◆塾長論文集その2

◎共育の普遍性◎(1995年12月)
 阪神大震災に始まった今年は,「オウム」・数々の「不正」と殺伐とした社会状況が続きました。そうした中で,今年もまた痛ましい「いじめ」の問題が続き,かの「文部省」ですら,(自己の責任と,根本的な視点を欠いたままで)「対策」を声高に述べなければならなくなっています。恐らく,世の『こころある』人々が気づいているように,「官」主導のもろもろの問題をそのままにしたままで,子供たちの世界のみの「正常化」を望んでも,それは,徒労に終わるに違いありません。「不正」を「不正」のままで見過ごし,そうした社会で,自己のみが「豊かな」生活を追求する,そうした「大人」たちがいる限り,子供たちの痛ましい状況には何の変化もなく,ひいては,そうした社会の再生産の「歯車」として,利用されていくことにもなるでしょう。
 私が最近強く思うのは,塾に対する,「学校成績」のみを「上げること」,その「道具」として塾を利用しようとする一部の「親」の功利的な要求の強さです。『なぜ勉強するのか』の視点を欠いた,「とにかく勉強しろ」という圧力です。私は,問いたい。なぜ,それほどまでに子供たちに「圧力」を加えるのかと。そのことが,「学校」における「いじめ」に結び付く遠因の一つになることになぜ気づかないのかと。
 もし,「大人」たちが,一切の不正を許さず,「長いものにまかれ」ず,『なぜ?』を真摯に求め,(そうすると,子どもの「お勉強」などに関わる時間もないでしょうが),本当の『人間としての在り方』を求めているなら,「いじめ」にとどまらず,殆ど一切の「差別」も,恐らく姿を消すことでしょう。そして,そうした時こそ,子供たちが,本当の意味で,自主的かつ創造的に学習することが可能になるでしょうし,殺伐とした社会を変革し,本当の意味で『豊かな未来』を構築する一員になることでしょう。そして,それこそが,本来『教育』に課せられた普遍的義務だろうと思います。

◎より深刻な状況の中で◎(1995年12月)
 くしくも,かの12月8日に,例の元文部官僚に有罪判決が出た。しかし,かつて大きく新聞紙面を賑わした事件が,「新指導要領」との関連もなく,小さく報じられただけである。私たちの「忘却病」は,どこまで続くのだろう。「診断テスト」も,一方でその成績に一喜一憂するグループに支えられ,不死鳥のように幅をきかせはじめている。月2回となった「土曜休日」も,やはり,ひたすら「長時間練習」と「精神論」を説き,「いじめ」の一種と化している「部活」にその大半が使われている。ただ,指導者の言うことを,ロボットのように拝聴する「部活」は,「いじめ」の発生の大きな要因である。そうした状況の中で,黙々と,努力を続ける多くの子供たちのことを考えるとき,頑張らなくては,と思う。

◎原則的な場として◎(1994年12月)
 「いじめ」事件が騒がれています。しかし,私は,そうした騒ぎを「冷めた」眼で見ざるを得ません。かの「体罰」問題,そして昨年の「業者テスト」問題等,このままでは,私たちは,「忘却の民」として歴史に刻印されざるを得ないでしょう。「このままでいいのか」『断じて否!』そういう声を,私たちは,自らに対する反省とともに人間としてあげ続けなければならないように思います。塾を開設してから早16年,この間の出来事については,レーゼクライスの歴史に簡単にまとめています。それは,私たちの「現実」との戦いの歴史でもあるし,私たちの『学び』の歴史でもあります。試行錯誤を繰り返し,「現実」に対して挑んだ(そして,挑んでいる)記録なのです。『意志』と程遠いところでの展開を余儀なくされたり,認識に変化・深化はあれ,私たちは,絶えず『本当のもの』を求めて来たし,それは,今後も続くでしょう。それは,「現代社会」の構造を無批判的に受け入れることを拒否して来た人間の当然とるべき方途であろうと思います。以下に述べる教育状況は,若干の書物をもとに,『実践』を踏まえて位置付けたものです。「教育」とは名ばかりの「学校教育」が依然として存在し,その諸矛盾が(その構造からして半ば必然的に)次々と露呈し,表面的な「改革」が叫ばれる現代,その歴史的背景をさぐり,様々な「改革」の真意を看破しておくことは,今後の目指すべき方向,就中,今後の事態を予測する上でも必要であろうと思われるからです。「いじめ」も「体罰」もその根本にある制度としての「力の論理」を見抜かない限り,いかなる「対策」も忘却への装飾にしかならないでしょう。それは,単に子供達の問題なのではなく,まさに我々大人たちの問題に外なりません。『在り方』こそが問われているのだと,声を大にして叫ばなければならないのです。矛盾の止揚は,彼岸の「理想」の追求にあるのではなく,此岸の混沌の中からしか生まれないのですから。

