Single Singers雑感


Single Singersの練習等で感じた、主に純正律関係の事を綴って行きたいと思います。

最新版 第二十六回2004/12/ 2異変
SVANHOLM SINGERS富岡公演の感想
純正律は本当に旋律的に不向きか?第一回1999/ 3/10
先日の実話より第二回1999/ 3/25
「絶対音感」について第三回1999/ 4/ 8、第四回1999/ 4/22、第八回1999/ 6/24
意志の調律第五回1999/ 5/13
名著発見第六回1999/ 5/27、第七回1999/ 6/10
ハーモニー考察第九回1999/ 7/ 8
ハーモニー考察 その2第十回1999/ 9/ 9
反響感謝第十一回1999/10/14
純正律コンサートに行ってきました第十二回2000/ 3/ 9
旋律と和音の整合と処理法について第十三回2000/ 4/13
マタイ受難曲(バッハ)で使用された音律はなにか第十四回2000/ 6/ 9
名指導者発見第十五回2000/ 9/14
アンサンブルコンテスト2000を振り返る第十六回2001/ 3/ 8、第十七回2001/ 4/12
純正律のススメ第十八回2001/ 5/10
本物の響き
SVANHOLM SINGERS高岡公演の感想
第十九回2001/ 8/ 9
目で見るオルゴールの調律第二十回2002/ 2/14
ハーモニー感覚の違い
Renner Ensemble Regensburg日本公演を聴いて
第二十一回2002/ 6/ 6
純正律と邦楽の出会いが意味するもの第二十二回2003/ 5/29
新すぃ整律第二十三回2003/12/11
音楽公害第二十四回2004/ 2/12
祝・名著復刻第二十五回2004/ 5/13


第二十六回2004/12/ 2
異変
SVANHOLM SINGERS富岡公演の感想

 唐突だが、私はグルメというものが理解できない人間である。美味い料理のために大枚をはたくという感覚がわからないのである。それどころか、味覚が貧弱なため、安い物の方が美味く感じる事さえある始末。食材の産地によるわずかな味の違いがどうだという薀蓄を聞いても「そんな微妙な味の差のためにわざわざ金をかけるのもなあ・・・」などと考えてしまう。
 ところが、今回のように一般の日本人からみれば分からないような僅かな音程の違いが醸し出す快感のために旅費をはたいてこういう演奏会に行くという行為、これもまた前述した美食家の行為と相通じるものがある気がしてくる。なるほど、そうするとこれは差し詰め「音のグルメ」と言った所だろうか。

 さて、私にとっては三度目となるSVANHOLM SINGERS日本公演、今回は11月23日、群馬県富岡市にある群馬県立博物館かぶら文化ホールで行われた公演に行ってきました。ホールは最近完成したのかキレイで、なかなか響くようだ。収容人数は1,000名程か。今日は7割ほどの埋まり具合だった。
 ステージ開始。暗転のなか、客席の通路の前後左右、四箇所に4、5名のメンバーが並び、その内の1グループがヴォーカリーズを始め、他のグループも順に後に続く。各グループはそれぞれ四パート揃っており、各グループ別にハーモニーの流れを作り、それが観客の周囲を包む。その中から指揮者の女性が同じくヴォーカリーズの主旋律を印象的に歌い上げながら、客席の後方からステージに歩いて行く。やがて、メンバーもステージに集まって行く。オープニングから凝った演出をこらしている。
 ・・・思えば、この時から違和感を感じていた。具体的には完全五度が僅かに狭く、微妙にハマりきらない感じが気になった。

 1曲目が終わると、以前の公演と同様、日本語を話すメンバーが挨拶と曲目解説を行い、続いて北欧の現代作曲家の曲目を演奏するという。解説が終了してメンバーが立ち位置に戻り、指揮者が構える。すると、左端のメンバー(パート配置は下手からSec、Top、Bass、BarなのでBarのメンバー)が上手に置いてあったピアノに向かい、音取りを行った。え!?それも一音だけではなく、複数の音を鳴らす。最初の曲は冒頭の旋律を弾いたのだが、後の曲では最初の和音を一つ一つ鳴らして音取りをしていた。
 SVANHOLM SINGERSといえば指揮者が音叉で音取りをするのがこれまでの通例であった。これは伊達でやっている訳ではなく、最初の和音を協和させるために純正の音程を指示するために行っているのである。それを(おそらく平均律の)ピアノで取ったのではハーモニーを乱す結果になるのではないだろうか。その危惧から(いつもならSVANHOLM SINGERSのハーモニーにゆったりと耳を傾ける所だが)ジックリと協和を判断しようと耳を澄まして身構える。
 演奏は確かに表現力豊かである。連続五度と思われる箇所では僅かに狭い音関係にしている気がするが、これは連続五度の特異な響きが曲の流れに合わないと判断して微妙に外して効果を上げているように感じる。だが、そのような配慮が不要な完全五度も微妙に狭い気がする。現代曲なので純正協和音が少ないため、演奏効果には余り影響は及ぼさないのだが・・・。

 続いてラフマニノフの宗教曲を3曲演奏する。これらは古典的な技法(5諸和音1waon進行等で不協和音から協和音への解決効果を演出する事により、キリスト教的な法悦感を表現している)を用いているので、解決する協和音が純正になる事が重要である。そのため、SVANHOLM SINGERSならば最も曲の魅力を引き出せる筈であった。
 音取りはまたもピアノで和音の各音を鳴らす。長三度が高い所を見るとピアノは普通の平均律調律のようだ。果たして大丈夫だろうか・・・。私の危惧はすぐに現実となった。
 三度も五度も微妙に外れているため、不協和音から協和音へ解決する快感が得られない。これでは曲の魅力が引き出されず、日本の合唱団が歌っているのと大差ない演奏であった。その後、2曲演奏するも音取り法、演奏とも同じ状態が続き、前半終了。

