でんきを消して、スローな夜を
ちろりん村は100万人のキャンドルナイトに賛同しています
スローフードでスローライフな夜をお楽しみ下さい
初めての方はトップページからお入り下さい。
このページは、 社長の作業日誌(笑)
2004.7.30 16:49(金)晴れ?℃
やっと繋がった!10年程前(15年ほどになるかもしれない)から北海道の山道アイヌ語学校(沙流川を守る会)の山道康子(アシリ・レラ)さんから毎月(時々は休み)ガリ版刷りの通信が送られてきていた。今回はスーパーのチラシで作られた手作り封筒だった。今までの私なら封も開けずに捨てたかもしれない が、今朝は妙な気分で、どこか静かな海岸はないものだろうかと屋島の先、長崎の鼻へ初めて行ってみた。そこは僅かに観光客や地元の人達が出入りするのだろう海岸の清掃はどうにかされている(たぶんボランティアがゴミを拾い集めているのだろうが無駄なことというより環境破壊を進める手助けをしていると私は思っている、遊んだり生活していない場所のゴミ拾いは有害である)。数10分に数名が降りてきては去って行き木陰もなければ風情もなくおまけにトイレもない、少し藪に入ると野糞が見苦しい。紙は今どき仕方ないとしても下着やタオルは見るに忍びない、海岸なんだから洗って持って帰れよ!てめえの尻を拭いたパンツだろ・・・それにしても暑かった、帰ろうと思い駐車場まで戻り、ふと観光案内板を見ると長崎の鼻の東側に港があるではないか。一旦県道まで戻り東へ百メートル行けば左に海岸へ降りる二本の狭い道があった。車を県道の路肩に寄せ、まず降りやすい東側の道を徒歩で下りたが途中で道が急に細くなり途絶えていた、というより歩く人が滅多にいないのか踏み分け道に茅や笹が覆い被さって進めない。あきらめてもう一本の細い道を下ると道半ばで「私道につき車の進入禁止」の立て札だ。徒歩なのでかまわず下りていくと民家が一軒あり、おじいさんと娘だとおもわれる二人がパン焼き釜か炭焼き釜か、はたまた焼却炉か不明だがレンガを運んで作っていた。「こんにちは!」と声をかけると不審そうな顔、さもありなん、私は半ズボン・黒いTシャツ、頭はテニーポールでフセイン髭、おまけに左手にはTakeo Kikuchiの黒鞄(笑)「港へ行きたいのですが?」「???」「観光案内板に載ってますよ」「そ、そんなら今回だけはうちのトイレの横から藪へ入って急な坂道を下りたら行ける」たぶん細いとはいえ公道なのだろうが自分の土地として使用するのだろうなあ・・・よくある話だが・・・と思いつつヒト一人が何とか通れる藪坂道(結構よくできてるんですよ)を滑り落ちないよう竹や笹を握り最後の笹藪を左右に押し開くと明るい砂浜へ出た。振り返ると今下りてきた道は見えなくなっていた。ほんと!これがプライベートビーチってやつか。100メートルもない小さな砂浜で左右に同じく小さな突堤が二本つきだしている。たしかに昔は港だったかも・・・砂浜の東には不似合いなぐらい大きな倉庫があり中に古い木造船が放置されて、漁網か筏の浮きなのか小錦ぐらいある発泡スチロールに廃油がこびりつき無造作にやはり転がっている。沖には養殖筏が浮かんでいるが使われているのかどうかは分からない。もちろん辺り一面はゴミだらけで、それはまだいい、片付ければいいのだから、それよりも生活臭がない、人の気配がしない、工場ですらない、まるで見捨てられた墓場のよう・・・人間とはなんとおぞましいものだと滅入って帰ってきて話は初めに戻るのだ。封を開け山道康子さんの通信を読んだ。アシリ・レラってなんだ?山道アイヌ語学校ってなんだ?グーグルで検索したら田口ランディのコラムが出た、皆さんも是非一読してください。★★田口ランディのコラムマガジン★★1999.11.29
