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塩飽史
『塩飽史』 江戸時代の公儀船方 吉田幸男 著 より |
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2.江戸時代以前の塩飽 塩飽よいとこ 一度はおいで 塩飽絵の国 唄の国 瀬戸の内海 塩飽の島は 青いサザエか ささ栗か 塩飽は備讃瀬戸に散在する島々からなり青い空、青い海、真っ白な砂浜と一年中緑の松林が織 りなす風景はたとえようもなく美しく日本初の瀬戸内海国立公園の中央に位置する。夏は四国山 脈が雨を止め、冬は中国山脈が雪を遮り、一年を通じ晴天が多く温暖である。台風や津波なども 地理的要因から大きな被害は受けていない。塩飽の海は東からと西からの潮流がぶつかり合い干 満の差は数メートルに達し、赤潮など史上に見る事もなく年間を通じ美しい景色を呈している。 瀬戸内海で赤潮に襲われても養殖いかだごと塩飽の海に引っ張ってくるのは見慣れた風景である。 中国、四国山脈の山々に囲まれ強い風は吹かず、多島海の海は荒れる事なく年間を通じ静かで台 風さえ四国山脈が壁となり津波、高潮等自然災害もまれである。他国の船が塩飽の海に入る事は 難しく大きな干満の差により数ノットに達する潮流を発生させ、海底の岩は暗礁となり、海底の 砂場は洲となって現れ潮流は一日4度真反対に流れを変え、美しく見える海も複雑怪奇な海なの である。 塩飽は、遣隋使、遣唐使の時代より船を操り、朝鮮、中国、インドシナ、安南、ルソン等にも 進出している。藤原純友の乱において塩飽はその中核となり近くの松島、釜島を根拠地としてい る。純友は瀬戸内海東西海運を遮断し、備前播磨の3千騎、五畿内の6千の兵を迎え撃ち敗走さ せたがその主力は塩飽で塩飽か朝廷の懐柔により純友を見限ると即座に敗走し非業の死を遂げる のである。塩飽島の近くには純友が立てこもった松島があり日本唯一の純友神社が祀られ近くの 櫃石島は純友の財宝を保管した島としての名前がついている。 源平合戦の最終局面は京そして福原まで追われ、讃岐屋島に兵営を移した平家を源氏がどのよ うに攻撃するかであった。塩飽は平家方で屋島北方海域に展開し、山陽道水島付近から瀬戸内海 を渡り屋島を攻撃しようとする源氏を警戒していた。源氏の木曾義仲軍は備前水島より屋島をめ ざし瀬戸内海へ漕ぎ出すも海上にて塩飽の攻撃を受けるとたちまち敗退し屋島の平家は福原帰還 を果たした。源義経は鵯越、一ノ谷合戦に勝利し平家は再び屋島に引き返さざるを得なかった。 義経は塩飽の展開する海域を避け、阿波に上陸し讃岐を陸路で駆け抜け屋島の裏側、壇ノ浦(兵 船集合場所)から奇襲すると平家は安徳天皇を連れ塩飽に逃げざるを得なかった。 源氏は塩飽島攻撃を告げると塩飽は安徳天皇、平家に退去を求め、多くの仏像、財宝、女官等を 塩飽に残し西に落ち延びていった。足手まといになるとして多くの女官達は自決し、なきがらを 葬った五輪塔が多く残っている。塩飽の中には平家に従った人々も大勢いたようで長崎西彼杵半 島天久保、北九州柄杓田(旧名塩飽谷)等に多くの塩飽武将伝説を残している。現在も塩飽島甲 生浦には安徳天皇を祭祀した徳玉神社があり近くの東光寺には薬師如来像が残っており重要文化 財となっている。この薬師如来像は平家が塩飽に持ち込んだとの伝説も残っている。 後の時代ながら倭寇となり東南アジア方面にも進出し、持ち帰った仏像などが島の寺々に現存する。 兵庫北関入船納帳も林屋辰三郎氏によって発表されている。室町幕府は塩飽船が兵庫の関を 無視し寄航せず税を払わないとして幾度も叱責の文書を出している。兵庫北関入船納帳の引用が 盛んに行われ、納帳の記載のまま地名入り入港隻数が事実のように一人歩きしている。