える」ことはほぼどこの中学でもやっていたことだと思います。塾を始めた頃も,まだ,そうした課題を出す学校が多く,中には,高校1年で覚えていたところもあったり,国語の高校入試問題として出題されてこともあります。(修飾関係が難しいから。)

それが,1校減り,また1校減り,とまるで「改憲」への道程であるかのような軌跡を辿っていきました。

今,「新課程」と騒がれる中で,「復活」したことにはどういう意味があるのでしょう?考えてみる価値はありそうです。

◎ (2002/5/1)

《徴兵制への道》 4月19日の各新聞の1面に「奉仕活動」についての「中教審」の中間報告が掲載されていました。かの「17の提言」でもあったものの具体化です。この記事を読んで,どうしても述べておかなければならなかったのですが,余りにも多忙で,その時間がありませんでした。この記事については,ここで確認できます。しかも,大学の入試や企業の採用選考で積極的に評価するだけでなく,高校,大学では卒業単位として認定する,というものです。そのようなものがそもそも「奉仕」という名に値しないことは自明でしょうが,ここにも「言葉のマジック」が存在します。奉仕すること,そういう精神が重要であり,また,子供たちの「健全な」(あくまで中教審の人たち,そしてその人たちを任命し支持している人たちが使う意味においてですが)発達に必要であり,小説よりもドラマチックな事件が起こる現実社会にあって,「健全な」社会を構築していく上でも必要である,と言われて反論するにはかなりの理論武装と情報が必要になります。「訓練」を「奉仕」に置き換えているだけなのです。その真意はどこにあるのでしょう?

こうしたことを述べようとしている間に事態はますます加速度的に「進展」しています。「個人情報保護」というもっともらしい名前をつけた「言論弾圧法」,「有事法制」という名前をつけた「戦争のための法律」が信じられないことにできようとしています。「軍隊」を「自衛隊」と呼ぶことで,その本質をぼかす手法をもって。(いったいどこの世界に,自衛ではない軍隊が存在するというのでしょう。はるばる他国へ出かけていって,罪もない人の頭上に爆弾を落としても,それは,「テロから自国を守っている」のです。そうした紛れもない軍隊を支援することと『武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄』した憲法とはどう整合性を持つのでしょう?)

かつて,私は,「17の提言」を批判したとき,2000年12月10日付の記事を引用しました。それは,衆議院の憲法調査会が欧州各国の憲法事情を視察した際,行く先々で必ずあることを質問したという記事です。その質問とは各国の「徴兵制」なのです。時代は,音を立てて動いています。口当たりのいい「総理大臣」を隠れ蓑にして,着々とレールが引かれています。(激減したとはいえ,彼の支持率は歴代の内閣に比してまだまだ高い。)いったい,なぜ,このようなことがまかり通るのでしょう?本当に,言葉がありません。「新課程」という名の「愚民化政策」も始まりました。このような時代にあって,私たちには一体何ができるでしょう?せめて,「自己の利益のみを追求する」ことの拡大再生産だけは避けなければなりません。

◎ (2002/4/17)

《大学への数学》 「大学への数学」講座が始まりました。(「まっすぐ」君は,かなり苦労しているようです。)今回は4月号なのですが,その『巻頭言』の文章は,この本の発行人の黒木さんのものです。表題は「妻の死」。この文章を読むだけでも,4月号を買う価値があるような文章です。(「大数」が懐かしい諸君,せめて立ち読みを!)