◎教育状況について◎(1994年12月)
 共に学ぶという意図を持って一つの運動体としてレーゼクライスを開始するに当たっては,次のような歴史・現状認識がある。
 現代の塾が,「学校」との関係を切って成立し得ないことは言うまでもない。しかし,「学校」を絶対視し,それこそが全てであるような姿勢は,過去の過ちを再び繰り返すことになる危険性を十分に孕んでいるように思われる。
 そもそも「学校」は,1872年の学制の公布により成立し,近代日本の発展とともに制度として発展してきた。しかし,現在までの120年間のうち,70年間以上は,日清・日露に始まり,「大東亜共栄圏」をとなえ,戦争遂行するという国家主義・軍国主義の注入の場であり,「愛国青少年」育成の場であった。そうした歴史と反省の上に出発した『戦後教育』は,教育基本法に顕著なように,個人の尊厳を重んじ,真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに,普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育であるはずであった。しかし,日本は,大東亜戦争を遂行したA級戦犯容疑者を戦後11年で総理大臣にするほどの国である。(それは,戦前の体制を全否定し,指導者を入れ替え,今日に至るまで,戦争犯罪の追求をやめないドイツと大きな対照をなしている。)かくして戦前から温存され,継続した「教育観」と官僚組織(更には「教育学者」)が,何の戦争責任を問われる事なく,『理想』を骨抜きにし,国家意志の物理的遂行者として子供達を「飼育」していく政策をとっていくことは必然である。朝鮮戦争,経済の高度成長という状況の中で,ひたすら,経済効率を求める国家による「期待される人間像」が,何であったか。「正しい愛国心」を強調し,「象徴に敬愛の念を持つこと」それが「日本国の独自な姿」とされるに及んだのである。杉本判決を無視した現在の教育行政が,そうした戦後の歴史の延長上で,どのようになされてきたか,ある程度真面目な「教育者」なら,十分知っているだろう。
 93年度から中学で実施された「新指導要領」は,「能力主義」をうたい,「多様化」を旗印にする。それは,一見ソフトに,人々の心を把えるかもしれない。しかし,そこで言われる「能力」とは何で,多様性とは何なのか。「多様な個別的な能力」の名のもとに,子供達の日常まで管理し,「内申書の上げ方」なる書物の跋扈を許すものでしかない。「ボランテ ィア」を点数化し,「生徒会活動」を点数化し,「部活動」を点数化する,そして,いみじくも,ここ香川県で,全国に先駆けて実施され,全国的に散々の非難を浴び,中止に追い込まれた「観点別学習状況診断テスト」に明らかなように,「テスト」で判断,いや「評価」される「創造性」なのであり,「経済効率」という価値観の下に一元化される「多様性」に外ならないのである。
 かつて「侵略のため」という名の戦争が人類史上にあっただろうか。戦争は,常に,「平和」と「幸福」の名の下に行なわれ,そうした政策・国家意志に柔順に従うことが「愛国心」であるとされてきた。現代の,あらゆる分野における点数化・序列化の中で,大学入試をそのままにした上で行なわれる「新教育」に,同時的に強調される「愛国心」が何を意味するかは,もう明らかだろう。そして,この「新教育」を主導した文部官僚(選挙に出て落選した収賄官僚!)を決して忘れまい。今は亡き田中角栄が何を唱えたか,決して忘れまい。そのような「力の論理」の末端たる「学校」に未来はあるか。断じて否である。その中で,青春期をむかえつつある子供達は,人間本来の知的欲求を忘れ,学問の本質から目をそらし,あるいは目を覆い,その中で自分のみが勝利せんと,せっせと塾に通い,あるいは刹那的な行動に身をまかせ,あるいは当然のごとく登校を拒否している。
