クイーンアースに暗雲が立ち籠める。自然の暗雲ではない。雨雲にしては、あまりにどす黒すぎる。もう何日も上空を覆ったまま、一向に日光に道を譲る気配が無い。クイーンアースの民は、次は黒い雨が降り始めるであろうことを、したくなくても予測できてしまった。何故なら、数年前のダークジョーカーとの戦いの時も、このような暗雲が空を覆いつくしていたからだ。
クイーンアース王宮の謁見室。本来なら第一王女・ヘレナが座っているはずの席は空席になっている。その席の段の下で、一人の若い士官が、謁見室に集合している士官達の方を向いて立っている。謁見室のドアが開き、まるで仮装大会から抜け出たような格好をした少女が入室してきた。彼女の足取りは重く、他の士官達と目を合わせないようにしていた。
「ファルシオン様、ショーテル、ただいま戻りました。」
ファルシオンと呼ばれた若い士官と目を合わせることができずに、ショーテルは顔を伏せたままで帰還を報告した。とても目を合わせることなどできない。彼女は任務に失敗したのだ。
「顔を上げてくれ。お前の愛らしい顔が見えないじゃないか。」
ショーテルは恐る恐る顔を上げ、ファルシオンの顔を見た。どうやら彼は怒っていないようだ。ショーテルは少し安堵した。
「話しは聞いている。邪魔者が現れたそうだな。」
「は、はい。ナースエンジェルと名乗っていました。」
「ナースエンジェルだと…?」
「はい、私と共に地球に赴いたフランベルジュが、ナースエンジェルに倒されました。」
周囲からどよめきが沸き起こる。彼らの中に、ナースエンジェルの名を知らない者はいない。ダークジョーカーを打ち倒した少女の名は、クイーンアース人である彼らにとっては、女神に等しい存在であった。
「ナースエンジェルは、3年前、命の花が咲いたあの日以来、変身する能力を失ったと聞いていたが…。」
ファルシオンは、彼の隣に控えている、漆黒のローブを頭からすっぽりと被った男に問いかけた。
「シャムシール、ナースエンジェルが王女達の側に着いたとなると、厄介なことになりはしないか?」
問いかけられて、シャムシールはファルシオンの方へ顔を向けた。頭から被ったローブから、左右で異なる色をした瞳が不気味な光を放つ。
「伝説のナースエンジェルの持つ力が強大過ぎたが故に、その力は数人に分けて受け継がれたそうです。おそらく、そのうちの一人が覚醒したということでしょう。だとすれば、ダークジョーカーを打ち倒したナースエンジェルとは別人物。それに、覚醒したばかりで経験も浅い。恐れる必要はありません。」
「だが、放っておくわけにもいきますまい。何か手を打つべきでしょう。」
策士を自称する男・クレイモアが口を挿んだ。策士とはいっても、どちらかというと卑怯と呼ばれる部類の策を弄する男だった。
「ゲスは引っ込んでいろ。貴様が手を打つと我らの品位が落ちる。」
力任せの戦いを好むセイバーが、クレイモアにケチをつけた。
「やめないか、二人とも。とにかく、ナースエンジェルがまだ十分に覚醒しきっていないのなら、さほど問題はなかろう。そうだな、シャムシール。」
「御意。」
「我々の統治を民があまり歓迎していないようだ。多くの人手を割くわけにはいかない。誰か、王女を捕らえるか抹殺する任に当たりたい者はいないか。」
ショーテルが前に進み出た。
「ファルシオン様、私に雪辱を晴らす機会をお与えください。」
「期待しているぞ、ショーテル。」
ショーテルが謁見室から出て行くのとすれ違いに、痩せた男が入ってきた。ショーテルとは別にミミナの居場所を探していた男で、パタという名前の彼は、細長い舌を相手の鼻に差し込んで、脳から直接情報を引き出すことを得意としていた。見るからにおぞましいその特技は、仲間内でもあまり快く思われてはいない。しかし、彼は任務に失敗した。ミミナの屋敷に頻繁に訪れる少女から情報を引き出そうとして、手痛い反撃にあい、自慢の舌を負傷して、任務の続行が不可能になってしまったのだ。