 休憩に入った頃の私は期待していた純正協和音を聞く事が出来ず、欲求不満状態であった。それも、彼らの問題というよりは、外部の事情が見え隠れしているのが歯がゆい。
 音叉がないなら貸してやる!(そんな筈はないが)
 二度とピアノなんか使うな!
 こんな低レベルのハーモニーを聞くためにここに来たんじゃない
 私の感情は怒りに近かった。その気持ちをアンケートにぶつけたものの、「純正律を理解する人がいる筈がないか」と思い直し、フォローを加えておく。

 後半ははじめに地元の高校合唱団(女声)が2曲演奏した後、SVANHOLM SINGERSが登場。
 スウェーデンの定番曲を4曲演奏する。最初の「Hey Dunkom」(乾杯の歌)の音取りはまたもピアノで和音の各音を弾く。・・・前半の演奏よりは良いものの、やはり微妙に合っていない気がする。

 ここで変化が起こる。次の曲の音取りをなかなか行わない。指揮者がやや前傾姿勢になって中央のメンバーになにか指示をしている様子。と思うとそのまま音取りせずに演奏開始。その影響か、Bassのメンバーの入りのタイミングがずれる。しかし、ハーモニーはキッチリ純正でハマっている。これだよ、これ!これを聞きたかったんだ。
 どうやら指示しているようにみえたのは指揮者が最初の音を示していたようだ。ちなみにこれは平均律の絶対音感で示しているのではない。音叉での音取りに慣れてくると音叉の音程を覚えるので、その音を頼りに純正での音取りが可能になる。という話を松原千振氏から実践で見せてもらった事があったので、おそらくそういう方法によって純正で音取りしたのであろう。
 その後の2曲もピアノでの音取りは行わず、指揮者の音取りで演奏。これらも文句なしの純正ハーモニー。やっとここまで来た甲斐があったというもの。それにしても音取りの仕方一つでこれほどメンバーの音感が変わってしまうという微妙さに考えさせられる。もっとも、これらの4曲は歌いなれているせいか暗譜であったのだが。

 この後、2曲無難に演奏をこなし(これらの音取りはピアノだったが、単旋律を弾くか一音のみで和音への影響は少ない)、先程演奏した地元の高校合唱団と合同演奏を行う。パート配置は後列下手からBass、Ten、前列下手からSop、Alt。この辺りもハーモニーをきちんと考えている。
 ここで象徴的な場面が出現する。一旦、メンバーがピアノで音取りをしたものの、指揮者が改めてハミングで音取りし直したのだ。つまり、ピアノで音取りしたのでは充分な協和感が出せないと判断し、音程を修正指示したのだろう。演奏を開始すると、単純な編曲らしく協和音が多い構成で、男声の完全五度がきっちりハマるのが心地よかった。
 この後、高校生が退場し、最後にSaint-SaënsのSaltarelleを演奏。これまでに聞いた2回の日本公演でも演奏しており、お気に入りのようだ。プログラムの演奏が終わるとアンコールがありそうではあったが、私は帰りの列車の都合でダッシュして会場を後にする他なかった。

 そもそも、今回はレポートを書く予定はなかった。同じ合唱団の似たような演奏会レポートを掲載するのも新味に欠ける気がしたので、昨年の公演時もレポートは割愛しました。しかし、今回は余りにも問題を感じたので書かない訳にはいきませんでした。

 以下は私の想像です。おそらく、今回の公演を行うにあたって地元の関係者が「地元の合唱団との合同演奏を行おう」と考え、急遽編曲した曲を演奏会の前日か当日に地元の合唱団と一緒にピアノで音取りして練習を行う事によって、日本の悪癖である平均律ピアノを中心とする音楽指導にさらされ、その結果としてSVANHOLM SINGERSの音感に異常が生じ、このような演奏になってしまったのだろう。

 「些細な事で音感は破壊される」彼らほど繊細な音感を持っている人々であっても、音に無神経な場にさらされるといとも簡単に音感をおかしくされてしまうのです。
 そもそも、日本の合唱団とは音程の次元が違う(音程に対する取り組み方、感覚のケタが違っている)合唱団と日本の合唱団を共演させようとすると、今回の演奏会のように先方の美しいハーモニーを破壊してしまうかもしれないという危険性が存在する事を公演の主催者には認識してもらいたい。

 とはいえ、この演奏会を聞いてそんなハーモニーの変化に気づいた人間が果たしていただろうか?おそらくほとんどの観客は「良い声だったね」位の感想しかないのだろう。せめてSVANHOLM SINGERSのメンバーが同じように感じていてくれる事を願わずにはいられない。
 果てしない孤独感を感じた演奏会であった。


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第二十五回2004/ 5/13
祝・名著復刻

 以前より純正律音楽研究会で復刻の話題が上がっていた「ゼロ・ビートの再発見」「同 技法編」(平島達司著 復刻版出版(株)ショパン)がついに発売され、入手しましたのでいくつか感想を綴ってみましょう。

 まず一読して感じたのは和声と旋律の相克等、当HPでもたびたび書いている協和や旋律の特性に関して共通の認識がある事でした。特に協和が倍音の一部一致が影響しており、ミーントーン等、鍵盤楽器の調律において行われるビートを数えるという行為が、2音それぞれの倍音の最も近い音同士のビートを数える事(協和している場合はゼロ・ビート)によって行われていると知り、かつて「絶対音感」についての中で記述したハーモニー感に関する仮説が正しい事が証明されたのが嬉しかった。