塩飽船は 警告を受けるぐらい兵庫の関には寄港しておらず実態を反映していない兵庫北関入船納帳の数字 をそのまま記載するのはどうかと思われる。 戦国時代の瀬戸内海渡航に従事していた塩飽船の記録である。天文19年(1550)「梅霖 守龍、周防下向日記」梅霖は京都東福寺の僧で周防国に税の督促に向かう時の日記である。 11反帆(200石積程か)船頭は塩飽島の源三である。客は約300名、船中は寸土なき状態と あり身動きできないほど人を乗せていたと思われる。9月14日朝、堺湊出港し夕刻、兵庫津 (神戸)着、翌日迫坂浦(赤穂市坂越)風待ち18日出港、同日牛窓着、19日昼頃、備前、日比 (岡山県玉野市)沖で海賊船1隻が来て、本船と問笞す、賊は矢を放ち、本船衆これを欺いて 矢じりを並べ鉄砲を放つ、賊船疵を蒙る者多くすぐに立ち去る。交渉決裂し戦闘状態に入った と思われる。海賊船より優秀な武器で武装していた塩飽の客船は打ち払ったと思われる。 同日午後4時頃、塩飽浦に着岸して一宿に投ずとあり、塩飽客船が鉄砲で重武装しており300名 もの旅人を宿泊できる旅籠を日常的に用意していたのであろう。注目すべきは鉄砲の年代であ ろう。「鉄炮記」によれば種子島に伝来したのが天文12年(1543)とされており伝来よりたった 7年で塩飽の客船が鉄砲を手に入れ武装している事になる。鉄砲の入手が異常に早く塩飽の経済 力を感じさせる。梅林守龍も芸予の海では海賊より逃げることはできなかった。天文20年(1551) 4月1日午後2時頃、周防大内氏のもとから帰る途中、梅林守龍の乗船した船は宇賀島賊船15隻 に取り巻かれた。15隻もの海賊船に取り囲まれれば戦意も失うであろう。襲われた場所は尾道 水道と推定される。船頭と海賊の交渉は難航したものの翌日朝方になって過分の礼銭を払うこと でようやく開放されている。 戦国時代、塩飽は瀬戸内海東部を村上海賊は西部を勢力下においた。村上海賊は芸予の海に関 を設け通行税を徴収する海賊集団であった。村上海賊と塩飽の関係であるが永暦年間(1160年前後) 讃岐の守護職、村上讃岐守、源清長は塩飽島に渡り、先祖伸宗のゆかりの地である伊予の大島に渡り、 本庄村に築城して土着したのが村上海賊の祖である。秀吉の時代に至り村上海賊は力関係を見誤り、 秀吉の船を停船させ帆別銭を徴収し怒りをかうのである。天正16年(1588)秀吉は海賊停止令を出して 全国的に海賊行為、帆別銭徴収は禁止され村上海賊は収入を失い歴史から消えるのである。 戦国末期、能島村上武吉は小早川水軍に攻められ孤立、塩飽は救出に向かい大きな被害を出し ながらも村上武吉の長男元吉を救出、塩飽与島で保護している。塩飽は村上海賊に連携しながら 海賊行為は行わず海上輸送に従事していた。塩飽付近から東の海域は海賊行為に適していない。 船が隠れる島が少なく、遠くまで視界が効き襲う前に発見され、近づこうにも余裕をもって逃げ られ、潮流も芸予にくらべれば穏やかである。この時代、船の推進力が限られ襲う方も襲われる 方も同じ漕ぎ手、帆、船であれば永遠に追いつかず襲う事はできない。万一追いついて襲撃に 成功しても沈没させればくたびれもうけとなるのである。積み荷は無傷で手に入れないと海賊行 為をする意味はない。短時間に多くの船で取り囲み、逃げる意思を挫き、金を払わなければ通過 できないと思わせなければ成功しない。中世頃は塩飽の海が瀬戸内海の主要航路ではなかったこ とも影響しいる。瀬戸内海の航路は児島と中国地方の間であった。当時は児島半島ではなく、全 くの島、児島であり、江戸初期頃より高梁川の河口が堆積物により埋まり航路として不適当になっ ている。塩飽の海では海賊行為できず海上輸送に専念したのである。梅霖守龍の乗船した船に しても塩飽から東での海での海賊行為は失敗し、芸予の海では成功している。塩飽は海賊行為に 適さない地勢なのである。芸予の海で村上海賊が帆別銭や金を徴収していたことに対し海の道案 内をしていたとか弁解しているがやっているのは海賊行為そのものである。 