ロシア兵俘虜関連記事
−香川新報1−


明治37年(1904年)

・明治37年2月26日●捕虜來縣の説
露国の捕虜約二百名愛媛、香川の軍隊所在地に護送さるゝ筈にて第十一師團にては本縣へ來着せば 善通寺町及び近郷の寺院に収容せんと準備しつゝありと云ふ

・明治37年3月1日●捕虜來縣と収容所
露国陸軍の捕虜が近日本縣へも分送さるべしとの由は既記せし如くなるが其収容所は師團地附近の寺院の外に 尚丸亀市内へも収容する筈にて歩兵十二聯隊にては師團の命に依りて一昨日市内各寺院を取調べたり

・明治37年5月5日●捕虜來縣に就て
先に第十一師團地へも敵の捕虜來るべき説ありしも取消されたるが今回九漣城大勝の際捕獲したる内若干は來團の由 一昨日頃第十一師團への通知ありしやにて善通寺、丸亀等にて寺院其他収容所の準備中なりと

・明治37年5月19日●捕虜収容地選定
今回松山に來着せし捕虜は患者将校九名、下士卒二百八十一名其他健康者若干の由にて最初通知を受けたるコロンボ丸 にて五百名送致の事は未だ其数に満たさる由なるが今後猶ほ多数送致し來り同地に於て収容困難なる場合には直に縣下 に分送さるものゝ由にて之が為め其収容地選定の為め秋山陸軍省参事官、黒河内警部長、松崎仲多度郡長、米良丸亀署長等 は昨日午前八時頃警邏船屋島丸にて塩飽諸島の内本島其他へ出張したり

・明治37年5月29日●捕虜収容地に就て
此程實地を取調べたる仲多度郡本島村の地は衛生上頗る適當なるも需用品の運搬等不便の点もあるやにて単に豫備病院の 転地療養地となさん筈にて収容所は更に仲多度郡内にて適當の地を選定中なり又た小豆郡にても取調べ居れりと云ふ

・明治37年6月29日●捕虜収容所
客月以來噂させる捕虜來縣に就て更に聞く所に依れば愈々來月上旬頃第一着に仲多度郡六郷村の塩屋別院に収容し残部は同月 下旬にて第十一師團司令部付近に収容所を新設する筈にて是又目下着工中なりと

・明治37年7月12日●俘虜來縣
本縣に來るへき説ありし俘虜は愈々近日中に目下松山にあるものゝ内健康者三百名斗り來縣する由にて其収容所は仲多度郡 六郷村塩屋別院を充つることなり既に歩哨室、便所、其他必要の設備工事に着手し居れり

・明治37年7月14日●捕虜來縣に就て
頃日の紙上に記載したる敵國の捕虜來縣に就ては目下仲多度郡六郷村字塩屋別院に収容する筈にて同院は副築工事を取急ぎつゝ あるが同工事出來次第來縣する筈にて捕虜総数は下士以下三百五十名なりと

・明治37年7月16日●俘虜収容所視察
一再記せし捕虜は愈々茲一週間以内に來縣する由にて警察として此際注意すべき衛生上の施設あれ??尾崎警部部長は本日 豫定収容所及び附近??に就き視察として出張

・明治37年7月17日●捕虜來縣に就て
曾て本紙に記載せし捕虜來縣の期は愈々切迫せし由にて昨日は岩本保安課長、高畑衛生課長の両氏は其収容所たる仲多度郡六郷 村大字塩屋の塩屋別院を視察され其より丸亀警察署に引返し久保多度津分署長六郷村長尾崎才太氏等準備上に就き種々打合せを 爲せし上兎に角今明両日の内に仝院に於ける全部の一大清潔法を行ふ筈なり又廣島第五師團より歩兵少尉中村太兵衛氏は仝収容上 の要件を帯び昨日午前四時頃來縣され仝八時頃第十一師團參謀部を訪はれたり聞く所に依れば今回の捕虜は新來にあらずして松山 に収容されつゝある内にて三百余名を移轉さるゝなりと

・明治37年7月19日●俘虜に對する國民の心得に就て
往時交戰國か敵國の捕虜に對しては復讐的観念より惨忍の取扱ひを爲し居りて現に普仏戰争の際などに佛國のパツテル将軍は敵の 捕虜を鐵の鎖に繋ぎ河中に投せしをさへおりしか其後世の進歩と共に萬國曾議も開け戰争は國と國との戰ひにして個人の戰ひに 非らされば猥に人命を損ふは道義に於て許さゝる處なり然れば一朝開戰の場合に降服せし敵の捕虜は或る程度に於て充分?束を 加ふる必要あるも彼等も尊敬すべき一國の軍人なれば其の名誉と健康とを害せさることに注意し戰闘に関係せさる限りは本國 と書翰の往復をも自由にせしめ尚ほ且つ差支へなき限りは収容所外の自由散歩をも許すべきこと等も萬國か口約上に於て定めたる 今日なれば我國にても捕虜取扱上に付ては以上の趣旨に基き我軍人仝様に極めて深切なる取扱ひを爲しつゝあり然れば隣縣は松山 に収容し居れる捕虜の如き孰れも其の恩恵に感泣し居れる程なりと然るに之等捕虜の内三百五十名ばかり來る廿一日頃本縣へ送らるゝ ことなり仲多度郡六郷村の塩屋別院に収容することなりたれば若し來着の上は縣民たるもの仮令敵國の軍人なりとて断じて悪戯讒謗 等野蛮の行爲なき様充分心掛け置さる可らす伝々と尾崎警部長は語れり

