塩飽史
『塩飽史』
江戸時代の公儀船方
吉田幸男 著 より



1.初めに

塩鉋船隻、特に完堅精好、他州に視るべきにあらず その駕使郷民また純朴僞らずよろしく特に多く取るべし
                                     奥羽海運記 新井白石

塩飽船は精巧、優秀な船で他に比べる船はなく人々は純朴でおおいに取りたてよと幕閣より高 く評価されている。この文章は新井白石の著作ながら川村瑞賢の報告をそのまま記載している。

江戸時代、海上輸送は盛んとなり人々の生活を豊かなものにし「世に舟あればこそ一日に百里を 越し、日に千里の沖を走り、万物の自由を叶へり」井原西鶴の著作もでてくる。江戸時代、日本 全国の海上輸送の中心となり弁才船を造り日本の海上交通を完成させたのが塩飽の人々である。

弁才船は日本海を走れば北前船、大阪と江戸間を走れば菱垣廻船、攤廻船と名前を変え、細部は 時代や航行海域に適するような改良が加えられるが原型は塩飽生まれの弁才船である。

関ヶ原の戦い後、塩飽の「年寄」宮本伝大夫、入江四郎左衛門は琵琶湖東岸、草津で待ち構え小笠原越中 守の取次により家康に戦勝祝いを述べ領地安堵を願い出ると上機嫌の家康は大坂城にて渡すとの 言葉をかけられ「秀吉からの領地安堵の朱印状」の内容のまま引き継ぎを許され以後、公儀船方 となる。

公儀の要請は全国の海上輸送全般に及び大名取り潰し時における公儀役人の移動、公儀 巡見使の海上移動、目付、長崎奉行の瀬戸内海の渡海、大阪と江戸間の公儀御用、江戸城、大坂 城築城の建材を海上輸送し、江戸時代初め米不足に悩む江戸、大坂へ日本海側より御城米運送を 行っている。ほぼ全国の海上における公儀御用全般を塩飽か行うことになった。御城米運送は東 廻り西廻り合わせて毎年7万5千石は恒例となった。

弁才船建造址には陸奥湾沿岸の蟹田湊と川内湊を選び大量建造している。

幕末に至り、洋式海軍伝習が始まると鳳凰丸、咸臨丸、開陽丸等洋式軍艦の操船を命じられ総員、 数百名で咸臨丸渡米時には塩飽より37名が参加している。

【注】公儀では所属軍艦に「丸」はつけないと決定している。塩飽勤番所に残る年寄の日記においても咸臨御    船、開陽御船と書かれている。当時の日記等の題名には咸臨丸、鳳凰丸と記載している。ここでは資料    により「丸」があるなしが混在している。  

瀬戸内海は静かな内海と思われるが海の流れは速く数ノットに達し、1日4度真反対に流れを 変え、散在する島々の間をすり抜け、複雑怪奇な流れとなり航海するには日本一難しい海となる。

塩飽の人々は瀬戸内海中央最狭部の備讃瀬戸に散在する塩飽諸島を本拠址として有史より海上輸 送に従事してきた。戦国末期に至り、信長、秀吉、家康等の中央権力者より朱印状を賜り百姓身 分ながら全国唯一領地持ちとなっている。

中世より近世に至る時代、瀬戸内海において大きな海上勢力となったのが東の塩飽、西の村上海賊である。 戦国時代末期、信長は一向衆相手の第一次木津川決戦に敗れた数ヶ月後、石山本願寺へ武器、 兵糧補給を行う安芸門徒衆の補給路切断を塩飽に命じ塩飽は宇多津沖にて救援に向かう船団を 壊滅させている。大部分の瀬戸内海の海賊は本能寺の変の後、豊臣秀吉の配下となるも能島 村上海賊は秀吉に敵対し歴史の表舞台から消えていった。

中央権力者は信長、秀吉、家康と交代していったが塩飽はその都度政権組織に組み入れられ海 賊から水軍へと変化し自らの意志で行動する時代は終わりを告げるのである。

豊臣政権下の小田原城攻めの際、北条氏は関東一帯の食料を城中に運び込み他はすべて焼き払う 「逆兵糧攻め作戦」を展開している。北条軍は秀吉軍の状況について「敵は兵糧なく野芋を掘って 食う有様で兵糧一升百文、雑炊一杯十銭にて買う有様」と書き残している。

豊臣秀吉の兵糧奉行長束正家の命により海上輸送を試みるも大阪より出航した約百隻の兵糧船 は鳥羽浦を荒天の為出港できず天候回復を待っていた。各船躊躇する中、塩飽船は荒天なるも 出港、遠州灘を突ききり兵糧米を小田原城下に運ぶ事に成功し、秀吉軍を飢えから救っている。

この快挙に秀吉は喜び塩飽水主650人に対し塩飽の領有を認める朱印状を出し日本初、船方の 領地所有が認められた。塩飽の人々の勇敢さもさることながら荒天の遠州灘を航海できる弁才船 を持っていた為である。