海賊について 日本は戦国時代といえども治安は安定しており外国人宣教師でさえ自由に安全に行動し、薩摩 の武将島津家久は伊勢詣りをしており塩飽の城に立ち寄っている。世界の海賊といってもバック には国家がついており英国などは海賊行為で強国になったといっても良い。完全独立海賊はなか なか難しいのである。各国政府は海賊許可状を発行し、自国船を襲うことは禁止し敵対国の船を 襲う事とし戦果の一部を国庫に納入するように義務づけている。海賊船といえども造船所、メン テナンス、食料、船員等の調達が必要で母港が必要なのである。世界的には航海中の商船を海賊 が襲う割合は少なく、海上において戦闘を行い、沈没させれば得るものはなく襲う方もいつも無 傷ではすまないのである。一番効率的な海賊行為は湊で船員が下船中に襲う事である。英国政府 の許可状を持った海賊ドレークはスペインから財宝を奪っているが英国の国家予算の1年分以上 であった。ドレークはスペインの太平洋側植民地から集めた財宝をパナマ渓谷経由大西洋側に運 ぶ途中のラバ隊を襲撃し奪ったものである。海賊とはいいながら大仕事は陸上で行っている。獲 物の船を沈没させる事を目的とするならば海上戦闘も可であろう。海賊行為は相手船の積み荷を そのまま略奪しなければ意味はない。 入港中の船では船員は船を離れ上陸し、少ない人数しかいないので船ごと奪うことが安易であ る。守る方も海賊対策として港には砲台設置し要塞化している。江戸時代開かれた長崎港には魚 見岳台場(砲台)、四郎ヶ島台場、女神台場等の砲台があり、函館港はアメリカ方面向け大圏コー スにあたり重要港で弁天台場(砲台)がっくられている。江戸でもお台場等要塞を付属させてい る。それでも長崎港は英国軍艦フェートン号の進入を許している。 登舷礼、登檣礼、礼砲等は事前に戦闘を防ぐ行為である。登舷礼は航海中など海兵が甲板上 で整列し大砲等武器の側から離れている事を相手に見せ、登楼礼は入港時など大砲から離れ、マ ストに登り港を攻撃しない意図を示す行動で礼砲は打つと大砲は高熱となり冷えるまで待つ必要 があり次の発射まで時間がかかり攻撃する意図がない事を示すためである。 塩飽に残る信長の朱印状 塩飽には「信長の朱印状」が現存するが史家の間で論争になって いる。はっきりした意味が不明である。 堺津に至る塩飽船上下の事、先々の如く異儀あるべからず、万一違 乱の族これあらば成敗すべき者也 天正5年(1577)3月26日 天下布武 朱印 宮内卿法印 戦国時代末期、塩飽は中央権力者達の政権争いの渦中に投げ込ま れる。織田信長の瀬戸内海進出により旧来の力関係が崩れてゆく。 信長による石山本願寺攻め開始時では塩飽、村上海賊、安芸門徒等 の瀬戸内海の海上諸勢力は毛利氏を中心に反信長勢力でまとまって いた。毛利氏にあって海上勢力は小早川隆景が握っていた。天正4 年(1576)7月13日、第一次木津川河口合戦は毛利勢の圧倒的勝利に 終わり、安芸門徒、村上海賊は石山本願寺へ兵糧、武器の搬入に成功 している。数ヶ月後、天正5年(1577)2月、塩飽は宇多津沖にて石山 本願寺救援に向かう安芸門徒衆を攻撃、全滅させ石山本願寺への安定 的補給を遮断している。宇多津沖海戦より約1月後、信長は堺代官松井 友閑に先に記述した塩飽に関する朱印状を出すのである。天正6年(1578) 11月6日、第二次木津川口の戦いで、信長は九鬼水軍の巨船を用い毛利、 村上海賊を破り石山本願寺の落城を確実にしている。 前述の朱印状は塩飽に関する事ながらなぜ信長から松井友閑に出されたのか。 松井友閑の手元にあるはずの朱印状がなぜ塩飽に存在するのか。朱印状の先々 の如くの先々とは何か。なぜ塩飽船の事を信長は堺代官松井友閑に命じたのか 等々である。 