ちろりん村は
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ミミズの大先生(社長)プロフィール


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家族構成:妻 大西佐和子 長男 大西王仁 長女 大西夏子 次男 大西良実 三男 大西海薫 次女 大西晴子

自慢話ばかりでごめんなさい。

1948年6月16日

香川県丸亀市の親戚の物置で生まれる、お産をするために入っていたのではなく両親もそこで暮らしていた。当時はそれでもましな生活であった。何しろ日本という国は無かったのだ、独立前だから・・・アメリカによって占領統治されていた。もちろん親父は家族を養うためにヤミ屋をやっていたのは言うまでもない。

1954年頃6歳

私立藤井幼稚園入学。当時は私立藤井女学校が隣にあった。たぶんその付属幼稚園だったのだろう。ある日、初恋の彼女に「誰が一番好きや?」とグランドピアノの下で聞いたら「あんたは二番目や!」と言われ女性不信は今も続いている。園内では毎日けんかが絶えず、年長組のボスと血だらけの決闘になったが見事勝利!札付きの喧嘩上手として名をはせる。しかし断っておくが決して自分より弱い者には手を出さなかったし徒党は組まない。

1955年頃7歳〜

丸亀市立城乾小学校入学。すこぶる喧嘩が強いと言うことで50名ほどでボコボコにされたことがあるが気高さは失わず。以来、私に面と向かってくる者は無し。クラス対抗の勝ち抜き相撲で相手クラスの全員を一人で負かす。恋愛?そりゃありますよ、二度目の初恋の人に毎日意地悪をして落ち込んでいた。勉強?そんなこたぁ興味ねえよ!好きな彼女と一緒に暮らしたいと言うことで頭は一杯だった。学校へ行っていたのは給食があるからだよ、家にいたって誰もいないし。でも三学期はいつも級長をしていたよ、人気だけはあったみたい。賞といえば歯の健康優良児に選ばれたこと、自慢と言えばこれぐらい(よく言うよ全部自慢話じゃないか)笑。小学四年生の時、両親離婚で母がいなくなった。母の名誉のために言っておくが母にはやむにやまれぬ理由があったのだ。父と弟の三人暮らしが始まった。

1961年頃13歳〜

丸亀市立西中学校入学。二番目の初恋の人と同じ中学へ行きたいために書類をごまかす。入学式の日に城坤小学校の喧嘩ボスに喧嘩を売られ非暴力を貫いたが木製のイスで殴られたときの弾みで教室の窓ガラスが数枚割れ、イスはバラバラになった。無抵抗のまま腕を噛みつかれイスで頭を殴られ血だらけになっていたが喧嘩両成敗と言うことで両名職員室に立たされた。彼はその後私にだけは素直になった。この時期から世間のことを少し考えるようになった。寡黙になり、群から離れるはぐれ猿のような存在になり私のことを好意を持って見つめてくれていた彼女もいつしか離れていった。みんな自分の成績のことで頭が一杯で私のような存在・・・中卒で就職をするのが決まっている者・・・その存在すら目に入らないようだった。何かが狂っている・・・洗っても白くならないくたびれた運動靴に白のチョークを塗って履いていました。そんな生活の中で救いは丸亀西中学三年の時の担任、合田司先生でした、宿直日に泊まり込んでレストランの鶏肉をご馳走してくれたのが忘れられません。

1964年頃16歳〜

大阪の関西ウインドという店舗デザイン設計施工会社に住み込みで就職(はっきり言えば丁稚です)夜は大阪第二工芸高校図案科(いわいる定時制)に入学しました。就職して一ヶ月後突然祖母がやって来て木工職人にさせたいのでと関西ウインドの下請け西岡木工所(親方は宮大工の家系だが若い頃に勘当されている)に就職。ここも住み込み、家が狭いので親方の息子の部屋で同居、といってもそれ以外に部屋はなく親方夫婦は仕事場の板の間にゴザを引いて寝ていた。毎日リヤカーで生野区猪飼野から日本橋まで荷物を運んでは夕方からそのリヤカーの荷台をはずして天王寺の南にある学校まで片道1時間掛けて通っていた。悲惨なことばかりじゃないぜ。どっこい、もちろん彼女はいたさ!彼女の家まで片道20キロを日曜日になると走った!話しが後先になるが、この彼女、十数年後に東京に居た私を訪ねてきたのだが、その時には今の女房が居た、悪く思わないでくれ。頑張れよ君も!人生は長い。今度私が女房に逃げられたときは大阪に君を訪ねていくから。その時は僕が振られる番だね(笑)

