発表された小説

僕の書いた小説で新聞などに発表された作品です。感想を聞かせて下さい。
ゴールド・バー (2002年11月25日 四国新聞)一部加筆修正


雑居ビル五階のオフィス。壁に掛けられた棒グラフ。がやがやざわめく社員の声
「はあ・・・」
真央はこの日もため息をついていた。彼女は結婚して二年目。子供はまだいない。夫が単身赴任をしたのがきっかけで、二ヶ月前からここでアルバイトをはじめた。一日中一人で部屋にいるのも苦痛なので外に居場所が欲しかったのだ。
会社は金の先物取引を扱っている。真央はテレホンアポインターだ。時給はいいが、三ヶ月の契約期間で結果を出さなければ首を切られる。
隣の席にいる一回り年上の敏恵が心配そうに覗き込む。彼女も同じアルバイトだ。独身の女性で、以前の勤め先が倒産し、この仕事で生計を立てている。ベテランだ。
「電話の手が進んでいないようね」
敏恵が声を掛けた。
「・・・はい。ずっと断られてばかりで」
真央は手元を見る。B5版の五、六枚ほどの名簿。もう使い古してしわしわになっている。それなりに地位の高い人物のリストだ。どこから手に入れたのかは分からない。名前や企業名の横には濃く書かれた×印。それがやる気を削ぐ。
「いい加減、あたらしい名簿貰いたいわね。ここ最近はアンケートって言っただけで電話切られてしまうもの」
受話器を置いた礼子が言った。彼女は真央より半年の先輩だった。家にはリストラされた夫に大学生と高校生の息子がいるという。アルバイトはこの三人だった。
「社員は集まってくれ」
「過去に投資契約を何十件も結んだという三十代前半の営業課長が呼びかけた。社員がデスクの周りに集まった。
「力石君、三件の売り上げ達成、おめでとう」
営業課長の掛け声で、社員全員が拍手をした。課長が感動的に力石と握手を交わしている。真央たちは、自分の席で遠巻きにその光景を見ていた。やけに大げさな祝福の儀式に真央は未だ慣れない。
「すごいわね。新入社員なのに今月立て続けに三件も売ったんですって」
敏恵が小声で言った。
力石は照れながらも自信に満ちた顔をしていた。彼はまだ学生の雰囲気の残る男で、その口調はなんだかもどかしい。真央がこの仕事をやりはじめた頃、彼は長めの茶髪だった。今は黒くして短めに切っている。その初々しさが新鮮なのか、噂では取引先の女社長や医者、大学教授からひどく気に入られて契約に踏み込んだというものらしい。
このままでいくと、先輩社員を追い抜いて一年で主任に昇格するかもしれない。そんな力石をげっそりとした眼差しで見る他の営業社員。係長は営業課長の親ほど年が上だった。課長は時にそんな係長を呼び捨てで叱咤する。きっと、皆、契約のノルマの他に、生活のプレッシャーまでがのしかかっているのだろう。真央は見ていて疲れてしまう。
真央は名簿に載っている人物に片っ端から電話を掛ける。
「あの、ホープ企画の者ですが」
「ああ、ホープさん?結構だよ、もう」
電話はガチャンと切られる。
「だめよ、最初に名乗ったら」
今でもまだ敏恵と礼子が側でアドバイスをしてくれているが、いつまでも要領を得ず、時間だけが過ぎて行く。
「・・・あ、あの、アンケートをしている者ですが、お時間良かったら、あ、あの・・・」
きっと断られるだろうと、すでに諦めていた。そこは広告会社、相手は専務本人だった。
「いいよ。今、風邪を引いていて、声が枯れているけど」
一瞬、真央は耳を疑った。
「あ、夢について教えてください」
「夢?そうだなあ、世界旅行かなあ」
「しゅ、趣味は何ですか?」
「うん、ゴルフ」
「あの、ありがとうございました。私、ホープ企画のアンケートの者でして・・・」
「あー、ははは。ホープさんだったの。最近よく掛かって来るね。悪いけど、投資には興味がないんだ」
やっとで、アンケートの回収が出来た。それをコンピューターに通して結果を打ち出すらしい。それを持って社員が営業に出向くのである。
「なにー。アンケートの結果?いらん!」
せっかく回収できたのに、また電話をしようものなら、この調子なのだ。
その点、営業課長は上手い。
「あ、社長ですか。どうも、どうも。いやー、すごい結果が出ましたよ。ぜひ、これをお伝えしたいと思いましてね。実はね、豊臣秀吉タイプの経営者と出たんですよ。さすがですねー。全国統一も夢じゃないですよ」
親しみやすい甘い声。それでいて紳士的な口調。普段、社員を叱る時の声とはまるで違う。
以前、何か殺し文句がないのか課長に聞いたことがある。
「それがないから、やっているんだろうが」
そう怒られてしまった。
「金の値段が下がりました」
今日も女子事務社員の価格チェックの声。
「よし、今だ。もう一度、徹底して、一から電話をしていってくれ。今がチャンスだぞ」
営業課長の興奮気味の一声で、社員一同、全員で電話に向かう。
「アルバイトさん、全員集まって」
営業課長に呼び出された。
「今から一時間みっちり電話をして、最低三件は結果を出すように。頼みますよ」
真央は重苦しい圧力を抱えながら、机に戻った。営業社員の熱気に圧されて、また一から電話を掛け始めた。オフィスはざわめきを増す。
「ちょっと、ホープさんでしょ?たった今さっきも男の方から掛かって来たわよ。一体なんなのよ、もう」
年配の事務員らしき女性にいきなり怒鳴られて切られる。それでもまた他へ掛ける。
「もしもし、最近暑くなりましたね。あ、あの、会長さんの夢は何ですか?」
真央はいきなりそう聞いてみた。
「うーん、わしは年だからねえ。もう八十が来るんだよ」
七十歳以上は、営業の対象から外されている。
「今の時点で何件回収出来ましたか?」
営業課長に三人が呼び出された。
敏恵は四件、礼子はぎりぎり三件。真央も三件だったが、そのうちの一人は八十歳になるという先ほどの男性だった。実質二件だが、怖くて言えない。
「二人ともなんとか三件だけど、まだまだだと思って取り組んで下さい。電話のピッチをもっと上げて!」
後日、礼子が回収したアンケートから、投資の契約者が現れたという。
「おめでとうございます」
営業課長の一言に、礼子は涙を浮かべていた。彼女も一生懸命だろう。夫はまだ再就職が決まっていないという。結果を出すと、昇給があるし、契約期間延長にも繋がる。真央の成績ではいつ首になってもおかしくはなかったが、同じ仲間として礼子がきっかけを作った契約はうれしかった。
「これが、百グラムのゴールド・バーですよ」
たまに顔を出す、派手なネクタイを締めた社長。彼がそれを持ってアルバイトの前に現れた。小判のような薄い金の延べ棒だった。敏恵はそれを喜んで握らせてもらっている。真央にも廻してくれた。
それは、意外と軽かった。百グラムだから軽くて当たり前かもしれない。だが、これを売るために、営業課長は声を荒げ、営業社員は少ないアポを手がかりに仕事をしている。その手助けのために自分達もいる。そう思うと、その金が少し重いものに感じた。
「私どもは夢を売る仕事をしているのです。人は夢があるから頑張れるのでしょ」
社長はそう言い残して立ち去って行った。
給料は確かによかった。だが、好きなものを買おうという欲がない。そもそも、自分の夢とは何だろう。真央は考え込んでしまった。
「私は主人が家にいるし、子供にもまだお金がいるからここで頑張るだけよ。やるからには図々しくしなきゃと思ってる」
昼休憩に公園で弁当を食べながら礼子が話す。
「私もこの年齢になると働き口がないのよ。でも、プライドを持ちたいじゃない。どんな仕事にも・・・。そうじゃないと哀しいじゃない」
敏恵はタバコを吹かしながらそう言った。辛いのは自分だけじゃない。それは分かっているのだが・・・。
「ご苦労さん、アンケートには答えるけど、投資は出来ないよ。おたくには本当に大損をくらったからね。一時は良かったけど、夢ってはかないもんだね」
ある企業の社長にそう言われた。真央はついついその愚痴話に聞き入ってしまった。プロならそこからまた投資の話を持ちかけるのだろう。だが、彼女にはそれが出来なかった。
契約終了までには何日かあったのであるが、真央は仕事を辞めようと思った。自分のいるべき場所とは違うと思ったのだ。会社は急な離職をあっさりと認めてくれた。
真央が勝手に辞めることになっても、敏恵と礼子は彼女を責めなかった。むしろ、応援してくれた。余計に仲良くなれた気がした。
夫の単身赴任はまだ続いている。少し体を休ませて、また何が出来るのか、仕事を探してみようと思う。今度は少し慎重に。