「ファルシオン様、パタ、ただいま戻りました。」
「任務に失敗したそうだな。」
「も、もう一度機会を…」
「残念だが、もう王女の居場所は判明した。貴様に挽回の機会など無い。」
ショーテルの時とは明らかに態度が違う。ファルシオンが部下の一人・マンゴーシュに合図すると、パタの体は石像に変わってしまった。
「役立たずめ、その姿で永遠に恥をさらし続けるがいい。」
ファルシオンは兵士達に命じて、石像と化したパタを、王宮の広間へと運ばせた。広間には、王宮で主だった者達の石像が並べられていた。その中に、ヘレナ王女の婚約者・カノンの姿もあった。
「今日はこれで解散とする。みんな、ご苦労だった。」
ファルシオンは部屋に集まった士官達を帰らせると、自分も退出した。彼の後に、シャムシールが従っている。
「捕らえるか抹殺するか、ですか。私なら、迷わず抹殺を命じるでしょう。」
「生かしておいてはまずいのか?シャムシール。」
「王女を立てて傀儡にするにしろ、幽閉するにしろ、生かしておけば民心を集め、我らに驚異となるでしょう。」
ファルシオンは考え込んだ。ヘレナ王女と戯れる少女の幼い笑顔が脳裏をよぎる。
「…いや、抹殺は、捕らえることが不可能な時に限定する。」
「御意。」
ファルシオンは離れの塔へと入って行く。その姿を見送ったシャムシールは、踵を返すと、士官の一人を呼び出した。
「エストック、ファルシオン様の命令だ。王女を捕らえる必要は無い。見つけしだい抹殺せよ。」
「はっ。」
一人で離れの塔へ入って来たファルシオンが長い長い螺旋階段を上ると、外から厳重に鍵のかけられたドアの前に辿り着いた。この鍵を開けるには、通常なら幾つもの鍵を使用する必要がある。しかし、彼はそんな物は必要としなかった。何やら呪文を唱えると、掌から黒いオーラが立ち上る。黒いオーラは不気味にうねりながら鍵穴にスルスルと入り込む。軽い金属音が響いて、ドアの取っ手を両側から押さえていた鍵が外された。
ドアの向こう側の部屋は、綺麗だが、無味閑散としていた。隅のベッドの上に、美しい緑の髪の少女が眠っている。
「まったく、君はなんて美しいんだ、ヘレナ…。」
ファルシオンは話したが、彼女は反応しない。彼女はずっと眠った状態のままなのだ。
「私を拒むあまり、心を閉ざしたのか。クイーンアースを奪うことはできても、君の心は奪えないのか…。」
+ + + +
ミミナは、せりな達のグループにすんなりと溶け込んでいた。今日は何故か須美の機嫌が朝から悪かったが、せりなの紹介で、深森や瑞穂とも打ち解けた様子だ。
「ふうん、本物の帰国子女さんなんだ。凄いなぁ。」
「で、ロンドンのどんな所に住んでいたの?」
「え?えっと、そう、ドナウ川の近くよ。」
一瞬、周囲に吹雪が吹き荒れた。中一ともなれば、ドナウ川がブリテン島を流れていないことくらいわかる。
「ミ、ミミナってば、凄いボケをかましてくれるね。」
せりなはすかさずフォローを入れて、ミミナが冗談を言ったように取り繕おうとした。
「以前はセーヌ川と言っていたマル。全然進歩していないマル…。」
彼女達の後で、マルルが呟いた。
「じゃね、また明日、迎えに行くからね。」
「さようならー。」
途中まで一緒に帰って来た深森と瑞穂が別れ、ここからはせりな、ミミナ、マルル、そして須美が一緒に歩いて帰ることになる。
「あれ?スーちゃんって、帰る方向こっちだっけ。」
「何よ、私がいたら邪魔なの?」
「そんなこと無いけど、、、」
今日の須美はいつになく機嫌が悪そうだったので、これ以上の追及は控えた。
「(きっとスーちゃんは、ミミナと仲良くなりたいのよ。そう言えばいいのに、本当、意地っ張りなんだから。)」
