開隊頃の国内事情
昭和18年後半の国内状況は、一層若い世代の参戦が求められ、6月25日、学徒戦時動員体制確立要綱が閣議決定。7月29日、キスカ島日本軍撤退。 10月2日、学生、生徒の徴兵猶予が停止。12月14日徴兵適齢臨時特例公布、徴兵適齢が1年引き下げられ19歳となった。 昭和19年8月23日、学徒勤労令、女子挺身勤労令が公布された。 大学、高校から中学校まで(いずれも旧制)ほとんどの学校は授業を中止して、学生たちは飛行場建設工事現場や、各軍需工場等へ配置された。 中学の低学年の生徒の中には、松根油づくりの作業に従事した者もあった。このころ航空機のガソリンは極度に不足し、飛行訓練も充分に出来なかったようである。 そのため、松の根を掘り、乾溜して油を抽出。これをガソリンと混合して航空燃料とした。高オクタン価の米軍機に対して、低オクタン価の日本機である。 精神力だけでは勝負にならなかった一例である。 飛行訓練始まる 詫間海軍航空隊には若い練習生が続々と入隊して来、実用機の教育が進められた。航空隊東側の水偵ポンドでは、予科練を卒業した飛練生が搭乗発進前に 大声で訓練課目を申告した後、九三水中練(九三式水上中間練習機)で海上を滑走、離着水訓練を繰り広げていた。 一方、九七大艇(九七式飛行艇)は、風向きにもよるが、詫間港を西向きに離水、高谷岬を回り、詫間小学校上空あたりで4基のエンジンを停止して、 滑空で詫間湾へ着水した。そして、再びエンジンを始動、離着水を繰り返し練習していた。大艇がエンジンを止める と爆音が消え、後はプロペラの風を切る音だけが聞こえていた。 開隊ごろは二式水戦(零戦に単浮舟をつけた戦闘機)の模擬空中戦が行われ、二機の水戦が追いつ追われつ、宙返り、木の葉おとし、翼端から飛行雲を 引きながらの巴戦等、小学校の運動場から見ていると、一機が上空で突然エンジンを停止、校庭へひらひらと落ちてくるので、皆が逃げかけたところ、 エンジンの音が一段と高くなって飛び去った。木の葉落としの秘術である。 零観4機の編隊飛行、二式水戦3機の編隊離水訓練等を見て、子供は一様に空に憧れた。 詫間湾内、詫間上空は連日練習機が乱舞していた。九三水中練(九三式水上中間練習機)と、九四水偵(九四式水上偵察機)が、高谷岬から詫間小学校 上空で西に向きを変え、詫間湾へ着水、再び離水したりして、詫間上空はそれらの練習機で一杯であった。 時には、着水に失敗、ジャンプしたり転覆する機も見られた。救助艇が(海軍では内火艇と称していたようである)出動していた。 隊員たちの休日風景 開隊ころの海外での戦闘状況は、昭和19年2月6日マーシャル群島失陥、6月15日、米軍サイパン島に上陸、6月19〜20日、マリアナ沖海戦で日本海軍敗退、 7月6日、サイパン島失陥、8月10日、グアム島失陥と、日本軍にとって戦況は不利であった。 しかしまだ、詫間海軍航空隊は安泰であった。日曜日は上陸(海軍では公務以外で隊外へ外出すること)して休養を取っていた。 詫間海軍航空隊は、艦船と同様、司令以下全員隊内で生活をしており、休日には隊外の民家に下宿し、休養していた。 土曜日の昼ごろ、上陸組は隊本館前に集合、先頭は軍楽隊、続いて下士官で、最後尾は水兵が並び、週番士官の訓示を受けた。 本館前から隊門まで軍楽隊の先導で行進し、正門前で軍楽隊は右側に停止して、行進曲を演奏した。その前を隊伍を組んで外出していた。 隊門を出た下士官は自転車で、兵は歩いてそれぞれの下宿へ散っていった。また、士官の場合は、海軍バスで隊から詫間駅まで送迎していた。 |
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民間に協力する消防隊
詫間町の消防力は、公設と私設があり、それぞれが手押しポンプを持っていた。大勢が手押しポンプで水を飛ばして消化するのである。当時、浜は塩田 が多く、平釜の製塩所がたくさんあった。屋根が藁葺きであり、煙突からの火の粉の飛散により、たびたび火災が発生していた。航空隊が開隊し、隊内に 消防自動車が配備されてから、火災の際、航空隊より応援出動することがあった。 隊員は訓練されており、行動は実に手際よく、頼もしいかぎりであった。 新兵器開発の遅れ 昭和17年後半から18年にかけて、無人で目標を捕らえる十文字翼付きの飛翔体「奮竜」ロケット誘導弾が研究された。レーダーと電波誘導装置をフルに 活用し、軌道を自動修正しながら目標にぶつかるというもので、開発に着手したのだが、艦政本部や技術上層部は誰もこれを取り上げようとしなかった。 「人間不在の兵器などは信頼できない」というのが理由であったという。 しかし、昭和19年6月、ドイツがロケット誘導弾V1号を開発、実戦に使いはじめると、状況が一変、開発許可が下りたが、既に手遅れであった。 レーダーにしても、その重要性と将来性から早期開発を艦政本部に働きかけたが、「そんなもの不要だ。我が海軍の兵士は夜でも目が見える」と開発 は許可されなかった。昭和16年、ハワイの米軍艦には、日本の八木博士が発明した八木式アンテナが取り付けられていたという。 これらの思想が肉弾特攻へとつながり、数千名の若者を死地へ赴かせたといえるのである。 艦政本部は、次々と空母や飛行機、熟練した搭乗員が失われようが、大艦巨砲主義の亡霊から脱却できなかったのか、あるいは打つ手がなかったのかもしれない。 私等が今思うとき、海軍兵学校出身者を隊長とする特攻もあったが、人数が少なく、戦死者が増えるに従い、ほとんどが素人軍人の予備学生出身者や、若い予科練 出身者の多くが特攻戦死している。 「“愛するが故に、内面の葛藤にゆれつつも 愛しき人への愛の絆を断ち切り 祖国の未来に殉じた若い人々のことを” 今の人はどのように感ずるのだろうか。 歴史を正しく教育せず、この時代を全否定する歴史観、それは日本の歴史を自虐する史観の他ならない」 |
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