自転車修理   (2001年10月30日 高知新聞)

朝、気が付くと、アパートの駐輪所にあった自転車が盗まれていた。その日、今日子は仕事に遅れた。帰り道は惨めなくらい遠く感じた。
今日子はその店の前で足を止めた。店先の歩道に中古の自転車が並べられてある。三坪ほどの店内を見ると、新車が数台だけ見本のように置いてあった。
今日子は、今年の春から町内の外科病院で事務の仕事を始めたOLだ。彼女が勤め始めた日に足を複雑骨折して運ばれて来た患者が、今は立ち上がりリハビリをしている。
今日子は大学の教育学部を卒業後、地元の中学校で五年間国語の教師をした。それを辞めてこの仕事を選んだ。教師をしていたことは履歴書に書いてなかったので、病院の誰も知らない。
去年の夏、今日子の受け持ちの生徒が連続放火事件を起こした。彼女は校長と一緒にテレビに出て、混乱した頭で謝罪していた。気が付くと、彼女は体を壊していた。これ以上、学校に迷惑を掛けられなかった。違う。本当は、もう学校に行く自信がなかったのだ。
いや、それはもう考える必要のないことだと医者にも言われたはずだ。考える必要も、話す必要もない。そのため、家族も友人も遠くに置いて来た。
今日子は以前生活をした場所から出来るだけ遠くに離れたくて、四国のこの町にやって来た。まだあまり馴染めていないけれど、そのうち自分も変るだろう。
彼女は医療事務の経験がなかったので、まだ仕事の要領がつかめず、秋子という先輩に怒鳴られている。その度に、待合室の患者に何事かと、受付の窓から覗かれる。でも、それはいい。そのうち、仕事は覚えられる。

今日子は外に並べられてある自転車を二十分くらいかけ吟味して、五千年と値札が付いている二十四インチの白いものを選んだ。
「後のタイヤは新品やからな。それだけでも三千円するんやで」
角ばった白髪頭の主人は、今日子が選んだ自転車のセールスポイントをガラガラ声で説明した。
「消費税は頂かんけど、防犯登録が義務付けられたから五百円貰うことになるんや」
主人はガラスサッシに貼られている「防犯登録の店」と書かれたステッカーを指差した。