 天正18年(1590)小田原御陣の時、太閤様御手船百艘ならびに塩飽の船数隻にて御兵糧, 大坂より小田原へ積廻申し様にと仰せつけられ島中の船加子数艘まかりいで御手船者勢洲(伊勢) 鳥羽浦へ乗とどめ彼地に逗留致し延引し塩飽島の船は残らず小田原へ乗届、御陣の御用 にたち相勤もうし候、これにより水主船頭へ御褒美くだされ頂戴つかまつり候事

 豊臣政権下で行われた朝鮮出兵時、塩飽は大船32隻で参加、大名以上の役務をこなし、釜山、 名護屋に便船を配置し石田三成、大谷吉隆等の最重要人物の渡韓にも従事し、大阪と名護屋間の 国内兵站を確保した。この功績により西宮より赤間まで瀬戸内海全域を塩飽に与える「取次、浅 野長政」よりの朱印状を受け取っているが残念ながら秀吉の死去により空手形に終わった。

関ヶ原の戦いでは有力水軍はすべて西側につき敗北、東軍方は塩飽のみとなった。関ヶ原の戦い 以降塩飽は唯一の公儀の海上勢力となった。塩飽は関ヶ原の戦いの後、家康より領地安堵の朱印状を 賜り、小笠原支配船手組配下となり豊臣政権下と同様650人の領地となるのである。塩飽は公 儀代官も駐在せず、完全無税で領地は650名の共有で、日々の政治を行う年寄は選挙で選び重 要な案件は全員参加の寄り合いで決め、この権力形態を塩飽島中と呼んでいる。

塩飽船は公儀御用に従事、大阪冬の陣、夏の陣にも活躍、大阪と江戸間の海上輸送に従事、 大阪城、江戸城の建築材料を運び、諸国巡見使、公儀目付、長崎奉行瀬戸内海渡航、生駒家(讃岐)、 加藤家(熊本)、福島家(広島)の城の押収、移封時における上使を乗せ、配流先まで運び全国の 海を航海している。

塩飽廻船は秀吉、家康から朱印状を頂き、公儀御用に従事し、他の商用廻船とは発達過程が相違する。 塩飽はルソン貿易や朝鮮出兵を通じ瀬戸内海航行用から日本海や太平洋側沿岸を航海できる弁才船を 造りあげた。弁才船は瀬戸内海航行用に造られ激しい潮流下でも安全に操船できるように巨大な舵、 単純な一枚帆で機動性を確保し、積荷を多く積め、建造が容易で早く船体は砂浜に引き揚げが容易で 船食虫等の手入れも楽であった。塩飽で生まれた瀬戸内海航行の大型船は弁才船と呼ばれ公儀御用に 使われその優秀さから日本における江戸時代、大型船の標準となり江戸時代の船といえば弁才船で それ以外の船を見る事さえ難しくなるのである。

明治になっても北海道開拓を含め日本全国の海で使われている。弁才船の語源であるが塩飽島北方 400メートル程の弁天島(直径約50メートル)が語源になったと思われる。弁財と弁天は同義語である。

江戸時代の初め関東地方は大火、自然火害が起き慢性的な食料不足となった。公儀より塩飽島 中は江戸での不足する食料を日本海側公儀領から大阪、江戸への御城米運送を命じられた。当時、 日本海側公儀領では江戸、大坂への輸送手段が少なく野積みにされたままの米も少なくなかった。

御城米運送は急を要することで塩飽だけではなく全国的に命じられたようである。塩飽の弁才船 による御城米運送は好成績を収め、4代将軍家綱時代の慶安4年(1752)頃には輸送量も増大し東廻り、 西廻りの御城米運送が大量に行われている。

もとより日本海側のみでの海上交通は盛んで敦賀に陸揚げ、琵琶湖経由し大阪へ運ばれていたが 塩飽船は下関回りで直接大阪へ運び敦賀〜琵琶湖〜大津の運送は減ってゆき日本海物流が変化している。

塩飽島中は公儀より大量の御城米運送の要請を受け、塩飽牛島の丸尾五左衛門は南部領下北半島川内湊、 津軽領津軽半島蟹田湊に船大工を派遣し大規模な弁才船建造を開始している。弁才船建造は鉄で木を縫 うと称される程鉄材が不可欠である。津軽領蟹田は津軽藩唯一の大規模な製鉄が行われている場所で川 内湊は鉄器で有名な南部領で両湊とも多くの鉄が入手可能で下北、津軽両半島はヒバの美林で覆われ弁才船建造 には絶好の土地であった。

東廻り、西廻り即ち直接江戸、大坂まで御城米大量運送が始まり運ばれる米は税として徴収されたもので公儀に とって無料といえよう。大消費地、江戸大阪では高値で売れ、大きな収入となり塩飽船は文字通り宝船となった のである。