・明治37年7月19日●俘虜來縣雑記
昨紙に報道せし捕虜來縣に就ての副築工事は昨日午后二時頃に修了する筈なりしも余程手間取りし由にて多分本日中には修了する筈△ 工事のヶ所は本堂の正面縁側の内部に高さ約半間の腰板を張り捕虜の寝所に充つる筈△又賄部屋は鐘楼の前にて4間に二間半の仮小屋 にて其南手は沐浴場と洗濯場にて之も仮小屋にて便所は本堂の東手△食事の調理は最初一両日は多度津町の日の出料理店濱田芳太郎方 よりの仕出しにて以后は捕虜各交替にて自炊する筈△來縣期は未定なるも修築出來次第其筋への通知を爲する筈にて多分廿日以后ならん との事△又其通路は讃鐵が優待して多度津驛より別院迄臨時?車を發すると云ひ又多度津より列車にて丸亀に來り其より陸路別院に至る とも云ひ又多度津より陸路歩行にて収容所に入るとも云ひ昨日午后一時頃迄は判然せさりしも多度津よりの陸路歩行は別項記載の豊原村 大字鴨に於て疑似虎列拉發生せしより或は列車の便を以て丸亀に來ることなるやも知れずと云ひ何れも未だ判然せざりし

・明治37年7月19日●塩屋別院の追都弔祈祷
本派本願寺の塩屋別院に於て本日一日より戰病死者追弔の爲本堂へ中陰壇を設け讀經中の處今般捕虜三百五十名収容につき右中陰壇を出院に 移し依然讀經の筈なるが中には捕虜収容の爲中止等の掛念を抱く者あるやも計り難しとて軍人遺族に宛て一昨日左の如き書面を夫々郵致せしと

其君は國家の重任を荷ひ征露之爲遠く清國満洲之野に激戰せられ無限之功を奏し終に名誉之戦死を遂げて我皇國の威武を字内に宣掲し併せては 御一門之光栄を秘輝せられたる儀には候得共其御哀情を察すれば國民たるもの悼然たらざる者あるを以本院は戰死者追弔之爲毎日正午十二時 三十分前時讀經を爲し以て?各??に對する誠意と國民が軍人に對する本分を表章せんとの敬意に候へば各位被得其意適宜御参拝御煙香有之度 候此段得貴意候 敬具
  明治卅七年  月  日  本願寺塩屋別院

・明治37年7月20日●俘虜収容雑記
俘虜収容所たる仲多度郡六郷村大字塩屋の塩屋別院の副築工事其他に付て一寸報導し置きしか更に聞く所に依れば俘虜の來着期は賄請負者たる 多度津町の濱田芳太郎なる者が廿一日の夕食より三百二十内至三百五十人前を請負ひ居れば多分廿一日の午后に來着するならんと△又通過の道路 は丸亀驛着の説もありしか同驛着にては多数の參観人群集し非常の混雑を生じ又或は敵愾心奮起の餘り如何なる乱暴者のあらんも計られされはとて 多度津港着の上は多分陸路歩行するならんと△又収容後は一般の警戒を厳にし内部にては約一小隊の兵士を置き外部には丸亀署より特に巡査を派し 昼夜共外部に於ける警戒を爲す筈△又新聞社の訪問に就ては一社一名にて特に訪問社員の姓名を記入したるものに本社か証明せる名刺様いものを差出 し置き同社員と雖も記名外の者は一切許可せざる由△尚ほ同収容所の滿員する時は福島町の偏照庵を第二の収容所に充て若し又不足なる時は丸亀市中 の寺院を漸次借り入るゝ筈なりと

・明治37年7月21日●俘虜第一回來縣人數
本日松山より來縣の筈なる俘虜は本日午后八時頃出發の第二相生丸にて先づ百七十五名及至二百名到着する筈にて多度津着は大抵明日午前三時四時頃 のならんと●捕虜來着と縣の利益 本縣に送り來る捕虜に對して縣民は惡戯讒謗等を加へ不快の念を懐かしめさる様心得べきは勿論のことなるか今捕虜 來縣の爲め縣下に得る處の利益如何を考ふるに捕虜が日常の食料は素より慰問視察等の爲め他縣人及び佛國領事館員其他諸外國人の來往する者少なからざる のみか本縣を諸外國へ紹介するともなれば直接間接に本縣の利益を得るとも大なるべし