休みの日、買い物に行く途中で、先日中古で買った自転車のタイヤの空気が抜けていることに気が付いた。この間買ったばかりなのに・・・。今日子は空気の抜けた自転車を押して歩き、それを買った店まで持って来た。
だが、その日は店は閉まっていた。仕方なしに、また引き返して、途中で見つけた大きな自転車屋で見てもらうことにした。ショーウインドウには電気自転車が置いてあった。
「これ、中古で買ったの?」
その従業員はすぐにそれと分かったようだ。中古車には新しすぎる防犯登録のシールのせいだろうか。
「まだあまり乗ってないんです」
理不尽さを訴えるつもりで彼女は言った。
「中古を買うときは注意せんといかんよ」
彼はそう言ってタイヤからチューブを取り出し。空気を入れて水槽に浸けた。そしてパンク箇所を調べ始めた。
ところが、チューブを一周水に入れても泡の出る箇所は見当たらなかった。もう一度試してみても同じだった。
「自然に抜けたのかもしれんなあ。じゃあ、五百円貰おうか。悪いけど」
再び空気を入れてもらってその店を後にしたのだが、今日子は何か救われない気分だった。案の定、アパートにたどり着いた頃、また空気が抜けていた。
翌日、病院の昼休み、今日子はその空気の抜けた自転車に乗って、ガタガタと車輪を振動させながら漕いでいた。昨日パンクを見てもらった店を横目で見て、そのまま素通りした。そしてこれを中古で買った店に着いた。この日店は開いていたが、そこには誰も見当たらなかった。
「すみませーん」
今日子は住居になっている奥に向かって声を掛けた。人が動く気配がして、先日いた主人が顔を見せた。彼の白髪頭を見ると、今日子は苦情を言う気持ちが少し萎えた。
「パンクしたのですけれど」
私のことを覚えているかしらと思いながら、今日子が言った。
「待つんな?置いて行くんな?」
主人は奥で食事をしていたのであろうか、口をもぐもぐさせながらそう聞いた。
「あ、待ちます」
彼はやっとのことで口の中のものを飲み込んだようだ。
「おっちゃん、昼飯食べよるから、三分くらい待ってくれる?」
彼はそう言って奥に戻って行った。
彼女は店先に並べられてある中古の自転車を眺める。四千五百円から、六千五百円。
前にも見たものがまだ置いてある。あれを買えばよかったかも・・・と思ってしまう。
やがて、主人が袖で口元を拭いながら出て来た」
「待たせたね」
彼はそう言って今日子の自転車を作業台に掛けた。
今日子はこれから少し言いにくいことを彼に言わなければいけない。
「ちょっと前、ここで中古で買ったんですけど」
「あ、そうなん・・・」
主人の顔に影が掛かったように見えた。彼を微妙に傷つけたのかもしれない。
「空気が抜けてしまって。別の自転車屋さんに持って行って調べてもらったんですけど、チューブから泡が出なくって」
主人は足を短く切った腰掛に黙って腰を下ろした。タイヤに手を掛けたところですぐに立ち上がって、もう一つ同じ腰掛を持って来て彼女の側に置いた。そして、店の入り口で立っていた今日子に「まあ、坐ったら」と目を逸らしたまま勧めた。
彼はヘラでタイヤをリムから外して、チューブを出す作業を始めた。店内の奥には取り外された部品が押しやられている。
手を動かしながら主人が突然聞いた。
「いくら取られた?」
「え?」
急に聞かれて、今日子は何のことだか分からない。
「そこ、いくら掛かった?」
彼は少し表現を変えてもう一度聞いた。
「あ、五百円でした」
昨日見てもらった店のことだと気が付いて今日子は答えた。
「うちに持って来てくれたら、見てあげたのに」
「あ、閉まっていたから」
「昨日来たんな?日曜は休みやからな」
彼はタイヤからチューブを取り外した。
それを腕ほどに膨らませて水槽に入れる。
すると、空気が漏れている穴が二箇所見つかった。
「ほら、ここと、ここにあるやろ」
彼は妙に得意になった様子でそう言った。水から取り上げたチューブの穴に唾を付けて、空気が漏れている箇所を今日子に説明する。
「そこの店は、空気をあまり入れんと水に浸けたから分からんかったかもしれんな」
彼は棚から新しいチューブを取り出した。
「パンク一箇所は千円って書いとるやろ」
彼は壁に掛けられた料金表を差す。
「二箇所やと二千円になるから、もったいないやろ。チューブ替えたほうがましやから、替えてあげるわ」
「あ、すみません」
「いつ、うちで買うた言うたっけ?」
「一、二週間前ですかね」
正確に言うと、九日前だった。
「二週間前か・・・」
彼は今日子から目を逸らしたまま、少し考えているようだった。
「じゃあ、千円でいいから。パンク貼るよりもいいやろ」
主人はそう言って、チューブを取り替え始めた。今日子は椅子に坐って、彼の仕事を見ている。
タイヤに空気を入れた後、彼はチェーンに油を注した。ブレーキのネジを締める。
「はい。お待ちどう」
主人はそう言って立ち上がり、自転車を作業台から下ろした。彼は自転車の籠が歪んでいたのに気が付いて、腕の力でその形を整えた。
「本当に千円でいいんですか?」
今日子は財布を取り出しながら聞いた。
「うん。ここで悪いものを買わされた言われたら、おっちゃん、かなわんしな」
彼は黒い雑巾で油の付いた手を拭きながら言った。
今日子は料金を払って自転車を外に出した。店の外まで主人が見送っている気配を背中に感じる。
「何かあったら、また遠慮せんと来てな」
その店の主人は、自転車に跨いだ今日子にそう声を掛けた。
今日子は自転車を漕ぎ出す。大丈夫、この町にも、そのうち慣れるだろう。
ペタルを踏み込むと、風が出てきた。






里芋 (四国新聞、2000年2月23日) 一部加筆訂正をしています。
 
 僕は里芋が食べられない。中学校のころまでは、なんともなかったが、ある日、嗅いでみると、吐き気がした。
 両親は僕の里芋嫌いを今では諦めている。彼らには嫌いな食べ物はない。

 週末、高知の実家で過ごした。
 午前十時に起きてみると、両親は畑仕事に出かけていた。父がすでに里芋を畑から掘って来ていた。リンゴ箱二箱分だ。里芋には黒い土がついている。この里芋は、どの畑に植えていたのだろうかと考えてみたが、想像がつかなかった。
 明日は日曜市だ。僕は今日中に里芋の毛をむしらなければならなかった。
 昨日、母と口喧嘩をした。大学から帰省して顔を会わせればいつものことだ。せっかくアルバイトを工面して、帰省してきたのに、もう苦労してまで帰省してあげないと、いつものように、心に誓う。
 僕は、昨日母に「穀潰し」と言われたことを思い出した。そう言えば、松山で就職している妹にも同じことを言われたことがある。僕は朝食も食べずに、ムキになって里芋の処理に取りかかった。
 里芋の根に張りついている黒土は、湿っていた。僕は軍手をして鎌で里芋の毛をそぎ始める。鎌で毛と土をそぐと、桃色の表面と白い身が見えてくる。そぎ終わった里芋の塊を、別のリンゴ箱に入れる。膝と足下に、里芋の毛と土が落ちて、たまって行く。
 鉄骨の作業場では、僕が一人で里芋の処理をしている。前にあるアパートの駐車場では、学生たちがキャンプに出かける準備をしている。前の道をクラブ活動の中学生がランニングをしている。
 静かだ、と思っていたが、よく聞くと、鳥の鳴き声が聞えるし、車の走る音も、学生の声も流れて来る。朝から誰とも口を聞かずに作業をしていたので、静かだと思ったのかもしれない。静かだと、こういう作業は飽きる。僕は未処理の里芋が入ったリンゴ箱を見る。まだ、十分の一くらいだ。まだ、ほどんと進んでいないということだ。

 小学校の時、アニメのテレビ番組は五時から始まった。子供というものは、親の帰りを待ちながら、家でテレビを見るのが筋だろう。万人にとっての最大公約数の時間帯だとは思う。
 だが、僕と妹は父の存在に怯えながら、五時からのアニメ番組をこそこそと見なければならなかった。
 僕たちがアニメ番組を見ているのが見つかると、
「お父さんとお母さんが仕事をしよるのに、テレビ見たらいかん」と、かなり本気で父に怒られた。農家というのは、特異な家庭だと感じた。
 六時ごろに父が「風呂沸かせ」と言うが、それからテレビを見ることが可能になる。チャンネル権は基本的に子供にあり、父も付き合って見ていた。