--------------------------------------------------------------------------
「アイヌのシャーマンに教えられたこと」
--------------------------------------------------------------------------
「北海道にアイヌのシャーマンに会いに行くんだよ」と私が言うと、友人達は(またか?)って顔をした。「あんたは本当に今年はよく神様関係に会いに行くわねえ!」と呆れつつ感心された。「いっそのこと神様系ライターってことで売りだせばいいじゃん」と笑われた。
そんな怪しい者になりたいわけじゃない。だけど、とにかく今年は神様に縁がある年なのだ。もう諦めるしかない。ちっとも飯の種にはならないけれど、なんだか気がつくと旅をしている。
そして今回も私は苫小牧のバス亭で、小雨の中、バスを待っていた。千歳空港からバスを乗り継いで二風谷と呼ばれるアイヌ・コタンへ行ためだ。そこに、山道康子、アイヌ名アシリ・レラという女性を訪ねるのが今回の旅の目的だった。
アシリ・レラという人を全く知らなかった。それどころか私アイヌについてもよく知らない。もちろん迫害を受けて来た日本の少数民族であることは知識として知っているけど、それ以上の事を何も知らない。
知らないというのも力だ、と思い、出かける前もあまり勉強してこなかった。付け焼き刃の知識を詰め込むよりも、まっさらな目でアイヌという人々を見た方がいい。よけいな既成概念があるとかえって感覚が濁る。
謙虚に聞け、あるがままを受け止めろ。自分にそう言い聞かせて来た。知ったかぶりすんなよ、と。だから旅の前に私が読んだのはアイヌに関する本1冊のみだった。
富川というバス停で降りたら、そばのダイエーの中で風をしのいて待っていろと言われた。言われた通りにダイエーの中で待っていると、しばらくして 太った背の低い女性がやって来た。アイヌっぽい刺繍の入った袢纏とヘアバンドをしている。
この人がアシリ・レラさんだと直感した。向こうも私の顔を見るとすぐに「あんた若いわねえ、もっとオバさんが来るとばっかり思ってたわよ」と言ってがっはっはと笑う。それから昔からの知りあいみたいに「買い物してくからつきあってよね〜」と言われた。
私だってシャーマンと言うから70歳くらいの老婆だと思っていたのに、とんでもない。アシリ・レラさんは50代前半の女性で溌剌としてパワフルだ。
その迫力、しゃべり方、声が、代議士の田中真紀子さんに似ている。早口で洒落を連発し、機転が利き、シャーマンというより女社長みたいだ。(どこがシャーマンなんだよ〜)と私は心の中で叫んだ。これが私とアシリ・レラさんの最初の出会いだった。
■アシリ・レラという人
アシリ・レラさんについて語ると、本一冊でも足りない。とても短いコラムに彼女の人生を凝縮することはできない。こういう時いつもメルマガの限界を感じてしまうなあ。
ごくごくかいつまんで説明すると、彼女は二風谷で「山道アイヌ語学校」という学校を作り、事情があって親と暮らせない子供たちを引き取り、自分の養子にし、育て、共同生活をしている。これについては誤解を招くのを避けるために、別の機会に詳しく書きたいと思う。
二風谷は普通の民家が立ち並ぶ一見なんの変哲もない町である。でも、山の麓の彼女の土地だけは別だ。一歩踏み込むと、いくつのもチセと呼ばれる藁葺きの小屋が立ち、その中には囲炉裏が掘られ「イウナ」というアイヌの神が飾られ、昔ながらのアイヌの生活が受け継がれている。
まるで映画のセットみたいに、山道アイヌ語学校のまわりだけが昔ながらのアイヌ・コタンそのものの風情を残している。囲炉裏に燃える薪、干したシャケの頭、薬草のヤカン、むっくり。
