<1904年−明治37年> | |
2月10日 | 日露戦争の宣戦布告 |
7月22日
7月23日 |
松山より六郷村塩屋別院(現丸亀市塩屋町)の収容所(正式には丸亀俘虜収容所)にロシア兵俘虜350名到着 |
8月 8日 | 松山より負傷俘虜5名が善通寺予備病院へ |
8月10日 | 俘虜3名が脱走(1時間後発見) |
8月11日 | 仏国領事の俘虜慰問 |
8月12日 | 俘虜が外套洗濯のため丸亀12連隊に出かけ、そのため市中通路は人で混雑 |
8月15日 | 代議士の俘虜慰問 |
8月21日 | 自炊を開始 |
8月26日 | 松山より俘虜窃盗犯が善通寺第11師団へ軍法会議のため護送 |
9月 | 仏国公使館付武官来所、「小遺銭」貸与 |
9月 末 | 散歩許可(収容所近く) |
10月 | 松山ニコライ教会司祭より聖像供養のロウソク100本送られる |
11月 8日 | 仏国領事の俘虜慰問 |
12月 9日 | 冬服給与 |
12月12日 | 仏国領事の俘虜慰問 |
12月 | 技術をもつ4、5名が靴製作を行う。学力のある者に簡易な教授を行う |
<1905年−明治38年> | |
1月18日 | 松山より負傷捕虜15名がX線照射治療のため善通寺予備病院(現小児病院)に到着 |
3月13日 | 収容所長として羽川金四郎来任 |
3月16日 | 白方(海岸寺)に収容所新築開始 |
3月30日 | 散歩区域拡張(西は多度津、東は遍照庵(現丸亀市新浜町付近)迄) |
4月11日 | 散歩区域拡張(東は土器・川津村、西は金蔵寺迄) |
4月29日 | 俘虜による復活祭(翌日も) |
5月 5日 | 松山より白方俘虜収容所(正式には善通寺俘虜収容所)にロシア兵俘虜1000名到着 |
5月16日 | 白方村内のみ散歩許可(白方) |
5月25日 | 遊泳を許可(白方) |
6月 9日 | 俘虜280名が吉原村(現善通寺市)付近まで散歩(白方) |
7月 6日 | 羽川収容所長から久能所長に交代(塩屋) |
7月 8日 | 俘虜300名余が四箇村(現多度津町)付近まで散歩(白方) |
7月12日 | 俘虜の海水浴(白方) |
8月18日 | 仏国領事の俘虜慰問(塩屋・白方)、白方村に赤痢発生し外出禁止(白方) |
9月 5日 | ポーツマス講和条約調印 |
9月13日 | 俘虜300名で記念写真撮影(白方) |
9月28日 | 下痢病患者が発生(白方) |
10月 5日 | 俘虜が丸亀市内で買物(塩屋) |
10月12日 | 俘虜50名が琴平町に散歩(白方) |
10月14日 | 俘虜1名が死亡、翌日善通寺陸軍墓地にて葬儀(白方) |
10月16日 | 俘虜50名が琴平町を散歩、俘虜50名が丸亀市に散歩(白方) |
10月20日 | 平和克服の祝賀会を開く(塩屋) |
10月22日 | 郊外自由散歩を許可(塩屋) |
10月23日 | 俘虜に演芸を見せる(白方) |
10月25日 | 俘虜2名が脱走、多度津町で発見(白方) |
10月27日 | 俘虜が高松市内・公園等を遊覧(白方) |
10月31日 | 俘虜2名が脱走、丸亀市内で発見(白方) |
11月 2日 | 俘虜による舞踏会を催す。観覧者約300余名あり(白方) |
11月 3日 | 俘虜ブーズニコフ死亡、6日葬列丸亀市内を通り土器陸軍墓地に埋葬(塩屋) |
11月15日 | 俘虜4名が脱走(白方) |
12月 5日 | 俘虜キムラウィチェ死亡、翌日善通寺陸軍墓地に埋葬(白方) |
12月19日 | 俘虜が県師範学校を訪問、栗林公園を遊覧(塩屋) |
12月26日 | 傷病俘虜58名を送還(塩屋・白方) |
<1906年−明治39年> | |
1月 8日 | クリスマス、二派に分かれて大喧嘩(塩屋) |
1月14日 | 露暦による俘虜の元旦 |
1月27日 | 俘虜、高浜(松山)へ向け出港し移動(塩屋・白方) |
<1909年−明治42年> | |
7月31日 | 善通寺3名、土器1名の陸軍墓地の遺骨を掘り出し、稲佐(長崎)へ送致 |
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