 リンゴ箱の底の方には、土くれと一緒に親指ほどの里芋が残った。こういった里芋が却って良く売れるらしいから、残らず処理しなければならない。作業場の時計を見ると十二時過ぎであり、僕は両親が畑から帰ってくるまでに終わらせようとムキになって作業を続けた。
 最後の里芋を処理し終わって、満足感を味わっていると、両親が軽トラックで帰って来た。イモの茎や、かぼちゃを積んでいる。
「やれば出来るやん」と母が話し掛けてきた。
「就職できんかったら、農業やったらいいやん。なんでも仕事やらんといかん」
「冗談じゃない。なんのための大学院ぞ」父が母を睨む。
「これ、何時間かかった?」母が深入りを逸らすように聞く。
「二時間」
「後でお父さんにアルバイト料貰いや」
 小学校の時は、小遣いが月五百円と破格に少なかったので、時給五十円で有難く搾取をしてもらっていた。今ではもっとくれるだろう。貰えるものは貰っておこうと思う。
 父はネコを捕まえて、ネコの目に、人間の目薬を指そうとしていた。僕は分からなかったが、ネコは目に怪我をしていると父は主張する。父に言われて、僕はいやがるネコの手足を押さえる。
「午後からは手伝えんか」父がネコに目薬を指しながら聞いた。
「えー。本屋行きたい」
「飽きたか?」
「うん、飽きた」
「そうか。売れると思ったら、お父さんは仕事、面白いけんどな」
 ネコは父の膝から飛び出して行き、顔を洗う。
「お父さんは、午後から何するの?」
 父は、先ほどの目薬を、ついでに自分の目に指しながら言った。
「玉葱より分けて袋に入れんといかん。イモの茎洗って分けんといかん。干し大根袋に入れんといかん。タイモ(里芋)洗わんといかん」
「ふーん。でも、タイモの毛むしったから、もういいやろ」
 僕が本屋から四時に帰って来たときには、父はイモの茎のより分けが終わっていた。母は、玉葱と干し大根の袋詰めを終えて、ハブ茶を炒り始めていた。
 父は、桶に水をためて、僕が毛をそいだ里芋を放り込む。水が黒く濁る。父は里芋をゆすいで皮をむいて行く作業を始めた。
 僕が茶の間で本を読んでいると、六時になって、両親の仕事が終わった。僕は風呂を沸かして、テレビをつけた。
「夕刊見るか」と父が言って、新聞を置いて行ったので、テレビ欄を見た。
 九時から見たい歌番組があったが、まだ三時間ほど間があった。それまで、時間を潰さなければならない。時間を潰す…。そう言えば、英語では、kill timeと言う。そう急に脳裏に浮かんでから、その言葉が罪悪感となって心に落ちた。Killing time, killing time, killing time…
「ほら。明日会えんき」
 新聞から目を上げると、父が一万円札を僕に出していた。アルバイト代入りのアバウトな餞別だ。僕は、明日、午前中に家を出てアパートに帰らないといけない。僕が起きるころは、母は日曜市に行っているだろうし、父も弁当を持って畑に行っていることだろう。
 僕は礼を言って、父の手から重く垂れた一万円札を受け取った。
「明日、何時に起きて市(いち)に行くが?」
「六時。タイモ手伝ってくれんかったら、お父さんとお母さん、五時に起きんといかんかった」
 父は風呂に入るために、シャツを脱ぐ。日焼けをした腕は、丸太のように太い。角刈りのもみ上げのあたりが灰色になっている。ビール腹が膨れているが、胸板は筋肉質である。
 父は米袋を肩に担げるが、僕は引きずることしか出来ない。それに、僕は肩に物を載せるという習慣がないから、父に何か肩に載せられると、違和感を覚える。

 祖父の二十五回忌の墓地からの帰り道、父と話しをした。
「次ぎの五十回忌で最後や」
「二十五年先やろ。覚えとけるかな」
 僕は祖父を覚えていない。
「ボクがちゃんとやらんといかんがぞ」
「お父さんがやったらいいやん」
 父は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。足し算でもしていたのだろう。今度は、確信を持って言った。
「もう死んじゅうわえ」
 スポーツ選手が長生き出来ないのと同じことだ。無理をしてきた父の体は、複数の内科系の疾患を抱えている。

 僕が中学校の三年生の時、将来の進路について話し合う三者面談があった。
 農業高校なら、このままでも行けるだろうと思った。僕は昔から考えていたことがあった。「機械貧乏」の元凶である稲作をやめて、一町六反の土地全部で玉葱をすればいいと思っていた。玉葱は一キロ百円だから、計算すると…。小学校のときは、よく授業を聞かずに、皮算用をして楽しんでいた。父に計算結果を得意になって言うと、「机の上のことや」と笑われた。
「農業しても、給料出せんぞ」と父が言ったことがある。
「お父さんが農業高校行きよった時代は、農業する人がどんどん減っていきよった。食料が減ったら、値段が上がる。高校の先生も、『これからは農業の時代や』と言いよったき、お父さんもそうやと思いよった。でも、今は、ボクに百姓は勧めとうない」
 僕は、普通科高校に進学することになった。大学に入学するときは、学資のために土地を一部売った。
「息子は、農業出来る体じゃないき」
 高校での三者面談で父が言った言葉がお互いのための、一応の言い訳となろう。
 父は、僕が大学院卒業後、教授になると思っている。大学の教官と言えば教授と思っているのだ。それを家人にはともかく、外でも言うので閉口する。
 僕としては、とにかく英語が教えられたら、と思っている。文学部に四年、大学院に四年いると、他の職業が思いつかない。
 母は夕食の準備をしている。里芋を煮ている。
 風呂上りの父は、ビールを冷蔵庫から出す。父は僕にビールを勧めるが、苦くて飲めないので断る。梅酒なら飲めるが、いずれにしても、僕には晩酌をする権利はないと思う。
 それよりも、鍋で煮えている里芋が気になったところで、母と目が合った。
「何か、自分で作る?」母が聞いて来た。
「うん。卵と肉でも炒めようかな」
 僕は冷蔵庫を開けた。




