4_メデイアの法制


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放送法をふくめ、日本のあらゆる法律は憲法の前文にある「平和を念願する日本国民と平和の維持に努める国際社会」の創造に連帯する方向性を持たねぱならない。その究極的目標は条文的保障として、憲法第十一条の基本的人権、十二条と13条の公共の福祉、14条の法の下での平等、19条の思想および良心の自由、21条の表現の自由と検閲の禁止、などにおいて直接記述されている。同時に、それに対応する放送のあり方とその実施、および放送事業者の義務等についても、放送法、電波法とその関連法規、および民放連の放送基準、等によって定められている。NHKの場合はさらに『番組基準ハンドブック』などを自主的につくっている。

これらの規定や基準はほぽ全世界の先進資本主義諸国の放送の社会的位置づけには共通したものである。たとえばドイツにおいては最近、「歴史修正主義」とよばれるネオナチズムの信奉者たちがとみにふえ、ユダヤ人虐殺はなかったなどと主張する運動を大規模に展開しようとしている。が、この論理によって、そのような趣旨の番組をスポンサーしてつくろうとしても、番組が全体としてそのような主張であればその放映は許されないし、それと同趣旨の本を発行しようとしても法律で発禁処分とされるわけである。つまり、近代社会においての放送には、市民が上記目的遂行のためのより正しい判断をくだせるような資料=情報の提供という立場、つまり「ウオッチドッグ」(権力や社会悪にたいする監視者)であるべきジャーナリズムとしてのみ、放送事業者への「報道の自由の権利」と、「市民の知る権利への奉仕」という概念が導きだされてきたのである。

こうした歴史と背景が「放送法」(1950年制定)の立法理由を説明する。だからこの放送法第1条は「放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする」とし、その第二項で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによる表現の自由の確保」、「放送が健全な民主主義の発達に資すること」などとうたうことになる。そしてこれらの規定は、上述した@憲法上の歴史的精神という角度から、A公権力が保障すべきもの、と解釈するのが妥当である。

NHKだけではなく、民放の場合もこの放送法によって規制を受ける。民放の放送番組の場合は、さらにこの放送法に関連した電波法にしたがって免許を受けた日本のすべての民間放送(94年4月現在121社)が加盟する日本民間放送連盟が、放送法第3条の3の視定「放送事業者は、放送番組の種別及び放送の対象とする者に応じて放送番組の基準を定め、これに従って放送番組の編集をしなけれぱならない」に準拠して自主制定する「放送基準」(ラジオは195l年制定、テレビは58年制定。70年よりラジオ・テレビ放送基準を統合、以後改正をしながら現在に至る)に「道徳的」にしぱられるだけではなく「法的」にも拘束される。

つまり、民放事業者といえども上は日本国憲法から、それに準拠した「放送法」、そしてこの放送法の規定を番組送出の基準としてより具体化した民放連の「放送基準」にいたるまでのさまざまな法制にしたがわねぱならないか、民放連による各種自主制定規定を遵守する慣行になっている。さらには各局が番組審議会や独自の編集・倫理綱領をもっているのがふつうである。ここで肝心なのは、これらの諸法規・組織のすべてが憲法にいう平和な社会建設への姿勢に裏打ちされ、放送法にいう「健全な民主主義の発達に資する」という目的によって放送を位置づけているということである。

しかるに、これらの関連諸法規からいって、一方で本件における「バイバイCM」を(株)瀬戸内海放送が民放連の「放送基準」に抵触するという理由をもって放映中止し、もう一方で四国電力、中国電力などの、明白な原発肯定・推進CMを継続して放映していることは憲法14条の「法の下での平等」、放送事業の公益性と公共性、放送法にいう「健全な民主主義の発達に資する」、つまり「健全な民主社会の建設に貢献する」行為であるとはとてもいえないのである。

それどころか、(株)瀬戸内海放送による「バイバイCM」放映中止措置は、放送法第3条の二、にいう「政治的に公平であること・・・および、意見が対立している問題についてできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という規定、ならびにそれに関連する民放連放送基準第46項にいう「社会・公共の問題で意見が対立しているものについては、できるだけ多くの角度から論じなければならない」という規定に違反する疑いが濃いといえよう。

放送法の第三条は放送番組編集の自由としてつぎのように定めている。 「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも千渉され、又は規律されることがない」

はたして今回の中止措置について電力業界やそれを後押しする日本の政治権力による背後からの千渉はなかったのであろうか。直接的干渉がたとえなかったとしても、第十節でふれるように、私には放送局がそれらの意向を先取りし「自主規制」に動いたことは十分あり得ると思われる。

