私は原子物理学者ではないが、その方面の専門家である友人を何人か持っている。しかし、それらの学者の説明をきくまでもなく、原子力発電の原理そのものは簡単である。反面、それは発電の構造を細部にわたってすべてひとりで設計したり、物理的・材質的な安全論を具体的にひとりで組み立てることはほとんど不可能であるほど複雑なものである。つまり、それはふつうのおとなであれば、原発推進のコマーシャルに登場するテレビタレントの山田邦子氏や竹村健一氏などをふくめ、この日本の、否、世界のだれもがその原理を理解することができるほどのものにすぎない。が同時に、そのすべての過程を物理的具体的にあますところなく正確にひとりで把握することはできないしろものだということである。だから、この原子力発電の安全性に関連する討論会などでよく政府や電力事業界が「用意した」と称するレベルでの専門家などどこにもいないといってよい。反面、原発は適切な関係文献を読みさえすれば私などにも十分それらの「自称・他称の専門家」たちにならんで発言できる対象であるということなのである。
しかし、そうはいっても私などが論陣をはるまでもなく、数あるすぐれた報告の中でも以下の二点の論稿をあげるだけで原発をめぐる社会的欺マンと危険性は「科学的」に明らかになるであろう。
広瀬隆『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』(八月書館、87年刊)
田中三彦『原発はなぜ危険か 元設計技師の証言』(岩波書店、90年刊)
前者は、いまや日本の原発がじっさいどのような形で建設され稼動しているかについて日本政府や電力業界がマスメディアをつかってどのように虚偽情報をながしていくかを論じ、説得的である。後者は、かつて日立製作所の製造現場で原子炉の法定以上の歪みが発見されたとき、日立がジャッキなどを使っていかにいい加減にそれを補正したか、そしてまやかしのレポートを出したかを、それに関係した現場の技術者として報告したものである。
また、もっとも最近では、福島原発市民事故調査委員会の山崎久隆『隠された原発大事故−福島第一原発2号・1981年5月12日』(『世界』92年9月号)が原発の空焚きを防ぐための緊急炉心冷却装置(ECCS)の作動つまり重大事故の前兆−の事実を通産省資源エネルギー庁や電力会社(この場合は東京電力)が組んでどのように事故隠し、つまり情報隠匿による国民・市民だましをやってきたかを、克明かつ客観的に説明してくれている。
これらをふつうのひとがふつうに読めぱ、原発が原子爆弾の爆発と同じ原理で熱を出し、その熱を冷却させる水が熱をうばう過程で沸騰し蒸気化、そこでできた蒸気が発電タービンを回して電気がつくられるという仕組みを持っていること、つまりそれが、@燃科であるウラン鉱の採掘の時点で労働者のガンの危険を確実に誘発し、発電をはじめてからも、A原発労働者たちの日常的被曝、B放射能漏れの危険、C高熱の水蒸気の冷却装置の破損等による炉心溶融や水蒸気爆発などの危険、Dそれらの危険性だけではなく、じっさいの事故も電力事業者の利益のために国民から隠されてきているという事実、等数えあげればきりのないほど物理的社会的に「危ない装置」であることがはっきりしてくる。
なぜそう断定せざるを得ないのか。いうまでもなくその最大で唯一の理由は、日本の原子力行政が「民主・自主・公開」という原子力三原則とオープンなかたちでの国際協力を守ってこなかった、とりわけ原子力平和利用の情報さえ国民・市民に開放してこなかったからである。
このことについて、元科学技術庁原子力局職員、ついで住友電気工業技師長として動力炉・核燃科開発事業団(動燃)に納める濃縮ウランの製造を指揮した、現近畿大学原子炉工学科教授の辻良夫氏はつぎのようにのべる。
「プルトニウムを燃料とする高速増殖炉内の核分裂物質は、増殖どころか減ってしまう可能性が大きい。この事実を科学技術庁も動燃も黙している」
さらに氏は世界の趨勢に逆行してプルトニウムを貯めこみ、高速増殖炉の実用化に向けてつきすすむ日本の現状をつぎのようにかたる。
「一発で大きな予算がつく事業に飛びつく。そして、いったんついた予算は増やすだけ。取り消すと、役人のコ券にかかわる。その時の幹部の責任問題にもなる。高連増殖炉の暴走は、役人のこのような硬直性にも原因がある」(『アエラ』92年10月13日号)