・明治37年7月21日●俘虜來縣と警察
由來仁義の二字を眞向に振り翳し世界に飛躍しつゝある我帝國民は公道を蔑視し人道を無視せる露國其の者に對しては飽迄??の義剣を振ふと雖ども彼れの 戦闘員にして巳に傷き或は力盡きて降れるの兵士に對しては轉た憫情に耐へれ然れば本來の慈仁を奮ひ興して帝國民が如何に義氣に富み慈仁に厚きかを知ら しむるは國威を中外に發揚する所以なれば苟くも帝國臣民たるものにして平身低頭哀を我れに請ひ憐を求むるの俘虜に對して暴行を加ふる者は勿論暴言を吐 き嘲笑冷語を發するが如きものも恐らくは之れなかるべく信せらるれとも若し彼れ俘虜にして帝國臣民の慈仁に馴れ俗に所謂ツケアガリて無禮ケ間敷所爲あ るに於ては或は義拳を振ふて??せんと爲る氣早の連中現はるゝやも知れずとの遠慮に由りてか今午前三四時頃に多度津に到着の筈なる俘虜の通路取締として 尾崎警部長を始め岩本、神崎、小林、小河、久保、鎌倉の諸警部は宮川、森、乾、栗生、西田、川西の各巡査部長と多度津署より十三名、善通寺署六名、琴平署 八名、高松署十七名、本部六名、瀧宮署十名の各巡査を率ひて多度津警察分署の所管内を、又米良警視、増井、末澤、眞鍋の諸警部は多田、石橋、瀬野、渋谷 の各巡査部長と丸亀署十六名、坂出署十五名、佛生山署九名の巡査を召集引卒し丸亀警察署所管沿道に派し厳重に取締を爲す筈なりと以て當局者の俘虜に對する 注意の如何に深厚なるかを知るべし

・明治37年7月22日●塩屋の清潔法
俘虜収容地仲多度郡六郷村塩屋部落の清潔法は一昨日着手せしか多分本日頃終了するならんと

・明治37年7月22日●昨日の塩屋御坊
俘虜來縣の事實が世間に伝はりしより西讃各村落の農民等は是を一見せんと昨日來多度津町又は収容地附近に來る者却々多き由

・明治37年7月23日●虜俘來縣
屡々報導したる松山よりの俘虜昨日午前三時四十分頃第二相生丸にて無事多度津港に到着せり其人員は下士十三名兵卒百六十二名計百七十五名にて仝五時四十分 頃上陸仝港上署の西手に於て漸時休憩の上豫定の順路を塩屋別院に至りしは仝八時頃なりしか沿道には約一丁毎に巡査を配置し俘虜は我兵約十名の先導にて後俘虜 十名毎に四名の兵士が挟まりて警戒し全隊四列にて被服は何れも鼠色にて一品も柳行季或は薬灌の如きものを携帯するあり又帽子は大体日本の海軍帽の如きもあり 又防寒帽を頂きしもあり

・明治37年7月23日●俘虜來縣別報
別項記載の俘虜を運輸せし相生丸は引續き残餘の半数を運送の爲め陸揚終るや直に抜錨引返したるが本日昨朝と同時頃來着の筈なり
◎丸亀俘虜収容所  塩屋別院の同所は拡大なる本堂の大部分を俘虜居室とし本堂前の廣き庭園の大部分を運動場に充て庭園の範囲には竹柵を施して區劃し爾餘の建物 を區劃して事務室、監守所、診断所、病室、衛生所等を設けられしが該所の役員は左の如くにて収容所内外の警備は衛兵下士以下十名巡査六名等にて憲兵も時々警邏すべし
委員長代理委員−歩兵少尉−中村多兵衛
書記−歩兵伍長−近藤 良蔵
仝−−仝−−安上佐次郎
経理委員−二等主計−天唱恵壽計
仝助手−−三等計手−−兒島 三吉
衛生委員−−一等軍医−三木 徳吉
仝助手−−看病人−野口 傅七
仝−−−−中村勝二郎
陸軍通譯−−鈴木相之助
仝−−−−田代錦太郎


・明治37年7月23日●俘虜収容所取締規則
最も厳密に制定され憲兵警察官等にも配布せし由なるか其内寄贈、面曾及び新聞記者の出入に関する規定を抜摘すれば左の如しと

俘虜に寄贈を爲さんとする者は委員の許可を受けたる後ち其物品は収容所に差し出すを要す
面曾を爲さんとする者は衛戍司令官の許可を要す
面曾は毎週月金の兩日午前九時より正午までの間とす
面曾の許可を受けたる者は指定時日の許可証を携帯し俘虜収容事務所に其旨を申出づべし
面曾者は俘虜監督者の指示に從ひ其立曾を以て通譯を爲し俘虜と談話するを得但監督者に於て必要と認むるときは用語を制限し又談話を中止するとあるべし
新聞記者は衛戍司令官の許可を受けたる者に限り毎週火曜日土曜日兩日午前九時より十一時まで収容所事務所に出入するを許す
◎願書の雛形  松山の例に依れば慰問物品寄贈者甚だ多きよしなれば之が手續は左の如く定めたりと
 面 曾 願
私儀(何町何村又は何社員代表し)俘虜慰問の爲め面曾致度候間御許可相成度此段相願候也
   何縣何郡何市何村何番地族籍
  年  月  日     何  某
  丸亀衛戍司令官兒玉象一郎殿
  物品(金銭)寄贈願
私儀(何町何村又は何社員代表し)別紙記載の物品(金銭)俘虜一同へ寄贈致度候間御認可相成度此段相願候也
   何縣何郡何市何村何番地族籍
              何  某
             (連名妨なし)
  丸亀俘虜収容所取扱委員御中