試用期間   「四国作家」という雑誌の34号←(多分)、に掲載。


   柴田直子は結婚して一年目の主婦だ。子供はまだいない。
 結婚と同時に夫婦でこの町へ越して来た。未だに行きつけの美容院は決まっていない。
 夫はこの夏から単身赴任をしている。暑苦しいアパートの部屋に一人でいるのも苦痛なので、外に出てパートをしてみようと思った。
 直子が決めたのは街にあるスーパーのチェーン店だった。少しさびれた店だったが、店長以下売り場の主任は最近新しく就任して来たという。思ったより、顔ぶれは若かった。
 直子は青果部に配置された。チーフは森崎という独身男性だ。直子より一回りくらい年上だが、驚くほど童顔だ。一日に缶コーヒーを五本は飲んでいる。
 直子は森崎と二人で加工や品出しなどを開店前から夕方五時までこなさなければならない。誰でもいいから、とにかくあと一人パートが欲しかった。
 試用期間が終わり、一ヶ月を過ぎた頃には、直子もだいぶ野菜のカットが板についてくるようになった。
「パート希望の電話があったって。主婦から」 
 ある日、森崎がそう告げた。直子は少し驚いた。青果は元々人気がない。朝から入らないといけないし、結構体力も使うからだ。
「歳はいくつなんですか」
「二十九歳だって」
 すると、同い年だ。直子はなんだが嬉しくなった。明日の午前十一時面接に来るという。

 ところが、次の日、約束の時間になってもその女性はまだ現れていなかった。
 店長は面接予定者がまだ来ないので身動きが取れずイライラしている。
 そのまま午後になった。直子は売り場に出て商品の補充をする。小一時間後に作業場へ戻ってみた。
「やっと来たみたいだよ」
 森崎チーフは缶コーヒーを飲みながらそう告げた。
 しばらくすると、店長がその女の人を連れて事務所から出て来た。
 その女性は小柄で少し太めだった。年齢は二十九歳と聞いたが、それより十歳は歳を取って見えた。
「こちらが…、安藤千春さん。二週間試用期間として働いてもらうから。じゃあ、チーフの森崎君やパートの柴田さんから色々聞いてみて。そしたらもう面接は終わりだから」
 店長はぶっきらぼうにそう言って出て行ってしまった。
 森崎チーフと直子、そして千春だけが作業場に残された。沈黙が降りる。
「安藤です。よろしく…」
 やがて出たのは、明るさのない声だった。
「あ、よろしく。私は柴田です」
 直子は頭を下げる。
「僕はここのチーフの森崎と言います。じゃあ悪いけど柴田さん、彼女に作業の流れをざっと教えてあげて」
 森崎はそう直子に押し付けた。
 直子は千春に作業を丁寧に教えていった。自分が楽をしたいという気持ちもあるが、そのためにはまず、彼女が不安にならないようにするのが先だと思った。
 
「柴田さんって、どこの中学校だったんですか?」
 数日後、作業をしていると千春が話し掛けてきた。無口な人だと思っていたので、直子は驚いた。
「え、私はここが地元じゃないから」
「そうなんだ。柴田さんって歩いて来てるけど、家近いの?私も歩きなんです」
 ふと気がつくと、事務のおばさんが何だか険しい顔をして直子を手招きしていた。
「あの子に、明日までに履歴書を持って来るようあなたから言ってくれないかしら」
 おばさんが小声で言う。
「履歴書?持って来てなかったんですか?」
 直子は驚いた。
「そうよ。今日も持って来てないって言うのよ。面接にも遅れて来るし。人手が足りないから追い返せないし。じゃあ、頼むわね」
 おばさんはそう言うと戻って行った。
「明日までに履歴書持って来てって」
「あ、そうそう。ここ履歴書売ってるかしら」
 特に悪びれた様子もない。
「何で面接の日に持って来なかったの?」
「あ、時間がなかったから」
 千春はマイペースで葱を袋詰している。事務のおばさんを怒らせると大変なことになる。
「今日中に履歴書出そうよ。今すぐ買おうよ」
 直子はそう持ちかけた。
「あ、昼休憩、うちに来ませんか。私、それすぐ書きますから。うちに来て休憩して待ってて下さい」
 千春の言葉に直子は妙に安心した。
「あ、それと、お金持ってないから、貸してくれませんか」
 履歴書は文具コーナーに九十五円で置いてある。それで早く問題が解決するなら喜んで出してあげようと思った。

 昼休み、千春の家へ行った。
 彼女の家は色の褪せた木造平屋だった。賃貸だという。玄関の周りには雑草が生えていた。
「汚くしてますけど、どうぞ」
 入るとすぐ居間があった。テレビ台の中には何かの書類が押し込まれている。
 千春は先ほど売り場で買ったばかりの履歴書に、何かメモを見ながらペンを走らせる。しばらくして書上げたが、写真を貼らず封筒に入れた。
「ねえ、柴田さん。電話番号を教えてくれませんか。分からないことがあったらいろいろ聞きたいし。何だか仲良くなれそうだし」
「うん、いいよ」
 自宅と携帯の番号を紙に書いて渡した。 
 その夜だった。直子は風呂から上がって休んでいると電話が鳴った。出ると、千春だった。
「今日はお疲れさま。私、この仕事続けられそうだな。柴田さんは親切だし。チーフもいい人みたいだし」
 何かの相談かと思ったが、たわいのない話だった。続けられると聞いて安心した。
 千春は自身について語った。高校は行ってないけど、履歴書にはどこか適当な学校の名前を書いたこと。夫はギャンブルが好きなこと。夫婦で百数十万円の借金があることなど。
 明日も仕事がある。直子が話を切り上げた時は、十一時を回っていた。
 
 次の日は二人とも朝の十時出勤だった。千春は一時間遅れてやって来た。それでも、昼休みになると彼女は食事を取りに帰った。
 直子も仕事を片付けると、急いで部屋へ帰った。
 洗濯物を畳んでいると、電話が鳴った。
「あ、柴田さん。安藤です」
「…どうしたの?」
「あ、どうしてるかな、と思って」
 直子は戸惑った。どうせ休憩が終わると、また作業場に戻るのに。 
 その日、午後からの仕事が終わると直子は帰り道にあるデパートへ行った。新しいジーンズが欲しかった。気に入ったのがあったら買おうと思いながら、しばらく売り場を歩いていた。
 その時、携帯が鳴った。
「あ、柴田さん。今どこにいるの?」
 千春からだった。
「どうしたの?何か用?」
「いえ、家に電話してもいないから心配して」
 直子は圧迫感を覚えた。
 
 千春は毎日数回電話を掛けて来る。これといった要件がある訳ではなかった。
「そんな話は店でしてくれないかな」
 いいかげんうんざりした直子がそう言ったことがある。
「あ、すみません」
 その時はそう謝ってはいるが、どうも通じてないようだ。また時間を置いて電話が掛かって来る。