 一方、驚かされたのは「ヨーロッパでもwell-temperamentと平均律を混同している」という事でした。てっきり日本人が誤訳したものと思っていましたが、向こうでの誤認が先だったとは!。もっとも、調律に関する話の中で、ヨーロッパでは「平均律で調律した」と言いながら実際はヴェルクマイスター等のウルフのない古典調律法で調律しているという例があるらしいと触れている下りがあり、結局、馬鹿正直に正確な平均律を実施している(歴史的に協和感覚のない)日本人が馬鹿を見ているという事には苦笑しました。
 また、技法編に見る、日本のピアノ調律における調律曲線(低い音はより低く、高い音はより高く)がオクターブの跳躍を人の感覚に合わせたものであるという記述は、日本のピアノ調律法が旋律表現を行う事に特化しており、単旋律表現に適しているという事を理解させてくれました。

 協和と旋律、調律の実施等、大変興味深い話の多い名著ではありますが、一方で古典調律法(ヴェルクマイスター)を中心に話を進めているため、純正律に対しては実用的ではないというスタンスであるのがやや不満に感じました。これは著者が鍵盤楽器を前提に話を展開しているためと考えられます。確かにヴェルクマイスターのようなウルフのない古典調律法は和声と旋律の問題を調性毎の特性に置き換える事によって豊かな調性感を演出しており、それを当時の作曲家が有効に用いて名曲を作っていた事は事実であり、それらを踏まえて演奏を行うべきである事は言うまでもありません。
 これに対して、当HPで展開している実用純正律理論は元々音程に制約のない楽器(合唱、弦楽、金管等)を前提としているため、別の処理法を提唱しております。和声と旋律の問題については旋律パートと協和担当パートで違う音律を用いる事にしており、協和音だけでは物足りないという問題では、先の話とも重複するが不協和音と協和音の対比によって音楽に変化をつけられることを提唱しています。このため、純正律(意味を考えると純正調と表現すべきか)が劣るとか、実用性が低いという事はないと断言します。ただし、作曲家がどういった音律を前提として作曲し、どういう効果を狙ったかを認識するという面で実用上の考察が必要であると言えます。

 また、2冊とも読んで見てどうしても残る疑問は「他の楽器(合唱、弦楽、金管等)が鍵盤楽器と合奏する際にどのような音で奏するべきか」という事。実際、合唱において協和を意識したり、旋律を聞こえよくしたりという事はできても、調性毎に微妙に異なる三度、五度を実現するという訳にはいかないだろうから、合奏においてなんらかの合わせ方を模索する必要があるだろう。これについては古楽関係を聞いてみる以外ないだろう。


古典調律法に関する理解

 この書籍を読んで大変勉強になったのはいくつかの代表的な音律を五度圏図に直して掲載されていたので、各音律の正確な姿と名称を認識できた事です。その上で感じた事を以下に記します。

 ヴェルクマイスター第一技法第三番の修正(図表27から図表28への修正)の理由については少々異論を持ちました。特に著者の推察(1)については不充分と感じたので私見を展開します。
 私も古典調律法については多少研究しました(第十回第二十三回等)が、それによって気づいたのは、各調性の七音階は五度圏図の半分の連続する五度6つ(両端を含むので7音)によって構成されるという事。例えば、CdurやAmolはF−C−G−D−A−E−Hの6つの五度によって成立しています。そして、この6つの五度がどういった幅で構成されているかによってそれぞれの調性の特徴が決定されます。特に6つの五度が全て純正完全五度によって構成されている場合、ピタゴラス律と同一という事になります。
 以上を踏まえて図表27を見直すと、8つの五度が純正で連続している事が問題となるのです。これは6つの連続する五度が3ヶ所(長短を含めると6つの調性)発生する事になり、これらの調性は全てピタゴラス律と同一となります。ようするにこれらの調性では調号が変わっても調の特性が変化しない事に不満を持ったと考えられます。そのため、狭い五度の一つを移動させる事によって三度の幅を滑らかに変化させ、他方、ピタゴラス律と同一の調性を1ヶ所だけ登場させるようにして各調性の変化の幅を大きくとる効果を狙ったものと考えられます。
 また、ヤングの音律において半分の連続する五度を純正にとっているのも同じ効果を狙ったものと言えます。この音律においてはもう半分の狭い五度が全て同じ幅なので、調によって発生する三度の幅の変化が最も滑らかに行われており、これを目指したものと考えられます。

 一方、(本文では詳しく触れられていませんが)キルンベルガーの第1〜第3法の音律を並べて記載されていた事によって、キルンベルガー自身が目指したものがおぼろげながら見えてきました。おそらく、キルンベルガーが目指したのは使用可能な調を減らしてもより協和する(五度と三度が同時に協和する調性が現れる)音律を作ろうという事だったのでしょう。
 これはまず、第1法が15世紀のラミスの音律とほとんど同じ(2つの狭い五度の位置が違うだけ)であり、純正律のCdur7音階の配置に他の音を純正五度で重ねたものである事、第2法がその修正と考えられる事から推察できます。第2法の修正は純正律のD−Aの狭い五度を、Aを上げてD−A−Eの二つの五度に分散させたものなのですが、これは以前純正律音楽研究会の会合で玉木先生が鍵盤楽器における純正律の狭い五度の暫定修正法として語られたのと似た方法(Dを下げてG−D−Aに分散させる)です。
 発表当時は第2法が評判が良かったとの記述がありますが、この事も推察できます。三度が協和する調性に関してある程度のウルフ対策がなされている事、そして短三度が純正協和する音律であるという点が重要と考えます。いくつか有名な古典調律法を見てきましたが、短三度が純正協和する調性がある音律は純正律系統にあるラミスとキルンベルガー第1、2法のみで、ミーントーンやヴェルクマイスター等は多かれ少なかれ妥協した音程になっています。おそらくは短調の音楽を美しく奏する事ができる点が評判が良かった理由と考えられます。そうなると第3法は全調性を演奏可能にするためにミーントーンやヴェルクマイスターと妥協した音律と考える事もできるでしょう。この第3法のスキスマ(約700centの五度)の位置がFis−Gis間(私はヴェルクマイスターのようにピタゴラス律の調性があると誤解して第二十三回でH−Fis間に置いていました)にあるのは第1、2法でより協和する音律を目指していた名残でしょう。