・明治37年7月23日●俘虜來縣餘報
別項に記する如く豫記の捕虜百七十五名は松山歩兵第廿二聯隊の将校以下数名附添ひ昨日午前三時頃多度津に到着したり▲彼等は第二相生丸より艀船に乗移るや我れ 先に上陸せんと禮儀もなく作法もなく押した押したの騒ぎを演じ手真似にて制止するも一向合点せざるより止むなく船の中に引据へ漸くにして秩序正しく点?上陸せ しめたり▲彼等は船中にて與へられし食事を爲ざりしもありしか上陸するや歩行しながらパンをパクパクと食する處は如何にも下品にて非文明國の本性を現はし居たり ▲多度津より塩屋別院に至る間は多数の警官と士卒数十名とを以て保護されたりしか其の人員は一人に對し一人以上の割合なりしか如しと▲彼等の中には帝國臣民の至 仁至慈に馴れて頗る横着となりしもありて歩行体態の如きもフン反りかへつて闊歩する様は丸きり捕虜らしからき至極の横着者と見るの外なきも實に馬と鹿の連續に近 きかと見にしとぞ▲被服は鼠色にて腰間に紐を附しあり一寸小綺麗なるかコハ日本にて給與せしものなりとか▲頭には手前物の熊皮製かと見ゆる一見たろろし氣なる帽 を冠り居れるか之は防寒帽子なりとかや果して然らは此の炎天には随分迷惑の帽子ならん▲年齢身長の不揃ひなるとは驚くべし中には是れか欧州の一大國民乎と疑はるゝ 許りの小男もありしと▲尚本日午前三四時頃は百七十餘名來着の筈なりとぞ

・明治37年7月23日●香川郡記事
△教育評議員会 教育部曾総集曾の際撰定せし評議員は幹事の互撰、衆たに町村教育曾を設置する摘則、出征軍隊へ教育曾より慰問状の發送、前曾長へ感謝状を送る等の 諸事項を議する爲め昨日午后郡衙に集曾評議せり△就學兒童督励其他 文部大臣の訓示に基き就學兒童の揄チ學校基本財産の攝B、學校設備の改善を始め總て教育事業 の振興發達を計る爲る來る八月十日迄に郡内小學校より其施設と方法との概要實行期等を報告せしめ其改善の實を完ふする筈なり△圖書費寄附 前に鷺田村外四ヶ村立 中央等小學校圖書費として同郡一の宮村の瀧謙次氏金六圓五十銭附したる由にて今回知事より賞状の下附ありたり△俘虜來縣につき 近藤郡長は郡内小學校に向け俘虜 に對する言語行爲に付ては特に注意し苟くも侮辱し又は危害を加ふる等の事なきを期せざる可らずとの旨を通知せり

・明治37年7月24日●俘虜來縣報
◎第二回到着 残餘の百七十五名は御用船相生丸にて昨日午前二時半多度津着港夜の明くるを待ちて上陸し港頭に設けし多度津町役場の休憩所にて麥湯を饗せしに歩兵 曹長ミシンなるもの一同に代りて謝意を述べたり夫より前日の如く徒歩にて鹽屋別院の収容所に着せしは同七時にて通過の沿道は前日同様人出夥しかりき
◎兒玉衛戍司令官の訓示 俘虜は全部到着につき司令官は昨日午後四時本堂に集めて親しく左の訓示を爲られたり

余は此地の衛戍司令官たる故を以て汝等に訓示せんとするに當り先づ一同の至極健康なる状態を見深く之を喜ぶものなり
汝等が祖國の爲め勇戰せしことは日本軍の確かに認むる所にして露國皇帝陛下に於かせられても嘸滿足に思召すことならん
日本國皇帝陛下は至仁至愛の思召を以て汝等が我國法に服從する限り充分なる保護と待遇を與ふべきことを我等に命じ給へり我等は此の大御心を奉体し出來得る 丈の便宜を汝等に與へんと欲しつゝあり凡ての日本人亦汝等の境遇に對し同情を表し聊かも輕侮の念を懐くものなければ汝等も宜しく安心すべし
汝等が從順にして能く我等の命に從ひ且能く其身体を愛せよ然るときは神は汝を救護し久しからずして本國に歸還するの幸を得るに至らん
終わりに臨み特に戒む當池方は汝等の本國に比し暑氣甚だ強し故に常に身体居室等をC潔にせられは忽ちにして恐るべき病に罹るべし斯くありては汝等の不幸此上なきこ となれば能く係員の命に從ひ凡てC潔を旨とし之が實施を怠る勿れ

・明治37年7月27日●俘虜収容所雑記
本縣俘虜収容所長は委員なる陸軍歩兵少尉中村多兵衛氏か代理し居りしか一昨日松山収容所の委員たりし歩兵大尉今村四郎氏が所長として赴任されたり▲第十一師団憲兵 隊長高橋少佐は丸亀憲兵分遣所長西山定雄氏外憲兵数名を随へ同所に於ける警衛の實地視察として一昨日同所に來らる▲香川郡上笠居村の片岡村長は助役某を随へ一昨日 俘虜を慰問せり
●婦人曾員の俘虜慰問 本縣赤十字社支部の篤志看護婦人曾善通寺分曾員は本日収容の俘虜を慰問し巻煙草を贈與する筈なり