「私が民族運動に目覚めたのは15歳の頃だったなあ。学校の先生がね、歴史の授業が終わった時に、最後に一言こう言ったのよ。この歴史はウソだからなって。それは私たちアイヌの子供たちへの思いやりだったと思うのね」
「だって、日本には昔から大和民族しかいなかったみたいな歴史を教えるじゃない。だけど、そうじゃない、アイヌがいたんだってこと、先生はわかってるわけよ。それで、授業の終りにぼそりと言ったの。この歴史はウソだから な、って。私、あの言葉を忘れない。本当にそれを聞いた時に嬉しかった。あの一言があったから、今日までアイヌ文化を、アイヌ民族を守るために運動し て来れたんだと思う。先生のあの一言に力づけられてね」
早くに結婚し子供をもつが、ご主人を事故で亡くす。それから28歳の時に二風谷で土産物屋を始める。店は繁盛し人を使って商売し裕福な暮しもできるようになる。
「でも、その頃から、お金が入れば入るほど、自分のアイヌとしての生き方を見失っていくようで怖くなってしまったの。このまま、お金を儲けたら、どんどん物を大切にしなくなって、自然への感謝を忘れて、自分はアイヌじゃなくなっちゃうって思った」
そして、アシリ・レラさんは10年も続けて繁盛していた土産物屋を突然に 閉めてしまう。
「バカだと思うよ。自分でも。わざわざ貧乏になってさ。でもね、このまま続けていたら自分ではなくなってしまう、と思ったのさ」「それから農家の手伝いをして暮らしたよ。もう、子供たちにもいきなり貧乏させてねえ。おやつもお菓子なんか一切食べなくなった。野菜や木の実、山菜が主食ね。畑を借りて自分で野菜を作りながら暮し始めて、そんで、貧乏のまま、今に至るわけよ」
山道アイヌ語学校を始めたのは8年ほど前。ある民族運動の集会で大阪に行った時のこと。大阪で在日韓国人の中学生が同級生のイジメにあって、彼女が滞在する会場の近くで飛び降り自殺をした。
「そのときへ、死んだ子の気持ちも、苛めた子の気持ちも、その思いが両方とも私のなかに入って来たの。その瞬間、ああ、子供たちをなんとかしなくちゃいけないって思った。子供たちにアイヌの文化を伝えながら生きる術を教える学校を作ろう、って突然思いついたのね」
彼女の家に滞在していると、毎日、毎日とっかえひっかえ誰かが相談事にやってくる。遺産相続問題から、嫁舅問題まで。時としてアシリ・レラさんは、法律知識のない老人に代わって裁判の代理人も務め、弁護士を相手に法廷で闘う。
そうかと思うと、日照りが続くと雨乞いの祈祷をして雨を降らせたりする。大地を浄霊し、迷える魂を神の国に送る儀式をする。
どう表現すればいいのだろう、とても現実的なシャーマン。弁護士みたいなシャーマン、中小企業の社長みたいなシャーマン、女闘士みたいなシャーマン。レラさんはそういう人なのである。
■原発予定地とサンクチュアリ
「ねえ、苫小牧に偵察に行くからいっしょに行かない」と、ある日レラさんが言う。「偵察?」「そう。今、苫小牧の東にとてつもない原発と核燃料再処理工場を作る計画が進んでるんだよ。そこは昔、アイヌが住んでいたサンクチュアリなんだ」
車に便乗して話を聞きながら苫小牧に向う。「田口さんも見たと思うけど、二風谷に二風谷ダムってのが出来てただろう?あれって、何のために出来たダムだと思う?」そういえば、真新しいダムが沙流川にでき上がっていた。
「あのダムはね、将来、苫小牧に原発と再処理工場が出来た時のための冷却水を確保する目的で作られたんだ。苫小牧にはね、イギリスやフランスと共同で使う六ケ所村よりも大規模の核燃料再処理工場が作られる計画が進んでいる。いま、4つの団体が共同で反対運動を進めていて、アイヌもそれに加わってるんだ」