せりなはそう判断していた。
「ここが私たちのお屋敷よ。」
ミミナがそう呼んで指したのは、もはや建っていることが奇跡と呼べるような状態のアパートだった。
「お屋敷…って、ここが?」
唖然としているせりなに、マルルが小声で話し掛けた。須美がこの場にいるので、話す内容に気を使っているようだ。
「その…お仕事の関係で、こちらに住むことになったマル…のですが、その…資金の関係で…。」
せりなは、ミミナとマルルの肩に手を置いた。
「本格的に大変みたいね…。何ていうか、負けないでね。」
「わかってくれるマル…くださいますか?」
彼女達から少し離れた場所で、須美はアパートを見て呟いた。
「ふーん。ここが転校生のお家ね…。」
そして、いつの間にか須美の姿は消え去っていた。
「ささ、上がって上がって。」
ミミナはそう言っているが、階段を上るとぎしぎしと音がする。階段全体が揺れているような気もする。せりなは恐る恐る一歩ずつ慎重に踏みしめて階段を上った。
部屋に入ると、マルルは少年の姿から、緑色の縫いぐるみのような物体に姿を変えた。
「えっえーっ!マルル君、お人形になっちやったの?」
「これがそれがしの本当の姿マル。王家に仕える妖精マル。学校にいる間もミミナ王女のお側にいるために、人間の姿になっていたマル。」
「そ、そうなの…。」
いつもミミナにべったりのマルルだったが、ちょっと可愛い顔立ちが女生徒の間で話題になった事もあった。それが、正体はこんな人形みたいな物体だったなんて…。せりなは唖然とした表情を隠しきれなかった。
ミミナは、鞄の奥からごそごそと何かを探している。やがて見つけたようで、せりなの方を向いて微笑んだ。
「せりなに渡したいものがあるの。」
最初に、鞄の奥から筒状の物を取り出した。
「これはエンジェル・ライドル。3つボタンが付いているでしょう、これを押せば、剣、棒、鞭の3通りの武器に変化するのよ。」
次に、小さな通話機のような物を取り出した。
「これはエンジェル・レスキューベル。私達の通信に使えるのはもちろん、お互いの居場所もわかるの。」
今度は、声のトーンを少し落として、真剣な表情になった。
「それから、、、いい、これは一番重要なアイテムよ。」
ミミナは、小さな緑色の液体の詰まったカプセルを取り出した。
「これは緑のワクチン。三年前から地球上でも見られるようになった花があるでしょう?あれは命の花といって、この緑のワクチンの原料なのよ。」
「緑のワクチン…?」
「ナースエンジェルが戦う時のエネルギーになるのが、この緑のワクチンなの。あなたのエンジェルバックラーにも、これと同じ物が入っているのよ。」
そう言いながら、ミミナはカプセルの中身をライドルに注ぎ込んだ。
「これでライドルが使えるようになったわ。でも、あまり無駄使いしないでね。緑のワクチンを作れるのは、クイーンアースに戻れなくなった今では、このマルルしかいないの。」
「マルぅ。」
マルルが胸を張ってみせた。
「緑のワクチンは、作るのにとっても時間がかかるの。マルル一人では、このカプセルを一杯にするのに、どれくらい時間がかかるのかわからないわ。」
「そんなに?わかった、大事に使うわ。でも、使っていればいつか無くなっちゃうでしょう?いつまでも戦いを続けているわけにはいかないけれど…。どうするの?ミミナ。」
茨十字を名乗る者達を根本的に何とかしなければ、彼等の送ってくる刺客を一人一人撃退し続けることしかできない。無限に近い戦闘を延々と続けるだけでは、いつかは緑のワクチンも底をついてしまうだろう。マルル一人の生産ペースでは、とても戦闘はできないのだ。
「それがしの仲間が、クイーンアースで頑張っているマル。今はそれがしの仲間を信じて、その間ミミナ王女を守って欲しいマル。」