 その日、直子は休みだった。代わり千春が仕事に入っているはずだ。
 家事が一段落した昼過ぎ、直子は久しぶりに高校時代の友人に電話を掛け、長電話を楽しんでいた。
 その時、携帯電話が鳴った。嫌な予感がした。友人に断り、受話器を置いた。
「今、誰と話してたんですか」 
 千春からだった。
「…え、今、仕事中じゃないの?」
「はい。でも、午前中で切り上げて帰って来ちゃったんです」
 直子は愕然とした。
「じゃあ、今、チーフ一人だけじゃないの?何で帰ったりするのよ」
「あ、ごめんなさい。お客さんも少なそうだから大丈夫かな、と思って。それより、これから会いませんか」
「私、スーパー行ってみるから」
 直子はそう言って電話を切った。青果部に行くと、鮮魚のおばさんと事務のおばさんが手伝いに来ていた。 
「その安藤さんって子、私が入った頃いた事務の人に似てるのよ」
 鮮魚のおばさんは、ここでは一番古い。
「え?事務の人?」
 事務のおばさんが聞き返す。
「うん。もう大分前の話だから、私くらいしか知らないんじゃないかしら。でも、すぐに辞めちゃったと思うわよ」
 翌朝、千春は時間通りにやって来た。
「昨日はあれから忙しかったですか?」
 あっけらかんとした声に、直子は黙る。
「私、採用になるよねえ」
 千春の言葉は明るい。
「けっこう、この作業慣れて来たし、皆いい人だし。何だが楽しくなってきちゃった」
 多分、千春は採用になるだろうと直子は思った。人手が足りないので、贅沢は言えない。 

「安藤さん、ちょっと」
 その日は試用期間の最終日だった。千春は事務のおばさんに呼び出された。多分、採用の通知だろう。
 だが、しばらくすると、千春はエプロンを外して戻って来た。
「お世話になりました。私、不採用ということなので、帰ります」
 直子も森崎チーフも唖然としている。どうしても気になったので二人で事務所を訪れてみた。事務机の上には変色した履歴書の山があった。店長が横のソファーで疲れたように座っている。
「あの、安藤さんが不採用というのは…」
 森崎チーフが切り出した。
 店長はぐったりして話す気にもなれないらしい。代わりに側にいたおばさん事務員が口を開いた。
「あの人、以前ここで事務をしていたのよ。売上金を少しずつ盗んだ人でね。パートさんが顔を知ってたと言うから私が調べたんだけど、あやうく採用するところだったのよ」
  
 夏が終わる頃、直子の夫は赴任先から帰って来る。秋には夫の営業所がある別の町へ二人で越すことになりそうだ。
 結局、直子はこの町で行き着けの美容院を決められなかった。
 千春は青果を辞めた。
 だが、彼女は客として毎日のようにスーパーへ来ている。

    (四〇〇字詰原稿用紙で十三枚)




夜間診療   (四国新聞2004年 6月28日)

 私が住んでいるのは合併して出来たばかりの新しい市だ。そこで、美容院を経営している。妻との結婚と同時に開業した店だ。スタッフを三人抱えている。
現在、妻と一才三ヶ月になる娘の三人暮らしだ。
その日は月曜日で休みだったので、昼過ぎまで家で過ごした。午後、急な用事が入ったので店に行った。妻は急遽、近所の保育ママに娘を預けて、予約していた歯医者に行った。
私は午後九時過ぎに帰宅した。娘を抱いた妻が迎えた。
「気がついたら、左手の指、水膨れになっていたの」
八時頃、子供に夕食を与えているときにそれに気がついたという。左手の人差し指第二関節付近に、一センチ大の水膨れがあった。
私はそれを見た。火傷なのだろうか。保育ママは何も言わなかったそうで、我が家で何らかの火傷をした可能性もある。原因が分からないので預け先を責めることは出来ない。娘は痛がる様子はなく機嫌も良い。
「明日まで様子を見ようか」
私は服を着替えながらそう言った。
近所に二児の母親がいる。大学病院で次女を出産以来、検診の度に発育について何度も確認と相談を繰り返してきた。それなのに、小学生になって障害が見つかったという・・・。
結局私は、娘を夜間診療に連れて行くことにした。私は後部座席のチャイルドシートに娘を乗せた。娘は隣の妻に笑顔を見せている。
市民病院に入ると、看護師が受付をしてくれた。マニュアル通りなのだろうか、熱を測るように言われる。熱は三十六度九分。赤ちゃんの平熱だ。
少し待ってから診察室に通された。五十代とおぼしき医者がいる。
「八時頃、気がついたら水膨れが出来ていて・・・」
 娘を抱いて椅子に坐った妻が説明をする。医者は、しげしげと水膨れを診る。
「うーん。まあ、常識的には火傷の可能性が高いなあ。虫刺されの可能性もある訳だけど、痕がないなあ」
 彼はいろいろな角度から観察する。なかなか結論は出ないようだ。
「えっと、神崎先生はいたかなあ」
 医者は振り返って看護師に聞いた。
「今日はいません」
壁の一覧表によると、神崎先生というのは、外科の医者のようだ。
「じゃあ、今日は消毒をしておくから、明日、外科か皮膚科に行ってください」
 医者は困った顔をしてそう言った。看護師に薬の指示をした。だが、消毒液が手近になかったようで、外科に取りに行かせた。
 その間、医者は、パソコンの電子カルテに、ぎこちない手つきで文章を打ち込む。コメント欄というところに、「八時ごろ、水膨れに気がつく。一センチ大」とやっとで書き込んだ。
 書き終わると、また気になったのか、患部をもう一度しげしげと見つめる。
「やっぱり、医大に行って早めに処置をしてもらったほうがいいかもしれないね」
 医者は、そう方針を変えた。彼は医大に電話を入れる。
「ええ、火傷といっても指の水膨れでしてね。ええと、一歳三ヶ月。処置をお願いしたいと思いまして。じゃあご主人に代わりますから」
 そう言って、私に受話器を渡した。
「どのくらいで来れますか」
 電話先の相手はそう聞いた。
「二、三十分で行けると思います」
「二十分ですね。お待ちしております」
 私は医者に受話器を返した。彼がそれを耳に当てたが、もう切れていたみたいだった。
 私は駐車場に戻り、娘をチャイルドシートに固定した。少し娘がイラついていたので、妻があやす。
 そういえば、私の客の中で医大の医者がいて、時々くせ毛を直しに来る。市民病院の医師が、子供を心筋梗塞だと診断して医大に移送したが、精密検査をするとなんともなかったと彼は文句を言っていた。
 車の中でラジオをつける。電車でマナーを注意された小学生が暴行事件を起こしたというニュースが伝えられていた。
 