1966年頃18歳

東京芸大受験のため大阪第二工芸高校退学。高松に一度帰郷。どうせなら一般学力があった方がいいでしょう、ということで普通高校からやり直すことになった。学費は当時多少の小金をため込んでいた母が出すことになった。二年のブランクを取り戻すには塾へ行った方がいいでしょうということで高松の玉藻学園という頼りない塾(当時はそれでも最新鋭の塾だったと思う)が近くにあったので入学試験を受けた。hasとhaveの違いがわからない状態の受験生ではあったが一月後にはその塾の先生代理を仰せつかっていた。二ヶ月でわからない問題はなくなったので一番近くの高松高校を受験。900点満点の895点(一カ所英語の前置詞inとonを間違えた)で試験は合格。ただし、中学の教科書を丸暗記しただけだから大手前高校は5番でした、付け焼き刃で試験の実力は無かったようだ。高松高校は一番で入ったけれど最後はビリ!ハハハ受験なんてこんなもんだよ、気にしなさんなよ!受験で人生すり減らす馬鹿をこの時気付きました。勉強したって賢くはなりません。試験の点が上がるだけです。人間の値打ちは計れません。

1967年頃19歳〜

高松高校入学。最初は男子クラスから始まって最後は芸術クラスへおきまりの下り坂。小気味よいぐらい・・・もう快感でした。この時の気持ちは経験者でないと分からない!生涯エリートコースを歩んでしまった不幸な秀才さん達には気の毒とは思うけれどそれが世間というものです。エリートは他のエリートになれなかった人のために一生を尽くすのが仕事です。不公平ですが仕方がありません、頑張ってください。と、やけくそになった私は、単身三年生の12月に東京へ旅立った。だから本当は出席日数不足で高校を卒業できなかったはずなのに母をこっそり呼びだして卒業証書を手渡した先生はでてこ〜い!「ご迷惑をおかけしました!この高校へ入ったのは間違いでした、もう二度とまいりません」ずいぶん回り道をしたもんだ三年間も・・・

1970年22歳(放浪期)〜

放浪という学校に入学、なぜならこの年、日本中の大学は実質解体したのです。優秀な青年はおおむね退学したか試験を受けていません。だから、この年以降に大学を卒業している人は眉につばを付けてからおつきあいしてください。とはいうものの、数年後にこっそり東京芸大を受験したのですが、最後の学科試験で答案用紙の余白に学校批判をし、不合格になりました。文句があるなら来るな!当然の処置でしょうね。私も興味を無くしていました、未練はありません。後は野良犬のように町を徘徊し知人宅を転々とし気付いたら東京都保谷市(現在は西東京市かな?)の穂積桃子さんの実家に転がり込んでいた。居心地が良いので二年間ほど家族(穂積家の人々との顛末は後日書きます、ちなみに桃子の曾祖父さんは穂積八束です)と仲良く暮らしていたが、ある日彼女が私より若いハンサムな男を連れて帰ってきた「今日からこの人も家族の一員として暮らします」と仰せになり、こりゃかなわんと旅に出た。う〜ん世の中広い!負けた!負けた!と涙を飛ばしながら夢中で鹿児島まで走り続けた。これ以上先は海だわさ・・・仕方ないので着ている物をたたき売りパンツとシャツで港の待合室で与論島行きの船が来るのを震えながら待っていた・・・とにかく長くなるのでここでは割愛します。ようはあちこち回ったと言うことです。与論島での顛末も後日・・・そうだ、小笠原の話も後日に・・・(笑)