安芸文書知新集は宇多津沖海戦を天正5年(1577)2月とし安芸国仏護寺の資料 にも仏護寺僧、唯順が天正5年2月宇多津沖にて戦死したとの記録を残している。 信長が大阪湾、淡路の制海権を握るのは天正6年(1578)で九鬼に巨大船を造らせ 毛利勢に勝利した時点である。毛利は天正8年(1580)までは瀬戸内海東部におけ る制海権を確保しており、三木城干し殺しと呼ばれる戦いで妨害を受けず飾磨湊 での補給作戦を行っている。 天正5年(1577)2月、塩飽は信長の要請により宇多津沖で安芸門徒衆を襲撃し石山 本願寺への補給路を断っている。遮断1月後、信長の朱印状がどのような目的を持って 出されたのかが一番の問題であろう。塩飽か勝手に安芸門徒を攻撃したとは考え難く 攻撃しても我が身が危なくなるだけで意味はない。この攻撃は信長の要請によるもの で安芸門徒の補給を断つ事の利益者は信長以外いない。塩飽は信長の為に安芸門徒を 宇多津沖にて襲撃したが報償はいったい何か気になるところである。天正5年(1577)頃、 信長は瀬戸内海東部地域の制海権も持っていないのになぜ制海権に言及しているのか。 信長は堺代官松井友閑に塩飽船に関する事項を命じているがその目的はいかなるものな のか。従来、塩飽においてこの信長朱印状は「塩飽より堺までの海域」において75尋(約135m) 占有する権利「触れ掛かり」を保障した朱印状であると解釈されている。朱印状は天下人 が出し抽象的な事を書く必要はなくほとんどの朱印状は読めば直ちに分かるはずであるが この朱印状は明確に意味が読み取れない。塩飽に残る多くの朱印状は具体的で内容がはっ きりしている。 信長にとって毛利の本拠地安芸国と大阪、石山本願寺との中間に位置する塩飽を味方に する事は補給路を断ち、戦いに勝利を意味する。信長の家来である堺代官、松井友閖は塩飽 を味方につける事を命じられていたであろうしどのような事もしたであろう。塩飽が信長側 につけば毛利勢の石山本願寺への補給路は断たれ一挙に落城に向かうのである。先に述べた 「触れ掛かり」が江戸時代の塩飽船を指した言葉であれば納得がゆく。江戸時代、瀬戸内海 や大阪湊において塩飽船に対して他領の船は進路を譲り、近寄る事はなかった。この事が信 長の朱印状と結びついた可能性は考えられる。祖母は我が家の持ち船「幸力丸」が大阪湊入 港時は他国の船は航路を譲っていたと話していた。当然の事ながら「幸力丸」に航路を譲った のではなく、掲揚している「公儀御用旗」に対して譲ったのであろう。幸力丸は塩飽勤番所 と大阪町奉行所との連絡用御用船で「公儀御用」の旗が掲げられていたことは当然である。 他の塩飽船も同様で「公儀重役」「公儀目付」 「公儀巡見使」「長崎奉行送迎」「御城米運送」等 公儀御用に従事している場合「御用旗」「葵の旗」「囗の丸旗」「公儀重臣の家紋旗」等を 掲揚しており当然、他領の船は航路を譲った事であろう。 信長が瀬戸内海の制海権も握っていない時代に75尋の海上占有権を塩飽に与える事は考え られず検証が必要であろう。 信長は塩飽か石山本願寺へ補給に向かう安芸門徒の船団を塩飽の海で攻撃撃滅した事に狂喜乱 舞した事は間違いない。その6ヶ月前、信長は木津川河口で毛利、村上海賊の為に敗退している のである。もし「触れ掛かり」と袮する塩飽船75尋の占有を約束したとするならばなんと軽い 約束であろうか。信長にとって実質手出しは何も必要ない報償で塩飽にとってもうれしくもある まい。瀬戸内海には信長の勢力は及んでおらず制海権も持っていない。瀬戸内海の淡路島以西は 毛利の勢力下で完全に空手形で、塩飽が毛利からの攻撃を受ければ、信長が救援に来る事は考え られず自分の身は自分で守らなければならない。信長まる儲けである。百歩譲って信長の朱印状 は一部の史家が記述しているように塩飽船を攻撃せよとの朱印状であるとするならば石山本願寺 攻防戦の最中で新たな敵を造り出す事はしないであろう。信長は三顧の礼をもって塩飽を味方に つけたい情勢である。