つまり、高速増殖炉をふくめて、日本の原子力専門家は、多かれ少なかれ官産学の連携体制に組み込まれ、発言も不自由だ。いったん官が方向を決めると、後戻りしにくい」(前掲同)のである。
これは原子力について特別の考えをもった学者の偏った見解ではない。日本原子力学会の「研究開発状況と今後の展望に関する調査班」(代表、柴田俊一・近畿大学教授)は、このほど会員への研究意識調査を大学や研究機関をとおしての配付方式でおこなった。この学会の会員には原子力の研究や利用の推進派が多いといわれているが、それでも回答した229人のうち、日本の研究開発体制について、94%もが「改めるべきだ」とこたえた。だれが改めるべきかについては、49%が「行政」をあげ、「研究者個人」は18%であった。
意見欄にも「研究者への技術情報の公開が必要」との提案があった。そこには原発事故の際、生のデータが電力会社から十分に公開されず、改善対策に直接かかわれないいらだちがあるようだ。柴田調査班長は「原子力は社会的に不安が強い分野なのに、学問・研究と現場が大きく離れている」という(93年10月16日付朝日新聞朝刊)。
日本の原子力研究の先端学者たちがそのような行政と電力事業者の秘密主義に悩んでいる一方で、電力会社やその連合体である電気事業連合会は莫大な予算をつかって、あらゆるメディアで原発推進の世論操作を繰りひろげている。たとえば『中央公論』93年11月号には、連合会提供で元通産省電子技術研究所・エネルギー部長の堀込孝氏(現東京農工大教授)と石井威望慶応大教授の対談を意見広告として掲載し「二十世紀と二十一世紀の大きな違いは、地球環境の問題を無視できないことです。そうなると、やはり核エネルギ−と再生可能エネルギーしかないんしやないでしようか。核エネルギーでは資源量が豊富で安全な高速増殖炉と核融合に期待しています・・・」(堀込氏)などと語らせている。しかし、面白いことにこのおなじ広告紙面に「大量の冷却水を必要とし、安全性にも配慮しなければならない原子力発電所は遠く離れた海岸線に立地する・・・」(堀込氏)との発言があり、深刻な事故がおこったときに被害者数がすくなくなるように原発の建設場所が行政と電力事業者たちによって決定されていること、つまり大規模事故がすでに原発建設前から当の建設者たちによって想定ずみであることが分かる。
これ以上例をあげないが、原発についてはマスメディアを金と権力で操作してじぶんに有利な情報を流させようとしても、そういう実態を完全に隠すことはできない。だから、原発銀座といわれ原子力発電所が日本でいちばん多い福井県民に朝日新聞が電話でおこなった、「県庁や電力会社などは、原子力発電の安全性について、十分に説明していると思いますか」という意識調査で、「説明している」との答えはわずか17%なのに、「説明していない」は61%もあったのである(93年9月18日付朝日新聞朝刊より)。
また、現代社会はマスメディアの存在によってはじめて成立し得るから、政府(関係部局)の見解とかなりの大きさの市民層との対立があるならば、両者の直接の話し合いの場にマスメディアの関係者の同席を認めるべきである。しかし、それらの市民団体が通産省や科学技術庁と交渉するとき、その場から新聞記者などは排除されてしまう(『マスコミ市民』92年11月号掲載の西尾漠氏の論文を参照)という現実がある。つまり、もともと原発は「社会的に意見が分裂し、どちらかに偏ってはいけない」などという問題などではなく、利益至上のために政界・財界・官界がつるんで国民だましをしてきた利権・金権装置の一具体例にすぎないのである。
これらの原発の危険性と企業としての電力会社による「安全論」のごまかしとその具体例は、先ごろ労災認定のされた元中部電力の原発従業員への電力会社からの対処等によっても明らかであろう。この元社員は中部電力の原発で働いていたことによって放射能による障害を受け、それが原因となって死亡した。家族によって訴えられたその事件は裁判所によって労働災害として認定されたのであるが、中部電力はあろうことか、当該労働者があびた放射能は基準値以下であったと主張したのであった。
このことは、@公的機関でさえ、もはや現在の原発の運転とその労働環境が科学的にも決して万全ではないと認定せざるを得なくなった。A電力事業者が政界官界とつるんで利益至上主義のみに基づいて、労働者の健康を無視して安全ではないという事実を表している。
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