1973年頃25歳頃〜

アメリカに行くつもりがなぜか米沢佐和子と結婚。東京高円寺の38番館に住む。38番館とは野の哲人小阪修平さんが当時若いカメラマン達と共同で暮らしていたアジトです、なぜそんな怪しい場所に私がカワイイ女房を連れて移り住んだかというのは簡単です、ホームレスだったのです。それと放浪期に八丈島で小阪修平さんと出会い、友達になっていたのでした。もちろん私も彼らに感化されカメラを首にぶら下げて夜中まで町をうろついていました。中退はしましたが私の母校大阪第二工芸高校の先輩である森山大道さんが花形カメラマンで一世を風靡していました。後にも先にも出身校の先輩の御陰で尊敬されたのはこの時だけです。高松高校だなんて他県では誰も知りません。県内だけの裸の王様なんです!こんな高校はない方が良いと思います。百害あって一利無しです。まっ!後の世で私が有名になって以降は別ですが・・・それまではとても待てませんよ。(やけくそになってるなあ・・・)

1974年頃26歳頃

たった一年間だけでしたが、仕事はパチプロでした。高円寺のレインボーというパチンコ店で客(桜ではありません)として働いていました。最初は大変でした、ごと師(不正な技術で玉を出す人)に間違えられたが半年もすると私の後ろには見学者が並ぶほどで店の名物男になっていました。一年後「田舎に帰ります」とパチンコ屋のオーナーに挨拶したら「給料を毎月100万払うから桜としてうちで働かないか?」と言われた。商店街を歩いていても横一列になって歩いているヤクザ屋さんのお兄さん達に「兄さん、どうぞ!」といって道をあけられるし、なかには私の弟子にしてくれと懇願する奴まで出てきた。一日2〜3時間数万円の稼ぎでポケットの中は金だらけの毎日でした、親にも言えないし身体にも悪い。お前は何のために生きているのか?こんな事で良いのか?もっと世の中に役に立ちたい・・・と自問自答の日が続きました。そんな時、有吉佐和子さんの複合汚染という本を読み、四国高松に一時帰郷。まず有機農業を覚えなくてはと自然農法の大家、愛媛の福岡先生を訪ねるが「今までどんな仕事をしてきたのかね?」と尋ねられ、嘘を付いてもはじまらない「パチプロです!」「・・・まともな仕事に就きなさい・・・」それ以上は何も言わなかった。帰りの車中は涙でビシャビシャになりました。とりあえず友人の父親が経営している高松市の平野木工所に就職、座卓を自由に彫刻させていただいているときに木彫の面白さに目覚める。この話(福岡先生との出会い)の顛末も後日詳しく書きます。

1975年頃27歳頃

自給自足の生活を目指す。高知県有機農業研究会会長原田先生(曲がったことが嫌いで麓の家から両手に鉈をさげて一直線で頂上目指して登るから常にイバラの棘で満身創痍だった)のお世話で高知県の鉢巻き山山頂の民家に入る、その家のご主人が腹切り自殺をしたとやらで住んでくれるのなら家賃は無料とのこと。気負い込んで仏像彫刻をしていたのでなぜか怖くなかったのかもしれない、今ならやーだけど。当時長男の王仁(わに)と長女夏子が生まれていた。経済的には貧しい暮らし(毎月2〜3万円の生活)だったが、今思うと幸せだったような気がする。そこにはまだ電気もガスもあったが電話と車は無し、この後もっと厳しい環境に入っていった。収入は大丸デパートでの展示即売と、たまの彫刻依頼があった。しかし、実体は多少の蓄えと知人や親戚に助けられていた。特記しなければならないことがあるが・・・観音様はあなたの隣・・・日を改めて書きます。