・明治37年7月31日●捕虜収容所雜記
去る廿七日陸軍省騎兵課長淺川騎兵大佐は歩兵少尉大島章次(休職文部視學官)氏を随へ本所を視察されし▲十二聯隊将校の慰問 丸亀歩兵第十二聯隊長渡邊勝重氏以下各 大、中隊長等四十餘名相携へて去る廿八日に慰問捲煙草若干贈與されしに捕虜は其の好意に謝する意にもや頻りに本國の舞踏を演じたりと▲讃鐵の寄贈 一昨日讃岐鐵道會 社の支配人大塚武人氏は原田庶務課長を伴ひ會社員を代表して慰問し巻煙草を寄贈せし由▲捕虜の心事 言語不通なれば夫れと言葉にはあらはされども挙動より見れば現在 の収容所は前収容所より廣大に且つ清潔なると一はスラブ種族と稱すべきものをのみ撰抜したれば自然噺しの合ふ等より頗る滿足の色を現はし極めて柔順なりと▲手風琴  徒然を慰籍せんとてか松山より手風琴を購求し來りしものもありて時々吹奏し居れり▲互の私語 捕虜の四分は妻子あり六分は無妻子の如くなるが如何に好遇さるヽも捕虜 は捕虜にて或る点に於いは不自由を免れざること勿論なれば故國の事を念ひて互に私語合ふも通譯到れは顔見合はして黙するか例にて何事を私語けるかは更に知れざる由な るか此の私語の裏には種々の秘密もあるべく又同情の涙禁する能はざる哀われの物語たりもあるなるべし▲祈祷 宗教の信仰は驚く許りにて三回の食前食後とも賛美歌哀れ に祈祷を爲すもの多しと、現に昨日も正午頃太鼓堂の中にて盛んに祈祷するを聞きたりしか其の唱ふる文句の如何なりしかは知らざれどもCしく勇ましき聲の裏は何とはな く哀れの含まれしも是非もなき▲妻は如何に子は生れたらん 曹長ミシンと云ふは先づ教育ある方にて頗る愛嬌者の由なるか同人は去る三十三年北C役に從ひて功を樹て勲 章に胸間を飾りて歸國し間もなく妻を迎へ琴瑟の交り深く將に一子を挙げる擧けん許りとなりたれは早く初子の顔を見ばやと樂める折柄召集されて六千里外の滿州に戰ひ力 盡きて捕れとなりしものの由にて朝に夕に新妻の事を語り且つ懐妊の子は如何になりけんなど語りつヽくるは聞く者をしてそヾろ涙を催さしむとかや實にさもありなん

・明治37年8月3日●丸龜捕虜収容所の係り員に申す
一日保養運動の爲め歩行させて高松の公園を拜観させてやつては如何です(公園の黒鯉)