 これらの考察から、私はヴェルクマイスターはピタゴラス律のウルフを逆手にとって作り上げられた意味でピタゴラス系統にあり、他方、キルンベルガーは純正律やミーントーン系統にあると考えています。
 ところで、その意味では第二十三回で提唱した短中全キルンベルガー音律もキルンベルガー自身が考えついていたのではないかと思われます。なぜなら、この音律はキルンベルガー第1、2法の精神を受け継いでさらに改良を加えた、いわばキルンベルガー第2.5法とでも言うべきものだからです。これがキルンベルガーによって発表されなかったのは、やはりなんらかの問題があったのだろうか。


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第二十四回2004/ 2/12
音楽公害

 玉木宏樹先生の著書「音の後進国日本 純正律のすすめ」の冒頭ではJR中央線での自殺多発をキッカケにJR山手、中央線の発車ベル代わりに使われる音楽もどきの音やその使用法に対する警鐘を鳴らしていた。その後、氏のホームページ上で、この件に関して都知事が一蹴したと憤りの文章を掲載されていました。

 もっとも、私自身はこの件に関しては余り肯定できなかったので距離を置いていた。勿論、携帯着メロが発する電子音の暴力性は痛感していた(そのため、私の携帯は万年マナーモード)のだが、JR駅の音楽については平均律の問題も含めて余り疑問は感じていなかった。
 この理由には、私が列車通勤をしていないので旅行時以外は駅と無縁な事もあるが、JR四国(坂出駅)やJR西日本(岡山駅)では発車ベル代わりに音楽を使うのではなく、列車到着直前に注意を促すために流しており、発車時はベルか笛を使うので、本にあったようなブツ切りの衝撃を受ける事がなかった点も考えられる。
 しかし、最近この音楽公害を痛感する経験をしたので書き記しておきましょう。

 先日、兵庫県の加古川線完乗を達成した後、帰路につくため加古川駅の山陽本線ホームで新快速の到着を待っていた。この駅は山陽本線の普通列車と快速列車がそれぞれ複線で平行する別の線路を走っており、上り下りが別々の島形ホームに発着するようになっている。下り線のホームで列車を待っていると先に普通列車が到着するらしく、そちらのホームで音楽が鳴り始めた。
 !!、一世代前の携帯着メロや携帯ゲーム機に使用されている耳障りな電子音。曲は草競馬か。
 そこまでならまだ我慢できた。問題はこの駅が上り下りを含めてひっきりなしに列車の発着があるという事。まだこちらのホームで音が鳴っている最中に向かいのホームに上り列車が到着するのか、そちらでも別の曲が鳴りはじめたのだ。
 これは地獄だ!
 耳障りな電子音と平均律のゆがんだ音程で別々の音楽を同時に鳴らされるため、ぐちゃぐちゃの音がかなりの音量で向かってくる。これは正に音の暴力以外の何物でもなかった。そのため、何の曲だったのか全く分からなかった。

 加古川線に乗っている時はほとんど無人駅という事もあり、静かな駅ばかりだっただけにこの落差は強烈であった。これではJR東日本のみならず、JR西日本にも駅の音環境の配慮を考えるべきではないかと痛感させられた。
 尚、JR四国の場合は列車本数が少ないし音源が多少はマシなので、列車到着時にのみ鳴らしている限りはそれほど問題はないだろう(笑)


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第二十三回2003/12/11
新すぃ整律

 今回も純正律音楽研究会の会合での一幕から。
玉木先生 「西洋音楽において短調よりも長調が多用されるようになった背景にはミーントーン(中全音律)の影響も大きい。短三度を純正にしたミーントーンのような調律法があるならもっと短調の曲が発展するのではないか(大意)。」
 「それなら考えて作って見た事がありましたよ。ドとラの間を3分割した五度を重ねればできます。でも五度がミーントーンよりも狭くなる等、問題も多く、ミーントーンには及ばないと判断しました。」

解説
 オクターブ中12音という鍵盤楽器の制約の中で旋律、ハーモニーをより美しくするために16世紀頃から様々な調律法が作られてきました。(第十回の中で古典調律法として少し解説しています。)中でもミーントーン(中全音律)はC−E間を純正長三度にして、その間の五度(C−G−D−A−E)を等分して狭くする事により、長三度の美しさ、ホモフォニックな曲の縦のハーモニーの美しさを強調する音律として長く愛用されました。
 その後、鍵盤楽器の12音それぞれを基音とする長短計24調を全て演奏可能となる音律を考えられるようになりました。それらは考案者の名前を取ってヴェルクマイスター、キルンベルガー、ヤング等の名称が冠せられています。バッハの「平均律クラヴィア曲集」の「平均律」の部分は本来これらの古典調律法を指しており、それを日本人が誤訳したものであると「ピュアミュージック 純正律は世界を救う(玉木宏樹著 文化創作出版)」「響きの考古学〜音律の世界史(藤枝 守著 音楽之友社)」等で指摘されています。また「ピュアミュージック 純正律は世界を救う」では、これらの調律法について「整律」という名称を提唱されているので本項でもそれを使用します。

