(2)善通寺俘虜収容所


第二次大戦時連合軍俘虜−善通寺収容所の平面図
(三豊市在住者蔵)




四国新聞 2023.9.24

はじめに
太平洋戦争開戦当初、日本軍は国内では善通寺に俘虜収容所を設置することを決めていた。

開戦直後の12月12日に陥落したグァム島の連合軍俘虜約422名が翌年1月15日に多度津港に着いた。 午後9時20分発の琴平参宮鉄道に乗車し善通寺俘虜収容所に向かった。

全国の収容所の開設は大阪・東京が昭和17年9月、函館・福岡が翌年12月、名古屋・広島・仙台は 昭和20年の3月であった。いかに善通寺が早い開設であったかがわかる。

規模的には東京収容所が7,640人、大阪が8,891人、福岡が10,328人の収容数(以上、昭和19年末時) なのに対し善通寺のそれは、最大時でも1,800人程度であった。特徴的なのは収容された将校の比率 が他とかけ離れ高かったことである。大都会のそれは2.0%台だったのに対し、善通寺は約44.5%にまで及んだ。       ・‥以上『善通寺市史第三巻』より抜粋・‥

このように国内でも重要視されていたであろう善通寺俘虜収容所について、地元でも存在さえ知らない人が ほとんどである。幸いにも、当時収容所に勤務していた方も高齢ながら市内・近隣、県外にもご存命である。 聞き取り調査をまとめ、善通寺俘虜収容所の実態を皆さんに伝えていくことが私たちの使命であると考えている。

また、収容所で亡くなった10名の俘虜のための墓を建立した方や、今だに自宅で慰霊を続けている方がいることも 忘れてはならない。

2008年2月 三豊市職員 森 広幸(丸亀ドイツ兵俘虜研究会所属)



(2)-1善通寺収容所関連写真




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