・明治37年8月4日●警部長の捕虜慰問
尾崎警部長は昨日午前十一時頃米良丸龜警視と共に鹽屋別院に捕虜を慰問し巻煙草若干を與へたり

・明治37年8月6日●知事と警視の慰問
一昨四日午后小野田知事は捕虜慰問后米良丸龜警視と共に竹村大尉の宅を慰問されたり

・明治37年8月7日●丸龜俘虜収容所雜記
兩部長の観察 第十一師團野崎監督部長、筑摩軍醫部長の兩氏は去る四日兒玉少佐の案内にて本所を視察されたり
◎慰問  其の後慰問されしは  小野田知事、高木視學官、大分縣師範學校訓導幸光記、同縣植田高等小學校校長佐藤磯八、同訓導石川藤太郎、宅郡中津高等小學校長 豊浦益太郎、野上尋常小學校長橋川菊太郎、縣下仲多度郡與北村教育會員惣代柳榮太郎 の諸氏にて知事と視學官よりは巻煙草五千本、他の諸氏よりも同品若干を寄贈 したり
◎慰問と謝辭 少しく身分ある人々か慰問し物品を惠與すれば三百五十の俘虜起立して謝辭を述ふるも露語とて解するもの少なく只パーと云ふ様に聞き取らるヽより此の 間も一の奇談を生せんとせしとありしやに聞けるか謝辭はバコールブラゴダリユ(伏て謝する)と云ふにありと
◎物品寄贈に就て 慰問者として來たらるヽ人々に物品寄贈せざるは稀なる由なるか其手續き極めて簡単に取扱はるヽとなり居れは寄贈者は現品携帯せば直ちに彼等に分配 すべしと而して慰問者の前にて直ちに頒與すれば彼等は一入喜ぶ由
◎俘虜の年齢 三百五十名中卅五名は下士なるが年齢を調査するに最年少者は一年志願兵ピロートル、マルクヤーノウィッチ廿二年(外に仝年の者兩三名あり)にて最年長 者は二等軍曹イワンニヤシン四十一歳なり、又兵卒にてはワシーリポストヲナリの四十歳を最長としてイワン、ポルカーロブの廿一歳(同年者四五名あり)を最年少とす、 而して卅歳以上の者も少なからざるも廿四五歳より三十才迄の者最も多きか如し
◎獨逸語 俘虜は純粋のスラブ人種なれども獨逸に接近せる方面の出身者は本國の露語よりも隣邦の獨逸語を能くするものヽ如くにて通譯との對話は大概獨逸語を以てせり、 此の語を能くする者三百五十名中五名ありと
◎健康 収容以來二週間許りを經過せるも未だ病者を出さヾるは何よりの事なるか毎日一回つゝは懇切に診察し居れり、尤も輕症なる患者(皮膚病なりとか)は弗々ありて 投藥し居れり
◎賄ひ 松山より移送の際は物價高くして給與困難ならんとの説あり係員は一方ならず心配せしに移轉し見れば却て肉類より野菜類の如きも松山市よりは餘程低廉なるを以て 夫れだけ多量に給與し得るを以て彼等は頗る滿足し居れり▲主食物は麭と半麥飯なるか飯は甚だ好まざる模様にて就中米飯は嫌へとも麥を加味すれば食するを以て現在は米七 分に麥三分を加味し居れりと▲副食物の牛肉は随分多量に與へ居れるか肉の外に肉汁三四椀をも與ふることなり居れるか牛肉は六時間以上煮たるものなりと
◎スラブ人と猶太人 同じ露政府下の民なれども其の不和なるは驚く計りにて犬猿も首ならず位の事にては非ず全く敵以上の観念を持ち居れるか如くにてスラブ人は猶太人を 蛭なり人間の血を吸ひ生活する人類の害惡物なりとまで酷評し、猶太人は常に「惡むべき露人と」云へり現に松山に収容せる俘虜中の猶太人が在米國の家兄に寄せし書信にも此 の激語を記しありしと云ふ斯く迄不和なる人種を同一室に収容すれば俘虜と云へる憂悶の上に更に人種的不快を加へ來るも本所は會ても報せし如く兎も角スラブ種族をのみ収 容せることとて俘虜間の和親は係員をして驚歎せしむる許りなりと
◎清潔心 彼等は頗る清潔好きにて毎朝の洗面にも必ず石鹸を用い頭髪を洗ひ且つ刷子を以て頭髪、髯を規則正しく撫で付けることは到底下の日本人にては眞似も出來ざる程 なり、尚ほ十中の八九迄は毎朝冷水浴を爲す由、因に浴場の設備もあれども湯を沸すことは稀にして大概水風呂に入り居れりと
◎衣服は彼等の着用し來りしものと収容后給與せしものとの二着に過ざるが彼等は上衣を着くるを稀にして昼夜とも肌着のまヽ暮し居れり

・明治37年8月9日●負傷捕虜來縣
昨日午前五時頃港川丸にて捕虜負傷兵士五名多度津町に上陸し直ちに豫備病院に至りしか聞く所に依れば右五名は何れも銃傷を帯居る由にて其弾片が身体に侵入爲し居る由なる も松山の病院にては之を確むる事能はず爲めに師團豫備病院にてエツキス光線を以て之を確むる爲めに來りしものにて右施行の上は直ちに前収容所に引返す筈なりと

・明治37年8月10日●俘虜の治療
在松山の俘虜五名和田三等軍醫引卒一昨日來院せしか患者は盲貫銃創なりしを以てX光線にて遺物の所在を照射せしに三名は所在判明治療し即日多度津に赴きしか昨朝の便船に て歸松したり、因に記す右俘虜中に巧みに日本語を繰るもの一名ありしと

・明治37年8月12日●佛國領事の捕虜慰問
在神戸居留地佛國領事ヘド、リュシーフォサリー氏は通譯官長谷川正直來見甲蔵の二氏を隨へ昨日午前五時頃加茂川丸にて多度津港に來り花菱旅館に少憩の上八時廿五分 多度津驛發の列車にてフォサリー氏と長谷川氏は波多野師團長と同乗し善通寺に到り來見氏は丸龜行の列車にて収容所に赴けり又フォサリー氏は歸途十時半頃収容所を訪 はれし由なりし

・明治37年8月12日●俘虜逃走を企つ(一時間の後逮捕さる)
一昨夜午后十時頃仲多度郡六郷村大字鹽屋の鹽屋別院に収容しある捕虜三名が逃走を企てしも一時間の后仝所より約五丁余の鹽釜神社の横手に堆積しありし松葉の内に潜匿し 居りしを同村の播磨屋利吉なる者が發見し軈て捉へたり今當時逃走の模様を記さんに逃走兵士は一年志願兵ピィートル、アルクヤノーウィッチ(22)外卒二名にて仝夜午后 九時半頃事務官が人員点?の際は異状なかりしに仝十時頃外部を警戒の巡査が仝別院の東南隅なる經蔵の外部にトランプの散亂しあるを認め若し逃走者のありしやも知れずと 直ちに哨兵を以て通告せしより宿直員も大いに驚き直に人員の点?を行ひしに前記志願兵の外に二名都合三名の不足ありしより直ちに哨兵をして外部其他要所々々に非常線 を張り捜査に着手せしに前記經蔵に接近せる土塀の忍び返しを四本程取毀ちありしより愈々逃走と確信せしも時間より考ふれば遠隔の地へ逃延びるの猶豫なきより定めし附近 に潜伏し居るならんと捜査中前記の播磨屋利吉より通報ありしにぞ出張中の藤田巡査部長外五名の特派巡査等の手に於て十一時頃前記の場所に於て逮捕せり逃走の原因に就て は不明なるも携帯品は孰れも悉皆所持し居りしと