 ここで問題となっているのは、西洋音楽の旋法が長短両調に限定されるようになった後、さらに音楽理論が長調を中心に成立していき、短調やその他の旋法がそこに半ば無理矢理組み込まれるようになった点にある。しかし、本来短調は長調以上に魅力的な旋法として人々に認められていた筈であると玉木先生は考えられている。その視点で音楽史を見直した場合、長調優先を後押しした要素にミーントーンがあると考えられるのである。
 ミーントーンは長三度を純正にした替わりに短三度は妥協した音程幅となっている(純正短三度は315.6centだが、ミーントーンでは310.3centと狭い)。このため、短調よりも長調の曲の方がハーモニーが美しくなるので長調の方が多用されるようになり、自然と音楽理論もそれを追従していく事になったと考えられる。
 和声技法にはピカルディーの1waon(短調の曲の終止部の1waonを同主長調のそれに変更する)、ダブルドミナント(長調において2waonの代わりに5調の5waonを借用する)等といった固有和音の短三和音を長三和音に置き換える例がよく見られますが、これもミーントーンにおいてより美しい響きを持つ音楽を求めた結果ではないかと考えられます。
 そこで、短三度を元にしたミーントーンのような音律があれば、短調の響きを生かした音楽の発展が可能になるのではないかと考えられるのです。

ミーントーン(中全音律)
音名 フラット シャープ シャープ シャープ
セント値 +20.5 +17.1+13.7+10.2 +6.8+3.40.0 -3.5-6.9-10.3 -13.7-17.2
完全五度の音程幅696.6cent
ミーントーン五度
737.6cent
ウルフ
長三度の音程幅 386.3386.3386.3 386.3386.3386.3 386.3386.3427.4 427.4427.4427.3
短三度の音程幅 269.2269.2269.2 310.3310.3310.3 310.2310.3310.3 310.3310.2310.3

 という訳で、かなり前に考えてお蔵入りにしていた音律ですが、何かのヒントになるかもしれないと思い、公表します。

短中全音律
音名 フラット シャープ フラット フラット
セント値 +31.2 +26.0+20.8+15.6 +10.4+5.20.0 -5.2-10.4-15.6 +41.6+36.4
完全五度の音程幅694.8cent
短中全五度
757.2cent
ウルフ
694.8cent
短中全五度
長三度の音程幅 379.2 379.2379.2379.2 379.2379.2441.6 441.6441.6441.6 379.2379.2
短三度の音程幅 253.2 315.6315.6315.6 315.6315.6315.6 315.6315.6315.6 253.2253.2

 基本的な考え方はA−C間の短三度を純正にする替わりにC−G−D−Aの3つの五度を等分に縮め、その縮めた五度を11個重ねるという事。これによって純正短三度が9つ現れる。12個目の五度はミーントーンと同様にウルフ(濁った響き)となる。これによって五度はミーントーンよりさらに2cent近く狭くなり、長三度は7cent狭くなります。

 実際に作ってみると、純正短三度は文句なし。狭い五度はミーントーン五度よりも唸りの回数は多くなりますが、個人的には許容できるのではないかと判断しました。狭くなる長三度は人によってはかなり違和感を感じるかもしれません。
 問題は音階における長二度、短二度の音程幅。ミーントーンの長二度は193.2cent。これが純正律における大全音(9/8 203.9cent)と小全音(10/9 182.4cent)の丁度中間の幅であり、これが名称になっています。短二度は117.1centでピタゴラス音律(256/243、90.2cent)や純正律(16/15 111.7cent)よりも広いため、旋律的には違和感を感じるものとなっています。
 今回の音律では長二度は189.6cent、短二度は126.0centとさらに厳しいものとなっているので、普通に音階を弾いても違和感を感じました。(便宜上付けた名称「短中全音律」は長二度(全音)の音程幅がミーントーンよりさらに短い事から付けています)

 また、ミーントーンとはウルフの位置を変えていますが、ここに短三度と音律の矛盾点があるのです。
 この音律によって確かに純正短三度は9つできるのですが、一番右端の純正短三度Fシャープ−Aの上にのる筈のCシャープ(Dフラット)はウルフのためFシャープとの間に純正五度を形成できず、事実上この和音は使用できないため、ミーントーンと同様、8つの三度、6つの調への転調しかできないのです。
 これは五度や長三度は上(表上では右)側の音との間で形成されるのに対して、短三度は下(左)側の音との間で形成されるのが原因です。例えばCの短三度上のEフラットはC−F−B−Eフラットと下(左)へ五度を重ねて形成しています。
 そして、このためにウルフの位置をミーントーンと同様にするとF−Aフラット間の短三度が純正にならないのでCmolが使用不可能となるので、使用可能な調性位置を調整するためにウルフの位置をずらしています。

 さらに使用可能な調性についてはまだ制約があります。西洋音楽においては短調には和声的5waonという、5waonの第3音を人為的に増一度上げて、5に対して長三度にする例が多いのですが、これを用いると使用可能な調性が短調に関してはわずか3つになってしまいます。これはミーントーンも同様。私はむしろこの事が西洋音楽において短調の発展を阻害していたのではないかと考えています。
 これらのハーモニー、旋律、調性選択の面においていずれもミーントーンに及ばず、使用価値は低いと考えたのでお蔵入りにしていたのです。

 以下は私見ですが、短調における和声的5waonは西欧人にとっての短調の旋律イメージを和声展開においても一致させるために考え出されたのでしょう。実用純正律理論内のコラムでも書いていますが、和声的5waonは後に続く短三和音の1waonへの展開で明暗に大きな落差をもたらすので、これが悲しみ等の概念を演出する上で西欧人の短調に対する感覚に合致していたのでしょう。固有の5waonを使用すると意外に明るいというか幽玄な響きになり、それが、日本の民謡における旋律イメージに合致するのではないかと思います。
 そのため、この音律は日本や東洋における短調の旋律イメージを生かすためには役立つ可能性があるのではないかと考えられます。

各音律の差異
ミーントーン短中全音律理想値
ハーモニー面完全五度696.6694.8702.0
長三度386.3379.2386.3
短三度310.3315.6315.6
旋律面長二度193.2189.6203.9
短二度117.1126.090.2

 ここまで考えた所で脳裏にある閃きが。
 これをキルンベルガーに用いれば。純正短三度は一箇所だけだが、五度や長三度に及ぼす影響は最小限に押さえられるから利用価値が出てくるのでは?