1976年頃28歳頃

物部村五王堂に移転。ここは本当に何も無い、あるのは家族と山羊とチャボと裏山と河原と透き通った川の水、魚、山菜、自家菜園の野菜・・・ずいぶんあるじゃん(笑)毎日家族四人で囲炉裏を囲みランプの灯りで子供に本を読んでやり・・・過ごした日々・・・この時期は子供と正面から向き合い沢山のことを子供達から教わった。人間は年齢に関係なく教えたり教えられたりするもの・・・特記しなければならないことがある・・・夏子遭難・・・日を改めて書きます。書いたのでリンクしました04.12.20

1977年頃29歳頃〜

高松の中山間地西植田葛谷に入る。小さな集落だった、ある日谷向こうの家の奥さんが遊びにやって来た。その人は丸亀の垂水(たるみ)出身とかで私が丸亀出身なので妙にうまがあった。いろんな事で相談を持ちかけられたが非力な私では何の力にもなれなかった。後日その奥さんは徳島の剣山で自殺したのだが日頃から農作業の苦しさを訴えていたことを覚えている。労働がきついというよりハウス内での農薬散布のおりに特に気分が悪くなり自分でも何をしているのか不安になるのだと言っていた。本で読んだのだが農薬中毒の症状で突然自殺したりすることがあるそうだが、よくわからない。そういえば私にも思い当たることがある、私達が住んでいる裏山の空中散布をお断りした時に営林署の関係者が自宅の裏山に無断で入りスミチオン農薬を一斗缶で二本分、山中の赤松全てに撒くのは面倒だからと切り倒した一本の赤松にブチ撒いたそうだ。その赤松は我が家の井戸の上、距離にして1〜2メートルの場所だ。この時家族全員が寝込んでしまった。その井戸から引いている簡易水道の蛇口(台所の蛇口)に小さなネズミの死骸が詰まっていたので何事が起きたのかと思って苦しい身体を引きずって井戸へ行くとその中に何十匹という畑ネズミの死骸が浮いていた。底には無数の死骸が沈んでいるに違いない。これは立派な殺人未遂だ。しかし、当時の私は為す術を知らない。みなさん!高松は怖いところです。豊島だけではないのですよ!香川の山間僻地を歩いてご覧なさい、豊島より恐ろしい場所が五万とあります。私が証拠です。この頃四番目の子供海薫が自宅で生まれる・・・産婆さんを頼む金もなく・・・。佐和子ありがとう、すまん。庭では次男が犬の丼に頭をつっこんで餌を食っているのだ。空きっ腹の愛犬ゴロはじっと我慢してこらえていた。貧乏のどん底だった。あまりの悲惨さにゴロは野良犬の集団に身を寄せる、つまり私達を見捨てたのだ。群の中にいるゴロを見つけて呼んでも軽く一瞥しただけで去って行った・・・ほんと情けなかった!

1982年頃34歳頃

綾南町畑田に移転。ラジニーシ和尚の瞑想道場開設!といっても中古の飯場用のプレハブに看板を付けただけのオンボロ仮設道場でした。私には教えることは何も無いのですがいきがかりで瞑想道場の代表になった。あんまり貧乏な道場なので本部から熟慮しなさい!と言われて辞めました。たぶん当時生活保護を申請したらなぜか認められて相当な金額(その時の私には)を頂いていましたのでそれが本部の知るところとなり叱責されたのだと思います。働ける立場にありながら保護を頂いたことに関しては今でも申し訳なかったと思っています。何時か、きっと償うぞと反省しております。今でも亡くなったラジニーシ和尚のことは大好きです。・・・轢き逃げされた夏子再び生死をさまよう件は次回に・・・