・明治37年8月13日●逃走を企てし俘虜
一昨夜逃走を企てヽ逮捕されし収容所の捕虜三名は目下取調中なるか聞く處に依れば右兵士の答辯は故郷を思ふの念切なるより出でしものにて其目的地はサガレン島又は ヒリツヒン島に上陸せん目的なりし由を語りし外は一言も發せすと
●捕虜の外套洗濯 目下鹽屋別院に収容しある俘虜三百余名が戦地に於て着用し居りし外套は一昨日其筋に到着せし由にて昨日午前九時頃仝捕虜十一名宛四日間交替の筈 にて第十二聯隊兵營へ洗濯に出掛けしに此事早くも市民の耳朶に入りしより之を見んものと其通路は非常の人にて一時は市中も餘程雜沓を極め

・明治37年8月14日●佛國領事の沈没艦視察
俘虜慰問せし在神戸の佛國領事リユシーホサリユー氏は再昨日來?丸龜町角田に一泊一昨日は小艇を雇ひ前年男木沖に沈没せしカラバン號引揚げの状況を視察し引返し即日 岡山に向け出發せしか在姫路の俘虜を慰問し歸任の筈なりし

・明治37年8月14日●丸龜俘虜収容所雜事
◎慰問と寄贈 其の後の慰問と惠贈物を聞くに高知歩兵第四十四聯隊歩兵大尉元吉?、同吉松正幹、善通寺歩兵第四十三聯隊歩兵大尉野村昌訓、仝一等主計木村正義の諸氏は 去る八日に仲多度郡長松崎次郎氏及び郡内の町村長有志廿七名慰問し巻煙草江戸櫻七千二百本又當日六郷村長尾崎才太氏外廿名慰問天狗印巻煙草一千本善通寺住職松井宥粲師 外眞言宗僧侶十一名慰問し石版摺善通寺境内圖三百五十枚、本派本願寺鹽屋別院輪番小林照界師団扇三百五十本惠贈せり

・明治37年8月14日◎俘虜逃走詳報
當所収容所の俘虜が去る十日の夜逃走せしを間もなく逮捕せしをは巳に略報せしが今當時の模様及び逃走の理由等取調の概要を報せんに先づ△逃走せしは十日の午後九時三十 分頃とおぼしく仝四五十分の頃収容所附近の若者合田宇吉(二十餘年)と云ふか収容所の東方に在る大蔵閣経堂の北側を三名疾走するを認めたり風体は夜眼にて定かならざり しも身長の偉大なりしより考ふれば確かに俘虜と思はる云々と衛兵に急告しければ衛兵は驚□と云ひつヽ哨兵を四方に馳すると同時に今村長に急報したれば取急ぎ出所し左わ らぬ態にて二名の俘虜の挙動を調査することしたり△二名の俘虜とはミシン、サハールクの兩曹長にてミシンは怜悧の性質サハールクは沈着の男なるか此の兩名に警鈴を以て 人員を点検せしめたるに兩人は不時の点検とて大に驚きつヽ將に華□に入らんとしつヽある部下を呼覚まして点検すると三四回に及ひし末三名不足せりと打驚ける光景の□□ より出で逃走せしめし者に非るヽ粗判明しければ所長は徐に人員の不足は道理なり實は三名逃走せしか如依て急に其の姓名を調査せよと命じたり△此の命を受けしサハールク、 ミシンの兩名は直ちに取調べ逃走者は一年志願兵ピョートル、マルクヤー、ウィッチと卒サウエリ、モジャーノフ、仝アレクセイ、バイヌトクオノフの三名なる旨を報告した り△此の出來事を聞きし附近の有志心痛し捜査の爲め若者を多度津、丸龜其の他の地方に出だせば警察署も此の急報を得て巡査を四方に派し草を分けてもと捜索するうち時は 進みて十時半とはなりたり、今村所長は程経るも何等手掛りの報告に接せされば窃かに心痛の折ネ△喧騒たる人聲 耳をつんざきしかばサテは發見ヒしかと聲する方に注意す れば聲は正しく収容所の西北なる闇の裡に起るなりしか間もなく五六名の警官と数名の人民とが前后左右を擁して三名を押送し來りたり△逃走者を受取るや三名別居せしめ卒 の方より逃走の原因等を取調しに一人は無□の餘本國の戀しくなりより機會もあらば逃走せんと一週間前より計画したりと云ひ今一人も略ぼ同様の事を陳述し且つ市街を見物 せばやと思ひしなりと答へて他を云はざるも兩人は衷心後悔する處あるものヽ如くにて欺かれたりゝと獨語せしを一再ならさりしと云ふ然れば主謀者はノウィッチなるを明な るが所長は當初より彼の教唆に出てしもの推せし由にて前記の如く二名を調べしに今や全く夫れと知りたればノウィッチを取調べしに彼は愕然として答ふる様逃走は遽に思ひ 起したるとに非ず抑も日本に捕虜となりし日より機會あらば逃走せん決心なりし然れば常に其の準備を爲し時機の到來を待ちたりしが今宵しも闇□を得しかば二名を教唆して 逃走せしなり然して見事逃げ延びなばサガレン島に行き浦潮艦隊の救いを待つかフィリッピンに逃れて東向艦隊を待つ考えなりしと云ふ△左まで逃走を希ふは何故にと訊へば 鳥獣尚ほ故國を慕ふ予は人間なり故國に歸らんとを欲するは人情ならんやと気焔を吐きたり△却説彼等の携帯品は如何にと云ふに粗なる日本地図と各自にパン五六斤を背負ひ 居りたるも肝腎の路金は一厘も携帯し居らずと云ふ而してパンは数日前より食い餘(一日二斤宛支給)したるものなりとなん然るにても路用なしとは甚だ怪むべき事ならずや △尚ほ三名とも取調ふべき事ある由にて卒二名は本所の檻倉にノウィッチは丸亀第十二聯隊の営倉に投入しつヽありと