塩飽が信長の為に安芸門徒を攻撃し補給線を断ち切り、その報償が塩飽船 に対する攻撃ではいくらなんでもありえない。天正10年(1582)3月、小早川隆景が村上武吉に対 して塩飽を味方にするよう指示を出しているが、武吉はもう塩飽は毛利に味方する事はないと即 答している。 与島庄屋、岡崎家の文書には元禄年間(1688〜)にこの朱印状が塩飽文書として記録されている。 それ以前の塩飽文書にはこの朱印状の存在が記載されていない。元よりなかったのか単なる記載漏 れかは判断できないが後世に骨董屋で見つけ出し塩飽の者が買い取り、持ち帰ったとも考えられる。 信長が塩飽に対して行った約束も天正10年(1582)6月2目、本能寺の変ですべて空手形となった。 朱印状には戦いの前に出す空朱印状も当然あったであろう。戦争前の朱印状で褒美として領地 を確約されても敗北すれば物理的に履行できない。信長の朱印状は安芸門徒衆を攻撃撃滅した事 に対し塩飽船を保護せよ、塩飽船に対しての攻撃は許さないとする最低限の意思であろう。報償 として瀬戸内海を塩飽に委せる事ぐらいは約束したと思われる。塩飽にとっても周辺すべて村上 海賊、毛利勢の中、安芸門徒の船団を襲った褒賞が「75尋の海上占有権」では行動は起こさない であろうし海面占有75尋では実質的には何もない。 天正14年(1586)8月22日 太閤様御朱印 塩飽年寄中へ 「今度平石権兵衛尉儀豊後へ使わされ候、用捨てを加え候といえども50人宛乗候船10隻、、、 水主5名、、、。」島津攻めの朱印状があり、軍監の千石は薩摩軍に敗退、小倉まで逃げる 醜態となったが塩飽は敗兵を素早く収容し被害を最小限にしたとしている。 天正15年(1587)5月 「薩摩国仙台(川内)御陣之時、御兵糧米ならびに御馬竹木そのほか御用御道具大阪より仙台 へ塩飽船にて積廻するように年寄中へ仰せっけられ早速島中船加子まかりいでの下知これあり御 帰陣迄仙台にあいつとめ御奉公つかまつり候事」 天正18年(1590)小田原攻めの功績により秀吉より塩飽を650名の船方に下さるとの 朱印状を受け取り領地持となった。 塩飽検地の事 一、 二百弐拾石 田方屋敷方 一、 千参十石 山畠方 合 千二百五十石 右領知当島中船方六百五十名に下され候条配分せしめ全く領知すべきものなり 天正18年2月晦日 秀吉朱印 塩飽島中 豊臣政権下での朱印状に記載された650名の配置は次の通りである。 塩飽島(塩飽本島、単に本島とする事あり)(合計・326名) 笠島浦 78名 泊浦 110名 甲生浦 16名 大浦 23名 福田浦 26名 尻浜 40名 生ノ浜浦 33名 牛島 37名 塩飽広島(合計・76名) 茂浦 14名 市井浦 12名 江之浦 20名 立石浦 16名 青木浦 14名 手島 66名 櫃石島 10名 与島 49名 高見島 84名 両浦肝煎(世話役) 2名(塩飽島笠島浦、泊浦1人宛) 豊臣政権下での人名配置は以上の通りであるが、江戸時代に入り 無人島の開拓が始まり7島以外の島にも住むようになっている。沙弥島9名 は与島から、瀬居島20名は泊浦、佐柳島7名は高見島、岩黒島は両浦の肝煎2名 を移したものである。 秀吉は天正19年(1591)正月、唐人の為、全国沿岸諸国に船の建造を命令 している。北は常陸の国、秋田、坂田(酒田)より南は薩摩まで10万石に対して 大船2隻宛用意するように命じている。塩飽には独自の朱印状により大船32隻、 水主650名差しだすようにと命じている。これは船の数だけであれば160万石の大名 と同等になる。文禄元年(1592)卯月(4月)20日、大谷吉隆、石田三成を名護屋 より壱岐の間渡海船の事として塩飽船に便船依頼の朱印状が残っている。塩飽船 が現地における最高責任者の便船として使用されている事が判明する。 