今こそ、新たな理念を


 香川は、いわゆる公立優位の県である。数年前、ある私立が10数名の東大合格者を出したとき、「これからは私立の時代だ」と声高に叫ぶ塾もあった。(※注)しかし、「東大合格者」の数のみに関心をもち、中1から東大を意識させ、合格すれば桜の木を植える、などという子供じみたことを行う私学に発展があるだろうか?また、新しい私立が、来年度に初めて大学入試を迎える。ただ、一方でいわゆる「救済」的な私学を経営しながら、その一方で「一流大学進学」を謳っても、直ちには信用し難い。他のいくつかの私学もあるが、多くは、公立の「滑り止め」というのが現実だろう。
(※注 近年は、この地区(香川は2学区制)の公立トップ高校とほぼ同じ5名程度であり、京大を合わせると、公立高が2倍近い。また、県内一の公立進学校は20名前後の東大合格者を出している。)


 一部の「意識の高い」保護者は、高校入試がなく、大学入試に有利であることを信じて、私学受験に走ってはいるが、それは一般的な趨勢とはなっていない。従って、当地での「中学受験」は、国立大学の附属中学の入試が主たる関心事と言ってよいだろう。(※注)勿論、2002年度からの「新課程」を先取りする形で「先進的に」行われてきた、「総合学習」を初めとする様様な「実験」の極めて当然の帰結としての学力低下が公然のものとなり、附属入試熱は、以前ほどではない。入試問題も、その難易度は明らかに低下している。また、来年度から、公立の「中等学校」(いわゆる6年制の中等教育学校)が創設されるが、果たしてどれほどの個性が発揮されるだろうか?
(※注 それは、高校入試において、公立の進学校への進学者数が多いという理由による。少なくなったとはいえ、約半数が公立トップ高校へ進学する。高校入試はあるが、変則的な一種の「6年制」が存在するかのようである。)


 私の塾には「私立中学生」はいない(私立高校生もいない)。要望がないのではなく、入塾を許可していないのである。例年、当塾の50名前後の小学6年生のうち、約半数が附属小学校の生徒と附属中学を受験する子達、数名が私立へ、残りが一般の公立中学へ進学する。しかし、公立へ進学する子達も含めて、学力的には全員が附属中学に合格する力(と言っても、それほど特別なものではないが)の獲得を目指している。「受験勉強」は、この年齢の子供たちにとって、一種の知的トレーニングとしては有効だと思うからである。こうした『在り方』から言えば、確かに「中学受験を応援している」と言えなくはない。


(ここからは、「新教育課程」及び「教育改革国民会議」の17の提言が周知のものとして述べることにする。)


 懸命に教え学ぶ(この場合、それは子供たちの側だけを意味しない)ことの中にこそ、「生きる力」や「自ら学び考える力」そして、それを土台にした「創造性に富む」力が生まれる(ないし、芽生える)のであって、「生きる力」のために、「総合学習」をというのは、現状の学びが、いかに機能していないかの逆説的表現でしかない。IT教育を標榜することの根底には「科学的認識」の普遍性信仰があるのだろう。しかし本来、科学的思考は、現状分析を不可欠の要因として持つ。つまり、「教育の危機的状況」が事実であるのなら、それを数量的に明確に示し、その状況を「引き起こした」原因が何であるかを特定し、その原因を絶つ形で、「新しい」指針を提示しなければならない。徒に「危機」を煽り、「奉仕活動」等の思いつきの指針を提言しても、更には、形式だけの「中高一貫」を追求しても、何の「解決」ももたらさない。そこに見るのは、ノスタルジーであり、「別の意図」である。(例えば、少年刑法犯のうち、殺人犯は1998年は1949年の3分の1でしかないし、ここ20年来、その数に大きな変化はない。それでも「少年法」は「改正」されようとしている。)


 「一律主義」であったと反省するのであるならば、その「一律主義」を押し付け、せっかくの少数の真面目な教師(「絶望」に近い状況の中でも、それをどうにかして変えたいと奮闘している教師の存在があることは間違いない。)の創意工夫を踏みにじってきたものの正体をこそ白日の下に晒すべきである。そもそも指導する者に創意工夫がなく、子供たちにそれを求めることなど不可能である。結論を急ごう。


 つまり、「文部省」(文部科学省)は廃止すべきである。少なくとも、「指導要領」の(持つと言われる)「法的拘束力」を廃止すべきである。ついでに「内申書」も廃止すべきである。その「元凶」を放置したままで、いかなる「改革」を叫んでも、それは「改悪」にこそなれ、決して改善にはならない。そういう意味では、私立も、「元凶の手の中」にある。従って、(私の知る限り)ほとんどの「有名私立」も当然の如く、「有名大学合格者数」をその「実績」としている。決して、「生きる力」で「評価」されてなどはいない。


 矛盾は安定の中から生まれ、その矛盾との抗争の中から、矛盾を根底的に止揚する形でしか新たな方途は生まれない。その新たな方途の線上にある限りにおいて、そして、受験というある種の競争が、受験生本人に起因しないこと(出自や親の職業等)で妨げられないものである限り、私は中学受験を応援する。しかし、それは当地に関する限り、「私立受験」ではない。


 受験突破を目指して努力すること、それは何も小学生や中学生に限ったことではない。広く社会を見回しても、数々の試験が存在する。プロの選手になることも、あるいは「選挙」も、それは試験と呼べるものであるし、競争と呼べるものだろう。しかし、「二世三世国会議員」の多さが、「政治不信」の一つの重要な要因に挙げられるように、正当な競争は少なくなっている。私立受験・進学が、一部の経済的に恵まれた層の一種の「特権」としてあるのなら、塾がその「片棒を担ぐ」ことは、「矛盾」を更に助長し、停滞と社会階層的格差の固定化に寄与するものでしかない。


 私の塾は、変則的な6〜8年の一貫制をとっている。(高校生の塾生の6〜8割が小・中学校からの塾生である。)そして、「危機的状況」と言われる公立・国立中学や公立高校の中で苦闘する子供たちと共に、大学入試において「私立」に劣らない「結果」を出すこと、そして大学「後」の進路において、社会的諸矛盾を解消する地平で活躍することを目指している。それは、逆説的な意味で、私立の応援にもなっていると思っている。(未だ力不足だが)

《2001年「塾ジャーナル」1月号に掲載》

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