・明治37年8月14日◎兒玉少佐の訓戒
本所委員長兒玉少佐は十一日に出所し俘虜中の下士を集めて逃走を企るも目的の達せられざる事より逃走を企つるの愚なる事及ひ謹慎は各自の利益なる事を懇切に訓戒したり

・明治37年8月14日◎佛國領事の視察
在神戸佛國領事館主務ベ、アシケ、トリケンー、ホサリコー氏は通譯三名随へ松山よりの歸途十一日に立寄り俘虜一同に對し「日本にて鄭重なる取扱を受くるとの幸福なるとより 前夜逃走せんとせしものありしとの失体を憾み將來謹慎すべきとを懇説」尚ほ煙草は本國政府へ請求しあれば到達次第頒與する由を述べられしと
◎煙草は不自由なし 俘虜慰問者は大概巻煙草を惠與するを以て今日の處にては彼等も差して不自由なき由にて今村所長は佛國領事にも此の旨特に通し置きし由
◎俘虜に送金 當所の俘虜は松山に収容中に佛國領事より下士に二圓、卒に一圓づつ贈れしまヽにて其の後贈金されずと尤も彼等は優□されつヽあれは別に金銭は要せさるか 如し
◎特待 曹長ミシン、サハールクの兩名は部下の取締に盡力せるを以て特別の待遇を爲し居室を區別しありと

・明治37年8月19日●代議士等の俘虜慰問
去る十五日鎌田上院、遠山、田中、景山、宮井、西山、松家の各下院議員並に久保縣會議長の諸氏相携えて鹽屋別院に俘虜を慰問したりと

・明治37年8月21日●丸亀俘虜収容雑記
◎高知縣視學官の慰問 高知縣視學官濱野虎吉氏は属中野誥氣氏を随え別項記する如く豫備□院慰問の序を以て昨日午前本所に俘虜を慰問を慰問され氏は其の職務上より種々 の視察を爲し且つ平素の行動等を鈴木通譯に就き調査されたり
◎逃走俘虜の現況 先頃逃走せし俘虜ピョートル・マルクヤー、ノウィッチ及モジャーノフ・バイストリオフの三名は一再取調の上丸龜聯隊の營倉に留置し居れる處三名とも 後悔の状ありと因に記す他の俘虜は極めて静穏なりと
◎議員 慰問と物品贈與 鎌田上院議員等が本所に慰問せしとは既に報せしか慰問の際巻煙草一万七千五百本を贈與されしと
◎僧侶の慰問 三豊郡観音寺町観音寺住職丸山法梁、辻村大興寺住職小山智端の両師は一昨十九日に慰問し物品贈與科として金三圓贈られしと
◎自炊 從來賄方は受負なりし處俘虜中に三四名の調理天狗あて自ら調理せばやなと云ひ居りし由なるか本日よりは彼等の希望する自炊になすをとなりたれば定めし滿足せる なるべし但しパンは製造業者より買入るヽ等にて購求入札せしに愛媛縣人某に落札したりと
◎知人の書翰とは ミシンと云へは俘虜中の愛嬌者にて至る處にて愛さるヽ露西亜人には稀なる小男なるか兩三日前俘虜に数通の來翰ありしを鈴木通譯か夫々撰別せる所へ 彼のミシン來りて自分の名宛の書翰あるを見出し雀躍せしが彼れは朝な夕なに可愛の妻よ可憐の女房にナドて音信せさや戀い焦がつヽある折からの書面とて早くも本國に遺せ し可憐の妻か送りし手紙と思ひ定めしものにて通譯の渡すを待たて引奪り難有々々と幾度となく押頂き手の舞ひ足の踏む處も知らぬ許りに喜びつヽ封押切て一二行讀み下せし かと見ればチュウーと齒を切り腹立しさふに其の書翰を放け棄て「妻おりませぬ  ゝ  」と繰返し ゝ しは餘度目にも遺恨限りなく見へしか其の書面は松山なる同じ俘 虜より送り越せしものなりしとかや
◎将校と下士卒 當所は下士以下の者のみなれは差したる無理も云はねば注文もなさゞれと松山に於ける将校の我儘なるは實に驚く許りなるか就中彼等将校の眼中には部下の 下士卒なるものなきが如く自己一身の慾を充たす爲めにはあらん限りの希望を無遠慮に請求すれども部下の爲めに一言の希望を述ふるものなきと是れなり然るに斯る人情なく 士官らしからざる上官を頂きて不平らしき言葉を發せざる下士卒は又他に於て多く見るべからざる驚くべきものなりと云ふ 



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