天正20年(1592)10月23日 豊臣秀次公御朱印 塩飽所々物主大官中 大船作事の為、仰せつけられるべきその国船大工、船頭御用につき、、、。 塩飽に対し船大工と船頭を名護屋に招集の命である。 文禄2年(1593)2月28日 豊臣秀次公御朱印 志王久船奉行中 名護屋へ医師35人ならびに下々そのほか奉行の者遣わされ候、8反帆(約150石積み) 継ぎ船2艘申しつけ、油断なく送り届ける者なり 文禄2年(1593)3月4日 豊臣秀次公御朱印 塩飽船奉行中 竹役(弓大将、弓矢の調達奉行)和泉(太田牛一・信長公記、著者)事名護屋へ 至指下され候しからば上下20人ならびに荷物儀10荷の分継ぎ船にて送り届くべき者なり 文禄2年(1593)11月には寺沢志摩守の命により大船造営の材料を四国、九州より名護 屋に運んでいる。 豊臣政権がこれほどまでに塩飽に特別に命じているのは他の大名等にできなかったのが 瀬戸内海の高官渡海と戦時物資の大量運送である。瀬戸内海は潮流に習熟しないと難しく、 塩飽以外には難しかった。瀬戸内海は内海で島が多く航行しやすいと思われるが激しい 潮流で日本一難しい海域なのである。この海で大型船を動かせるのは塩飽以外いなかった。 朝鮮での膨大な軍需物資の輸送を支えた塩飽船が弁才船なのである。秀吉が母危篤の報に より名護屋から大阪に戻る途中、乗っていた船が潮流にあおられ関門海峡で座礁し船頭は 切腹している。 秀吉の朝鮮出兵に対する塩飽の貢献は大きく、報償を出す事は当然予想されているが 今回見つかった朱印状がこれであろう。 比度於朝鮮征伐の役、塩飽島の者共無比類海上運送依之自摂州西宮長州到赤馬関之国々 海辺并島々之惣粗年々可全受納者也 文禄元年(1592)7月 浅野長政 御朱印 この度の朝鮮征伐における塩飽の海上運送は比類なき働きで摂津西宮(大阪付近)より 長州赤間(関門海峡付近)までの海辺並びに島々の年貢を受領するものなり 浅野長政より塩飽島衆中に出された朱印状は瀬戸内海歴史民俗資料館に収納されており 塩飽与島の庄屋岡崎家で保管されていたものある。岡崎家に文書が多く残されている理由 は人名650名の共有の領地で重要な文書はすべて複写されそれぞれ年寄、庄屋に分散、保管 されている。塩飽与島、岡崎家は中世初頭、伊豆より流れてきた家で戦国時代より現在ま で続いている稀な家で火災にもあっておらず現存している。 浅野長政は秀吉の姻戚で「取次」で豊臣政権下において「取次」の命は即秀吉の命で朱印状を 出す事のできる立場である。塩飽の朝鮮出兵に対する報償は永年疑問であった。瀬戸内海全域を 塩飽領地とすることが恩賞であったかと納得する。日本軍朝鮮在陣中、秀吉は死去し瀬戸内海全 域を塩飽に任すとの領地朱印状は「空手形」に終わった。前述した信長の朱印状に限らず瀬戸内 海の海運を握る塩飽の存在は信長、秀吉、家康には大きく映った事であろう。この朱印状と同様 に小田原攻めの功績により秀吉より塩飽に出された領地朱印状も処分されている。徳川の世にな り秀吉関係の朱印状は秀次からの朱印状を除きすべてなくなっている。永年朝鮮出兵の報償はど のようなものだったのかと探していた。当時の常識として報償を事前に示す事は普通で塩飽への 瀬戸内海全域の支配は妥当であろう。 この朱印状の複写が行われ岡崎家に所蔵されたのは朱印状を賜った相当後であったと思われる。 朱印状の完全な写しであれば文禄への改元は12月8日で朱印状の7月ならば天正20年となら なければならない。文禄年間は朝鮮征伐との言葉は使っておらず「唐入、唐御陣、高麗陣、朝鮮 陣」等である。朝鮮征伐との言葉がでてくるのは慶長の役が終わってからである。 当時の状況を示す塩飽文書は以下の通り。 「文禄元年(1592)高麗御陣の時、7ヶ年御手船御用の節、豊臣秀次様御朱印を以て御用 仰せつけなされ、塩飽船残らず水主570余人、高麗並びに肥前名護屋両所に相詰め、御帰陣 まで御奉公仕り候その節の御朱印二通ござ候御事」 |