A丸亀の収容所
 第一次大戦中、(我が国は当時英国と日英同盟を結んでいた為、 英国の敵国、ドイツと交戦)日本陸軍はアジアにおけるドイツの 根拠地・中国大陸の青島(チンタオ)を攻めました。丸亀連隊は 送られて来た捕虜達を収容しました。1914年(大正3年) 11月16日、アマンドゥス・テンメ等324名のドイツ兵俘虜 は多度津港から上陸、直ちに収容所となる六郷村塩屋本願寺別院 (現丸亀市塩屋町)・船頭町看護婦養成所跡(現丸亀市西本町) へ向かいました。

(人道的な待遇) 戦争俘虜と聞くと、それは私達の気分を暗くさせるものですが、 テンメ等への丸亀連隊の対応を調べる限り、人道的処遇をしている のです。健康面に配慮した規則正しい生活、栄養面でも不足のない 食事、さらに面会・郵便等が許可されていたのです。当初より収容 所周辺での運動や散歩、酒保の開設が認められていました。犬や小 鳥を愛玩用に飼い、野菜を栽培していたのです。クリスマス会、音 楽演奏会、演劇会、活動写真上映会もありました。施設は手狭で種 々の制約はありながらも比較的豊かな生活をしていたのではないで しょうか。

(寺院楽団の結成) 自由な俘虜生活の中で特筆すべきことは、エンゲル(入隊するまで は上海市交響楽団のバイオリン奏者)を中心に収容所内で結成され たオーケストラの活動でした。その名も寺院楽団。途中、丸亀保養 楽団と名は変わりますが、1917年(大正6年)4月の収容所閉 鎖までの2年5ヶ月の間、通算23回もの演奏会を開いているので す。使用した楽器は大体弦楽器が主だったようですが、最初は手製 のものを使ったりしながら苦心して揃えていったようです。  
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