SS「鏡」−1






 鏡の中にボクの顔が写っている。
 笑ってみる。
 怒ってみる。
 泣いてみる。
 鏡の中のボクも同じ表情をする。


 ボクは花組の舞台に立っている。
 役者はどんなときにでも表情を自由に作れることが最低条件だ。
 だからボクはどんな表情でもできる。
 それが当たり前だから。




 ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち

 拍手。
 万来の拍手。
 それは劇場全体を振動させているかのような錯覚すら覚えさせる。
 海岸に打ち寄せる波のように、さざめくように、それは響いていた。
 いつまでも続く、轟音。 
 
 ボクは……それをただ立ち尽して聞いていた。
 ただ、淡々と。






「ホンマ、今日のレニはよかったで。完璧やな」

 紅蘭がメイクを落としながら、興奮気味の声を出した。
 まだ舞台で受けた万来の拍手が、まだ彼女の身体に残っているのであろう。
 声だけでなく、身体全体が興奮で上気しているかのようだ。
 今日の舞台は、紅蘭にとって今年に入っての初舞台だったのだ。
 感動も興奮もひとしおなのだろうか。



 今日の舞台は『花組・眠れる森の美女』。
 夏公演『リア王』と秋公演『青い鳥』の合間を縫っての特別公演だった。
 帝都の人々に希望と勇気を与える帝劇として、
 季節公演制の限界から、急遽臨時に決定したのだ。
 今回は臨時ということもあって、事前からの十全な準備が出来ていたとは言いがたい。
 だけど、主役の決定に隊長の意見が参考にされていたという事実が、
 花組の皆を騒然とさせていた。
 サロンに走る緊張の空気。
 あの織姫ですら、驚愕と少しばかりの期待を持っているかのように見えた。
 そして、かえでさんの口から出た、主演のオーロラ姫役は………ボクだった。
 皆はほんの一瞬落胆の表情を見せたが、
 すぐにその表情を消し去ると、ボクに祝福の言葉を投げかけてくれた。
 そして、隊長の言葉。

「レニの演技に期待しているよ」

 ボクは黙って頷いた。
 自分が何の役に収まろうがどうでもよかった。
 主役、脇役の差はあっても、
 それは舞台を構成するそれぞれの任務であるということに変わりはない。
 そして、任務である以上完璧にこなすのが当然のことなのだから。
 期待されていようがいまいが、任務は遂行する。





「………そう」

 鏡の中に写るボク自身の顔――何の表情もない顔――を見ながら、紅蘭へと応えた。
 ボクはメイクを落とす手を休めず、今日の舞台を思い返してみた。
 セリフ、足取り、タイミング、表情、
 すべてを頭の中で完全に再生し、そこに一点のミスもないことを確認する。
 任務は完遂した。

「それじゃ」

 身支度を整えると、皆に一声だけかけて廊下への扉に手をかけた。

「ああ〜〜ん、レニ待ってよぉ〜〜」

 アイリスが若干甘えたような声を出して、たたたとボクの方へと駆け寄ってきた。

「お部屋に戻るんでしょ? アイリスと一緒に行こ」
「…………ああ」

 天真爛漫と日本語で言うのだったか。
 アイリスの笑顔での申し出に、ボクは頷いて応えた。
 この笑顔を見ていると、心によくわからないものが浮かび上がってくる。
 それはざわざわとしているような、それでいてくすぐったいような………。
 上手く表現が出来ない。
 楽屋を一緒に出て、廊下を並んで歩く。
 アイリスは今日の公演の楽しかったこと、驚いたこと、
 お客の反応やボクの演技について、こと細かく話しかけてきた。
 それらの問いに適当な相槌を打ちながら、アイリスの歩調に合わせて歩いていた。
 ふとその事実に気づいて、ボクは自分自身に驚いていた。
 そのとき、アイリスが口調を改めてこう言った。

「ねえ。アイリス、レニの笑った顔が見てみたいな」
「………舞台で見てる」
「そうじゃなくって……う〜ん」

 稽古で何度も反復しているし、
 今日の舞台のラストシーン………
 オーロラ姫と隣国の王子のダンスシーンでも、ボクは笑顔でいたはずだ。
 それはアイリスも知っているはずなのに、今更何を言っているのだろう。
 よくわからなかった。