 医大の駐車場は、夜間だというのに八割方埋まっていた。車から降り、娘を抱いたまま妻としばらく建物の入り口を探す。やがて、電気の灯のついた入り口を見つけた。
 廊下を曲がると「夜間受付」と書かれた事務所があった。事務員が二人と、「研修生」の札を着けた青年がコーヒーを飲んでいた。私たちをみると、研修生は慌てて事務所を出て行った。
「ああ、火傷でお電話のあった方ですね」
 事務員はそう言って、書類を差し出した。住所、電話番号、保護者名、保険の種類などを妻が書き込んだ。
「それでは、しばらくお待ちください」
 そう言われたので、側にあった椅子に坐った。私たち以外に待っている者はいなかった。正面の時計を見ると、十一時半だった。夜勤に出た看護師なのだろうか、入り口の機械に何やら登録番号を入力し、先にある部屋に入る。しばらくして、白衣に着替え終えて出て来る。
私は、今にも不機嫌になり泣き出しそうな娘を抱いて、廊下を端から端まで何度も往復した。日付が変わり、十二時過ぎになって、看護師が症状を聞きに来た。妻が先ほど市民病院で言ったことを繰り返し説明する。
「まだ、先生が来ないから」
 看護師は困ったようにそう言って、控え室に戻って行った。
 さらに待って、十二時半になった。廊下の掲示板を見ると、「当院は高度な医療を提供する大学病院です。よって、初診の方には、初診料として一五七五円お支払い頂くことになっております」と告知が貼られていた。
深夜一時前になって、やっと処置室に通された。麻酔科の名札を付けている若い医者がいた。私が娘を抱いて椅子に座り、妻が指の水膨れについて説明をする。
 医師は水膨れを診る。私は娘が暴れださないようにしっかりと抱く。
「うーん。まあ、火傷か、虫刺されか・・・」
 医者は頼りなげに首を傾げる。
「火傷だったら、大泣きすると思うのですが、そんなことはないんです」
 私がそう補足する。
「うーん」
 この医師も困惑しているようだ。彼は考える時間を稼ぐように、ゆっくりと患部を観察する。
「じゃあ、まあ、薬を付けて様子を見ますね」
 医師は、二人の看護師に指示をして消毒の準備を始めた。
「あの・・・、水膨れは引くのでしょうか」
 妻が聞いた。
「これだけじゃ、引かないですね」
 医師は手を休めて、きっぱりと言った。
「潰してはもらえないでしょうか」
 今度は私が聞いてみた。
「うーん。感染症が心配だからね」
 ピンセットでコットンボールを消毒液に漬けて、患部の消毒を始めた。大人たちに押さえつけられた娘は泣き出して、私の腕から抜け出そうともがく。過呼吸になるのではないかというくらい、いよいよ激しく泣く。医者は小さな指にぎこちなく包帯を巻く。暴れる度に、包帯を持つ彼の手が滑った。やっとで巻き終わり、テープで留めた。
「明日、皮膚科に行って受診してください」
 そう告げられて、処置は終わった。
 夜間事務所に「後日、必ず清算することを約束します」というような内容の書類を提出して、家路についた。
 私の車のダッシュボードには、二日前から投函しようと思っていた高校の同窓会の葉書がある。中学校の同窓会は開かれない。二年生の頃、教師への暴行事件があったからだ。残念ながら、担任の先生と再会することはかなわないだろう。
 自宅に帰ったのは、夜中の二時だった。娘はミルクを飲みながら眠りについた。

 翌朝、私は店に出るつもりでいたのであるが、予定を変更した。指名予約がなかったので、別のスタッフに店を任せることにした。
私と妻と娘の三人で皮膚科に行った。娘の処置が結局どうなるのか、見届けたかったのだ。市民病院の皮膚科を受診した。
 医師には、昨夜市民病院と医大を受診したことを告げた。その医師も、水膨れの患部を見ながらしばらく困惑していた。
「じゃあ、消毒しましょうか」
 彼は昨夜の医師同様、そう結論を出した。
「潰してもらうことは出来ないでしょうか」
 妻が聞く。
「うーん。感染症が心配ですからね」
 医師はそう答える。
「水膨れはどうなるんでしょうか」
 私が聞いた。
「いずれ、潰れると思いますよ」
 医師が答えた。
「今、潰すことは出来ないですか」
 私が聞いた。
「じゃあ、まあ、水を抜きましょうか」
 医師は観念したかのようにそう言った。
「針は危ないから、ピンセットにしようか」
 医師は看護師にそう指示して、用意をはじめた。
こうして私は最後まで処置を見届ける。





お告げ (「四国作家」という同人誌の36号)

 みさきは小学三年生。ランドセルを背負った友達とはしゃぎながら校門を出た。
「ねえねえ、これからどうする?」
 校門を出たところで、麻耶ちゃんがみさきに問いかけた。
「今日は後でうちにおいでよ。肝試しごっこやるの。おもしろいよ」
 麻耶ちゃんはいつも絵里ちゃんと真美ちゃんを従えて遊んでいる。みさきも最近仲良くなった。
 麻耶ちゃんは首にいつもお守りをぶら下げていた。誰もさわってはいけないというものなので見せてくれなかった。ある日、うっかり体育の授業にお守りを着けていたことがあった。馬とびをするとき、麻耶ちゃんは馬になれなかった。
「お守りをまたいではいけないの」
 ペアになった子は困っていた。こんなことはしょっちゅうだった。先生が怒鳴る。
「体育のときはお守りをはずしてきなさい」
 身体測定のときもお守りのせいで服を脱がないと言い、保健の先生を困らせていた。
「お守りは先生が預かるから。ほら出して」
「いや、絶対だめ。お父さんとお母さんが誰にも見せたらだめだって言うんだもん」
 麻耶ちゃんは泣いた。みさきは不思議そうに見ていた。