 キルンベルガーは上述した整律の一種で、狭い五度にミーントーン五度を使う事によって一箇所だけ純正長三度を作り出し、各調性間で変化する三度の音程幅にアクセントを付けて、調性毎の個性を明確にする効果を挙げています。

キルンベルガー 太字は純正三度
音名 フラット シャープ シャープ シャープ
セント値 +4.4 +6.4+8.3+10.3 +6.9+3.50.0 -3.4-1.4-1.4 +0.5+2.5
完全五度の音程幅702.0cent
純正五度
696.6cent
ミーントーン五度
702.0cent
純正五度
700.0cent
純正に近い五度
702.0cent
純正五度
長三度の音程幅 402.5397.1391.7 386.3391.7395.1 400.5405.9405.8 407.8407.8407.8
短三度の音程幅 294.2294.1294.2 294.1299.5304.8 310.3310.3304.9 301.4296.1296.1

 ここで、狭くする五度の部分に先ほど出て来た694.8centの五度を3つ組み込んで一箇所だけ純正短三度を構築するのです。これならばキルンベルガーの短三度版になり、短三度の音程幅が各調性毎に差が出来て調性の個性が短調でも際立ってくるのではないでしょうか。また、五度円を閉じているので完全五度や長三度も先ほどのような大きな差は出てこない筈です。

短中全キルンベルガー 太字は純正三度
音名 フラット シャープ シャープ シャープ
セント値 +2.6 +4.5+6.5+8.4 +10.4+5.20.0 -5.2-3.2-1.3 -1.3+0.6
完全五度の音程幅702.0cent
純正五度
694.8cent
短中全五度
702.0cent
純正五度
700.0cent
純正に近い五度
702.0cent
純正五度
長三度の音程幅407.8 400.7393.5386.3 386.4393.5398.7 405.8405.8405.8 407.8407.8
短三度の音程幅296.1 294.2294.1294.2 294.1301.3308.5 315.6308.4301.3 296.1296.1

 実際に作って見ると長調にも好影響がある事が分かりました。狭い五度三つと純正五度を合わせると純正長三度が出来るので、この整律の中で2ヶ所純正長三度が出来る事になるのです。さらに狭い五度の配置を工夫すると純正長三度と純正完全五度を同時に発生させる事が出来るので、極めて純正律に近い(1waonが純正協和する)調性が一ヶ所誕生する事になります。また、短調においては五度の方向が逆なので当然純正短三度と純正完全五度が同時登場する箇所が必ず存在するので同様に純正律に近い調性が登場します。(下表)

新整律の特性 太字は理想値
音階 長短二度和音 長短三度 完全五度
1 2 3 4 5 6 7 1waon 2waon 3waon 4waon 5waon 6waon 7waon
Cdur 196.8189.6203.9 189.6196.8 386.3301.3315.6393.5 386.3308.5308.4
111.7 111.6 702.0694.8702.0702.0 694.8694.8
Emol 203.9189.6196.8 196.8189.6 315.6301.3386.3308.5 308.4386.4393.5
111.7 111.6 702.0694.8694.8 702.0702.0694.8

 勿論、旋律的には(ミーントーン程ではないが)妥協しているので、縦の和音を生かした音楽に適用する事になるでしょう。また、一応全24調演奏可能(狭い五度が認められればという前提の元だが)であるが、上記2調性に特化している分、他の調性の個性が埋没気味になっている事も確かである。

 現実にこの整律を鍵盤楽器に用いる場合、ピアノよりはチェンバロにした方が良いかもしれません。というのは、ピアノは一つの鍵に3つの弦を張り、しかもそれぞれの弦の音程を少しずつ変える事によって音の伸びを確保しているので、こうしたハーモニーに立脚した正確な合わせをすると音量や伸びが物足りなくなって従来と同様の感覚の音にはならない可能性があるためです。

 ただ、これらのアイデアは所詮コロンブスの卵ですから音律が色々と考察されてから500年近くなるので、これまで誰も考えた事がないという事はないでしょう。


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第二十二回2003/ 5/29
純正律と邦楽の出会いが意味するもの

 先日、純正律音楽研究会の会合に参加し、玉木先生とお話をさせて頂き、ほぼ共通の認識を持てたと感じました。 そこで僭越ながら、玉木先生のホームぺージに書かれていた「邦楽と出会い、 フリギア旋法にハマッている」という言葉の意味について解説してみようと思います。(文中敬称略)
 とりあえず、結論は以下の通りです。

・西洋音楽の和声学の根底にあるのは長音階である。
・日本伝統の旋法をベースに新たな和声法や音楽を構築できる可能性がある。


音楽の快感の諸要素
 音楽の快感の源には以下のような要素があります(一部 私が認識している限り)。
和音の快感五度下の和音への展開D進行
五度上の和音への展開S進行
不協和音から協和音への展開解決進行
旋律の快感終止音への短二度上行進行導音進行
終止音への短二度下行進行(フリギア終止)
リズムの快感2拍子、3拍子、4拍子等の強弱定型とその強調
上記拍子を組み合わせた強弱変拍子
上記強弱定型を外すアップテンポ、言葉のアクセントに合わせた強弱
 現在の音楽ではこれらの要素が複合して「音楽の快感」が生み出されています。純正律を研究していると、これらのうち特に和音と旋律の要素が相反するため、その整合を考慮する必要があるというのは実用純正律理論で指摘した通りです。
 今回は旋律について掘り下げます。

 今回のテーマとなったフリギア旋法とはグレゴリオ聖歌の単旋律音楽に使用される教会旋法の一つで、ミからミの7音階で構成され、ミが終止音となる旋法の事です。音階各音間の関係は以下のようになります。