せりなは頷いた。今は他に方法がなさそうだ。
ミミナからアイテム一式を受け取って、せりなは家に帰ろうとした。ミミナが途中まで一緒に歩こうと言い出した。マルルもついてきた。
「ミミナは地球に来て長いの?その間、友達とかはいたの?」
「うん、もう地球に来て3年半になるわ。」
ミミナはせりなに、地球に来てから半年の間に起きた事件の数々を話した。
「そう、あたし以外にもナースエンジェルがいたんだ…。」
「あなたは何となく私に似ているけど、そのナースエンジェルは、ヘレナお姉様に似ていたわ。お姉様と違ってガサツだったけど。」
3年前、地球が異常気象や原因不明の疫病で混乱した事があった。しかし、ある風の強い夜、夜空が淡い緑色に光るのと同時に、全てが嘘のように解決してしまった。その事はせりなもよく憶えていた。しかし、あの緑色の光が、人知れず悲壮な戦いを続けた白き天使・ナースエンジェルの最後の活躍によるものだとは、これまで知る由もなかった。
「そんなことがあったんだ…。」
実は密かに、自分以外にミミナを守る者がいたことに軽く嫉妬していたせりなだが、その話を聞いて、自分は絶対に叶わないと思った。
「かなわないな、あたしには。」
「そんなこと無いよ、それはせりなは飛べないけど…。」
「え、その人飛べるの?あー、ますますかなわない。」
落ち込んでしまったせりなに、マルルがフォローを入れた。
「でも、攻撃技の破壊力はせりなの方が上マル。それぞれ長所があるマル。」
「あ、あたし、頑張って強くならなきゃ。」
空は既に暗くなっている。せりなの家とのほぼ中間の地点までさしかかった所で、別れることにした。
「それじゃあ、また明日ね。」
「何かあったら、その…レスキューなんとかで、すぐに知らせてね。」
せりなは家に、ミミナとマルルは自称屋敷に向かって、それぞれ帰って行った。
部屋に戻ったミミナは、部屋の惨状を見て息を飲んだ。
「!!!これは…。」
ミミナ達の部屋は滅茶滅茶に荒らされていた。物色した様子は無いが、あらゆる物が切り裂かれていた。
「ひどい…。」
ミミナ達が持ってきた荷物は少ないが、着替えから何から、全てずたずたに切り裂かれていた。
「ミミナ王女、ここにいては危険マル。」
マルルはミミナの手を引いて、アパートの外へと走り出た。物色の様子が無いとすると、変質者か、それとも茨十字の仕業かもしれない。いずれにせよ、部屋に居続けると危ない。マルルはそう判断した。しかし、茨十字だとすると、何故こうも早く住所が知れたのだろう。
「!!ミミナ王女、危ないマル!」
気配を感じたマルルは、即座にミミナを突き飛ばした。直前までミミナの居た空間に鎖が襲い掛かる。鎖の飛んできた方向を見上げると、塀の上に茨十字の女戦士・ショーテルが立っていた。
「これまでね、ミミナ王女。」
ショーテルは鎖を構え直し、ミミナを高圧的に見下ろした。
「どうでもいいけど、なんでいつも高い所に現れるの?」
「地球には、何とかと煙は高い所が好きという伝説があるマル。」
「う、うるさい!これでもくらってしまえ!」
ショーテルは鎖を振りおろし、ミミナの右腕に絡めた。ミミナは左手でエンジェルレスキューベルのスイッチを入れた。
ポケットの中のエンジェルレスキューベルが激しく振動して、せりなにミミナの危機を伝えた。せりなはベルを取り出して、蓋を開いた。中には小さなモニターがあり、ミミナと自分の居場所を映し出すレーダーになっている。せりなはミミナの場所を確認すると、向きを180度変えて走りだした。
「ミミナ王女を放すマル!」
マルルは鎖にかじりつくが、ショーテルの放った衝撃波で吹き飛ばされてしまった。
「さて、ファルシオン様からは、捕らえることが不可能な場合以外は殺さないように言われてるんだけど、どうしようかな?」
「あ、あなたにそれができるかしら?」
