<納札の色について>

はじめは白札で参拝します。
 青  :  5回〜 7回
 赤  :  8回〜24回
 銀  : 25回〜49回
 金  : 50回〜99回
 錦  :100回以上
   
       白・青・赤・銀・金・札    錦 札 色 々  

        <おさめ札とは>
     初めての所へ訪問する時には、名刺を持って行く様にお寺参りには、
     おさめ札を持って参拝します。 おさめ札には巡拝の回数によって、
     上記の様に色が変わります。

      <参拝について>
      ★霊場へ着けば、本堂へ行き、階段を左から上がって納札を納め賽銭をあげ、
     灯明や線香を供えて右から下りる。(仏法では右廻りを重んじている)階段の下で

     開経偈、懺悔文、般若心経、ご本尊真言、光明真言、大師宝号、廻向を唱える
     ★次に大師堂では、「ご本尊の真言」をはぶいて、同じ様にお経をとなえます。
     ※参拝については、お参りする方の時間の都合等によって、色々とお経のあげ方
     は違うのであまり気にせずに!!

     
はじめてお参りする方は
     大師宝号
!南無大師遍照金剛〜南無大師遍照金剛!と、唱えて拝むのもよい
     がせめて「般若心経」だけでも、覚えてお参りすれば、心が洗われる様な気が
     しま〜す。 さあ・・・般若心経に挑戦しませんか!!


    <南無大師遍照金剛>

      「遍照金剛」とは弘法大師が唐の国へ留学した時に、恵果和尚からいただいた称号
     で「南無」とは、「あゝ」と感嘆する言葉であって、それをつずければ、(あゝありが
     たや弘法大師様)という意味になる。 よって、これを唱えることは、すなわちお大師
     さまに、おすがりすることになる。お遍路はこれを唱えながら札所を巡わるのである。

     <札所と宗派>

     四国霊場は全部真言宗と思っている人が多いが、15番「国分寺は曹洞宗」(1)
     43番「明石寺」 76番「金倉寺」 82番「根香寺」 87番「長尾寺』 天台宗」(4)
     11番「藤井寺」 33番「雪蹊寺」 臨済宗(2) 78番「郷照寺」 時宗(1)などである。

     <お接待について>
     お四国参りには「お接待」という風習があり、今も多くの人達が続けている。
     のどが渇いただろうと、お茶や果物等を食堂ではおかずの一品を振る舞う人等
     時には旅費の足しにと心付けをする人など、無償の行為に多くさんのお遍路
     さんは心を打たれるという。
     お接待をうけたら「納め札」をお礼に差し上げるように!

     <衛門三郎と弘法大師>

     お四国参りの先覚者!!衛門三郎の悲話物語

     四国霊場は弘法大師が42才の厄年に四国を巡り各地の霊場を定められたと言う。
     そして弘法大師が51才の時ふみ開かれた四国霊場を阿波から土佐へとめぐり
     三坂峠をおりて、46番浄瑠璃寺47番八坂寺のあたりを訪ねていると、一人の
     子供が御大師様に目をあわされて合掌しながら会釈をされるのでした。
     顔たちのととのった気品にみちた子供でありました。 御大師様が会釈を返され
     ると、子供は御大師様の心を見すかした様な事を申されるのでした。
     お上人様あなたは人々にとって何よりの修行の場として四国霊場を開かれまし
     た事は誠に素晴らしい事で御座います。しかしせっかくのこの道も、めぐる人が
     無くては何にも、なるものでは御座いますまい。考えふかそうな言葉に、うなず
     かれますと子供は四国の霊場を巡ってよかったと大勢の人がお参りになる様に
     色々とお計らいに成って居るとは思いますが、それには、まずこの地に
     「
伊予の国荏原郷」に強欲非道な衛門三郎と申す庄屋が御座います。

まったく、てんびん、じゃけんを絵に書い
た様な人で物で御座います。その人物
を、お導きされて、四国霊場の道をたど
る様にお導きされる様にと申すと子供は
軽く会釈をされて立ち去って行ったので
あります。外はもう夜でした。でも月明か
りに歩いて行くと、こうみょう作りでの小
さなお堂に行き当たりました。今夜はこ
のお堂で休ませて、もらおうと思い中に
入って一瞬はっとしました。そこに祀られ
て居るごもんじゅ様は今日昼間見た子
供の顔にそっくりだったからで御座いま
す。御大師様は心よりだっきょし、ご本
尊 様お伝え申しました。 今日子供の
姿に変えられてのお言葉のほど、きもに
めいじて居ます。衛門三郎の事もよくよく
聞かされました。 天平地異の不幸がこ
の地に無くなります様。それと人が人に
よって、不幸にされる事ほど悲しい事は