音名ファシ(フラット
音程幅短二度長二度長二度長二度(短二度)短ニ度(長二度)長二度長二度
 当時の音楽においてはシの音は不確定で、シとシフラットが共存していたようですので併記しています。只、フリギア旋法においては終止音からの三全音を嫌ってシの方が優勢だったと考えられるようです。教会旋法は他にレ(ドリア)、ファ(リディア)、ソ(ミクソリディア)を終止音とする音階があります。

 この旋法そのものが西方から伝わって来たというよりは(その可能性も否定できないが)、邦楽のなかにも同様の旋法があると考えるのが順当であり(もしくはこの音階から2音抜いた五音音階かも)、その旋法を玉木氏自身が理解しやすいために教会旋法で呼んでいるのでしょう。さて、その旋法が純正律とどう関わってくるのでしょうか。

 以前、玉木先生が「ドッペルドミナントの人為的な導音進行が好きになれない」と言われた事がありました。ドッペルドミナント(ダブルドミナント 55waon)は5waonの前に置かれて一時的な転調効果をもたらすものですが、この技法の根本にあるのは2waonの第三音4を人為的に増一度上昇させて後続する5waonの根音5への導音効果を狙ったり、和音の長三和音化を目指す事にあります。こうした導音化の技法は短調の5waonの第三音7において行われた事と全く同様です。実はこの導音進行への傾倒に問題があるのです。

西洋音楽の根底にあるもの
 純正律を通じて和声学を研究していると、上例以外にも様々な技法で導音使用、もしくは導音化の例がよく見られる事に気づきます。これは、導音(終止音もしくは特定の音への短二度上行進行)の旋律効果には「到達」の快感があり、その効果が特に転調進行において「新しい展開へ扉を開くような」感覚を想起させるため、不協和音を伴った離脱和音となる事により、遠い調への転調でもスムースな展開を促す効果を発揮している。この導音の旋律効果は西洋音楽において大変好まれており、初期多声音楽において全体、局所を問わず終止の目印となっていた事等を考えると、西洋音楽はこの導音を基礎として構築、発展してきたと考えてよいでしょう。

 この事からドとシの短二度関係がどちらも白鍵である理由も推察できます。上記から旋律は和声に先行して存在しており、旋律の音階上に和声が構築されていったといえます。その音階においてドとシの導音関係は他の音関係と同様、もしくはそれ以上の重要性をもっており、七音階が互いの音関係の広峡を問わず、独立した音位として成立していました。そして当初の単旋律、固定した音程の音楽から多声、転調という概念が導入された事により、元々の七音階にそれ以外の音程を追加するという考え方によって黒鍵が生まれ、現在のような形になったと考えられます。

 ところが、この導音の快感が最上という感覚は万国共通という訳ではありません(玉木氏の言葉がそう)。日本人においても確かに導音の「到達」快感はあるのだが、それが日本人の琴線に触れるという程ではない。
 例えば、山田耕筰作曲「かえろかえろ」の「かえろがなくからかえろ」という旋律に郷愁を感じた事はないだろうか?
 男声合唱経験者なら男声合唱組曲「柳河風俗詩」(多田武彦作曲)の「柳河」の最後「明日天気になあれ」の部分に己の深い所を揺さぶられるような言いしれぬ郷愁を感じた人は多いと思う。これらの旋律の最後は「長二度下行 長二度上行」で終止音に到達している。西洋音楽の感覚ではこうした「I−VII−I」の進行は短調でもVIIを増一度上行させて導音にしますが、これでは郷愁を感じる事はできないでしょう。これら「I−VII−I」進行が日本古謡から取り入れたとするなら、元々日本土着の音楽に存在していたと言えるでしょう。
 つまり、我々日本人は元来自分の音感覚には余り合致していない音階をベースにした音楽を受け入れていたという訳です。

余談
 滝廉太郎作曲「荒城の月」第一行「春高楼の花の宴」の「の宴」の箇所はシャープがついて「短二度下行、上行」となっていたが、その後、山田耕筰が「半音進行は難しい」とシャープを外して「長二度下行、上行」に修正したという話がありましたが、これが前述した旋律効果を山田耕筰が認識していたと考えると別の解釈が考えられます。
 留学して西洋音楽を学んできた滝廉太郎はかの地の導音概念に新鮮さを覚え積極的に取り入れて作曲したのだが、山田耕筰は同じく西洋音楽を学びながらも、その中で日本人の音感覚を重視し、日本人の感性を表現しようとしたのではないかと考える事ができます。そんな想像をめぐらせると、文明開化の時代、新しく導入された西洋文化に対峙する日本人の各々の姿勢が垣間見えるようでなかなか興味深いとおもいませんか?

 それでは、西洋音楽で主流となったこの導音進行、長音階、短音階はどこからきたのでしょうか。(以下私見)
 西洋音楽の発展の大元となったキリスト教の聖歌がキリスト教の広がりとともに現在のイスラエルからヨーロッパ全域、特に西欧へ広がり、音楽の発展はかの地で行われました。教会では教会旋法が守られていたが、中世世俗歌曲(トルバドゥール、トルヴェール歌曲等)で長短両音階が、現存する記録上で初めて見受けられるようになる。こうした事から教会旋法は中近東、もしくは東欧の土着音楽の旋法であり、長短両旋法は音そのものの楽しみを享受するようになった西欧の民衆が自分達の土着音楽の旋法を用い、さらにその地で音楽が発展した事からこれら長短両音階が西洋音楽の根幹をなすものとなったのでしょう。
 つまり、西洋音楽はあくまで西欧の人々の音感覚をベースとしたものであると考えられます。