そう説明するアシリ・レラさんは、勇猛な古代の女闘士のように見えた。
レラさんが案内してくれたのは苫小牧郊外の広大な湿地帯で、とても案内なしに踏み込むことは不可能なほどバカ広い。そこに、すでに監視塔や、いくつかの研究所が建設されて、アシリ・レラさんたちは秘密裏に事業計画が進行しなかどうかを定期的に偵察しているのだと言う。
「海水で冷やすとサビが来やすい。だから、川の水をここまで引いて来て冷却しようという計画なんだ。近隣の川を巻き込んでの大規模な事業計画が勝手に進んでいる」
「ずっとずっと昔、この広大な湿地にもアイヌが住んでいた。川べり一帯にアイヌは暮し、そしてこの豊かな自然に生かされていた。自然が豊かだったから、アイヌは農耕をする必要もなく、富を蓄える必要もなかったんだ」
「ところが、ここにも侵略の手が入って多くのアイヌが殺された。大規模な殺戮が起こって、殺したアイヌの遺体をこの奥にある弁天沼と呼ばれる沼に放り投げた。だからこの辺りはアイヌのサンクチュアリなんだよ」
車が弁天沼に向って鬱蒼とした木立を走っていく。話が話だけに聞いているだけで気分が重苦しくなってくる。
「弁天沼のあたりにも原発が一基作られる計画なんだけど、もし、あの沼にそんなものが出来たら、沼に鎮められた魂がどんなに嘆き怒るかと思うと恐ろしい。だってね、あの弁天沼は、あまりにも死者の魂が浄化されずに残っているので、弁天様が三日三晩祈祷してボロボロになって出てきた……と言うんで弁天沼って名づけられ場所なんだよ」
怖い話に弱い私は、もうなんだか背筋がゾクゾクしてくる。とはいえ、もちろん、霊能力など皆無の私には何も感じないのだが。
■人間の義務は祈ること
車が弁天沼に着くと、アシリ・レラさんが沼を指さして言った。「ここはね、写真を撮ると、誰が撮っても絶対に水面に顔が写るほど怨念の強い場所なんだ。私が霊視すると、バラバラに切り刻まれて捨てられる様子が見える。あんたも写真撮ってごらん、写るから」
そんなものを撮ってしまったら始末に困るので、私はカメラすら向けなかったけど、確かにこの沼を撮った写真には顔がたくさん写っていた。子供とか、老人とか、いろんな顔が。
レラさんは子供の頃から霊視の能力があり、30代で火事のため大火傷を負い生死の境をさ迷ってからはさらに霊力が強まってしまったと言う。彼女は大地を鎮め、魂を神のもとに送る力を持っているらしい。それは、アイヌなら誰でもかつては使えた力だとレラさんは言う。
「私たちアイヌは神と魂の存在を信じていたからね。すべての生き物に魂があり神が宿っている。それを信じること、一点の疑いも持たず信じること、それが力なんだよ」と彼女は言った。
「歴史の中で繰り返し繰り返し大地を汚し、そして魂も送らずに放置し、再び原発など作ったらどうなるか。そこまで大地を汚してよいものか」
レラさんはそう言って手を合わせ、祈った。鳥が一斉に飛び立った。
アシリ・レラさんと沼の前で手を合わせて、苫小牧の事業開発予定地を後にしてから、私たちは「静川縄文遺跡」へと向った。「縄文人はアイヌの先祖だからね」とレラさんは言う。
この静川のほとりにある縄文遺跡は、不思議な円環の丘陵に囲まれていた。この地にかつて確かに人が暮らしていた、そのなごやかな雰囲気が今も残っているような気持ちのよい場所だった。
「この円形の丘陵が何の目的で作られたのかわからないのだけどね、でも丘に 登ってみてごらん、本当に気持ちのよい場所だから」
言われた通りに丘の上に登ると、冬の午後の陽射しで北海道の大地はまばゆく輝いている。空気がき〜んと澄んでいて、空の彼方から気流の鳴る音が聞こえてきそうな気がした。