「あれ?随分と強気じゃない。もっと怖がってくれないと、面白くないよ。」
ショーテルは鎖を強く引いて、ミミナを地面に引き倒した。
「痛っ!」
「はははっ、上手に命乞いできたら、生きたままファルシオン様の所へ連れていってあげてもいいよ。」
ミミナは転倒で汚れた顔を上げて叫んだ。
「せりなーっ、助けてーっ!」
「今更呼んだって、すぐに来るわけが…」
しかし、せりなはすぐに現れた。
「ミミナ!大丈夫!?」
せりなは、鎖に手を取られて倒れているミミナを見つけると、ショーテルの方へ向き直った。
「またあなたなの?懲りないわねー。今度は本格的にお手当てしてあげるから。」
せりなはエンジェルキャップを取り出し、空に掲げた。
「裁きの力、癒しの心、今!」
せりなの体が光に包まれ、青い看護服が装着された。
「闇を貫く一条の光、その名は希望、ナースエンジェル!希望の光の名の元に!」
ナースエンジェルに変身したせりなに、ショーテルが挑発的に叫んだ。
「出たね、ナースエンジェル。今度はこの間のようにはいかないよ。」
「エンジェル・セット・アーーップ!」
せりなは右腕をかざし、エンジェルバックラーを装着した。
「またディメンションシールド?もう同じ手にはかからないよ!そらっ!」
ショーテルが怪光線を放つ。怪光線は空中で拡散し、せりなに襲い掛かる。一度に複数の怪光線をバックラーで受けることはできない。せりなはジャンプでかわしつつ、エンジェルライドルを取り出すと、着地と同時に左手に構えた。
「エンジェルブレード!」
ライドルから光が放たれ、剣の形になった。次々と襲い掛かる怪光線を、ミミナの方へ走りながらかわし、ミミナを縛りつける鎖を剣で断ち切った。
「避けないでちゃんと当たってよ、鬱陶しい!」
「勝手なこと言わないで!」
「なら、避けられないようにしてあげる!そらっ!」
ショーテルはせりなに向けて鎖を飛ばす。せりなは剣で鎖を断ち切ろうとしたが、剣ごと腕をからめ捕られてしまった。
「あうっ!」
「ははっ、これで逃げられないね。そらっ!」
ショーテルはせりなに向けて怪光線を放った。鎖で動きが制限されているせりなは避けられない。
「ディメンションシールド!」
せりなは落ち着いて怪光線をバックラーで受け、その怪光線はショーテルの背後に移動された。背後から怪光線を受けて、ショーテルは塀の上から落下した。結局、また同じ手にかかってしまったようだ。
せりなはさらに、鎖を左手で握り、エンジェルリングを鎖に接触させた。
「これはおまけよ。エンジェル・ナックルスパーク!」
エンジェルリングから放たれた衝撃が鎖を伝わり、ショーテルにさらにダメージを与えた。
ナックルスパークの衝撃で鎖がボロボロに崩れた直後、せりなは背後に気配を感じて振り返った。
「だれ!?」
せりなの背後に、いつの間にか小柄な男が立っていた。
「私は茨十字の戦士・エストック。同志ショーテル、やっぱり君には荷が重かったようだね。」
エストックはせりなに向けて、両方の腕を伸ばした。両手の拳に鈎爪を装着している。鈎爪の先端が、矢のように射出された。せりなは咄嗟に飛びすさり、体を反転させ、しゃがみ、ジャンプして、全ての鈎爪を避けた。
「きゃあっ!あ、危ないじゃない!」
「さすがナースエンジェル、全部避けるとは驚いたよ。では、これはどうかな!」
エストックの両手の手甲に新たな鈎爪が現れ、それらが矢のように射出された。鈎爪はせりなだけでなく、ミミナやマルル、倒れたまま起き上がれないショーテルの方へも飛んできた。もうお構いなしである。
せりなは剣をライドルの中へ消すと、再びライドルを構え直した。
「エンジェルスターッフ!」
ライドルから光が放たれ、4フィートほどの長さの棒に変化した。せりなは両手を使って棒を回転させた後、左手で体の後に棒を構え、右手を前に突き出した。