大数については,いろいろ「難しい」だとか「オタクっぽい」とか批判もありますが,私は数学に関しては,できるだけその方針に近づこうと努力してきました。(大数講座を設けて,もう10年以上になります。)もちろん,その足元にも及ばないことを自覚してはいますが,なぜ「大数」か,に対する一つの回答が,また上記の『巻頭言』にあるように思います。結局,人なんですね。どういう人が作っているかということなんです。できることなら,そうした姿勢にもまた近づこうと思わされる文章でした。

◎ (2002/4/14)

《学校5日制について》 これについては以前から,ポツポツ述べてはいるのですが,まとめたものがありません。いずれ,「実態」を含めて,本格的に論じたいと思いますが,(つまらない)某新聞などが「予備校・塾に追い風」などと皮相なことを言うものですから,あえて,余り問題にしてきませんでした。

基本的に,私は,賛成です。むしろ,4日制くらいがいいかとも思います。それは,「学力低下」(どうせ,今までも月に2回は休みだった訳だし,残りの土曜が休みになったぐらいで,「低下」するような「学力」などたかが知れています。)への「危惧」から,塾の「経営的有利さ」に結びつく(と言われる)からではありません。そういう意味では,今日,その「危惧」を利用して,新たな需要を喚起しようとしている(つまり塾の生徒集めをしようとしている)動きには,「胡散臭さ」を感じます。

「中2病」などと揶揄する姿勢がいったいどこから来るのかをよくよく考えてみただけでも,「4日制」くらいで十分だと思います。あるいは,各種の行事(特に,「エライ人」が「視察」に来るときなど,それはもう大変。また,保護者の参観があるときも。)に熱心で,ついでに(軍隊の予備としか思えない)「行進」にも熱心で,もともと授業などまともにされていないし,せいぜい,「指導書」のコピー。そもそも,現状は「学校で学力などつかない」のです。

残すところは,一つです。「学校自由化」ですね。少なくとも自由選択にする。そうして,まず,正当な「競争原理」を導入しないと根本的な解決ができる訳がありませんし,ゆくゆくは,「公立」が廃止されるのが流れでしょう。問題は,そうした流れが一挙に「現実」として到来したとき,かの「胡散臭さ」などもちろん排除した存在でありうるか,ということです。そうした状況に対処できる『本当のもの』であるかどうかという点から現在を自己批判的に俯瞰することですね。

◎ (2002/4/2)

《新しいホームページとともに》 昨年,いろいろな事件の心労から,多くの「読者」をかかえた(?),このページの更新をないがしろにしていました。(冗談です)

 新しい形のホームページの出発と,『有望新人』の加入とともに,このページを継続的に更新する決意です。どうか,よろしくお願いします。

《塾長の毒舌》 「つれづれ」を,いっそのこと,このように「題名変更」しようかと思うようなことが次々に起こります。とりあえず,政治的動向や,国際紛争等は横に置いといて,この時期には,様々な「合格掲示(発表ではありませんよ)」がなされます。世間には(田舎には),十分な情報がなく(正確には,十分な情報を得る意思がなく),表面的な一時的な感情的な「判断」(別名,偏見とか思い込みとか,とも言います)が蔓延していますから(某首相の「支持率」などを見よ!),けっこう「それ」がまかり通ります。要するに,塾が(学校も同じですが)『まともな教育機関』として存在するための最低限の『モラル』は以下の通りです。(ということは,そうしたことに反した場合,どういう存在であるかを逆説的に示したことになる訳です。)

○「合格者」数は,「受験者」の数を明示しなければならない。(「合格率」など,特に分母の数を明示すること。)

○現実の「ランク」を無視して,最上位校は実は少数なのに,「合わせて××名」としてはいけない。

○特に「チェーン塾」の場合,当該の教室(教場・校舎)からの数を明示しなければならない。

○「個人名」を出して掲示してはいけない。(顔写真など論外)(プライバシー保護の観点から。)

○各塾の「合格者」とは,その塾(予備校)に,定期的に,最低半年は通塾している者のみとする。

○1人が複数合格している場合,その旨を明示しなければならない。

○「脅威の」とか,「圧倒的な」とか,「奇跡の」など余計な「形容詞」をつけてはいけない。

とまあ,こんなものでしょうか。こうしたことをきちんと実行しない限り,塾は,総体として,「塾(予備校)だから・・・」とか「どうせ・・・」とかの謗りを免れないでしょう。残念なことです。


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