「え〜とね」

 言葉を必死で紡ぎ出そうとするアイリスだが、
 歩みを止めなかったので、もうボクの部屋の前に着いてしまった。
 ボクはドアのノブに手をかけると、

「じゃあ。ボクもう休むから」

 そう言ってアイリスの方に顔を向ける。

「あ、うん。おやすみなさい、レニ」

 はっとした表情で、アイリスが顔を上げた。
 ボクはそれ以上何も言わずに身体を自室に滑り込ませる。
 ドアの隙間から、アイリスが手を振っているのが見えた。 





 『帝都倶楽部』という雑誌がある。
 つい昨年大手出版社から創刊された月刊情報誌で、
 みるみるうちに販売数を伸ばし、今や帝都の一大流行雑誌といえた。
 それは最近のファッションから、帝都の名所探訪、
 芸術から娯楽までこれ一冊で十分まかなえるほどであった。
 近頃は、ポンパドゥール近松なる占い師の占いコーナーが密かな人気らしい。
 その『帝都倶楽部』の最新号で、特集として帝国歌劇団・花組が挙げられていた。
 各女優の簡単な略歴からプロフィール。
 これまでの公演の簡単な紹介と、これから予定されている公演など。
 無論公式発表されている範囲なので、華撃団にとってはなんら問題ではない。
 というよりも、歌劇団の宣伝としては十分すぎることだ。
 最新の公演……
 つまり、先日行われた『眠れる森の美女』についても紹介されており、
 記事の作者はこの舞台に惜しみない賛辞を贈っていた。
 さらに何人かの著名な評論家も集まり、
 少なくともこうした雑誌の購買層には意味不明であろう専門用語を羅列して、
 したり顔で解説と賛辞を贈っていた。
 主演であったボクを始めとして、花組全員に祝福の花束が投げかけられていた。
 そんな中、ひとりの若手評論家の言葉が、記事の隅の方に小さく書かれていた。

『花組の演技は素晴らしく、観る者の心を癒すことができる。
 今回の舞台で特筆すべきは、妖精役のアイリス嬢の笑顔であっただろう。
 無垢なその笑みは、観る者に安らぎを与えている。
 また、主演のレニ嬢は機械のように計算し尽くされた演技をみせていた』

 計算され尽くした演技………。
 その評価は、ボクにとって至極満足なもののはずだった。
 だが、その前の一文。
 アイリスの笑顔についての評価が目を引きつけた。
 アイリスの笑顔を見て、
 ボクの心に広がった得体の知れないモノに形を与えられたからだ。
 ボクの見る限り、アイリスの演技はまだまだ不完全だった。
 セリフまわしから、踊り、動き、すべてにおいて完全とは言いきれない。
 それでも、ボクはアイリスから目を離せなかったのだ。
 見ているだけで、心に何か浮かび上がってくる。
 いや、アイリスだけではないのかもしれない。
 花組の演技は、ボクの心の何かを確実に揺らしていた。
 完全に任務をこなしたはずのボクの演技は、本当に誰かの心を揺らしたのだろうか?





 揺れる……。


 任務は完全にこなした。
 問題などどこにもあるはずがない。
 それなのに、心のどこかが大きく揺れていた。
 それは完全なる水鏡を形成していた湖面に、一個の石が投げこまれたようでもある。
 小さな石。
 小さな波紋。
 だが、それは確実に大きく湖面を揺らしていた。
 もともと完全なる平衡を保っていたからこそ、ほんの小さなことで天秤は揺れる。
 湖面の波紋は、湖全体を覆い尽くす。
 すべてを飲みこみながら…………。

 そして、ボクはすべてを飲みこまれた。


 演じることは、ボクにとって戦闘とイクォールだった。
 任務という意味では、ふたつは同一の重さを持っている。
 完璧に行えたはずの舞台に疑問が生じたとき、
 同時に今まで完璧にこなしてきた戦闘にも疑問が生じてきた。
 その疑問の正体がわからないからこそ、それはますます大きくボクを侵食していった。
 
 この一撃は、何のために放っているんだろう?
 この戦闘に、どんな意味があるんだろう?

 ボクは………一体何のために戦っているんだろう? 







「隊長……」
「……レニ?」
「ボクは……ボクは……何のために戦ってるの?」
「………え?」
「ボクは……自分が何のために戦ってるのか……わからなくなった。
 隊長は、一体何のために戦ってるの?」
「それは……」

 隊長なら……隊長ならボクの疑問に答えてくれるのだろうか。
 この理解不能な感覚のすべてを消し去ってくれるんだろうか。
 隊長は一瞬虚を突かれたような表情でボクの顔を見たが、
 すぐに目を鋭くして口を開いた。

「もちろん、正義のためだ」
「正義……?」
「………そうだ。悪を倒し、正義を示すのが、俺たちの役目だ」

 正義……!
 正義って一体何!?

「悪を滅ぼす正義……血塗られた理想……。そんなもののために戦うの?」
「レニ……」

 ますます……また新しい感覚が胸の奥底から浮かび上がってきた。
 今まで感じたことのないこの感覚は、何?

「……………出てって」
「……え?」
「………もう休むから」
「し……しかし……」
「いいから……帰って!」
「レニ……」

 よくわからないままに、ボクは声を荒げていた。





「……………ボクは……何のために……戦ってるんだ?」







「踊る言の葉」へ