新しい音楽の可能性
 それでは日本人の音感覚に合う旋法をベースに音楽を構築する事が出来れば、日本人の琴線に触れる新しい音楽を構築できるのではないでしょうか。そこで邦楽のなかに存在していたフリギア旋法(?)に可能性を見出した訳です。
 フリギア旋法の特徴は「終止音へ向かう短二度下行」にある。これには「平安、安定、沈静」の快感があると考えられます。これはちょうど導音と全く反対の終止の目印となります。また、この旋法は日本古楽に存在しており(邦楽との出会いがそれを確信させた)、日本人の音感覚にも合致するこの旋法(終止進行)を基礎とした終止定型を確立させ、和声進行の確立、転調の確立と西洋音楽と同様の経過を経て新しい音楽を構築できるのではないか、というのが玉木先生のお考えだと思われます。

 ところで、フリギア旋法の「終止音へ向かう短二度下行」という快感は西洋音楽に面白い形で取り入れられています。
和声学にあるフリギア終止
 和声学において、Sopが二度上行、Bassが二度下行して到達する半終止をフリギア終止と呼びます。私は当初、フリギア旋法との関連がサッパリ解らなかったのですが、短調で考えた時に氷解しました(下図)。
フリギア終止フリギア終止 短調
 つまり、Bassが短二度下行して終止音(この場合5waonの根音5)へ到達するのをフリギア旋法に見立てているのです。もしくはフリギア旋法を使用した初期多声音楽にこうした終止(右図のタイプ)をする曲があるのかもしれません。本来は全終止で行いたいのでしょうが、長短両音階とも1の短二度上の音位が存在しないので実現できないのです。そのため、こうした形で取り入れているのでしょう。

ドミナントセブンス第7音の解決進行
 長調における57waonの第7音の解決進行(1waonの第3音へ進行)もフリギアの快感を刺激するものと言えます。

ドミナントセブンスの解決進行
 こうしてみると、この進行は旋律の導音進行、フリギア進行、和声のD進行、解決進行という様々な音楽の快感を複合したものである事がわかります。

 こういった本来相反する事象を手を替え品を替え取り入れていくところに「西洋人の合理的精神」を感じます。


過去に見られた日本的旋法を使用した音楽の試み
 ところで、私が以上の事をアッサリ理解できたのにはそれなりの理由があります。
 以前、多田武彦作品を好んで聞いていた頃、初期作品(昭和39年まで)に共通するある疑問があった。「短調なのに暗いイメージはなく、勇壮で力強い印象を受ける」「明るい曲だと思っていたのに楽譜を見ると短調だった」といった、それまで私が持っていた短調のイメージとは全く違った印象の音楽が多かったのである。

 数年前、「木下杢太郎の詩から」を扱う事になった時、「両国」もそんな印象を感じる作品だったので分析を試みました。
 最初に気づいたのが「短調でありながら導音がほとんどない」という事でした。VII音であるCはほとんどナチュラルで、二箇所だけあったCシャープも片方は転調の関係と考えられるし、もう一方に至っては音にしてみると「これは誤植ではないか」と思われる程、全体の雰囲気から浮き上がってしまっていた。これらの旋律の理由の一つは上述した「I−VII−I」の旋律効果によるものですが、当時和声学を多少かじり、「短調には増一度変位させた導音がつきもの」と固定観念のあった私は面食らってしまいました。
 さらに分析を進めてみると「勇壮さ」を感じる旋律部分で固有のVII音が多用されている事に気づく。特にVII音から始まる「VII−I−II」や「II−I−VII−I」といった長二度が連続する箇所がいくつかで見られる。その時は、これが長音階的な効果を上げていると解釈して分析を打ち切りましたが、正しいかどうかは不明。他にも「V−VII−I」といった旋律が目立つ事、VI音が主旋律にほとんど見られない事も特徴として挙げられる(後者にはドリア旋法との類似も考えられる)。

 しかしながら、この時の分析を通じて、「日本的短音階において、導音は必ずしも必要ではない」=「西洋音楽の導音が絶対ではない」という認識を持てた事がその後の理解に繋がったのです。

 ところで、本項を考察しているうち、多田武彦独自の旋律、和声法が散見できる作品として男声合唱組曲「富士山」に思い至りました。同組曲の「第4曲 作品第拾捌」、「第5曲 作品第貳拾壹(宇宙線富士)」の終止部分を見てみましょう。これらは以前は和声解釈ができなかったのですが、フリギア旋法と出会う事によって気づきました。
 Topが「I−VIIフラット−I」と動くのに対しBassが前者は「IIフラット−IIフラット−I」、後者は「IV−IIフラット−I」と進行する(下図。ただしCdurで表現)。ようするにこれらはフリギア終止を全終止に用いているのである。というよりはこの部分の旋法がフリギアに変わり、それに応じた終止によって曲を締めくくっているというべきであろう。特に「第4曲 作品第拾捌」では直前のユニゾンの旋律がすでにフリギア旋法に変わっている。

富士山4の終止富士山5の終止
「4 作品第拾捌」の終止「5 作品第貳拾壹」の終止

 和声進行としては4曲目は「7の付加7音和音第一転回1和音」、5曲目は「4和音7の付加7音和音第一転回1和音」と見るべきか。いや、Bassの進行と旋法を優先して考えると、むしろそれぞれ「2の付加6音和音1和音」、「4和音2の付加6音和音1和音」と考えるべきだろう。これは西洋音楽のD進行が確立される以前におこなわれていた「二重導音の終止」の「7和音第一転回1和音」進行(下図 14世紀のマショーの音楽に見られる)のちょうど裏返しのような状態になっている。(上述の「富士山」終止部でも、内声部にさらに短二度下行進行があり、いわば「二重フリギアの終止」という状態になっている)。つまり、多田武彦は前述したような旋律効果を認識した上で日本的情感を表現するために独自の和声法を模索していたと考えられるのです。
 残念ながら昭和40年以降の作品にはこうした実験的な和声的試みを感じる事はほとんどできず、中途で断念されたと思われる。

マショーの音楽に見られる終止

 以上の事から、初期作品については「日本的情感を表現するための旋律、和声の試み」を分析、研究する価値があると考えます。


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