     御座いません。明日は必ず衛門三郎を訪ねて参ります。
     と誓うのでした。 翌日弘法大師は托鉢僧として大きな屋敷の衛門三郎宅
     へ訪れたのでした。 ホ〜。ホ〜。ほ〜。と托鉢の声を唱えるとちらっと顔
     をのぞかせた衛門三郎に、衛門三郎殿人と申すのは、お互いに悲しい者
     力の有る者は力無き者に力を貸し、智恵の有る者は智恵を貸し財の有る
     者はほどこしてこそ、世は成り立つもの。 どうか私を通じて貧しい者に
     ほどこしを。 とその声を聞くなり、かかっと出てきた衛門三郎は通り去れ〜
     通り去れ〜と大声で叫ぶなり、ぴしゃっと戸を閉めてしまう有様。
     御大師様はその日七度訪れました。強欲で何度も訪れる弘法大師を追っ払
     おうとして大師の鉄鉢を八つに割ってしまったのでした。
     御大師様は衛門三郎に、きっと私に会いたい時がくるだろう。その時は
     私がたどる四国霊場を巡るがよい。と言ってお大師様は去って行ったの
     でした。 すると翌日から上の子供が川に落ちて死に、その弔いの最中に
     子供がお腹が痛いと言って死に次々と八人の子供が急死。 前非を悔い
     た衛門三郎は八人の子供の為にと貯えた8つの藏を村人達に分け与えて
     「これはきっとあの僧にひどい仕打ちをしたからに違いない。非と悔い詫びは
     無ければ」と弘法大師を求めて四国遍路の旅に出たのでした。
 
    (これが四国遍路の始まりだという説だ)

奥様は出家して尼さんになり
8人の子供の成仏を祈り、
そして四国遍路に行った衛門
三郎の健康を祈って居ました
「今でも八人の子供を葬った
塚として第47番八坂寺の
近くに有る。」

弘法大師も高野山等へ行って
いたりして、簡単には会えず
10番切幡寺まで来たが未だ
さがす弘法大師に会えず
逆打ちをすれば弘法大師に
会えるのではないかと思い
第88番大窪寺へと行き
     衛門三郎石碑(12番 焼山寺の麓に有る)

     逆打ちを始めるのでした。故郷第47番八坂寺の近くに来た時、尼さんに成
     って居た奥様の葬にあい、合掌し自分の非を詫びて奥様の冥福を祈るの
     でした。そして第12番焼山寺の麓(焼山寺より約2,8キロ下)現在衛門
     三郎の庵の所で探す僧弘法大師にめぐり逢えるのでした。だが衛門三郎
     には死期が近づいて居ました。弘法大師は衛門三郎を許し
     !三郎殿来世の願いをうけたまわりましょう。!と言うと、三郎はどうか
     笑わずに聞いて下さいませ。!来世は国司の子として生まれ思いやりの
     ある祭事をしたいと思います。!っと言われました。その再期の望みに
     応えて「衛門三郎再来」と記して手に握らせた。衛門三郎はお大師様に
     しっかりと握りしめられながら、この世の事を成し遂げられたのでした。
     まもなく伊予領主・河野息利に指を握りしめた子供が誕生。家中は言う
     におよばず国中をあげて喜び祝った事ですがどうしても左手を開かず
     安養寺の僧の祈祷で指を開き衛門三郎が臨終の時に大師から授けられ
     た1寸8分の小石を左手に握っていた。そして衛門三郎の再来と分かる。
     「この事にちなんで安養寺を四国霊場第51番石手寺と改号した。
     国司の子として生まれた衛門三郎は思いやりのある祭事をして、家中や
     領民等に大変尊敬され、喜ばれたと言う。

     ●文珠院は衛門三郎の菩提寺で三郎の屋敷後に建てられたもの。
     ※衛門三郎は順打ちを20回したが弘法大師にお会い出来ず21回目は
      逆打ちしてお会い出来たので、逆打ちをされる方も多く見られる。

     順打ちも逆打ちも1回の巡拝は同じ1回の巡拝で有る
        < 般 若 心 経 >