丸亀のドイツ兵俘虜について


ドイツ兵俘虜−収容所境内前集合写真(約324名)

日露戦争開戦時からわずか10年後の第一次世界大戦(大正3年〜7年:1914〜1918)では、日本は当時イギリスと日英同盟を結んでいたため、 イギリスの敵国のドイツと交戦することとなり、日本陸軍はアジアにおけるドイツの根拠地である中国の青島(チンタオ)を攻めました。

ここで捕えられ、大正3年(1914年)11月、丸亀に送られてきた324名のドイツ兵俘虜は、多度津港から上陸、将校は、船頭町看護婦養成所跡 (現丸亀市西本町)に、その他の俘虜は、六郷村塩屋別院(現丸亀市塩屋町)に収容されました(併せて丸亀俘虜収容所)。

戦争が長引くにつれ、本格的な収容所の開設が必要と判断した陸軍が、大正6年に丸亀・松山・徳島の三連隊管轄の俘虜約1,000名を鳴門近郊 の板東に移すまで設置されておりました。

日露戦争時のロシア兵俘虜同様、ドイツ兵俘虜にに対しても、国際法による人道的な処遇をしており、また、地域住民との友好的な接触・交流 などもあり、健康、食事への配慮、さらに面会、郵便等が許可され、収容所外への散歩、酒保(売店)の開設が認められていました。 また、クリスマス会、演芸会が開かれ、音楽活動もさかんでした。
(2007.4 丸亀ドイツ兵俘虜研究会)


全国のドイツ兵俘虜の歴史について


丸亀のドイツ兵俘虜の歴史について
・外国人の墓のなぞ
・丸亀の収容所
・熱き友情の”証”
・ドイツ兵俘虜の生活略史
・ドイツ兵俘虜写真1
・ドイツ兵俘虜写真2
・ドイツ兵俘虜写真3
・当時と現在の収容所周辺の写真
・当時と現在の丸亀周辺の写真
・収容所関連の地図
・ドイツ兵俘虜の音楽活動
・「エンゲルオーケストラ」丸亀における演奏曲目



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