「なんて気持ちのよい場所なんでしょう」と私が言うと、アシリ・レラさんは笑った。「そうだろう、さっきの場所とは全然違うでしょう。ここの遺跡は北 海道の高校の先生が発見して、そして先生達が団結して守ってくれた場所なんですよ。そのために教職を追われた人もいたけどね」
「でも、こうして守られ、残されて、気持ちのよい公園になって、子供たちが 遊びに来る。古代のご先祖様たちはさぞかし喜んでいると思うよ」
大地にどっこいしょと正座して、嬉しそうにレラさんはおむすびを食べていた。
その姿を見ていたら、私はなぜか泣けて泣けてしょうがないのだ。もう涙がボロボロと止まらなくなって、意味もなく泣けてしょうがない。不思議なのだけれど、ときどきレラさんを見ているだけで、感情が昂ぶって泣けてしょうがなくなる。理由は全くわからない。
レラさんにアクセスすると、そのまま別の世界のホストコンピュータに接続してしまうような、そんな感じなのだ。だけど、私のOSはまだ「もうひとつの世界」に対応していない。だからエラーして感情だけが乱れてしまう。
彼女と居ると、なぜ私はここに居るのかを思ってしまう。延々と太古から受け継がれてきた命の連鎖の果てにここに自分が存在することの意味を問うてしまう。
あたりまえの事だけれど、聖火リレーのように男と女が結合し子供を生んだその果てに私が存在しているのだ。たどれば縄文まで戻る、いやそのもっと先まで。その証として私が存在している。
「人間の義務はね、万物の霊長としてすべての生き物のために祈る事なんだよ」とレラさんは言う。「それが、天と地の間に垂直に立つことのできる人間の役目だ。祈り、すべての生命の魂を天に送ることが人間の義務なんだ。神はそのために人間を守ってくれるんだよ」
なんという美しい考えだろうと思った。人間ってすごいなあって思った。ヒトとして生まれた事に、初めて誇りを持てたような、そんな気がした。
だって私は、これまでずっと、人間であることが、なんだか申し訳ないように 後ろめたく感じていたのだ。この地球を蝕む者として……。
と、ここまででランディさんの話は一旦終わりです。そして話は冒頭に戻るのだが・・・これ以上種明かしをすると不都合なこともあり私も沈黙致します。ご興味のある方はご自分で検索してみて下さい。キーワードは本文中にごまんとあります。
2004.7.29 20:11(木)晴れ37℃
柳田耕一さんからほんの木出版の「アメリカ中毒症候群」が届いた。柳田さんの柳は正しくはドロヤナギのヤナギだそうだが残念ながらこのパソコンでは表示できない。お元気そうで何より・・・また会える日を楽しみにしています。頂いた本は今日中に読ませていただきます。話は変わるが思い出した、当用漢字が1950年に制定されたが当用とは妙な呼び方だなと思ってたけど、実は当座の用で使うために定めた漢字だそうだ。敗戦後アメリカの意向で日本の漢字を廃止しローマ字にするまでの当座の漢字だったわけだ。このことを知っている日本人はもうほとんど生きていないのではないか?忘れてはいけないが日本も同じ事を侵略先でしましたね。
2004.7.27 7:53(火)晴れ34℃
昨日の天ぷら屋さんへ今日はちろりん村の自然塩・砂糖・片栗粉数種類持参で試作品を作ってもらいに参ります。
2004.7.26 20:30(月)晴れ34℃
