| B熱き友情の証 |
異国にあって彼等にこのように精力的な演奏活動をさせた源には、
一体何があったのでしょうか。遠く離れた祖国への郷愁と、やはり
ベートーベンを産んだ音楽の国、ドイツ人特有の民族性の表れだっ
たのでしょうか。
さらに、彼等俘虜の生活の中で、スポーツ(器械体操、サッカー等)
を楽しみ、技術(木工、菓子製造、音楽)を当時の日本人に伝え、
展示会を催した心の中に、何があったのでしょうか。
(丸亀から鳴門へ) 戦争が長引くにつれ、本格的な収容所の開設が必要と判断した陸軍は、 四国の三連隊(丸亀・松山・徳島)が 収容していた俘虜千名近くを 鳴門近郊の板東(ばんどう)に移しました。丸亀俘虜収容所での音楽 活動はその後、板東収容所でも引き継がれ、管弦楽団の結成、そして 皆さんご存知の我が国で初の「第九交響曲」の演奏へと話は進んでゆ くのです。 (地域の人に守られて) アマンドゥス・テンメの死因については、記録には1915年(大正4年) 6月6日、十二指腸虫の為、死亡とあります。テンメとブーズニコフの墓は、 地域の人達の手によって大切に守られています。特にテンメの墓は、 大正年間に文明の国からやって来たドイツ兵俘虜と、丸亀の人達との 熱き友情を物語る、貴重な"証"と言えるでしょう。後から続く子供た ちにも是非この話を語り継いでゆきたいものです。 |