もう一つの問題はこの第三条の第二項でいう「表現の自由の確保」である。 「泥棒は悪いことだ」式に社会的には何が善で何が悪であるかを単純に区分けできる場合には、公序良俗に反する「泥棒はいいことだ」という意の言説をマスメディアが表現の自由として放送することは許されない。このことは先にのべたドイツにおける歴史修正主義者たちの本の発禁や放送の禁止の例からも自明である。また、純科学的・社会的に明白な結論の出ている問題は別にして、原子力発電の実態とその是非のように政治的経済的思惑で情報操作がおこなわれているために、一般の国民・市民にはその実相がつかみにくくなっている場合には、放送事業者はメディアの社会的責任として、少なくともその両者の立場を公平につたえる義務があるだろう。

原子力発電については、私などの集めうる、そして知りうる資料、あるいはこの件を調べている信頼できる友人たちからの教示による判断では、現在の日本の電力会社の広告、広報、ならびにそれと一体となった通産省資源エネルギー庁などによる情報提供とその内容には、第八節でふれるように、「嘘」や意図的なミスリーディング(誤導)があまりにも多い。そうした社会的構図にささえられるかたちで、原発推進側の姿勢と世論操作のための宣伝・広告だけを自己の企業利益と権力へのおもねりから放送事業者たちは許可し、CMのかたちで放映しているわけである。

その反面で、それとは若干趣旨を異にするけれども改善されるべき人間社会の方向性と、原発に関する世界的撤廃傾向に準拠する、つまり現行日本国憲法の精神とその放送関連法規に忠実な内容をより多くふくむ、(有)ちろりん村提供のCMが視制されることは、情報と放送事業の「真実及び自律」からいっても、国民個人・放送事業主体の原理としての「表現の自由」と「報道の自由」、「言論の自由」および「市民への奉仕の精神」からいっても、放送の公益性と政治的「不偏不党性」からいっても、私たちが許してはならないことなのである。

つぎに今回の(株)瀬戸内海放送による放映継続拒否の根拠とされた民放連の「放送基準」をさらにくわしくみてみよう。

放送基準(93年版)は前文でつぎのようにのべる。「民間放送は、公共の福祉、文化の向上、産業と経済の繁栄に役立ち、平和な社会の実現に寄与することを使命とする。われわれは、この自覚に基づき、民主主義の精神にしたがい、基本的人権と世論を尊び、言論および表現の自由をまもり、法と秩序を尊重して社会の信頼にこたえる」

また「放送にあたっては@正確で迅速な報道・・・D節度をまもり、真実を伝える広告」などを重視するとのべる。

これらの前文諸規定からも(有)ちろリん村の「パイバイCM」の放映中止措置は出てきようがないし、そのCMが本質的にも他とのパランスにおいても、このDにいう「節度を守リ、真実を伝える広告」ではないということはできない。

(株)瀬戸内海放送が今回その放映拒否の最終的な論拠にした放送法第三条の二の@の四、は「意見の対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」とする。また、この直前の条項には「放送は事実をまげないですること」とある。そして「バイバイCM」が直接抵触するとされた「放送基準」の第46項には「社会・公共の問題で意見が対立しているものについては、できるだけ多くの角度から論じなけれぱならない」とあることは先にのべたとおりである。

以上のことから容易に理解できるのは、電力会社がその膨大な資本力によって日々これまた膨大な量の原発肯定の偏った広告を各種マスメディアによって流しているとき、(有)ちろりん村の(株)瀬戸内海放送による、月わずか六回の「バイバイCM」のスポットコマーシヤルなどが禁止される合理的いわれはまったくないということである。こうした条項をふつうに読めば、それら関連法規にそれこそ逆に「抵触する」行為をなぜ(株)瀬戸内海放送がとってしまうのか。その社会的背景にこそ現代日本のジャーナリズムのより大きなあやうさがあるといわざるを得ない。つまり、(株)瀬戸内海放送は原子力発電そのものを科学的・社会的「真実」を追究する姿勢で研究し、放送基準の第45項にいう「人心に動揺や不安を与えるおそれのある内容のものは慎重に取り扱う」という規定を準用して、各電力会社の原発肯定CMの放映のほうにこそより慎垂であらねばならないのだ。

また、かりにそれほど踏み込まないとしても、放送基準はその一四章「広告の取り扱い」の九二項でつぎのように定める。「番組およびスポットの提供については、公正な自由競争に反する独占的利用は認めない」これは(有)ちろりん村のCM放映中止の不当性を民放連自身が直接的に確認している規定だといえよう。

加えて、電力会社はそれぞれ地域独占を保障された、一般企業とは違う形態の企業(=公益事業)であり、そうした特殊な企業体があまりにも問題の多い原子力発電を一方的に肯定、推進することにこそ社会的不公正がある。このことこそ、不偏不党の立場からいっても、報道機関の「知らせる義務」、国民の「表現の自由の保障」、憲法の規定する「国民の法の下における平等」からいってもトータルに再考を要すべきことなのである。


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