昨夜、虐めで子供(自殺でした)を亡くした母親が出演している番組を見た。見ながらふと思った、もし私の子供だったらあんなにたくさんの存命中のビデオや写真があるだろうか?まるで準備をしてきたかのような資料の多さではないか?それも美しい思い出ばかりの記録・・・彼女の子供は自殺ではなく思い出の中で生きるために旅立ったのではないかと・・・思い出が悪いとは言わないが偏った思い出ばかりなのは問題ではないか?思い出はバーチャルであり、リアルではない!記憶喪失者でも生きてゆくのは何故か?そこに答の一つがあるといえば言い過ぎだろうか?発見!おそらく四国では他にいないのではないか?地元の朝取れ魚をさばき天ぷら(さつまあげ)にしている人は。季節にもよるがエソ・グチ・アジ等(イワシ以外はほとんど使用できるそうです)を使用している。午後から半日工場(こうば)の見学とお話をさせて頂いた。工場前が魚市場という恵まれた環境にあり当日朝捕れた魚を使う、鮮度が落ちないうちに一尾ずつ包丁で捌く。社長自らが行うので可能だが大量生産は不可能だそうです。一日100枚程度が限界だと仰っていました。幻のエビ天も作って頂けそうです、もちろん魚と豆腐(エビ天に使用する豆腐の大豆は高松市東植田産無農薬大豆です)以外は全てちろりん村の材料を使います。豆腐まで自前で作ることができるそうです。今しばらくお待ち下さい、商品が完成次第お知らせ致します。
なお、市販冷凍すり身は全て防腐剤が使用されてます。ほとんど諦めていたのですが今回はラッキーでした。
2004.7.25 8:12(日)晴れ36℃
中村敦夫さんが引退し、みどりの会議は政治団体としては解散を決定しました。それでも私は一旦掲げた旗を離しませんでした(笑)
2004.7.22 16:21(木)晴れ35℃
足下からだの地域だのとせっせとドサ回りで票固めをしている人がいるが地球が一個の地域になったのをご存知ないようだ。自民だ民主だとほざいているが幕末の近藤勇につくか芹沢鴨につくか程度の選択である。新撰組をいくらうまく操縦したところで大勢に影響はない。みどりの宇宙船地球号が今消えようとしている。それでいいのか!
2004.7.20 22:43(火)晴れ36℃
東京は40℃。塩江の藤川さん家へ見学に行く途中、旧道に入ってしまい道幅が狭くて冷や汗をかいた。暑い中、草取りをしていました。草取りといっても農家の草取りは鍬のような道具で畑の表面を薄く削り取るのです、けっして草をつかんで抜いたりする作業ではありません、そんなことをするのは素人です(笑)日照りと真昼のスコールで野菜の育ちが悪く困ってました。とくに小松菜は全滅状態です。
2004.7.18 9:51(日)晴れ?℃
菅直人さんが徳島の1番札所から室戸まで10日間かけて巡礼中だそう。
2004.7.17 7:27(土)晴れ?℃
新潟で雨の被害が続いている。原因は国の治水事業の失敗と地球環境の悪化で梅雨前線の位置が北になったこと。あの雨が四国で降っても被害はなかったはず。元木頭村村長藤田恵さんが言う「川は水が流れるところ、ダムや堰で流れを止めてはいけない」は正しいのだ。また国は言うのだろう、想定外の雨だったと。地球気象環境の変化に行政が追いついていないのだ。梅雨だというのに讃岐では雨が降らなかった。
2004.7.16 9:02(金)晴れ35.5℃
生活に不安があるから子供を作らないのではない、できなくなっているのも大きな原因の一つなのだ。若い男性の精子が半分以下になっていることを公にし問題解決にあたらないと遠からずこの列島は滅びることになる。その前に異常気象、原発の大事故等で滅びる可能性もありだな。この暑さは異常なのだが気が付かないのか敢えて無視しているのか?耳を澄ませば虫たちの悲鳴、けっして耳鳴りではない(笑)昨日、丸亀市に松田酒店という酒屋さんがある、美味しい樽入り麦焼酎を量り売りしているというので行ってみた。店の前に駐車場があり驚いた、なんとそこは昔日劇という丸亀唯一の劇場があったところではないか。舞台があり花道があり、もちろん枡席だ。映画館に押されて廃業したらしいが私の子供時代には建物はまだ残っていた。麦焼酎(銘柄はごりょんさん)6リットルを買い帰途についた・・・松田酒店が生き残れると良いのだが。