 こうした状況の中で,当初は,その根底的な非人間的制度を温存したままで,スパルタ的な解決法までが(「愛のムチ」として)許容されていた。(昨今の新聞紙上でもまだ見られる)しかし,「共通一次」導入以後の没個性化,多くの登校拒否や高校中退者の増加の中,そして何より,「経済大国」としての地位を維持したい産業界の意向を強く汲んだ文部省は,むしろ,このような状況を利用し,「個に応じた教育」の甘言を弄し,実は3%の,国家意志遂行のエリート養成のため,(「学校」外の機関への「通学」を認めるという形で,不満をそらしつつ),「飛び級」や,公立の中高一貫校の構想も打ち出している。校則の緩和や「内申書」の公開,更には「教育の自由化」など,現代の諸矛盾を一見解消するかのような方策も俎上に上っている。しかし,その根底に流れる意志と目標を見誤ってはいけないであろう。「教科書検定制度」をくずさず,「教育委員」任命制をくずさず行なわれる「改革」であることを忘れてはいけない。「日の丸」をあげ,「君が代」を強制する改革であることを忘れてはいけない。
 私たちの力は小さい。ただ,『塾』であるからこそ,できること(もしかしたら,塾という存在形式でしか行なえないこと)を,私たちは追求する。かの『松下村塾』のように,「学校」以前に『塾』は存在していたのである。来るべき,困難の時代に真の普遍性と創造性を持った人間の育成を期すことこそが,すべての現代人に求められている。そしてそれは,「学校追随」するのではなく,時代特性を十分に考慮に入れ,絶えず,『教育基本法』の理念に帰ることを意識的に追求することによってしかなし得ないであろう。確かに,『理想こそが現実をきり拓く』のだと思う。
 新たな止揚形態は,現実の矛盾の中からしか生まれない。財界や文部省からの上位下達の「学校構造」,あまりに絶対的に見える中から,新たな萌芽が生まれ出ることを私たちは信じている。でなければ,日本国憲法前文の中でいみじくも言われるように,「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる」ことは,避けられないであろう。
 「強制力」を持つ「新指導要領」でうたわれる国際化とは,単に,英語が話せることではない。英語で挨拶し,道案内をすることではない。「豊かな」生活の豊かさの根源に想いを致すことであり,飢えに苦しむ人間を想うことである。そして,それは,戦争の真実を覆い隠し,戦争責任を忘却の彼方へ葬り去ることではない。まして,「愛国心」を強調しながら,莫大な,闇の利益を得ている「政治屋」を許すことでも決してない。全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免れ,平和のうちに生存する権利を有する視点から,歴史の教訓を忘れず行動することである。本当の『教育』は,そのような国際人の育成にあることは,普遍の真理であろう。たとえ,それが一粒の麦であっても,大きく実る可能性を秘めている。『塾』の存在意義も,そこにある。1970年代以降の爆発的な「乱塾」の中で,多くの批判を受けつつ現に存在する塾,それは,一面で教育の場としての,「学校」の相対化を端的に表している。そして今,誇大広告と営利と,ただこの「現代社会」の再生産の意味しか持たない「塾」の淘汰も始まろうとしている。そうした中で,真に原則を追求する非権力の塾のうちにこそ,本当の教育改革の萌芽がある。今,単に学校を批判するのでなく,学校をも包摂した形での止揚形態を射程に入れつつ力を尽くす時であろうと思う。

参考文献 『教育基本法はどこへ』(堀尾輝久)・『日本教育小史』(山住正巳)・『教育の戦争責任』(長浜功)・『体罰』(NHK取材班)・『「戦略」としての教育』(宮川俊彦) その他

★塾長の論文集1に行く

★塾長の部屋にもどる