(5)香川県の事件発掘



『明治 大正 昭和 香川県民血涙史』香川文庫 十河信善 編 より


その前夜

高松藩の悲劇から ”夜明け”


 雪のふりしきる江戸城桜田門外に幕府の大老、彦根三十五万石のあるじ、井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)が水戸浪士に暗殺されたのは万延元年三月、明治維新、 夜明け前の悲劇であった。この現場を目撃してふるえあがった二人の讃岐人があった。一人は事件発生現場の茶店のおやじで丸亀出身の男であった。

 他の一人は殺された直弼の娘ムコで、この日一緒に登城する途中の讃岐高松十二万石の若殿、松平頼聰(よりとし)であった。この行列にカゴが二つあった。さきは直弼、少し 離れた後ろには頼聰であった。直弼を殺した浪士は血刀をさげてうしろのカゴに殺到した。カゴの戸を引きちぎって中を覗き込むと「なあんだ。万之助か」といい捨てて走り去った。 万之助とは頼聰の幼名である。“わが名を知っているのは本家、水戸家の者に相違なかった。わが宗家であり、叔父、斉昭(なりあき)=烈公=の家臣がわが目前で義父、直弼を惨殺した” のである。首を取られた直弼の死体を見て彼は雪のなかにたちすくんだ。

 このときの頼聰ほど困難な立場に立たされた者は古今珍しい。水戸は勤王、彦根は佐幕の本家本元だ。勤王と佐幕、東西両陣営の谷間にあえいでいる高松藩の姿は、今日の日本の姿にさえも 似ているようだ。頼聰の奥方、孝(たか)は、安政五年四月、十三才で井伊家から嫁いできた。母は新聞に連載され、映画、連続テレビドラマとして評判になった舟橋聖一の名作“花の生涯” に出てくる直弼の愛人、志津(本名千田静江)である。

 直弼の死後、頼聰は十一代の高松藩主となったが、勤王派の家臣から突き上げられ文久三年、十七才の孝を離縁して井伊家へ帰した。勤王派が盛んになれば妻も離縁しなければならなかった。 にもかかわらず高松藩は明治元年(慶応四年)正月、鳥羽伏見の戦いでは大砲で薩摩藩の兵を打ちまくった。ついに賊の汚名をきせられて官軍の追討を受ける身となったのである。 官軍、高松来攻を前に高松城下、浄願寺に謹慎した頼聰の胸に去来するものは何であったろうか。十二万石高松藩の悲劇から明治維新が幕を開けたことを忘れてはならない。

 ところでこの孝は明治五年七月、世の中がおさまってから十年ぶりに松平家に復縁した。名を千代と改めた。伯爵夫人、松平千代さんが、この人である。昭和二年、八十三才で死去した。 小柄な美人ながら、さすがに武勇の名の高い井伊家の生まれ。女ながらも馬術は名人だった。この子、頼寿氏(元貴族院議長)も馬好きで長らく日本馬匹協会長を勤めた。その孫、頼典君 (二三)は東京オリンピックで馬術の選手として活躍した。松平家伝来の馬術である。

 明治維新に松平藩が苦境に追い込まれたのは蛤(はまぐり)御門の変の藩兵の残酷ぶりもたたった。高松藩は淀川堤に陣を布き敗戦した長州の落ち武者狩りをやった。小舟で川を三人 、五人と下ってきて「武士の情け、見逃してくれ」と頼む長州藩の若い武士を“情け無用”と片っぱしから捕らえた。捕らえられるのを嫌って自刃した者十一人、捕らえられた三十三人は あるいは獄死し、残りはことごとく首を斬られた。長州藩の重鎮で、のち明治新政府を動かした大物、桂小五郎(のちの侯爵、木戸孝允)の養子、勝三郎もこのとき自刃した。十七才の花 の若武者であった。

 長州藩士のこの事変での戦死者は二百二十九人だが、うち四十四人が高松藩のてにかかった。こうして高松藩はこともあろうに薩摩と長州の“うらみ”を買ったのである。丸亀、多度津 両藩は、ともに小藩とあって日和見ばかりしていた。高松藩はさらに明治二年に新政府お声がかりの高松藩執政、松崎渋右衛門を城ぐるみで謀殺し、丸亀藩執政の土肥大作も同様、襲撃を 受けた。それは新政府への反逆とも見られた。

 薩長藩閥の明治新政府から遠ざけられた県人は水不足の狭い耕地に米、砂糖、塩の“讃岐の三白”にしがみつき苦難にあえぎながら建設をつづけたのである。血と汗にまみれた歴史が明治 から大正にかけての香川県の歩みであった。




松平千代姫(井伊直弼の娘)肖像


(5)-1 ええじゃないか騒動


(5)-2 高松藩朝敵事変


(5)-3 獄中に勤皇派の五志士


(5)-4 白熱する和戦の大評定


(5)-5 深夜に松平左近が登城






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