2004.7.14 14:49(水)晴れ37℃
私達には昔から善悪黒白をハッキリさせないという多神教の世界観があった。キリスト教やイスラムとは違い、和を持って尊しとするアイヌ流仏教解釈もある。二大政党制では民意を発揮させることは不可能ではないかと思う。めんどうだからと言って小政党を切り捨てるのは、この国にはなじまない。今のままでは大政翼賛しか残されていないのだ。私達にもっと選択肢を!そのためにみどりの旗を掲げ続けたい。今回、酋長大西光明は負けても旗を離しませんでした(笑)
2004.7.13 11:18(火)晴れ36℃
残念ながら今回の選挙で当選者が出なかったが得票数は前回選挙(分裂しましたが合計で)の3倍。なんと1パーセントの人々が投票してくれたのです。1%は100万人です!仲間が100万人いればどんなことでも可能です。次回選挙も3倍増とすれば2〜3人は当選可能ですよ。羅針盤としての役割なら充分果たせます、高らかに掲げた「みどりの会議」を降ろさないで次代の人にバトンタッチできるまで掲げていたい。中村敦夫さん、藤田恵さん、関係者の皆さん、本当にご苦労様でした。
2004.7.12 9:37(月)曇り?℃
残念ながら今回の選挙で当選者が出なかったが得票数は前回選挙(分裂しましたが合計で)の3倍。なんと1パーセントの人々が投票してくれたのです。1%は100万人です!仲間が100万人いればどんなことでも可能です。次回選挙も3倍増とすれば2〜3人は当選可能ですよ。羅針盤としての役割なら充分果たせます、高らかに掲げた「みどりの会議」を降ろさないで次代の人にバトンタッチできるまで掲げていたい。中村敦夫さん、藤田恵さん、関係者の皆さん、本当にご苦労様でした。
2004.7.10 19:15(土)晴れ?℃
昨日は250キロでした。今日は、400キロ目標で走ったが結果は350キロで暗くなってきたので事務所へ今帰ってきた。片側3車線の道路は高松に2本ある、一つは中央通り、もう一つはさぬき夢街道の一部だ。片側3車線部分の道路両方を往復すると約40キロ、それを10往復する予定だった。8往復までは走れたが暗くなり、最後は中央通りのコトデン築港駅前から夢タウンを3往復した。ちろりん村の車の前後左右に「みどりの会議」の文字を貼り付けて走った。車中のラジオから既成5党のコマーシャルが頻繁に流れる、いったい誰がお金を払うのかと思うと怒りがこみ上げてきた。みどりの会議にはとても払えない。この悔しさは忘れない。
2004.7.9 10:42(金)晴れ?℃
大西君!スコールではなくて夕立っていうんだよ。と言われそうだから一言断っておく。夕立は知っている、しかし、明らかに違うのだ!学術的には言えないがね、専門家でないので。トイレ休憩で事務所へ戻ってこれを書いている、昨日よりハイペースで走っています。走行距離は現在70キロオーバーです。今日は300キロ突破するかもね。
2004.7.8 20:58(木)晴れ34.7℃
今日も市内の渋滞道路ばかりを走る予定、若くて元気ならば自転車で幟を立てて走りたい。たしか、藤田さんと日野さんが今日徳島へ入るはず。高松市内走行距離目標は200キロ。走ってみると意外に反応が良い、藤田さんの小さなポスターを読もうと食い入るように見ているドライバーがいる。午後4時時点で160キロまで達成、あと40キロ。5時から本日最後の走り込みに出る。
スコールって熱帯のにわか雨だとばかり思ってた、30年前八丈島で何度か遭遇したが島民が言うには昔はなかったそうだ。環境が変わって現在は四国高松もスコールが降るようになったのだ。今日の走行距離は204キロ。東は屋島、西は国分寺、南は仏生山、北は北浜アリーナの矩形内だから想像して下さい。結構ハードな走りだよ。明日はもう少し市内に絞り込んで走ります。私が日本に100人いたら政権は取れる(笑)金を貰わないと動かない人ばかりだからね。ホントに小欲な人ばかりだ。