約350年前に塩飽より津軽領蟹田に派遣された丸尾一族の御子孫、並びに下北半島川内湊に派遣された後留萌 に移転された塩飽家の御子孫を見つけ出し再会できた事は大きな喜びであった。蟹田丸尾家の活躍は津軽藩 日記に膨大に残されており一挙に塩飽丸尾本家の実態も解明できた。

最盛期には川内、蟹田湊両地において年間数十隻にも及ぶ弁才船を建造し塩飽だけではなく加賀、 瀬戸内海沿岸地方の需要にも応じている。川内、蟹田両湊での造船業は独自の発展を遂げ多くの 船大工が育ち、造船技術は下北半島一円に広まるだけではなく東北各地、北海道にまで伝搬し、 同時に塩飽廻船の黄金時代を迎えるのである。時代を経ると塩飽より伝えられた弁才船造船技術 を身につけた続豊治(父母は下北川内の出身)はじめ多くの船大工達は箱館丸など北海道等での 洋式帆船建造にも従事している。

 江戸中期、吉宗が将軍となり別名米将軍と呼ばれ米の流通が見直しとなり御城米運送は江戸商 人筑前屋の差配に替わられ塩飽廻船の優先特権はなくなった。御城米運送が軍事輸送体制から一 般的商品輸送に変化したのである。弁才船建造技術及び瀬戸内海航行、大阪〜江戸、西廻り、東 廻りの航路の操船技術が一般化し、多くの商用廻船が生まれ公儀御用の塩飽廻船でなくとも可能 となっていた。御城米7万5千石を運んでいた塩飽廻船は一挙に壊滅し困窮するが弁才船建造の 高度な技術を生かし陸上建築の場で活躍するのである。

塩飽大工は讃岐の金毘羅松尾寺金堂や善通寺五重塔を建築し、備前では倉敷の民家群、 国宝吉備津神社、国分寺五重搭など多くの堂宮を建築している。塩飽大工が建てた讃岐、 備前の堂宮は数百に迫り商家、大邸宅を加えれば数倍以上になるであろう。 岡山県における主要堂宮建築の約三割は塩飽大工の手によっている。岡山地方では大工は塩飽、 屋根は芸州(広島)、左官は石州(島根)、石工は宮浦(岡山)との言葉も残っている。

 幕末、米国よりペリー来航し開国を迫られ、砲艦外交に対応する為、洋式軍艦を買い入れ海軍 伝習が始まると水主として塩飽より数百名の者が招集され、浦賀、品川、長崎海軍伝習所に配置 され1軍艦あたり30名から50名も乗り組んでいる。日米修好条約締結の随伴艦として咸臨丸の渡米 時には37名、小笠原探検には咸臨丸、朝陽丸、千秋丸合わせて127名もの塩飽の人々が乗船している。 軍艦開陽丸発注に伴い遣欧留学生には塩飽より古川庄八、山下岩吉両名が選ばれオランダ留学を果 たし、公儀軍艦には総数500名程乗り組んでいる。衝突事故を起しか海援隊のいろは丸には佐柳高次、 紀伊徳川家所属の明光丸には長尾元右衛門が乗船しており両名は塩飽の人であり佐賀藩始め洋式軍艦 を保有している藩に多くの塩飽の人々が雇われ乗り込んでいる。

 長崎出島のドイツ人ケンペルは元禄4年(1691)と翌年の2回江戸へ旅し参府紀行を残し塩飽の島々 は瓦屋根の家並みが続いていると記述している。余程珍しかったのであろう。塩飽勤番所も現存する 唯一の徳川幕府の役所で織田信長から歴代将軍の朱印状がずらりと並ぶ様は圧巻である。

皇太子殿下(現天皇)は大学卒業論文執筆の為に勤番所御訪問され多くの資料を持ち帰られている。 塩飽の島々の民家は塩飽大工の手に寄り非常に美しく、中でも塩飽島笠島浦の民家群は重要伝統的 建造物群保存地区に指定され、城下町の町並みを持つ民家群は美しい。塩飽の各浦にある神社は集 落の中心部に広大な敷地を持ち、社殿も塩飽大工の見事な腕により美しく造られながら他で見られ る寄付金額を刻んだ玉垣も見られない。廻船持ち一人が全額を出し、自慢するでもなく当然な事と して豊かな島の経済を表している。

 塩飽島は京都に広大な寺領を持ち秀吉の桜見物そして国宝七万点に迫る寺宝を持つ京都醍醐寺 の開祖聖宝、理現大師の御誕生地で浄土宗開祖法然上人流刑中の滞在地でもある。筆者は塩飽島 で生まれ先祖は公儀海軍に人材を派遣した役所の責任者さらに成臨丸渡米の子孫として郷土の歴史 を後世に残す事は義務ではないかと思い筆を執った次第である。

【注】水主と水夫をかき分けているが同意語である。弁才船等旧来の日本において船員を表す言葉が 水主で洋式軍艦の登場と共に水夫との記載が見られる。当時の文献通りの表示にしているために混在 している。
つぎのページ