 みさきは家にランドセルを置いて、麻耶ちゃんの家に行った。そこは以前何か事務所をしていたところを買い取ったものらしい。
そう言えば、麻耶ちゃんのお父さんは大学で人が幸せになる方法を教える先生で、お母さんは本を作る工場で働いていると聞いた。
ドアは事務所用の開き戸で住宅用には不似合いだった。それを開けて事務所のような部屋に入ると玄関らしきスペースがあった。そこからが住居になっているらしい。
「ま〜や〜ちゃん」
そう声を掛けると、すぐそばでおばあさんが編み物をしていた。彫りの深い面長の顔立ちは麻耶ちゃんによく似ていた。
「いいよ、あがって」
 おくから声がした。
 廊下を歩くとトイレ、洗面所、階段があった。そして一つの部屋があった。
 襖を開けてみた。真っ暗だった。
「お化けだぞう」
 シーツを頭からかぶった三体のお化けが出てきた。
「きゃあ、こわいよう」
 電気を付けて、正体がわかった。シーツをかぶっていたのは麻耶ちゃんと絵里ちゃん、それに真美ちゃんだった。
 そこは和室だった。その奥に、オレンジ色のじゅうたんの部屋があり、麻耶ちゃんの勉強机が置いてある。さらにその奥にも部屋があった。ぴっちりと襖が閉められている。
肝試しごっこはさらに盛り上がった。みさきと麻耶ちゃんがお化け役になった。
 みさきはお化けの格好をするためにどこかで着替えようと、そのぴっちりと閉められている襖に手を掛けた。
「そこは開けないで」
 鋭い麻耶ちゃんの声だった。
「どうして?」
「そこは神様の部屋なの」
 麻耶ちゃんはきっぱりとそう言った。
 神様の部屋・・・。みさきは不思議だった。
 
麻耶ちゃんは鏡台からお母さんの口紅を出してきて、みさきの唇から裂けるように塗りはじめた。みさきはお化けになりきった。それはみんなに受けた。みんな大満足だった。
「おもしろかったね」
 みさきは洗面所で口紅をようやく落とし、すぐそばにあったタオルで顔を拭こうとした。すると、
「だめ。それ使わないで」
 麻耶ちゃんが即座に止めた。
「それ、神様のタオルなの。使っていいのはこっち」
 みさきは幼心に不可解だった。

 その日以来、放課後は麻耶ちゃんの家に友達と集まることが多くなった。土日は道場に行ったり、町で本を配るお手伝いをするから遊べないという。
 大きな壷やら水晶玉が、ガラスの戸棚に飾られているのに気づいた。
 何だか麻耶ちゃんの家は神秘的だった。あの神様の部屋はどうなっているのだろう。
 ある日のこと、麻耶ちゃんは一冊の図鑑のような本を出してきた。
「ねえ、天国と地獄って知ってる?」
 麻耶ちゃんはみんなに尋ねた。
「死んだら行くところでしょ」
 絵里ちゃんが答えた。
「そうだよ。でも見たことないでしょ。これが天国だよ」
 そこは、青い空に浮かぶ雲。雲の上に金色の宮殿があり、白い服を着た男性や女性が歩いている。手には何か壷のようなものを持っていた。麻耶ちゃんは得意そうに言った。
「どう、みんな幸せそうでしょう」
 これが天国というものだろうか。みさきは不思議な感じがした。みんなも驚いている。一筆一筆がかなり細かい。美術館に展示されてるような絵だった。
「じゃあ地獄は?」
 みんなが口々に麻耶ちゃんに聞いた。
「地獄は怖いよ。絶対行きたくないって思うよ」
 その絵も見せられた。
「きゃあ、怖い」
 それはグレーの色彩だった。一目で悪人と分かる者たちが檻に入れられて助けを求めている。服はぼろぼろで、顔はただれていた。みさきはかなりショックを受けた。そしてこう聞いてみた。
「どんな人が地獄に行っちゃうの?」
「それはね・・・」
 麻耶ちゃんは得意そうに話しだした。
「人を殺した人、自殺をした人。あと盗みをしたり、人の悪口を言う人も地獄に行くんだよ」
 みんなが恐怖に陥った。
「天国に行くにはどうしたらいいの?」
 みさきはまた聞いてみた。
「よい行いをした人だよ。絶対に人の悪口を言わない人もね」
 麻耶ちゃんは、はっきりそう言った。

 四年生になり、クラス替えがあった。みさきは絵里ちゃんと麻耶ちゃんと同じクラスになった。そして麻耶ちゃんを中心に行動をともにしていた。麻耶ちゃんをリーダーにして十人くらいのグループが出来ていた。
「私、ノリちゃんのことあまり好きじゃない」
 ある日の休憩時間、麻耶ちゃんはみさきに打ち明けてきた。ノリちゃんのペンケースは麻耶ちゃんが持っているものと似ている。それが気に入らないらしい。
 その日からグループのみんなはノリちゃんを無視するようになった。
 それから少しでも気に入らないことがあると、麻耶ちゃんは容赦なく仲間はずれにした。
 みさきは不可解だった。そんなことをすると地獄へ落ちるのではないだろうか。
「今日もうちに集まろう」
 麻耶ちゃんはいつものようにそう言った。
「ごめん。私行けない」
 みさきはその日気乗りがしなかった。それがいけなかったのだろうか。次の日麻耶ちゃんは口を利いてくれなくなった。話しかけても絵里ちゃんのところへ行ってしまう。ぽっかりと心に穴が空いた日が続いた。
そんなある日。
「みさきちゃん」
 麻耶ちゃんだった。みさきは驚いた。
「ねえ、久々にうちにおいでよ」
 みさきは戸惑った。絵里ちゃんとどうやら喧嘩したらしい。それで絵里ちゃんの悪口ばかり話してくる。みさきは思い切って麻耶ちゃんに言った。
「前から聞こうと思っていたんだけど、悪口言うと地獄へ行くんだよね」
「そうだよ」
「でも麻耶ちゃんだって、いつも人の悪口言ってるよね。それっておかしいよね」
 はっきり指摘するみさきの態度に麻耶ちゃんはしゅんとなった。
「でもそれは仕方のないことなの」
「仕方のないことって何よ。おかしいよ」
 みさきはその場を駆け出していた。
 麻耶ちゃんはその日から一人ぼっちだった。今まで人を仲間はずれにしていたので、誰も助けなかった。みさきたちが駆け回って遊んでいるのを麻耶ちゃんは一人でじっと見ていた。さすがにみさきも胸が痛んだ。
「一緒に遊ぼう」
 みさきは麻耶ちゃんに話しかけた。

「神様に怒られているような気がしました」
 麻耶ちゃんはこの仲間はずれの一件を作文にしたためた。それを担任が読んだのである。
「みさきちゃんが話しかけてくれたとき、神様が光を与えてくれた気がしました」
 みさきは思った。神様が麻耶ちゃんを叱り、反省したのだろう。麻耶ちゃんはこれでいい子になる。喧嘩なんかしない。今度こそ本当に仲良しになれると思った。
 そんなある日のこと。
「私、転校するんだ」
 それは思いがけない一言だった。
「神様のお告げだってお父さんが言ったの」
 麻耶ちゃんは翌月転校していった。
麻耶ちゃんとは、それっきりだった。



土の温度」(第35回香川菊池寛賞奨励賞)
時間があれば、公開していこうと思います。





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