2004.7.7 22:31(水)晴れ33℃
市内の渋滞道路ばかりを走りました、走行距離約150キロ。
2004.7.6 23:01(火)晴れ
ちろりん村の車に「みどりの会議」のステッカーを前後左右に貼り高松市と周辺を走ることにした。みどり香川事務所でポスターを6枚もらって切り張りした。
2004.7.5 19:41(月)晴れ
3日は早朝から塩江→穴吹→池田→南国→室戸→高知駅前で藤田さん、安部さん、石井さん達と合流。三人が駅前周辺で演説後夜7時前に大方へ一人で出発。七子峠で夜8時になりテープを止め9時半頃大方着。宿泊は熊さん家。4日は早朝から窪川へ引き返し8時からテープを流して中村→宿毛→宇和島→大洲→内子→夕方5時、松山駅前で安部さんへ車をバトンタッチ。土佐清水と八幡浜・伊方に寄れなかったのは残念。約800キロ走ったが途中選挙カーには3台しか出会わなかった。宿泊は松山の福円寺。
今日は、福円寺の田中さんに自然食品の宅配ちろりん村の事務所まで送って頂いた、ありがとう。ほかの政党が街頭宣伝はあまりやってないのでみどりの会議を知ってもらうにはチャンスだったかもしれない。五月蠅くて嫌われるかもしれないが走るしかないと思う。駅前や商店街で街頭演説をいくらしても効率は悪いと考えるのがまっとうな判断だ。全国区の意味が分かっているとは思えない。市会議員選挙レベルの戦略しかないのだろうか?全国レベルの知名度があるならまだしも殆ど無名の候補者の名前を連呼しても意味はない。みどりの会議を連呼して回るしかないのだ。候補者には失礼だが誰が議員になるかはジャンケンかあみだくじで充分。
2004.7.2 18:12(金)晴れ
今日は選挙カーの運転は休み。溜まっていたメールとメーリングリストの整理を早朝に済まし観音寺市粟井のヤマギシへ桃畑の見学に行く。案の定ちろりん村からの初めての桃の発注でヤマギシのお婆ちゃんが困っていた。取引を初めて暫くは発注書の見方が分からずコミニケーションがうまくいかない。今回訪問したのはそれだけが理由ではなく、組織としての経営が少し心配だった。見学をはじめてみると意外なことに逞しく存続していた。オーム以降のマインドコントロール騒ぎの中でヤマギシもマスコミに厳しく叩かれたが筋金入りのヤマギシストが高齢にもかかわらずお元気で暮らしているし、その曾孫達が甲斐甲斐しく働いていた。ヤマギシズムはよく分からないが、ここに人類の夢が叶った実例の一つとしては説得力がある。働いて遊んで眠る・・・これ以上何があるのかとも思うのだが・・・人は不幸も好きなのではないかと哲学してしまった(笑) 皆さんも一度見学することをおすすめします、美味しい食事は無料でした。
2004.7.1 23:46(木)晴れ
午前7:40瓦町でさとこさんを拾い、真鍋耳鼻科で植田マキさんを拾い香西のゲオ前でさと子さん達が応援演説終了後JR高松駅へ移動、そこでも演説後、数名をみどり香川の事務所まで送り無罪放免。香西を再度丁寧に回り植松団地通過後、気になっていた市内をチョロッと回り、少し遠い国分寺・綾上・琴南・琴平を回り善通寺・高瀬から本山駅経由で観音寺へ入る。豊浜をチョロッとなめて大野原・再度観音寺から三野町を経て再度善通寺・丸亀の垂水から丸亀城周辺を一回りし宇多津・坂出・鴨川・国分寺・橋岡・鬼無・香西経由で高松へ戻る。走行距離250キロ。明日はお休みで3日早朝から塩江経由で高知県入りし、4日の午後5時にはJR松山駅前で一旦終了。運転手がいないときは続行して走る覚悟。