1983年頃35歳

高松市伏石町の倒壊寸前の住居に移転。

1984年頃36歳

絶体絶命のピンチのはずだが意外と元気だった。相変わらず彫刻は稼ぎにならず手持ちのお金も底をつきだしていたが、それならと木の玩具を作っては岡山県の倉敷に売りに行ったりして楽しく過ごしているときに友人の田中照正(丸亀市立西中学時代は私が先輩で高松高校時代は彼が美術部の先輩)から無農薬野菜のお店をしたいのでと当時香川大学の酒井先生宅に連れて行かれた。先生は管直人よりカッコよく「結びの会」主宰として多岐にわたって活躍していました。「結びの会」の目的は誰でもが自由に学べる学校を作ることであった。その仲間集めの一手段として八百屋も位置づけられ田中・佐伯・西村の三名が専従でスタート・・・当時の私はその応援団の一人ですらなかった。田中が店を借り佐伯が商品を出した。ところがオープンが近づくにつれ色々あったようで頼まれて棚を作ったり根付けをしたりもした。いよいよオープンという前日の夜、佐伯がやって来て「明日小豆島へ帰ります!」と言ったので「どうしたんだ?明日はオープンではないか、そんなこと言わずに出たらどうか?」「大西さんが来てくれるのだったらそうします」と、その場は収まったのだが後日の展開(別の機会に詳しく書き残しておきます)を思い出すと言葉は悪いがはめられたかな!と思う。私は自業自得だが、とばっちりでオープン後三ヶ月でちろりん村を出た田中には申し訳ないことをしたと今でも思っている。結局、田中商店のちろりん村が佐伯商店になったのがオープン(1984.10.10)三ヶ月後であった。野菜生産者クルミの会の清水さん酒井先生や大山さん三原さん福善寺さんには多大な援助を仰ぎました。もちろん佐伯は満身の力で仕事に励み西村も私も10ヶ月後に入った西原(ビーテン)もよく働きよく飲みました。毎晩残り物を我が家のあばら屋にもって帰り宴会したものです。四人の給料は平等に毎月五万円!私のところは当時すでに四人の子供が居ましたが、正直ずいぶん助かりました。田中や佐伯がいなかったら「ちろりん村」は無かっただろう。・・・開店後一年半で頑張っていた西村が辞す。

1985年頃37歳頃

第一次日本有機農業運動のピーク、抱腹絶倒のバナナボートへ乗船。詳細は興に乗って長くなりすぎたので興味のある方はこちら

1988年40歳

反原発運動の徒花かハタマタ金字塔か?!「原発なくてもエージャないか!実録版」はこちら。auサウンドファイルがダウンロードに時間がかかりますが当時を思い出すには必須だと思って敢えてアップしてます。

1989年41歳

有限会社ちろりん村設立、代表取締役に。支店かぼちゃ店オープン

1990年42歳

原発バイバイCM裁判がはじまりました。詳細はこちら。第一次ちろりん農園を開く

1991年頃43歳頃〜

この頃の出来事を年表にすると毎日毎日運動ばかりしていたみたいだけど実際日々の業務は必死であった。この頃佐伯が辞す。

1993年45歳

善通寺の虹の邑と宅配事業ポパイを半年間共同経営後別れて高松に戻り本格的な宅配事業ちろりん村独自の宅配をスタート以後爆発的に成長する

1994年46歳

10周年記念「水からの伝言」を主催。

1995年47歳

11周年記念「渚を考える集い(豊島へ行こう)」を主催。豊島のページはこちら

1996年48歳

ちろりん村ホームページ開設。12周年記念「地球が元気になるように!秋祭り」を栗林店で開催。この頃西原が辞す。

1997年49歳〜

全宅配システムをファイルメーカで処理開始

1999年51歳

15周年記念「春日川のハクセンシオマネキを守ろう!」を主催。来賓は木頭村藤田村長・株式会社きとうむら専務日野雄策。木頭村支援のための商品販売を開始。春日川河口干潟監視のWebカメラ設置(夜は室内が窓ガラスに反射しているだけです)

2000年52歳

春日川河口干潟監視のため事務所を木太町へ移す

2001年53歳

木頭村細河内ダム中止祝賀レセプション参加。6月から宅配をクロネコ便にする。

2002年54歳

Bフレッツ開通に会わせて本格的なオンラインショップの準備に入る

2003年55歳

1月に西原恭次(ビーテン)復帰

 


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