「せーの、えい!」
せりなは凄じい速さで棒を繰り出し、飛び交う鈎爪を次々と叩き落としていった。うち何本かはせりなをかすめ、切り裂かれた看護服の間から血が滲んでいたが、せりなは構わず棒を振り続けた。ミミナの方へは一本も行かせるものか、という気迫がそうさせていた。
棒で弾かれた鈎爪が、ショーテルをかすめた。
「何するのよ、エストック!」
「いつまでもそんな所で寝ている君が悪いよ。邪魔なんだ。」
言い放つと、エストックは再び手甲から鈎爪を出した。今度は射出せずに、鈎爪の付いた手を振り上げてせりなに飛びかかった。せりなは棒を両手で構えて鈎爪を受け、そのまま後へ倒れて、足でエストックを蹴り上げた。見事に巴投げを喰らってしまったエストックは、背中から地面に叩き付けられた。
「エンジェルボウガン!」
せりなは右腕を伸ばし、バックラーを弓の形に変形させた。
「キュアー・クリティカル・ウゥゥーンズ!」
弓に張られた光の弦に、左手のエンジェルリングから放たれた光がつがえられ、矢となってエストックに突き刺さった。
せりなは左手の親指を立て、それを下に向けた。
「お手当て、完了!」
エストックは”お手当て”できたが、ショーテルはいつの間にか姿を消していた。
ミミナは鞄の奥から、小さなペン状のものを取り出した。
「ヒーリングペンよ。以前はケースにつないで使っていたけど、改良されて、このペン単独で使えるようになったの。」
せりなの体の至るところに切り傷が出来ている。ミミナはその一つ一つに、丁寧にペンの先から放射される光を当てていった。傷がみるみるうちに塞がっていく。
「あれ、もう治っちゃった。ありがとう、ミミナ。」
「お礼を言うのは私の方よ。助けてくれてありがとう、せりな。」
治療が済むと、ミミナはせりなにペンを渡した。
「これはあなたが持っていて。戦闘能力だけじゃなくて、”癒し”もナースエンジェルの重要な能力なのよ。」
「癒しの能力?」
「うん、いずれはかる時が来るかもしれないわ。」
癒しの能力…このペンで物理的に癒すことが能力なのだろうか。せりなはヒーリングペンを見つめて、そんなことを考えていた。
「ママー、ただいまー。」
「お帰りなさい、せりなちゃん。あら、お友達?」
せりなは、ミミナとマルルを連れて帰宅した。部屋が敵に知られてしまった状態となっては、この二人をあの部屋に住み続けさせるのは危険だと思って、二人を家に連れてきた。都合上、マルルは元の妖精の姿になって、ミミナの腕で人形のふりをしている。
問題は、ミミナを家に居候させることを、どう親に承諾させるかだ。少なくとも、男の子が一緒だと、絶対に承諾されないだろうと思い、マルルに人形のふりをさせているのだった。
「あのね、ママ。ミミナを私の部屋に泊めてもいいかな?」
「あら、家にお泊まりするのね。いいけれど、お家の方には連絡したの?」
「え、えっと、それは…。」
ミミナは一歩進み出て、せりなの母、若葉の額に指を触れた。
「…ああ、従姉妹のミミナちゃんね。いいわよ。」
何故か、あっさりと承諾されてしまった。
部屋に入ると、さっそくせりなは質問した。
「ねえミミナ、今、ママに何をしたの?」
「私がせりなの従姉妹だって、偽の記憶を送りつけたの。」
「そんなことができるの?」
「何日かすると消えるけどね。昔、ショーテルがまだ真面目な親衛隊員だった頃に、彼女の得意技を少しだけ教えて貰ったのよ。だけどね、使ったのは今日が初めて。他の人の記憶を操るのって、あまりいい事じゃないと思うから…。」
ミミナの話を聞きながら、せりなは何か引っ掛かるような感じがしていた。自分も誰かに偽の記憶を送り込まれているような気がする。しかし、いくらなんでもそんなこと、気のせいだろう。そう思うことにした。
第2話:終